判らないまま、探さず歩く。
○
午後十時半の繁華街には全く似つかわしくない少女が、
「ねー、エリねーちゃんさぁ、絶対こっち違うと思うんだけど!」
あからさまな不安ならびに不満を表明していた。なぜって彼女、中学生の白坂ユノは、「ごめんねーちゃんちょっとトイレ行きたい」と保護者であるところのエリねーちゃんこと外目黒笑輪が言い出したのでコンビニに寄って、ついでにユノ自身も用を済ませて、あとはもう、冨緑駅から電車に乗って帰るだけという状態だったのだが、コンビニを出て十分経っても二十分経っても駅が見えてこないどころか、なんだか異様な雰囲気の飲み屋街に迷い込んでしまったのであるからして。
「うぇーあたしもこっちじゃない気がするんだけどぉ……」
「清久くんと先生はぁ?」
「駅で待ってるってぇ……、ウヒーもう充電がやばいやばいやばい」
ユノの従姉のエリねーちゃんは、金髪でメイクしっかりでもメガネ。普通はギャルなら冨緑あたりの土地勘は備わっていそうなものなのに、「人生で数えるほどしか来たことないね」と言う通り東西南北も危うい。
さっきまでいつもの四人、即ち、エリねーちゃんとねーちゃんのぴっぴの清久くんと、ユノの大好きな家庭教師の寺前結詩先生、そしてユノという四人で、ユノの母親がユノの名前で勝手に懸賞に応募した結果として当たったホテルのレストラン四名さまお食事券を消費すべくレストランに赴き、初めて見るようなゴージャスなお食事を楽しんでいた。食後、ホテルを出て、さあ帰ろうと歩き出してまもなく、「あーごめんあたしトイレ行きたい」とエリねーちゃんが言い出したので、男性二人は先に駅に向かってもらって、エリねーちゃんとユノはトイレを貸してくれるコンビニを見付けて、……はて、どっちが駅だか判らない。
二人が迷い込んだのは、都内随一のゲイタウン・宿木橋界隈なのである。
すぐそばに噴水がある四ツ角、ということは、街のど真ん中なのである。だが彼女たちはそのことにも知らないし、いまこの街がとんでもない状況になっていることも判っていない。通りを歩く人の影はなく、どの店も固く扉を閉ざして、看板の灯りも消えている。これはまるでゴーストタウン……、いきおい、二人で「な、なんで、なんでこんな人いないの」「ちょっとちょっとちょっとねーちゃんそんなひっついたら歩きにくいってば」なんてビクビクきょろきょろしながら歩くことになる。街の雰囲気は異様だし、駅がどっちにあるのかも判らないし、エリねーちゃんは全く頼りになんないし、でも、普段は気の強いユノだって少々気持ちが萎んでしまいそう。だから彼女は、ポケットの中のスマートフォンと繋いだ「波主守」に触れた。大好きなお父さんの選手登録番号が刻まれた、ユノの宝物である。
と。
「っピャー!」
「なんつー声出してんのねーちゃん!」
空から笛の音が降ってきた。それはどこから聴こえてくるのかと言えば、……すぐ側の、一階に居酒屋が入り、中にも何軒も飲み屋が入っているらしいビルの、外を向いたスピーカーからだ。
一箇所ではない。……そこのビルからも、あのビルからも、同じ音色が聴こえてくる。静まり返って、冷たい風の音が駆け抜けるばかりであった街の底に、突如として鮮やかな音が色彩となって通い始める。
「あっ……、あっ、ねぇ、ねえねーちゃんこれ、あれ、あの、『ベルダット』とかいう、おにーさんたちの!」
澄んで痛切な笛の音に遅れて、嗄れ声みたいなエレキギター、それから流麗なピアノの音。妙な組み合わせであるが、ユノがこれまでの人生でこの音の組み合わせを聴いたことは数えるほどしかない。去年の年末に、ねーちゃんと、清久くんと、大好きな先生と一緒に会った、バンドのお兄さんたちがくれた「音源」がまさしくこの音の組み合わせだった。
了くんと皐醒くん、という二人。了くんは、中学生だと思った。けれども、本当はもう大人なのだそうだ。そして皐醒くんは、ものすっごく格好良くてびっくりした。でも、ユータほどじゃないな、と思う。そう思ったのは、ユノだけかもしれないが。
「ぉあ、……んっとだ、ベルダットじゃなくてヴェル・デ・ラ・ビットの! でも、なんで……?」
