08
その崩壊が来る事を誰もがわかっていた。或いは、望んでいた。
アレクサンドが施した政策は確かに国を豊かに発展させたかもしれない。だが、その恩恵を受けられるのは王に従う者のみ。王に従わなかった者は処刑されるという現実が変わる事はない。
王に従えば安定した生活が与えられる。己の私欲を満たす為に横領を働いていた貴族の領民などは諸手を挙げて飛びついた。では、その後は?
王は変わらない。従う者には報酬を、従わない者には死を。そして国は発展の為の労働力を求め続ける。人々はいつしか気付くのだ。アレクサンドという王の危険性に。
王による支配はいつまで続くのだろうか。王の心変わり次第ではこの安寧は失われる。また1人、また1人、従わぬ者達の首が飛んでいく。そして従う者には安定した生活が提供される。しかし、それだけだ。先に繋がるものは何もない。
国を発展させても、力を増すのは国という総体のみだ。個人の幸せは求められない。与えられた自由は仕事を選ぶか、選ばないか。ここまで来てようやく人々は自由というものの価値を思い知る。
国を発展させようという王の政策は止まらない。まるで国民の命を糧にしているかのようだ。ならば次は自分なのではないか。いつまでこの圧政は続くのか。
終わらぬのなら、いっそ。そうして長年に渡って溜め続けてきた恐怖が、自由への渇望が人々に抵抗の意志を持たせた。
王への叛意を示す者達、恐怖による圧政を覆す為に立ち上がった反乱軍。彼等は各地で賛同者を集め、やがて王の権威すら脅かすほどの軍勢となった。
彼等が目指すのは暴君の住まう王都。長年の圧政によって自由を奪われた者達の軍勢は瞬く間に王都を包囲したのであった。
* * *
王都を包囲する反乱軍の報せは既にアレクの耳にも届いていた。アレクはその報告を受けた時、静かに目を伏せた。
誰もが不安と恐怖で王を見上げている。ここにいるのは誰よりも早くアレクに恭順し、国の為に身を粉として働いてくれた家臣達だった。1人1人、その顔を見渡すようにアレクは見つめてゆっくりと口を開いた。
「今日に至るまでのそなたらの忠誠こそ、この国を築いてきた礎だ。皆、よくこの王に従い、国を盛り立ててきてくれた。私は人の心がわからぬ王であった。故に民の苦しみがあれど、国を豊かにする事こそを至上の命題として今日までやってきた。しかし、見よ! この国の民は立ち上がった! 与えられるだけの幸福ではなく、抗うように武器を取った! ……古き王権は最早これまで。皆、この城を去るが良い。全ての災禍は私が持っていこう!」
王の言葉に誰もが目を見開く。その傍らに控えるクリスタだけが静かにアレクの宣言を聞いていた。
「去れ! お前達はこの私と共に血に沈むか!? 貴様等の忠誠は誰に捧げたものだ? 私か? 違う、国だ! 今、この国は新たな世を求めている。その世に我が腹心であったお前達には為すべき事が山ほどあろう! 見失うな、貴様等の忠誠は王ではなく、国に捧げたものだ! 生きろ! それが……私が最後に下す命令だ!」
突然の王の豹変に誰もが言葉を失う。今まで暴虐の限りを尽くしていた王が、命を惜しめと言うのだ。突然の言葉にアレクが本物か、と疑う声すらも上がる。
「……王よ。何故、今になってそのように仰られる?」
「国を栄えさせたい。その言葉に嘘はない。その為に意に従わぬ者は殺めてきた。この国は豊かになっただろう? ならば、あとは私が消えれば、その豊かさはお前達の手に戻るのだ」
「……貴方は、そのようにずっと、ずっと……! 最後に全ての怨嗟を己の身に引き受けて死ぬと、そう願っていたのですか!?」
比較的若い貴族だ。そういえば顔に見覚えがある。恐らく学生時代、その時に出会った誰かだろう。だが、アレクの記憶は既に擦り切れている。感慨すらも浮かばない、ただ覚えがあるというだけ。
だが、それだけでもアレクには十分だった。久方ぶりに己の人らしい感情に触れた気がしたようだった。
「王の真意を貴様等が知る必要はない。私は命じたぞ。去れ! でなければ反乱軍がここに至る前にお前達の首を飛ばすぞ!」
「アレクサンド王!」
「くどいぞ! よもや、私が心変わりしたなどと思うたか!」
腰に差していた剣を抜き、威嚇するようにアレクは歯を剥く。怯んだ腹心の貴族達は何か言いたげに、しかし誰か1人が退室していくのを切っ掛けに次々と退室していく。
