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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
先輩にも、後輩くんにも判らない。
43/45

誰にも何も判らない!

 この夜の出来事は、のちに「宿木橋事変」と名付けられ、長く語り継がれていくこととなった。



○



 金曜の夜の街をタクシーで駆って、先輩と後輩くんが宿木橋界隈に辿り着いたのは午後十時を少し回ったところであった。

 街が異様な雰囲気に包まれていることは、橋を渡り、界隈に足を踏み入れるなり、一目で分かった。

 薄氷の下でマグマが煮え滾っている。人々の怒りが、危ういバランスで押し留められている。

 それはいつ噴き出して、街全体を炎に飲み込ませてしまうかも知れない。

 あちこちで睨み合いが起きていた。後輩くんはSNSや動画共有サイトをあまり見ない(スマートフォンは持っているけど、娯楽のために使うなんて贅沢はしたことがない)ので明るくないのだが、真っ白な顔の先輩曰く、

「あそこにいる彼も、あの彼女も、インフルエンサーと呼ばれる類の人物だね。自身のチャンネルを持って、動画を配信して、多くの人を楽しませるエンターテイナーを自称する」

「インフル……」

 そういう言葉があることはしっているけれど、後輩くんはどうしても流行性感冒が頭に浮かんでしまう、そんな二十歳だって実在する。その二十歳の目からは、「彼など、チャンネル登録者数が十万だか二十万だかいるはずだよ」と先輩の示した相手を見ても、なんだか普通のおじさんのように見えてしまう。そういう人が、きっと一台で後輩くんの生活を根底から覆してしまえるぐらいの値段のカメラを回しながら、硬く扉を閉したお店に向かって、何事か捲し立てているのだ。

 整頓されない言葉の中に、時々知った名前が出てくることに驚く。砂子大樹、……この間後輩くんが櫻木山会館に監禁されたとき、原口ヒナコさんと共に駆け付けて助けてくれた人たちのうちの一人である。

 後輩くんなりにそのインフルエンサー氏の主張を飲み込もうとしてみるのだけれど、「砂子大樹議員がこの街に通い詰めて男娼を買う金に税金を費やしている。そのことをこの街の同性愛者は知っていて隠している」……というような、ちょっとでも「政治」やら「税金」やらについて知っていれば正気を疑いたくなるような言葉を大真面目に口にしているようにしか思われなくて、困惑する。

 そこに加えて、「あなたたちは国民に対して申し訳ないと思わないんですかぁ、思うんだったらちょっと出てきて反省の弁を述べてくださいよぉ」なんて粘着質な声を上げている様子は、どうも、薄気味悪くて仕方がないのだった。ああいう人の言うことを十万人とか二十万人とかが見て、信じてしまうのか、支持してしまうのかと、ちょっと鳥肌が立つような思いに駆られる。

 また別の場所、いつも賑わっているバーの中はドアがぽっかりと口を開けていて、明らかにこの街の人ではない人物が、いかついタンクトップの店主と激しい口論を交わしている。口論、というかどうも水掛け論である。すぐ判るのは、カメラを持っている人物は挑発的な言葉で店主を煽り、店主は屈辱に顔を真っ赤にしながらも、テーブルを掴む手を真っ白にして耐えている様子である。

「『迷惑系』と言われる配信者が多くいるようだ。先ほどタクシーの中で、……私酔うからあんまり見たくなかったんだけど、それでもまあ、見ざるを得なかったので見てきたけど、……ああダメだ後輩くんちょっと待ってて。付いて来なくていい、ここにいなさい」

 先輩は危なっかしい足取りでどこかへ行ってしまった。取り残された後輩くんは呆然と、激しい混乱と動揺に今にも壊れそうな街の真ん中で、しかし、ぎりぎり保たれている秩序の存在に圧倒されていた。

 決して暴力には訴えまいという、痛ましい努力が、街の人々を繋いでいた。迷惑系、というのは、……後輩くんも聴いたことがある。人からの注目を集めるためにはどんな悪事だって働くという、人間の理性的な習慣からは想像も付かない行動をして、結果的に収益を得ようとする人たちのことだ。後輩くんは自身のスマートフォンで状況を調べようと思いつくのだけれど、そのためのプラットフォームへのアクセス方法を、一つとして持っていないもので、いま自分がど真ん中に立つ街で起きている出来事の、たった一人外側に立ち尽くしていることしか出来ないのだった。