廃墟のような街の中で、彼女たちは四方八方を音楽に取り囲まれていた。あっちこっちのビルや、電信柱に付いたスピーカーから、「ヴェル・デ・ラ・ビット」の音楽が溢れている、……はっきりと了くんのものだと判る声が、弾けた。
どういうことだろう、まるで判らない、けれど、知り合いの音と声は、怖い夢を見ているときにユータが出てきてくれたみたいな、大きな安心感をユノに齎す。迷子になって辿り着いた街なのに、まるで自分たちを温かく迎え入れてくれているみたいに……。
やがて、街には音だけではなく光まで溢れ出した。それは赤く、一定のリズムで閃く光、二人の立つ噴水四ツ角を取り囲むように、四方向から四台のパトカーが、狭い路地を縫うようにして到着した。ドアが一斉に開いて、どやどやと各車から二人ずつ、制服姿のお巡りさんが降りてきた。何一つとしてやましいところはなくても、こんなふうにお巡りさんに取り囲まれてしまうと、意味もなく「すみません」とか「ごめんなさい」とか言いたくなってしまうのは、女子大生のエリねーちゃんも女子中学生のユノも同じである。
しかし、お巡りさんたちは二人の少女に目もくれずに、ヴェル・デ・ラ・ビットの音楽が底を流れる街の中を走り出した。ユノはエリねーちゃんと手を繋いで呆然としているばかり、……ただ、サビに差し掛かった曲に合わせて、なんとなく、肩が揺れる。
二人に近づく人影があった。
「お嬢ちゃんたちよう、こんな時間でこんなとこで何やってんだい」
背は、エリねーちゃんよりちょっと高いかな、ぐらい。安っぽいトレンチコートの中は一応上下スーツだけど、ネクタイが緩んでいて、お腹ははっきり判るほど出ている。ユノのお父さんはボートレーサーで自己管理の出来る人なので、中年男性のこういう姿はちょっと、嫌だな、なんて思ってしまうのだけど、顔の作りは渋みがあって悪くない。言葉遣いはさておき、こちらに対しての害意がないことは声の出しかたからも伝わってくる。
「へあ、あの、えっと、すいませんその……」
エリねーちゃんはほっぺたを真っ赤に染めて、もじもじと。
「あのう、冨緑の駅に、行きたいんですけどぉ、ちょっと、道間違っちゃったみたいでぇ……」
おじさんはすぐにエリねーちゃんの言いたいことを理解した。
「なんだ、迷子かい」
「んまっ……」
「違うのか」
「っぎぃ……、ちがい、ませぬ……」
エリねーちゃんが通うのは、東英大学というところで、ぴっぴの清久くんが入ったからそこを目指して一浪して入った。ちなみにユータも東英大学だ。すごく頭のいい人がいく大学だそうであるが、そういうところに通っていても、エリねーちゃんはうんこしたくなってコンビニに入ってそのあと迷子になったりする人なのだった。
「このあと、ちょっとばかり騒がしくなるからさ、お嬢ちゃんたち、ちょっとこっちに避難しよう。巻き込まれちゃ可哀想だし、終電の時間もあるだろ」
騒がしく? とユノ訊き返すよりも先に、実際あちこちでどやどやがわがわと声が聴こえ始めた。声はほとんど男の人のもので、喧嘩腰。ユノは気が強いほうで、最近でこそ少し落ち着いてきたとはいえ、小学四年生ぐらいのときは口より先に手というか足が出るもので「おとこんな」なんて失礼なあだ名を男子から付けられていた(そしてそのことに怒ってまた飛び蹴りなどを繰り出していた)女の子ではあったけれど、大人の男の人の喧嘩の声はさすがに怖くて、おじさんの陰に隠れたくなる。
「でも、あの、おじさんは、どこの誰なんですか」
エリねーちゃんはまだ、保護者としての冷静さをかろうじて保っていた。このおじさんが変な人だった場合、より悪い事態に陥ることとなる。
「ああ……、俺はこういう者だ」
おじさんは、トレンチコートの胸ポケットから、コートとよく似合うぺちゃんこぼろぼろの財布を取り出して、中から名刺を差し出した。従姉妹に一枚ずつ、これがユノが人生で初めてもらう名刺である。
猪熊探偵事務所 所長 能登川和毅
名前は別にいいのだ。そうではなくて、猪熊探偵事務所という文字列は、ユノも、エリねーちゃんも同時に二人の人物を思い出させた。