それを見届けて、誰もいなくなった玉座の間。アレクは玉座に座り直して、静かに息を吐いた。
「……クリスタ。例の指示は抜かりないな?」
「反乱軍が王都を包囲すれば恭順するか、逃げろ、でしょ? 実際どうなったかまでは責任は持たないわよ。……本当、酷い奴。アンタが暴君でも、アンタを信じて最後を共にするって奴もいたでしょうに」
「知らん。俺に、人の心はわからん」
「……嘘つき」
傍らに控えるクリスタは忌々しげに呟いて、玉座の縁に腰かけるように座る。背中をアレクの肩に預けたクリスタは視線を遠くに向けたまま問いかける。
「……本当にこのまま死ぬ気?」
「この国の俺への不満は溜まりに溜まっている。国は十分過ぎる程に栄え、お前の記憶の技術を残し伝える事が出来た。俺の圧政にも負けず、拳を掲げる者達が生まれた。ならば、俺の役割はここまでだろう」
「……そうやって自分が死ぬ事を考えながら生きて来たの? 信じられない。本当、あんたって最低だわ」
「なら、お前も出て行けば良い」
「……今更、どこに行けって言うのよ。稀代の悪女様よ、私は。そんな私がどんな面で生きて行けって言うのよ……」
クリスタは俯きながら呟く。クリスタはずっとアレクの傍にいた。あの日、アメジストが死んだ時からアレクはクリスタを傍に置き続けた。
決して優しい男ではなかった。ただ淡々と山のような仕事を押し付け、仕事に没頭しなければ生きていけなかった。
けれど、だからこそクリスタも今日まで生きてこれた。やらなければならない事がある。それを与えた相手が、何よりも償わなければならない相手だったからこそ。クリスタは身を焦がす程の罪悪感の衝動に身を委ねる事はなかった。
「現実って、本当に嫌になるぐらいままならないのね」
「……死にたくなかったんじゃないのか? ここにいれば死ぬぞ」
「生き恥を晒す方がもっと惨めだって知ったわ。……あの子が死んで、それでも明日は続いていく。明日なんてわからない方が自然だし、運命の筋書きなんて変えても世界は変わらなかった。これもまた何かの筋書きだとしても、というか、もうそんな風に考えるのも馬鹿らしいのよ」
自分は生きている。皆も生きている。死というあの耐えがたい終わりはいつか来る。
けれど、みっともなく死を避けようとして生きる事もまた醜いのだとクリスタは嫌という程に思い知った。
「例え明日、世界が終わるのだとしても。胸を張って生きたら良い。知ってても、知らなくても。それでもなかった事にならない。ならないから……胸を張って、生きたいの。じゃないと死ぬ事に耐えられないから」
「……そうか」
「私は前世で突然死んじゃった。だからみっともなく生きようとした。これが死の間際の夢だとしても、何でも良い。もう無様に死にたくない。生きる事にしがみつきたくない。終わるなら、笑って終わってやるわ」
「……今、お前は幸せか?」
「幸せな訳ないじゃない。……せめて、女として誰かに愛されたかったな。普通に恋をして、素敵な旦那様を作って。そんな普通の幸せが欲しかったな」
ちらり、とクリスタはアレクを見てみるも、アレクは動じた様子もなく無表情だった。
脈なしか、とクリスタは胸中で呟く。それもそうだ。この男に愛される事なんてない。自分も愛せるかと言われるかというとそうじゃない。けれどこの男しかいないのだから、まったくもって世界はままならない。それが自分の招いた結果だとしても。
それでも、もう無様に幸せになりたいなんて望まない。繰り返すのはごめんだった。だから……今できる精一杯で生きると、そうクリスタは決めた。それが本当にあと少しの時間だったとしても。
「クリスタ」
「……何よ」
「ようやくお前の事を認められそうだ。そう思えて良かったよ」
「……何それ」
「この世界は、作り物なんかじゃないだろう?」
「……うん」
アレクの言葉にクリスタは頷く。この世界は泣きたくなるほどに現実だ。
ヒロインなんていなかったのかもしれない。運命の筋書きなんてなかったのかもしれない。
あったとしても、自分がするべきだったのはその筋書きを書き換えてでも自分らしく生きる事だったと、今はそう言える。
「この国は、もっと良くなる。お前の世界に近づけるかもしれない。お前のやり直しも、きっと遅くない」