「すまないね、……水を買って、薬を飲んだ。ん、もう大丈夫……」

 先輩が少しだけ顔色を取り戻して戻ってきた。ペットボトルの水を飲んで、溜め息を吐いて。

「騒動の出所は、大日氣弥益の団体が支持する政党に所属する政治家の、この投稿のようだ」

 見せてくれたスマートフォンの画面によれば、……後輩くんは名前も聴いたことがない地方の県議会議員が、こんな発言をしている。

「我が國旧来の秩序である家庭の制度を、一部の過激な思想を持つ人々が破壊しようと企んでいるという指摘する意見が一部にあることは既によく知られている。彼らが主張する同性婚とか、夫婦別姓とか、そんなものは國體を弱めんとする反國人の陰謀との見方もある。オールドメディアは殆ど反國人に毒されているという噂は私の耳にも届いている。また一説によれば同性婚推進の急先鋒である憲政党の砂子大樹は自身が宿木橋で未成年を売春している立場でありながら……」

 写真が添えられていた。拡大してみると、……それは砂子議員と、確かに未成年に見える少年二人が一緒に歩いている姿が盗撮されている。

 だが、後輩くんは砂子議員と並んで歩く人物二人が未成年ではないことを知っている。

「落ち着きたまえよ」

 先輩が無表情で怒っているのが判ったので、後輩くんは深呼吸をして、「はい」と頷いた。

 砂子議員の左に立つ、メイド服を着た「推定未成年」は、中寉さん。

 そして、右に立って、微笑みを浮かべながら砂子議員に何か語り掛けているのは、……紛れもなく、先輩である。

「背景からして、先日の、ゲリラライブの後だね。私たちがトミチューから『緑の兎』で打ち上げをするまでの道すがらで、あちらの何者かに撮られたのだろう」

 先輩の、すう……、はぁ……、という呼吸の奥底が激しい怒りに震えているのが判った。

「……後輩くん、ねぇ、了はわかるよ。あの子は、だって、声変わりしてるのが不思議なぐらいに背が低くて童顔で、あと、これはね、あの、私が直接見たわけではなくって皐醒が教えてくれたことなのだけど、あの二人はよくサウナとかスーパー銭湯とかに遊びに行くらしいのだけど二人ともオシャレとしてそのいわゆる下のほうの毛を全部剃っているのだけどそのせいで夜に入りに行ったら了が中学生と間違われて補導されそうになったということがあったそうなのだけど私もそれぐらいこどもっぽいかな私としてはちゃんと成人していて大人っぽく振る舞ってるつもりでいるんだけど側から見たら中学生が背伸びして大人のカッコしてるみたいに見えるのだろうかなねぇ後輩くん」

「お、おち、落ち着いてください先輩」

 中寉さんのパンツの中のことはさておき、である。

「先輩は、大人です、間違いなく大人ですよ、僕は、だって、先輩のこと尊敬してます、先輩みたいな大人になりたいって、いつも思ってますから」

 中寉さんはご自身が多分二十四歳ぐらいになってもなお中学生みたいな容姿の可愛らしさを保っていることに対しては非常に肯定的である。ゆえにこそオシャレとしていわゆる下のほう(・・・・・・・・)を処理していたとしても何ら不思議はないし、このどこの誰とも判らないような人物の、やけに旧(異体)字を使って読みづらい文章に添えられた自身の写真を見ても、「ふーん」ぐらいのリアクションしかしない気がするのだけれど、先輩は結構本気で傷付くし、怒るのである。というか、重大なプライバシーならびに肖像権の侵害であって、まともな大人がこんなものを公共の場に投稿するものではない。

 そもそも砂子議員が中寉さんと先輩を買春しているだなんて。

「……よく読んでみたまえ。この人物、意図的に確定情報として語ることは避けている」

 苛立ちを革靴の先で表現しながら先輩が指摘した通り、「指摘されている」「噂では」「見方もある」……どれもフワッとした言い回しである。荒唐無稽な発言をするに当たって、事実と異なるという指摘を受けた場合、予め逃げ場を用意しているのだ。