一緒に水鳥川でボートレースを見た、不思議な二人。互いを「先輩」「後輩くん」と呼び合う大学生の、お兄さんたちかお姉さんたち、もしくは、お兄さんとお姉さん、ただしどっちがどっちであるかは、ユノには最後まではっきりとは判らなかったし、エリねーちゃんは「あたしは先輩が男の人で後輩くんって呼ばれてたのが女の人だと思った」と言った数時間後には「……やっぱ逆だったかなぁ」とか言っていたので覚束ない。ユータは「先輩は男の人だと思った」と言ったし、清久くんは「先輩はあれ女の子だと思うよ」と言っていた、とにかく、全員の意見はいまだに一致することなく、ゆえにこそ会って一緒にいた時間に比して考える時間がやけに長くなって、結果としてえらく印象に残っている二人組。ユノ的には後輩くんのほうが、ボートレースに詳しくて、小熊寿羅の、ややこしいが先輩で、同好の士が出来た気がしてとても嬉しかった。
先輩のほうのアルバイト先が、猪熊の探偵事務所であったことを、ユノもエリねーちゃんもしっかり覚えていたのだ。
なんにせよ、「先輩」の勤め先の人ならば信頼していいはずだ。
先輩はどっちか判らない人だけど、信ずるに値する人であることは確かだから。
「へ、お嬢ちゃんたちあいつらのこと知ってるの」
「知ってるっていうか、一緒に遊んだっていうか……」
一瞬、奇妙な縁に思いを馳せるような顔を探偵事務所の所長のおじさんはしたが、すぐに我に返って、
「まあ、話は後だ。あっち、車を待たせてる。他にも保護してる女の子がいるからさ、一緒に駅まで送っていってやるよ」
と言って、二人を先導して歩き始めた。
ゴーストタウンみたいだった街、ヴェル・デ・ラ・ビットの音色が路地に行き渡ることで、朝を迎えたように固く閉ざされていたあちこちのお店のドアが開く。青ざめていた人々の顔が、光の音色を浴びてはっきりと生気を取り戻していくところをユノは見た。ユノが感じる「カッコいい」の何倍もの力を、彼らはこの音楽から感受するようだ。
一軒のバーのドアが開いた。
「畜生、離せ、離せよぉ、警察がこんなことしていいと思ってんのかよぉ」
探偵のおじさんや、ユノのお父さん、ボートレーサーの持筑選手と同じぐらいの歳に見える、だから四十五歳ぐらいかもう少し上だろうかと思うのだけど、そういう人がお巡りさんに捕まっている、……手錠だ! とユノは気付いて、ちょっと興奮した。当たり前だけど、人が逮捕されるところなんて初めて見た。
「あっ、あれ、……迷惑系のやつだ」
エリねーちゃんが呟く。
「そうなの?」
「うん、間違いない。なんか、ヘイトスピーチとかするやつ」
ヘイトスピーチ、が何であるか、ユノは知っている。エリねーちゃんはユノが知っていること、またそうしたものに対して正当な怒りを催すタイプの少女であることをも、あわせて知っている。
なんで捕まったのか、悪い言葉を撒き散らしたからなのか、それとも何か別な悪いことをしたのかは判らないけれど、ユノの心から尊敬し憧れるお父さんと同じぐらいの年齢なのに……、となんとも言えない嫌な気持ちになった。
早くユータに会いたいな、なんてことを思わずにはいられなかったし、そういうタイミングだったので、連行されていく迷惑系配信者の後ろから、角刈りで、ものすごく体格のいい、でも女の人の格好をした人と、その人と比べるとずっと痩せていて、冷たい顔だけどまあイケメンという評価で良さそうな、ワイシャツにネクタイを締めたお兄さんが現れて、更にそのあと、手を繋いだ二人が現れたのを見たとき、心が和んだ。
それは、先輩と後輩くんだった。
先輩のほうが小さい。でも後輩くんも背は高くなくて、ユータはもちろん清久くんよりも小さい、エリねーちゃんよりちょっと高いぐらいである。そういう後輩くんが、先輩を手を繋いで、連行されていく男のことを、とても強い表情で睨んでいる。会ったときにはなんだか落ち着きがなくて、頼りなくて、だいじょぶなのかなこの人、なんて失礼なことを思っていたし、「後輩くんは先輩と付き合ってんの」とユノが訊いたら、真っ赤になって何も返事が出来なくなっていて、確か二十歳って言ってたのにこんな感じなのかぁ、なんて呆れてしまったのも事実。
だけど、ユノの胸の裡にずっとあった「お父さんと同じ職業に就きたい」という夢が、いまやしっかりと根を張っているのは、後輩くんが背中を押してくれたからだ。
「エリねーちゃん」