「……何それ」
「生きろ。お前は、生きるんだ。生きて幸せになれ」
アレクの言葉に絶句したようにクリスタは振り返る。アレクは穏やかな微笑を浮かべてクリスタに向き直った。
「お前はヒロインでも、運命の操り人形ではない。その名が要らないというのなら、好きに新しい名前を名乗っても良いだろう。だから生きろ。……この日を俺はずっと待っていた。心残りは無くなりそうだ。あぁ、間に合って良かった」
「……巫山戯ないでよ、待ってた? 私が、そう言えるのを待ってたって……アンタ、ずっと! ずっとそうやって!」
腰かけていた体勢から勢い良く立ち上がってクリスタは信じられないと言うようにアレクを見つめる。
しかし、アレクの視線はクリスタへと向けられていなかった。まるで何を見つめるように一点を見つめている。
かつん、と足音が響き渡った。玉座の間に足を踏み入れたその姿を見て、クリスタは忘我した。膝を震わせて、力なくその場に座り込む。
「……う、そ……なん、で……」
そこに立っていた“女性”をクリスタは信じられない面持ちで見つめた。
黒い喪服のような出で立ちをした、紫水晶の瞳を持つ女性は恭しくアレクへと頭を下げた。
「ご無沙汰しております。アレク様」
「……あぁ、久しいな」
本当に懐かしそうにアレクは目を細めて、女性の来訪を歓迎するように声をかけた。
顔を上げた女性はクリスタの姿を見てから、小さく溜息を吐いた。
「説明はしていなかったのですね」
「ふん。俺はそこまで優しくはない。……今は何と名乗っているのだ? “アメジスト”」
「“今は”アメジストと名乗っています。解放軍の旗印として、そちらの方が都合が良かったので」
「解放軍? なるほど。反乱軍よりはその方が語感が良いな」
アレクは心底楽しげに笑い声を上げた。クリスタは今、目の前にいる女性の存在が信じられずに震えきっている。
そうだ。“アメジスト”は死んだ筈だ。アレクによって処刑された日の事をクリスタは忘れた事はない。では、ここにいるアメジストは一体何なのか?
「落ち着け、クリスタ。あの日、“アメジスト”は確かに俺が処刑した。……そのアメジストは、“本物”のアメジスト・ファルカスだ」
「……本物……?」
「……陛下が殺した“アメジスト”は名を捨て、私の影として生きていた私の双子の妹なのですよ、クリスタさん。貴族学校以来ね、お久しぶり」
「……嘘、双子……? そ、そんなの聞いてない! 知らない!」
「言ってなかったからな。だから死者が蘇った訳ではない。俺が愛した女は、もうこの世にはいない」
狼狽したように首を振り乱すクリスタにアレクは意地悪げな笑みを浮かべて呟く。
そんなアレクの言葉にアメジストは目を細める。
「……その愛した女を殺して、のうのうと玉座で座る心地はどうでしたか?」
「最悪だ」
「……それは何よりです」
クリスタは最早、呆然と2人のやりとりを眺める事しか出来ない。突然知らされた真実に脳の処理が追いついていない。
クリスタを置き去りにしたアレクとアメジストは暫し見つめ合う。先に口を開いたのはアメジストだった。
「間もなく、解放軍がこの城を攻め落とすでしょう。貴方の描いた筋書き通りに」
「俺は何も描いてはいない。抗うという選択を選び取ったのは俺ではなく、彼等自身の意志だ」
「……国の豊かさだけ残して去るおつもりですか? 全ての悪行を暴君の名と共に背負って」
「それが、俺が望んだ事だ。……愛した者を殺してまでも生き存えるぐらいならば、世に名を残す程に功を成し遂げなければならん」
「圧政などと、貴方らしくもない。……嘆きますよ、あの子は」
「ならば地に頭を擦りつけ、許しを請おう。……もう、疲れたんだ」
その時、アレクが見せた表情はアメジストに別れた時の彼を思い返させるような笑みだった。
草臥れて、疲れ果て、心が擦り切れても走り続けてきた。その男が最後に残していた思いの欠片。……アメジストは瞳を閉じて、振り切るように首を左右に振る。
「勝手な人」
「すまんな。……勝手ついでに1つ頼みたい」
「自ら振った女に何を縋ると?」
「クリスタに、こいつに新しい人生をくれてやってくれないか? ここで俺と共に死んだ事にすれば、この国の外や、遠い地でなら新しい人生を送れるだろう?」