 しかし、デマであることは明白である。

 何より問題は……。

「ここの数字、これは、……拡散された数と言って伝わる?」

「誰かがこの投稿を読んで、自分の知り合いに広めた数ってことですよね……?」

「その通り。この投稿を目撃した人間はもっともっと膨大な数に上る」

 拡散された数は、既に万単位である。一人が百人とか二百人とか、その先でまた拡散されて、こんな間違った意見が広がっていく。

「単なる地方の無名議員が言い出したところで黙殺されるのがオチだ。しかし、インフルエンサーと呼ばれる人たちや、タチの悪い迷惑系配信者のような連中も、この意見を拡散するのに加担している。……これが個人単位の草の根運動のような清いものではないことは判るだろうね?」

 後輩くんは頷いた。SNSに触れないで暮らしているせいか、傍観者として受け止めることができる。

「みんな、もとから繋がってるってことですよね? このどこかの議員の人がこういう投稿を、この時間……、今日の夕方ですね、僕らが新幹線に乗ってるぐらいの時間にすることも、他のインフルエンサーの人がこれを拡散することも、配信者? の人がやって来て揉めごとを起こすことまできっと全部」

「よりによって外部からの来客が一番多くなる金曜の夜を狙ったのも意図的なものだろうね。さて、この事態を招いたのは誰だろうということになるが……」

 残念ながら、具体的にどんな人物であるかを、後輩くんは知らない。その人物はきっと、決して手の届かない安全な場所でこの事態を見下ろしている。

 いや、見てさえいないかもしれない。午後十時すぎ、誰がどうなろうと知ったことかと、飲酒したり、あるいは入浴をしたり、ひょっとしたらベッドの上でセックスをしているかもしれないし、もうぐうすか寝ているかもしれない。

 ともあれその人物は、東京地区長の廣川、赤青州地区長の萩元から上がってきた情報を元に、暗躍する探偵の存在を捨て置けないという判断を下し、その探偵と縁の深いゲイ・タウンである宿木橋を攻撃することに決めた。

 攻撃の手段は二つ、デマと差別である。

「こうしたデマの厄介なことは……」

 先輩は歩き始める。その横顔に怒りを隠し、しかし隠しきれない余りが、銀色の刃としてその右目に鋭い光を宿している。

「否定されるだけのエビデンスが出たとしてもね、それは白いテーブルクロスに染み付いたワインの紅いしみのように、真実で漂白するには時間が掛かるということだ。そしてもう一つ、人は、自身が一度信じた情報に対して、極めて強く固執する」

「固執……」

「一度でもそれを信じたことを他者に対して表明したならば、その情報がどんなに危ういものであれ、否定することが極めて難しくなってしまうんだ。いいかい、『信じたこと』そのものではないよ、『信じたと表明』してしまうことによって、その情報に絡み付かれて、否定できなくなってしまうんだ。……かつての有華がそうであったようにね。しかし、彼女はその呪縛から抜け出すことが出来た、とても賢明な少女だった」

 意地、と言い換えてもいいのだろうかと、先輩の隣を歩きながら、後輩くんは思う。コンコルド効果、とも違うのかもしれないけれど、自らが「正しい」と信じ、表明までしたことが間違っていたとして、それを撤回することは、何やら恥のような気がしてしまうのである。過ちを改むるに憚ること勿れ、は孔子の残した言葉だが、孔子がわざわざ残さなければいけなかった言葉であるという事実からも、それが人間にとって実はとても難しい行為であることが判る。政治家が、素直に「間違ったことを言いました、ごめんなさい」と言えばいいところ、「誤解を招く表現をしてしまったことをお詫びする」などと言うのもこの一例と言えるだろう。

 確かに有華は、廣川への恋心から「ヒセーサンシャ」なんて言葉を使ってしまうほど大日氣弥益の教えにハマっていたけれど、彼女はそのたおやかな心で過ちを改むるに憚りはしなかった。彼女からしたら「いや後輩にそんなん言われてもぉ」ぐらいの感じかもしれないが、後輩くんは彼女を大切な友人だと思っているし、未来が明るいことを願っているのだ。