従姉を突っつく。エリねーちゃんも気付いて「あっ」と声を上げた。先輩も後輩くんも、二人には気付かないまま、店に入って行ってしまった。
「ねー、あの二人さぁ、どっちがどっちなんだろうねぇ」
エリねーちゃんが言った。おじさんに訊いたら、……何せ先輩の仕事場の人だから、教えてくれるかもしれないけれど、ユノは不思議とその気にはならなかった。
「どっちがどっちでもいいじゃん」
後輩くんは頼りなく見えて、あんなカッコいい顔をするときがある。そして隣に立つ先輩は、覚束ない英語をユノなりに扱うならば「クールでクレバー」な探偵さんだけど、後輩くんと手を繋いでいる姿は、ユノとそんなに変わらない女子みたいに見えたのだ。
けれど二人は手を繋ぐ。どっちがどっちなのか、あるいはどちらも、どちらでも、ないのかもしれないけれど、繋がれた手に通う体温をユノは想像して、誰にも壊せない幸せがそこにあるのを確かに見た気がするのだ。
エリねーちゃんもユノの言葉に納得して、
「それもそっか」
と笑った。
ユノは、自分がこの世界にいていいのだと思っている。
どんな人だって、いていいのだと思っている。
存在することで人に迷惑をかけてしまうわけではない、……もしもそうだと言うならば、言うその人が有害だ……、とまでラディカルな言葉を、ユノは持たないけれど。
誰に許されることも、わざわざ認めてもらうこともなく、この世に命として産み落とされたその瞬間から、誰もが誰かでいていいのだということを、当たり前のこととして中学一年生のユノは知っていた。先輩にしても後輩くんにしても、どうにも掴みどころのない人たちではあるけれど、彼らがそうであるならばそうであるがままに、認められない場所に、ユノは居たことがない。
これから先も、居るつもりはない。
だから、先輩も後輩くんも、みんなみんな、友達だとユノは思うのだ。
○
「よう、邪魔するぜ」
所長が車で有華と、遅くなってしまったので安全のために付き添った白湯川さんを冨緑駅まで送り届けて、後輩くんが先輩・上之原さん・ミツルママとゆったりくつろいでいる「緑の兎」に入ってきた。
「邪魔はしないでくださいよ。ちゃんとしたバーなのにそんなだらしないネクタイで」
「後輩くんは所長に対しては人が変わったように厳しいよね。……所長もこっちに来て一緒に飲みましょう」
後輩くんも所長のことは好きなのだけど、どうにも雑ないじりかたをしてしまいたくなるのは何故だろうか。これで所長が本気で受け止めて傷付くのならば問題なのだが、可愛い部下の可愛い後輩であるところの後輩くんなので、仲のいい叔父と甥もしくは姪のような風情がある。ちんまり座った所長のグラスに、烏龍茶を注ぐのは後輩くんだ。帰りも車なのでノンアルコールである。
「アタシはこういう枯れた感じのオジさまも好きよ?」
ミツルママは人懐っこく言って、どすんと所長の座ったソファの隣に陣取る。
「光栄だけど、ウチに帰るとおっかねぇのがいるからよ。……そういえば、お前さんたちの知り合いっていうのを、さっき拾って、有華ちゃんと一緒に駅まで届けたぞ。金髪のチャンネーとヤンチャな感じのジェイシー」
その特徴から思い当たるのは二人しかいない。
「外目黒さんとユノちゃんですね。……なぜこの街に彼女たちが?」
「なんか、メシ食いに来たら迷子になってここまで来ちまったんだそうだ。よりによってこんな日に迷い込まなくたっていいと思うけどな」
清久くんと寺前さんはきっと駅で待っていたのだろう。相当に気を揉んだのではないかと想像するが、無事に再会できたのであれば何よりである。
「まあ、それにしても、……無事で何よりだよ。あんたたちにも、協力感謝するぜ」
所長の言葉に、隣に座るミツルママはのっそりと肩を竦め、カウンターの中でグラスを拭く上之原さんは慇懃に頭を下げた。
少し前に、この店からの不退去を理由に逮捕され、警察へ連行された迷惑系配信者とその取り巻き数名。これは、先輩から依頼を受けた所長の機転と、上之原さん・ミツルママの的確な対応によるところが大きかった。