「え……?」
ここでクリスタがようやく現実に復帰する。一方、アメジストは嫌そうに顔を顰めた。
そんなアメジストの反応に苦笑しながら、アレクは玉座から立ち上がって座り込んでいたクリスタの手を取って立ち上がらせる。
「こいつの能力は非凡だ。貴族の裏事情にも詳しいし、秘書としての力量は俺が太鼓判を押す。その能力を活かす場は、俺よりもお前の方が斡旋出来るだろう。なんならお前がこき使ってくれても構わん。こいつもお前になら従うだろう。償いの機会をくれてやってくれないか?」
「……呆れた人ですね、本当に。その為に自分のお傍においていたのですか?」
「さて、想像に任せる」
「……こう言ってますが、貴方はどうですの? クリスタ・フィロニア」
アメジストの問いかけにクリスタは目を白黒とさせるだけで、あ、う、と意味にならない言葉を吐くだけだ。そんなクリスタを押しやるようにアメジストの方に押し出す。
蹈鞴を踏むように押し出されたクリスタはアメジストに支えられ、クリスタは信じられないと言うようにアレクを見た。
「……っ、どうして!? どうして!? なんで……私、ここまでされる事してない! 貴方だってずっと私を憎んでたんでしょ!? なんで!? なんで私を助けようと、私にチャンスなんて与えようとするのよ!!」
「そんなの簡単だとも」
クリスタを真正面から見つめ返して、アレクは穏やかに告げる。
「生きて、償え」
「――――」
「生きるんだ。お前が生きようとしなかった分、失われた命がある。その命の分だけ尽くしてから死ね。野垂れ死ぬなど認めない。生きて、生きて、生き抜いて。悔やみながら、いつか幸せになれ」
「なん、で」
「それが俺の復讐だ。ただで殺してやるものか。死ぬなら、自分で死に場所を決めるが良い。もう、お前は1人でも歩いて行ける。大丈夫だ、“運命”などと笑い飛ばしてやれ。俺は……ここまで来たぞ?」
アレクの言葉にクリスタがキッ、と顔を上げる。けれど、その顔は涙で濡れていてくしゃくしゃの表情になっていた。
「……ッ、あんたの、何が参考になるってのよ! 自分が一番幸せになろうとしてなかったじゃない! なのに他人に幸せを望むなんて、馬鹿じゃないの!?」
「それは見解の相違という奴だ。俺はもう、とっくの昔に幸せだった。幸せだったんだ。もうその先を望めない程に。俺が決めた最高の幸せを味わった。……だから、もう良い。良いんだ。“彼女”がいない世界を、ここまで豊かにしたんだ。後は、不要なものは俺が抱えて死ねば全てが終わる」
“ヒロイン”であった彼女はもう、自分の足で歩いて行ける。その先、彼女が幸せになるかならないか、そんなのは知った事ではない。所詮は他人なのだ。どう生きても、それが彼女の、彼女だけの“人生”だ。
それだけがアレクの心残りだった。その心残りはもう晴れた。彼の“復讐”は果たされたのだ。もう、“ヒロイン”などという自分達を呪った存在は息絶えるのだ。
「……アメジスト、俺からの手土産だ。利用するも、見せしめにするのも好きにしてくれ。俺の勝手な願いを叶えるかどうかはお前に任せる」
「……確かに受けとりました。では、私からも」
アメジストは澄ました表情で頷き、身につけていた荷袋に手を入れて何かを取り出す。
取り出したそれをアレクに差し出すように。アメジストの手に握られていたのは――ワインだった。
「……なんだ、これは?」
「私からの慈悲です。よく“疲れが取れる”ワインですよ」
「……ははぁ、なるほどな。ありがたく受けとろう」
「それから、このワイングラスもどうぞ」
そうしてアメジストが取り出したのはワイングラス。華美な装飾が施された見事な細工品だった。
アメジストから受けとったワイングラスをまじまじと見つめるアレク。その顔には少しの困惑が浮かんでいる。
「……こんな値打ちものを?」
「――それは、“あの子”の嫁入り道具です」
アメジストの言葉にアレクが息を呑んだ。手に握ったワイングラスを落としかけるも、落とさぬように両手で包むように握り直して見つめる。
「父上が、私達が成人して嫁入りした後に夫婦で飲めるようにと。私と、あの子にそれぞれ残していたそうなのです。2つでセットですが、あの子のグラスは渡しません。ですが“夫”に渡すべきグラスは……在るべき所に渡すのが筋というものでしょう?」