 定着する前にデマを洗浄し、漂白することが出来ればいいのだけれど、……それが出来ないから、未だに過去のデマが身体に纏わりついている芸能人や政治家が多くいる。輪郭のしっかりしたファクトよりも、自分の握りたい形にいかようにでも変容するフェイクのほうを握りたいと思う人は多いのだ。

 だからこそ、デマは厄介なのだ。言った人物は「誤解を招く表現だった」ぐらいの謝罪で済まされて、また違うデマを吐き続ける。デマゴーグはそうすることで利益を得る、……あるいは、そうすることでしか利益を得られない程度の人々であるから、執拗にデマを吐き続けることを、決してやめない。

 有華のことに思いを馳せたからだろう。

「有華ちゃん、いるかもしれません、いま……、この街に」

 後輩くんは青ざめた。「金曜日なので、中寉さんたちの家庭教師の日です」

 先輩がはっきりと顔を顰めた。

「この状況下で? 恐らく了か誰かが一緒についていてくれるはずだが……」

 中寉さんや先輩が「フェイク未成年」だとすれば、有華は「ファクト未成年」である。彼女はいつも十時前には店を出て、冨緑駅まで中寉さんや蒔田さんに付き添ってもらって、見送られるという、王子様エスコート待遇なのであるが、今夜この状態では「緑の兎」から動けまい。

 現役女子高生がこんな時間にゲイバーにいることが見つかりでもしたら、事態はますます良くない方向へ転がっていく。

 そうでなくても、いまこの瞬間も、どこで火が燃え上がるか判ったものではない。迷惑系配信者が、ある種の統率に基づいて、この街で暴力沙汰を惹起しようと目論んでいることは後輩くんにも察しがついた。そうなれば警察が介入する。逮捕者が出るかもしれない。宿木橋に集う者は暴力的で反社会的な人間なのだ、と……、先ほどの投稿の言葉を持ってくるなら、「反國」という攻撃的な言葉で括られて、差別行為にお墨付きを与えてしまうことに繋がりかねない。

 しかし、後輩くんが見る限り、人々は耐え忍んでいる。耳に飛び込んできた差別的な言葉に、後輩くんでさえ、飛び掛かってしまいそうになるのを堪えるのが苦しくなってきているのに。

「彼らは、自分たちが間違っていないと信じているんだ」

 後輩くんの苦痛を察したか、先輩は右手で後輩くんの左手を握った。指を絡めて、しっかりと繋ぐ。

「同性を愛することを、同性に愛されたいと願うことを、どうしても男の形をした身体であろうと、違う性になりたいと望み、実践することも、ああ、確かに誰かに知られることには抵抗があるだろう、秘密として守りたいと思う気持ちがあったとして、しかし誰が否定できよう? 否定されて痛むのは、正しいと信じているからだ。ダイヤモンドのように強靭な心で、否定の言葉に傷を負おうと、割らせはするものかと」

 看板の灯の消された店が多い。多くの人が、お客さんが、お店に避難しているのか、賑やかなはずの通りに人通りはほとんどなく、声は配信者たちとの言い合いがわずかに聞こえてくるばかり。はっきりとした異常事態だが、警察が来る気配はない。来るとしたら、堪えきれずに手を上げてしまったこの街の誰かを逮捕するために、ということになってしまうのだろう。そうした事態を招かぬためにこそ、人々は耐えている。

 驚異的な精神力で以て。

「しかし」

 先輩の横顔が、事態の深刻さを物語っていた。いつでも「大丈夫だよ、後輩くん」という言葉で、何より悠然とした表情で、後輩くんを安心させてきた先輩なのに。

「……圧を加え続けたならば、……人の心はやがて取り返しのつかないほどひしゃげてしまう、潰れてしまう。デマに基づく誹謗中傷が罪なき人を殺めるところを、私たちは歴史の中で何度となく見てきた」