もちろん、所長と上之原さん・ミツルママはこれが初対面である。しかるに、そこはさすがにプロの探偵である。警察関係者にも顔が効く所長はすぐさま冨緑警察署の知己に一報を入れ、自身は猪熊から宿木橋へ車で急行、その間に、警察からこの街の顔役であるヴェルデグリーン氏を経由して、上之原さんへ連絡が行く。先輩が読んだ通り、退去の要請があったにも関わらず、また飲食店でオーダーもせずに立ち去ろうとしなかった迷惑系配信者とその取り巻きたちは、先輩と後輩くんが時間を稼ぐ間にあっけなく約束の三分を超えて店内に滞在した結果として通報(これは予め店の裏口から避難していた白湯川さんが行った)される。冨緑警察署防犯課の頼もしきお巡りさんたちは待ってましたとばかりに現場に突入し、先ほどの逮捕劇と相成ったのである。
「警察も神経尖らせてたからな、ああいう連中に……。誹謗中傷や差別が人を殺しかねないことは、もう明らかだからさ。所轄する街でそんな事件が起きてみろよ、批判の矛先が一斉に自分らに向かうのは火を見るより明らかだ」
「彼らをああした行為に奔らせた者、……言うなれば『犬笛』を吹いたのは、あの地方議員ということで結論付けていいんでしょうか」
先輩の問いに、所長が答えるより先に、ドアベルが鳴った。入って来たのは「ヴェル・デ・ラ・ビット」の、大月さん、凱龍さん、オーナーのヴェルデグリーン氏を挟んで、蒔田さん、……に引き摺られるような格好で中寉さん。
「重ったい! もう、自分で歩けっつってんの!」
「いやです、僕は帰りますだって先輩と後輩さんに合わせる顔がありません」
「自業自得でしょ! だから酒呑んで電話なんかすんなって言ったの!」
中寉さんがそうそう重たいはずもないのだが、蒔田さんは細腕である。お疲れさまです、と後輩くんが蒔田さんに代わって中寉さんの身体を支えると、いつも無表情の中寉さん、涙袋の目尻側の赤みを一層鮮やかにして、その場で正座するなり「申し訳ございませんでした」と土下座をした。
「おいおい後輩よう、そんな可愛い子ぉ土下座させてんじゃねえよお前はよう」
ここを先途と囃し立てる所長をひと睨みしてから、後輩くんも跪いて、
「いえあの、全然気にしてないですし、中寉さんの声がなかったら、たぶんもう、いろいろダメになってたと思いますし、……顔を上げてください」
慌てて慰める。
先輩が所長に伝えた「飛び道具」とは、他ならぬ「ヴェル・デ・ラ・ビット」の音楽のことであった。
「やっぱ、いざってときはああいうオールドスタイルなスピーカーがいいよねぇ」
ヴェルデグリーン氏はカウンターに着くなり上之原さんに何かウイスキーのロックを作らせて、煙草に火を点ける。
「この国は地震も多いしさ、あと、どこかでなんかヤバい客が出たなんてときにも、スピーカーあると同時に音流せるからね」
ヴェルデグリーン氏の持ちビルの一つであった櫻木山会館に「ヴェル・デ」のゲリラライブの音が響き渡り、後輩くんが救い出されたことは記憶に新しい。
今宵も同様である。
この街の人々にとって誇りそのものであり、正義の象徴である「ヴェル・デ・ラ・ビット」の音楽が、この街の建物の中へ外へスピーカーを通して流れ始めたとき、苦境に立たされた人たちの心には確かな光が射し、熱を帯びた。一人ではない、孤独ではない……、どこで生まれ、どんな形でいまいようと、共鳴し合うことが出来るのだと、「ヴェル・デ」の音楽は人々の心を震わせる。
人は在りたい形で在っていい。なりたい形になるがいい。生きたいように生きるがいい。
後輩くんもまた、「ヴェル・デ」の音楽から授かった勇気を携えてあの迷惑氏と相対した一人である。
中寉さんはやっと顔を上げた。まだしょんぼりとしているけれど、この小さくとも勇敢な人もまた「先輩」であって、後輩くんの尊崇の対象であることは間違いないのだ。
「んで、そう……、あの連中を唆した、例の投稿な」
所長が烏龍茶をちびりと呑んで言う。蒔田さんは大月さんと自分のぶんのハイボールを作って仲良く乾杯、凱龍さんは短いスカートを気にしながらヴェルデグリーン氏の隣に座り、ミネラルウォーターを、そして中寉さんはマスターである上之原さんと言葉を交わすこともなく、ただ上之原さんが目ざとく見付けた先輩の空のグラスに、おかわりウイスキーのロックを運んでいく。
「んまっ……、アタシいま見たら消えてるわ! 誰かスクショしてないかしら」