「……はは、これは、また」
「ついでに言えば、そのワインは“私達が生まれた年”のものです。祝いの品として残されていたもので、私も頂きましたが良いお味でしたよ。1度開封してますが、お楽しみ頂ければ幸いです」
「かたじけない。……心から感謝する、アメジスト」
心の底から、壊れ物を扱うようにアレクはグラスを掴みながらアメジストに微笑む。
するとアメジストは胡乱げな表情でアレクを見つめる。
「……私を“アメジスト”と呼ぶのに随分と抵抗がないようですね」
「……あぁ。それは、だな」
鼻の頭を掻きながらアレクは笑う。まるで宝物を自慢する少年のような表情で。
「私と“あの子”の秘密だ。そういう事だ」
「…………あら、まぁ。そういう事ですか。なんて妬ましい」
「君は“姉”なのだから良いだろう」
「ふんっ。……では、私はこれで失礼しますね。渡すべきものは渡しましたから」
つい、と顔を背けてアメジストはクリスタの手を取って歩きだそうとする。
クリスタはアメジストに手を引かれながらも、その瞳から涙を零しながらアレクを見ていた。
「アメジスト、クリスタ」
そんな2人を見つめながら、アレクは穏やかに微笑む。
在りし日の彼が、まるでそこにいるかのように。そんな彼にアメジストもクリスタも目を奪われる。
「どうか、君達の行く先に幸あらん事を」
クリスタがその言葉に喉を絞るような声をあげて泣き始めた。
アメジストはそんなクリスタの肩を抱いて、連れ去るようにして去っていく。
……出て行く間際、少しだけ頭を下げて出て行くアメジストの目に涙が浮かんでいたような気がしたのは気のせいだったのか。アレクにはもう、確かめる事は出来なかった。
「……さて」
玉座に座り、ワインボトルをアレクは見つめる。確かに封は1度解かれた後がある。
よく疲れが取れるようにする為、だろう。一口ぐらい飲むのは姉の特権という奴だ。それに文句などない。
見れば見るほど美しい細工が施されたワイングラスにワインを注いでいく。アレクはワイングラスを目元の高さまで掲げるよう持ち上げる。
「……この場合、何に乾杯をすれば良いのかな」
少し考え込むようにアレクは目を閉じる。そして、目を開いてグラスを少しだけ揺らす。
「――“未来”に」
――乾杯。
一息にグラスに口をつけ、アレクはそのワインを飲み干した。
泣きたくなる程に美味しい、最高の美酒の味がした。
* * *
エルメライト王国の歴史において歴史一の暴君とされた王、アレクサンド・フォン・エルメライトの最後は呆気ないものだった。
誰1人として臣下が残らなかった孤独の玉座で、毒を含んだワインで自殺をしていたのだ。その死に顔は眠るように穏やかだったと言う。
アレクサンドの骸がどうなったのか、それは諸説ある。見せしめとして晒され、後に焼却された。実はその遺体は見せ掛けで、本当の遺体は持ち去られたなど、その行方は定かではない。
彼の死によってエルメライト王国は生まれ変わる事となる。
アレクサンド・フォン・エルメライトは暴君であった。人の心を知らぬ王なのであった。
だが、彼が残した“暴君の遺産”が後に国を、そして世界を豊かにする為に羽を羽ばたかせる日は近い。
その再興の物語は……ここでは語られぬ、別の物語になるだろう。
故にこの物語は、ここまでなのだ。
* * *
泥のように眠っていた。
深い眠りの底から浮上する意識は、まるで現実味がない。
目を開けば、眩しいまでの光が目に入り込んだ気がする。
その光の中に影が浮かんでいる。そのシルエットを見て、酷く心が安らいだ。
「……待たせてすまない」
ようやく絞り出せた声は、声になっていたのだろうか。
シルエットが鮮明になっていく。目が慣れてきたのだろうか。
ただ、微笑んでいてくれた。それだけで良かった。もう一度、永遠に眠りについても良いと思う程に。
「――お疲れ様でした」
その労いの声は鈴の音色のように。そして、美しい紫水晶の瞳が優しげに細められた。
これにて「王子は身代わり令嬢の死を見届ける」、本編が完結となります。
後日談でいくつか話を投稿するかもしれませんが、彼等の物語はここで終わりとなります。
ここまでお読みくださった皆様、ありがとうございました。良ければ作者の別作品もよろしくお願いします!