 今宵を発端として、それが起きてしまう可能性を恐れるから、先輩の表情はかたく凍りつくのだ。

「どうしたら……」

「手は、打ったつもりだがね」

 宿木橋の、ど真ん中に小さな交差点がある。宿木橋界隈は道が狭くて歩車の分離しているところは一個もなく、その交差点にはちょっとした噴水があり、その周囲はいつでも人で賑わっている。待ち合わせスポットとしても人気らしい。後輩くんは初めてこの街へやってきたとき、この辺りで曲がる角を間違えて、延々街を彷徨いた挙句、当時とても治安の悪かったトミチューこと冨緑中央公園に迷い込む羽目となったのだが、今日は楽しげな人の姿は見えなかった。「緑の兎」は、もう少し行った左手、あと少しと言うところで、店の前に複数名の、はっきり「客」ではない人間たちの姿があるのが見えた。

「出てこいよ、いるんだろ! 砂子が買った中学生、ここで働かせてるんだろ!」

 一際大きな声を出す男がいる。四十代ぐらいで、恰幅がよく、彼の煽動に応じて「出てこい!」「卑怯者」「反國者」「ヒセーサンシャ!」と怒鳴り散らす者たち。後輩くんは顔から血の気が引くほどの怒りに駆られた。中にはきっと、有華がいる。彼女がどれほど恐ろしい思いをしているかを思って、頭がくらくらした。

「大丈夫だ」

 先輩が後輩くんの手をぎゅっと掴む。先輩と繋がっている自分であることを意識すれば、後輩くんは怒りに任せて暴走するような真似はしない。

「いま、了からメールが届いた。了と皐醒はいない、でも、上之原さんとミツルママ、それから白湯川さんがいる」

 いずれ劣らぬ、強い人たちである。いや、上之原さんは昨日アレルギーで寝込んでいたそうだし長身ではあるがそこまで筋肉質ではない……、いやでも、ミツルママは巨漢であるし、白湯川さんは、いかにもスポーツマンといった男らしい体型の人である。

 あの三人がいれば、有華はどんなにか心強いだろう……、と思った矢先に、ドアが開いた。

 無表情の上之原さんと、忿懣やるかたなしという顔のミツルママである。

「アンタたち、酒呑みに来たの、それとも、パートナーを探しに来たの」

 迷惑氏よりも、ミツルママのほうが幅・高さともにあるもので、はっきりと、迷惑氏が気圧されているのが判った。そうした空気というものは集団の中で素早く蔓延するもので、同様にここへ来て騒ぎ始めたときにも、一瞬で調子に乗ったに違いない彼らは、冷や水をぶっかけられたように感じたのではあるまいか。

「何しに来たのかって訊いてんのよ。客なの、客じゃないの」

 カメラを回している。自身が気圧されていることを察知されてしまう屈辱を避けたく思ったのだろう。

「この店は、未成年者を働かせているんだろう!」

 だしぬけに大きな声を発したが、虚勢であることは明らかだった。

 後輩くんは思わずびくんとしてしまったが、ミツルママも上之原さんも、飲み屋街で仕事をしてきた人たちであるから、眉ひとつ動かさない。

「それは、どこの誰が言ったことだ」

 上之原さんが無表情に訊く。中寉さんのパートナーであり、「緑の兎」のマスターであり、尚且つ「ヴェル・デ・ラ・ビット」のプロデューサーである人。

 口数が少なく、話したことは数えるほどしかない。中寉さんは「プラスティックみたいな人です」なんて、おそらくは照れ隠しだろうけれど形容するが、実際には短く少ない言葉の中に、知性と優しさの籠っていることが感じ取れる。そういう人であるからこそ、中寉さんはベタ惚れしているのだ。

「それは」

「夕方に、なんとかという名前の地方議員がSNSにそんな投稿をしていたようだが、その事実がなかったとき、お前たちは責任が取れるのか」

 上之原さんは静かで、とても冷たく厳しい声で言う。上之原さんと、大学の同級生であったというミツルママはおそらく三十代の半ばに差し掛かっているぐらいの人であるから、迷惑氏のほうが歳上であるにも関わらず。

「答えなさいよ。誰が責任取んの。そのどっかの議員のセンセイがバッヂ賭けて言ってるわけ? アンタたちはじゃあ、この店の中に未成年がいなかったとき、雁首揃えてそのカメラの前で謝罪するわけ? そのどっかのセンセイに、『責任取ってバッヂ外してくなんしょ』って言うわけ?」