ミツルママの声に、「俺がもうしてある」とヴェルデグリーン氏が言う。
「でも、ここからの話は長くなるよな、所長。俺ら市井の善良な一般人で出来ることは限られてる」
所長が苦い顔で頷いた。後輩くんが容易くイメージするのは、大日氣弥益の団体からこの投稿を行った地方議員へと繋がる糸であるが、それを明確化して責任を問うための具体的な方法はまるで想像できない。
ヴェルデグリーン氏はスクリーンショットをミツルママに見せながら、溜め息混じりに言葉を繋げる。
「この議員にしても、やったのは誤情報の拡散ってだけで、まあこれまでのパターンからするとせいぜい『誤解を招くことをした』ぐらいの詫びで済まされるだろうし、どこかの国のレイシストがやったみたいに具体的な違法行為を教唆したわけじゃないからねぇ」
悪の栄えたためしなし、という格言がある。是非そうであって欲しいものだと思うけれど、どう見たってレイシスト、という人が多数の支持を集めることが当たり前のように起きてしまうのが後輩くんの見ている世界の出来事であるもので、ちょっと、力が抜けそうになる。
「まあ、あとは報道や、俺らみたいな『一般人』の良心に頼るところが大きいんじゃねえか。今夜の一件にしたって、大日氣弥益の連中からすれば『一騒ぎ』ぐらいのもんだろうしな」
呉暮町で見たような状況は、今後増加することさえあるかもしれない。彼らに争い続ける先輩、この街の人々は、これからも繰り返し、今夜のような迫害を受けることになるのかもしれない。
「どうにかなんないんすか、そういうの……。この街にいる人たちは、だって、誰も、何も間違ってるわけじゃないでしょ」
表情をキツく顰めて言ったのは大月さんだ。スカートを穿いていようがお構いなしに足を組む金髪のお兄さんは蒔田さんのパートナーであるが、ご自身が語るところによれば「彼女がいたけど、別れて一人になったとこに皐醒と会って……」とのことで、いわゆる「ノンケ」だった。
ノンケの人だって、何かのきっかけで同性と恋に落ち、結ばれる可能性があるのだ。同性愛者を非生産的と詰ることを許してはいけないのは、現在同性愛者でいる人々だけではない。
世界には人間を含む多くの生きものが暮らしている。しかるに、人間こそが最も人間を迫害するのかもしれない。人の在りかたのの多様性を認めたところで金は儲かないしお腹も膨れないからと、弱者を定義して丹念に潰していく親指が、やがて自分の大切な人のことを潰すことになるかもしれないことすら想像もしないで。
重たい沈黙が、しばし店の底を流れた。いくつかのグラスの中で氷が融ける音、上之原さんがグラスを拭く音……。
ずっと黙っていた先輩が、口を開いた。
「先ほどの議員の投稿、……私もスクショしましたが、これについては砂子議員が明日にでも名誉毀損で訴え出ると仰っています」
所長が目を丸くした。「いつ?」
「先ほど、そう投稿しておられます。まあ、私がここへ向かう車の中でチクったからですけど」
「ファルヴィイ車の中でスマホなんていじったら酔うんじゃないの?」
蒔田さんが案じた声に、先輩は「集中していたからなんともない」と嘯いた。
「……そして今夜の件については、毎朝テレビの政治部が、これも明日の夜のニュースで、早い時間に扱うとのことです、大きな事件や事故が起きなければという条件付きですけどね。タッチの差で逮捕の瞬間には間に合いませんでしたが、冨緑署で迷惑系の人々を迎えているはずですよ。毎朝テレビ、先日のヒナコさんが組んだ特集で大日氣弥益の人々や民友党の一部議員から叩かれましたから、却ってやる気になっているようです」
無表情で、淡々と。
しかし先輩は、……後輩くんの隣に座った小さな人は、静かな双眸の中に赤々と闘志を燃やしている。
「私も、一連の騒動で後輩くんに散々嫌な思いをさせてくれたことの落とし前は、地区長レベルの首一つでは足りないと思っていますので」
サークルを隠れ蓑とした勧誘行動は、各大学とも新年度からはきっと厳しく取り締まることとなるだろう。
トミチューに集うキッズを標的とした保護に見せかけた勧誘活動、大都市圏では他の場所でも行われていようけれど、有華を救うことが出来たように、少年少女たちを更生させることで状況を変えることは出来るはずだ。