 しばらく、睨み合いが、続いた。

 時刻はもうすぐ十時半に差し掛かろうとしている。店内に未成年がいてはいけない、しかし本当はいる、というこの状況で、そんな弱みなど一切見せずにブラフを掛けるミツルママ上之原さんの度胸に、後輩くんは圧倒された。先輩にしてもそれは同じであるようで、その目には微かに心配そうな色が覗ける。

「……どうしても、と言うのであれば」

 上之原さんが、短く言う。

「三分以内であれば、店内に入ることを許そう。どうぞ、店内を存分に撮影するがいいさ、宣伝になる。……但しそれ以降は、お前たちを客として見做す。一人頭ワンドリンク、必ずオーダーすることを約束しろ」

 えっ、と後輩くんは思わず声を漏らしたが、……すぐに気付いた。

 店内にはもう、有華はいないのだ。白湯川さんによって、裏口からどこか違う場所に移動した後なのだろう……。しかし、だからと言って店に入れてやる義理などなさそうなものだけれど。

「なるほど……」

 先輩が小さく呟く。迷惑氏たち、総勢五人が上之原さんとミツルママに導かれて入店していく。

 ドアベルの残響の中、先輩が言った。

「上之原さんたちのアイディアか、それともヴェルデグリーン氏から吹き込まれたのかは判然としないが……、考えたものだ」

「何を、……ですか?」

「うん……、上之原さんたちは、警察を介入させるつもりなんだ。まず君も気付いている通り、店内に有華はいないよ。どこか安全な場所に、既に白湯川さんと共に移されたあとだ。だから上之原さんとミツルママは堂々と彼らをご案内できる、客になるはずがないと判っていながら、ね」

「でも」

 どうせ居座りますよ、という言葉を口にしかけて、

「あっ」

 と、立っている状態でありながら思わず膝を打ってしまった。

「そう。駄々を捏ねて立ち去らないとなったら、不退去罪が成立するわけだ。そして、……上之原さんとミツルママはきっと、三分経過後も彼らを店から退去させない(・・・・・・)はずだ、つまり……」

 彼らは罠に掛かった。

 しかし後輩くんには、どうやって彼らを足止めするのか、全く想像が付かない。三分探して見付からなかったら、捨て台詞残して立ち去ってそれでお終いである気もするが。

「彼らは、『未成年』が店内にいると信じているんだよ。仮に三分で見付からなかったなら、五分、あるいは十分、……執着するだろうね。そして、……ふふん、ここに、立派に成人しているし別に童顔な訳でもないああ確かに背はちっちゃいかも知れないけどもねそれでもいくらなんでも中学生には見えないんじゃないのかなどうかな後輩くん私中学生に見える」

「あの、あの先輩落ち着いてください、見えないですちゃんと大人です」

「ああ、そうだよ大人だとも私は、大人だからね、そんなことでぷりぷりしない……、深呼吸、すう、はあ。大人だからね、自分のご機嫌を取るのだってこんなに容易いのさ。……なんだったっけ、ああそうだ思い出した。あの写真に撮られて、未成年扱いをされている私がいまから現れたら? 彼らは三分経とうが五分経とうが、上之原さんたちが出ていけと言おうが店の中にとどまろうとするだろう。であるならば」

 先輩の童顔(・・)に悪戯を思い付いたときの意地悪な笑みが浮かんだ。

「でも、あの、そんなことしたら、先輩また撮られますよ」

「もう既に撮られてしまっているのでね。逆手に取って、私が未成年であるなどという失礼な誤解も塗り替えておきたい。……ああ、後輩くんはここにいなさい。君のプライバシーまで侵害されてはいけない」

 先輩は優しく言ってくれる。こういうところ、本当に大人で、強靭な心を持つ人だと、後輩くんはつくづく惚れる。こんなに大人っぽい人がいるものかとさえ思う……。

 この人の隣を自分の立ち位置であると定めたならば。

「いえ、……僕も行きます。だって先輩は、えっと、僕の先輩です。僕はいま二十歳で、先輩は僕の先輩なわけですから、……実際に年齢が二十四歳なの、この間教えてもらいましたし」