後輩くんは、探偵事務所で暮らしていたときに所長が言ったことを覚えていた。
険しい道でも自分の信じるもののために、頑張って進むという姿勢。
心配になってしまうぐらいに危なっかしいものだけれど、後輩くんはもう、先輩と共に歩むのが自分の信じる道だと決めてしまった。先輩を支えたい、先輩を守りたい……、と思うのは後輩くんだけではない。先輩のまっすぐな心に惹かれて、躊躇いなく自分の力を分け与えたくなるのは、きっと誰しも。
「では」
きゅっ、とロックを空にした先輩がソファから立ち上がった。
「私たちは、これにて失礼します」
当然、その手には後輩くんの手を取っている。
「おや、帰ってしまうのですか」
中寉さんが意外そうに壁の時計を見た。まだ終電までぎりぎり間に合う時間を示していた。
「了、私たちこう見えて、長旅から帰ってきたばっかりなんだ。探偵とその助手にも、疲れを癒す時間は必要だと思わない?」
助手。
と呼ばれて、後輩くんは誇らしい気持ちでいっぱいになった。いまのところまだ、「探偵さんの助手」というイメージには程遠くて、何の役にも立っていないのだけれど、いつの日かきっと、今よりもっと、この人に必要とされる人間になりたい。
そうなりたいと思った瞬間からもう、後輩くんはそうなっていることには無自覚だった。
実のところ、もう、ずいぶん前から。
「それでは皆さん、おやすみなさい」
そう、二人揃って頭を下げて、二人は「緑の兎」を後にした。
宿木橋の通りから、ほんのついさっきまでの騒動の余韻がすっかり洗い流されていた。
金曜の夜らしく、時間を忘れて東京中から出会いを求めてやってくる同性愛者の人たちが、上機嫌に通りを行き交う。スポーツバーはいつもの通り、海外サッカーの中継を流し、いま、ボールがゴールネットを揺らして歓声が上がる。そうかと思えば、着飾った女装家のグループとすれ違う。息を呑むような美しさと蠱惑的な香水の香り、そこだけフワリと春風が舞うようだった。
今夜初めてこの街に来たのだろうか、いかにも心細げにきょろきょろしていた青年が、やがて意を決して、通りに酒樽型のスタンドを出したバーの客となる。おっかなびっくりに頼んだビールに口を付けようとしたら、乾杯しようよ、と同じぐらいの年恰好の青年に話しかけられて、はにかみながらグラスを合わせる……。
「誰かに許されて生きているわけではないんだよね。ここの人たちも、私たちも」
先輩は穏やかな横顔で言った。
「そして、これから先も、恐れながら生きていくなんて真っ平なんだ。人間として生まれてきたことを、別に両親にひれ伏して感謝しようとも思わないけど、生きるという喜びを味わわせてもらえるのならば、貪欲にその権利を行使するつもりでいる」
先輩はポケットに手を入れて、ゆっくり歩く。足は、冨緑駅とはぜんぜん違うほうへ進んでいた。
「世の中には、『権利には義務が伴う』なんて間違ったことを平気な顔して言う人もいるが、そうではない。権利というのは生まれながらにして人間が得るものだ」
先輩の言うことの全てを正しいと盲信しているわけでもない、けれど、この件に関しては、深く後輩くんは頷いた。
「なまなましい話をしていいなら……、そう、たとえばね、こどもを作るという行為。概ね、……『常に』と言うつもりはないよ、良好な関係の二人の間であれば概ね、罪深さを感じてしまうぐらいにし幸せなものであるということと、人間が生まれながらにして権利を有する生きものであるということを裏打ちしているように思うんだ」
その行為って、誰のためかと言ったら、別にこどものためではない。
そうじゃなくて、ことをこどもを作る二人組に限定するけど、……行為自体は二人のためだ、一人じゃないけど独善的な……。
「こんな言葉はないですけど、『二人よがり』的な……。あ、すみません今のなしでお願いします」
「そこで立ち止まってしまうからいかがわしく聞こえてしまうのだと思うよ……」
後輩くんが思ったのは、