「だって、心配そうにしてるからさ。『先輩とこういうことするの犯罪になりませんか』とか言うからさ。……そりゃ私小さいよ、童顔だよ」

「ごめんなさい……。でも、あの、先輩が成人していることを、僕が一番証明したいです、あと、……いつでもどんなときでも、先輩と一緒がいいです」

 先輩は後輩くんを見上げて、目を丸くする。

 それから、……ふっ、と微笑んで、予告なく背伸びをして、キスをくれた。

「やっぱり君のほうがこどもだね、そんなお子さまみたいなことを言うんだから……、甘えんぼさん」

 そう言うときの先輩は、とても、とても嬉しそうだった。



○



 先輩と後輩くんが、覚悟を決めた目をして「緑の兎」のドアに手を掛けるころ……。

「ったくよお……、どうなってんだあの連中はぁ!」

 ようやく到着した大月結人はぷんすか怒りながらシャツを脱ぎ、メイド服に着替え終わったところだ。

「でもって、どうなってんだよこんなさぁ、来ていきなり『新曲のMV撮る』ってさあ……、皐醒!」

 既にしっかりメイドさん、メイクまでばっちり、すっぴんならばアイドルみたいなイケメンなのが結人のパートナーである皐醒だが、いまはすっかり、美人のお姉さんに変身している。

「まあしょうがないよねぇ。迷惑な人たちが来て迷惑かけてるのをどうにかしようっていうんだからさ、ちょっとぐらいはその迷惑を俺らが背負わないとダメなやつ」

「そうかもしんないけどさぁ……。でも、大丈夫なのかよ、十時回ってんだろ、ガチャガチャやって……」

 近所迷惑だと通報されて捕まるようなことになっては、という心配を、結人は当然する。金髪の、もともとはパンクロックをやっていた結人ではあるが、反社会的な思想は持っていない。信号はちゃんと守るし、通りに落ちている空き缶は拾ってちゃんとリサイクルボックスまで持っていく、そんな清く正しい若者である。

「だいじょーぶ、アンプは繋がないし、生音届くとしたら老師の笛ぐらいのもんだよ。はい動かないでー」

 皐醒が手早く結人の顔にメイクを施していく。皐醒はこの街で働くようになったころから、店に立つとき、お出かけするときには男性用化粧品を使う習慣が身についているので、パートナーにメイクを施すことだってお手のものだ。

「んっとに大丈夫なのかよ……、あ、龍さん」

 準備の進捗状況を見に来た凱龍は、既にメイド服で化粧もしっかり、……百八十を超える長身の、しかもも相当にレベルの高い顔面をした「美人」である彼の女装姿には、何とも言えない迫力がある。しかし、ちっとも滑稽ではない。彼らのバンド「ヴェル・デ・ラ・ビット」において、男性ファンが最も多いのは凱龍なのだ。

 凱龍が、結人に向かってなにごとか言った。声もいい。

「すべて、彼に任せればいい、ってさ」

 皐醒が翻訳してくれた。凱龍が「彼」と呼ぶのは、オーナーのことである。このバンド「ヴェル・デ・ラ・ビット」は、「緑の兎」のマスター・上之原承をプロデューサーとして中寉了・蒔田皐醒・蕭凱龍・大月結人という四人のゲイで結成されたバンドだが、活動費はこの街のドンであるロッツェ・ヴェルデグリーンが供出している。具体的に言えば、彼の持ちものであるあちこちのビルから納められた金の一部が「ヴェル・デ・ラ・ビット」の活動費に回されているのだが、「ヴェル・デ」が有名になればなるほど、街の外から宿木橋にやって来る人が増え、各店舗の売り上げも増し、街全体が潤い、ヴェルデグリーンの収入も増える……、という仕組みなのだ。

 雑居ビルの屋上を即席のステージとして、皐醒はキーボードの指慣らし、結人はギターのチューニング、凱龍は横笛を手にじっと目を閉じて集中力を高め、了は身体を解すために屈伸を何度か、……膝がぱっきぱき言うので、「あんましないほうがよくない?」と皐醒に止められる。

「うん、お前たちみんな可愛いぞ」

 決して高いものではないカメラを五台、四人を取り囲むように設置して、自らも一台を手持ちにしたヴェルデグリーンが無邪気な笑顔で言った。

「誹謗中傷なんてクズのやることだ、デマなんて散らかすのは、カスの仕事だよ。お前たちの音がそれを洗い流すんだ、一点のシミもこの街に残さないように……。承やミツルに聴かせてやれ、クソどもの鼓膜は劈(つんざ)いて脳を破裂させてやれ。さあ、兎たち、悪党どもを灼き尽くせ!」

 凱龍の笛の音が、夜空に向けて舞い上がる。

 それは一陣の風となって、この街の路地という路地、建物の中にまで舞い込む。

 愛しき街の人々の耳に、勇気の旋律として。



○



 上之原承マスターとミツルママの想定通り、三分過ぎても彼らは出て行こうとしないのだった。のみならず、そこへ写真の「未成年者」が現れたのだから、侵入者たちは一斉に騒ぎ立て始めた。

「明らかに未成年じゃないか! どうですかみなさん、いまね、緊急で動画を回してますけど、これが大人に見えますか!」

 先輩が内心で、控えめな言葉を使うにしてもブチ切れて(・・・・・)いることは明らかなので、後輩くんは繋いだ手を決して解くまいと緊張感を高めて、咄嗟に、言った。

「あんたたち、何も分かってない。その目は節穴かよ」

 後輩くんがそんな喧嘩腰の言葉を使うところを見聞きするのは、上之原さんやミツルママだけではない、先輩だって初めてのはずだ。後輩くんの言葉というものは、だいたいいつも穏やかで少し臆病なものである。そうそう人を責めることもないので、誰もがみな、後輩くんの辞書にはきつい言葉なんて一個も載っていないのだと信じて疑わなかったはず。

「あんたたちは確信を持って言えるのか。この人の年齢を、そして性別を、当てることが出来るのか」

 迷惑男は、

「そんなもん」

 と言って、言葉を失う。

 見れば見るほどどっちか判らないのが先輩である。

「のみならず、あんたたちは」

 後輩くんは畳み掛ける。

「僕が判るのか。僕がどっちか判るのか。この人より歳下か歳上か、僕が男か女か、この見た目から声から、確信を持って判断を下すことが出来るのか。違ったとして、誰がどう責任を取るって言うんだ!」

 ここまで後輩くんが啖呵を切ってから、

「……ヒントが欲しいなら、くれてやろう」

 先輩が、思いっきり声を低くして言った。

「この子は私の、大学の後輩だ。そして私と共に貴君らの仲間に盗撮された、メイド姿のもう一人も、この子の先輩だ」

 迷惑男の双眸が見開かれた。彼から見て左に立つ後輩くんと見比べて、「先輩の年齢>後輩くんの年齢」であるという可能性に行き当たったのだ。

「なお」

 後輩くんはすかさず言う。

「僕は、二浪している」

 であるならば、先輩のほうが歳下で尚且つ「先輩」であるという状況も成立する。一度否定しかけた可能性を取り戻して、考えは一層覚束ないものとなったはずだ。

「さあ、どちらだと思う? 私が未成年だと思うのか、……そして、私を男だと思うのか」

 先輩は、先ほどまでプリプリ怒っていた人とは思えないぐらい、暗くて怖くて冷たい笑みで瞳で、迷惑男を、彼の配信をわくわくと見ている名前なき加害者たちを射抜く。

「自身の決断に、一縷の不安もなく応えられるという者のみ、私を未成年男子扱いするがいい。例えば、……貴君にその覚悟はあるのかな。私が成人しているにも関わらず、未成年者であり、尚且つ砂子議員に売春していたという投稿を行った人物の情報を、自身の名誉を賭けて拡散したと言うならば……、諸君らの誤解(・・)は、即ち私の名誉を著しく毀損したものであることになるけれど、責任を取ることが出来るのかな」

 どれほどの数に膨れ上がっているのかも判然としない、透明な悪意の持ちぬしたちに向けて、先輩が言ったそのタイミングで、しじまを切り裂く笛の根が、どこからともなく流れ始めた。

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