「初めから、生まれてくるこどものためにそういう行為をする二人はいないですよね。本当にこどもを作るという目的だけ携えて、そうする人もいるのかもしれないですけど、やっぱりただ、自分と相手がそうしたいと思ったから、そういう、自分たちのための時間を設けたいと思ったからするのであって。その結果、というか引き換えに生まれてくるのがこどもなわけで……。こどもっていうのは二親の行為の結果に生まれてくるものですから、そこに権利こそあれ、果たすべき義務なんて一個もないように思います。……これは僕が、今日の昼に母親と、ご覧の通りの感じになったから言えるのかもしれないですけど」
「いいや、そんなことはない。私は、まあ両親と上手くやれているほうだと思うけども、そこについては完全に同意する。父母と同じ苗字でなくたっていいし、父母が彼らでなくとも私はあの二人を愛するだろう。しかし、そういう義務があるからそうするのではなく、ただそうしたいからそうしているというだけのことさ」
「先輩のご両親は、きっとすごく素敵なかたなんだろうなって、勝手に想像してます」
「どうかな、……私のように齷齪していない、おおらかな人たちだよ。だから一人しかいないこどもがこんなフラフラ何留もして、探偵のアルバイトなんてしていても平気なんだ。ただ、これも私の人生だし、父母に責任を負わせるつもりなんてこれっぽっちもない」
宿木橋の明るさはもう背中へと過ぎ去った。冨緑の駅まで、どんなに一生懸命走ったとしても、もう終電には間に合わない。
先輩が言った通り、心身ともにもうだいぶ疲れている。温かいお風呂に入りたい、そして、時間を気にせず眠りたい。
この道を通るのは、これが三度目だった。
「家族の形も、家庭の形もそれぞれだね。もちろん、パターンには限りがあろうけれど、……であるならば尚更、想定される在りかたぐらいは全て包摂する社会であってほしいものだ。今はもう私たちは互いの身体がどういう形をしているか知っているけれど、それが判らない時点からして、そう思っていたよ」
「僕もです。先輩の身体がどんな形であろうと、……仮に作れない形であったとしても、先輩とそういう行為を出来たらなあって思っていたことを、憚りながら認めますし、いま、先輩とそうすることが出来る距離感になれたことを、心の底から嬉しく思っています」
それぞれ、ポケットに手を入れて歩いている。先輩の横顔をそっと盗み見た。
とってもニヤニヤしている。
後輩くんもニヤニヤしたくなってくる。
「先輩は、僕と、こどものこと前提にしないでそういう時間を過ごすの、好きなんですね」
「んっ……?」
「だって、『罪深く思えるほど幸せ』って」
先輩の横顔からニヤニヤ笑いが消えた。ご自身の言葉が指し示す意味に気付いて、……言葉から逸れる。
明確に言葉で同意を得たいと思ったから、後輩くんは先輩の、ポケットの中の手を自身のコートのポケットへ導く。
「この先に、空調の効いたお部屋と、広いお風呂とベッドがありますが」
先輩の手が、ポケットの中でよく動く。ぐるぐると、初めての部屋に上がり込んだ猫みたいに、あっちへこっちへ惑った末に、後輩くんの指をぎゅっと握る。
「……まあ、私も、疲れているしね、私以上に後輩くんも疲れていることだろうと思うからね」
「チェックインしたら、まず将棋を指しましょう」
「まあ、構わないけど……」
先輩は後輩くんの横顔を見上げた。不服そうな顔をしているだろうか、それとも……、そう思って後輩くんが顔を向ければ、先輩はなんだか満足げに微笑んでいる。
なぜ笑っているのだろう、後輩くんが訝ったのが伝わったらしい。
「……眠れなくて困っていた君が、私との夜更かしを楽しみにしてくれるという事実が、ことのほか嬉しくってね」
ポケットの中、指が絡む。もうすぐ日付が変わる、冷え込みがきつくなってきた、けれどポケットの中は二人の体温が溶け合って、ぽかぽかと温かい。
「これから君と、数え切れないぐらいの夜を共に過ごすのだろう。心身の健康のためにも、睡眠は出来るだけたっぷり摂るに越したことはないけど、……そうだな、三つの夜のうち、一つぐらいは……、夜更かしをするのも悪くない」
三つのうちの一つが、例えば昨日の夜だったのだけれど。
「……三つのうち二つぐらいになりませんか」
思わず言った後輩くんに、先輩は「さあ」とはぐらかせて、ホテルの自動ドアを潜った。




