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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
先輩にも、後輩くんにも判らない。
42/45

クラスタ

 寿羅くんに広告の件を断られたのみならず、退会の申し出をされて、萩元はカンカンに怒った。先輩に対して「このままでは済まさんぞ」的なことを言い、後輩くんはその剣幕に大いに不吉な予感を抱いたのだけれど、先輩は全く動じるそぶりは見せなかった。

「どうぞ、なんなりと」

 立ち上がると萩元は立派な体格で、胸板は岩でも詰まっているかのように盛り上がり、右耳は潰れていた。柔道でもやっていたのだろうか? 後輩くんはこんな人と向き合ったら、たちまち萎縮してしまって意味もなく「すいません」なんて言ってしまいそうだが。

「私ももう、貴君らが私の愛する後輩くんに、そしていとおしい友人たちに指一本でも触れることを許しはしない。そして、ほんの一脈でもそのリスクがあると判断したなら、全力で貴君らを妨害していくし、そのために手段は選ばない」

 神楽坂美代子さんは、まだぼんやりと座ったままでいた。萩元と先輩のやりとりは、どこまで耳に入っているのか、自分の置かれている現状を、どこまで理解しているのか。

「あの」

 後輩くんはそっと、もうお母さんと呼ぶことはない女性に向けて言う。

「二十年間、ありがとうございました。これから、どうか元気でやってください。こちらの男性か、他の方かは判りませんが、どうかお幸せに、なりたいご自身になるといいと思います」

 届いているかどうかも判然としない。けれど、伝えなければいけない言葉があると思った。

「僕も、なりたいものになります、……この、素敵な人のパートナーとして生きていきます」

 先輩が教えてくれたこと、先輩が発したたくさんの言葉の中で、後輩くんにとってもはや宝物となって久しいものがある。

「僕はこの人と、幸せな家庭を築きます。二人で幸せに生きていきます。他のどんな人々とも変わらない、普通の幸せを」

 萩元が憤怒と嫌悪感に満ちた表情を後輩くんに向けた。

「そんな、非生産的な(・・・・)ことを、よりにもよって自分のご母堂に向けて」

「人が思いを集めたなら、誰がどんな言葉で否定したって、もう既に、なってしまっているんです」

 どんな二人であろうと、恋で結ばれたら恋人同士である。離れて暮らしていようと、当人たちの意識次第では家族である。

「あなたたちだってそうでしょ」

 後輩くんは先輩を真似て、あまり大きな声を出すことはしなかった。そっちのほうが、クレバーで、クールである。

「同じ神様を信じるという絆で集まったから、あなたたちは一つの教団になった。年齢も性別もさまざまで、住んでいるところもばらばらで、でも同じ神様を信じているから仲間なんでしょ。そうであるなら、僕らのことも、誰のことも、あなたたちは否定出来ない。同性同士であろうが、歳が大きく離れていようが、不釣り合いに見えても、問題があるように見えても、結び付くことを誰も否定出来ないし、してはいけない。互いに迷惑の掛からぬ距離であるなら、それはあるがまま、隣人として認めなければいけない。……あなたたちは、あなたたち自身が異なる者たちが一つの要素で結び付いたクラスタでありながら、ある特定のクラスタを差別したり、攻撃したりする。そういう人たちは、当然相応の扱いを受けることが避け難いんです。誰かを不当に差別し、排除しようとする人たちが、同じく誰かから攻撃を受けることに不平や不満を仰るのは、矛盾しているとお思いになりませんか」

 ほー、みたいな声を寿羅くんが漏らした。

「自分、先輩の広告塔にならなってあげてもいいっすよ」

 感心した顔でよく判らないことを言い、

「何言ってんだお前は……」

 ユーゴくんに突っ込まれて、「彼女」の顔で照れ笑いする。

「なんなら、私の働く探偵事務所の広告ポスターにでも出てくれたまえよ。……まあ、それはそれとしてだ」

 後輩くんとしてはかなり頑張って言ったつもり、そして、見る限り言葉は萩元に一定の効果を及ぼしたようである。なので、あんまり茶化されてしまうと、ちょっと立つ瀬がない。賞賛の言葉をもらいたくて言ったのではないけれど、

「素晴らしいよ、後輩くん。私は君に愛される人間でよかった、そして君を愛することの正しさをはっきりと理解した」

 潜在的に望んだ以上のものを、先輩はくれた。人目も憚らずぎゅーっと抱き締め、というよりは抱き着き、くつくつと笑う。

「先輩の先輩さんさ、先輩が言うちょがとき、『フンフンフーン』みいな顔がしょ」

「『後方彼氏面』がな」

 寿羅くんとユーゴくんが赤州弁ボソボソ言い合っている声が聴こえて来た。後方にいるもので、先輩がどういう顔をしていたのか、後輩くんは把握していなかった。ただ、萩元はきつい目で後輩くんと、後輩くんにひっつく先輩を睨んでばかりいた。だから、低いところで隣に座っていた女性が動いていることに、気付いてはいなかったようだ。

 ものうげな溜め息を一つ吐いて、

「どうぞ、お元気で」

 美代子さん、……まだぎりぎり「神楽坂美代子さん」だけれど、もう間もなく石堂美代子さんに戻る女性は、自身のこどもであるという事実だけは変わらない相手に向けて、書類を差し出した。小学生時代、縁樹くんの持ちものに、……算数セットの中のおはじきの一粒に至るまで抜かりなく記された名前の文字を懐かしく思い起こさせる、親しみの湧く丸文字が、痣のように後輩くんの、半分はこの女性によって作られた心臓に刻まれた。

 これが最後の痛みとなるなら、味わい尽くそう。

 しかし、強く温かく自分を抱き締める人の腕のおかげで、それは意外なほど容易くて、

「はい、お元気で」

 と返すときには、少なからず朗らかな笑顔を浮かべることだって出来てしまった後輩くんだった。





 おりこうさんの小学生みたいに寄り道せずに帰ったのは、急げばまだ、その日のうちにお父さんへ離婚届を渡せる時間だったからだ。寿羅くんとユーゴくんと別れ、新幹線と在来線を乗り継いで猪熊駅に辿り着いたのは午後九時、スーパーの裏口で待っていると、ちょうどお父さんが出て来たところだった。

 二人の帰還は、お父さんの想定よりもずいぶん早かったのだろう。

「はれ」

 なんて声を上げて、しばし二人を見比べていた。それでも縁樹くんから、夫婦双方の欄が埋まった離婚届を渡されると、しばし言葉を失ってから、それを大事そうに胸に押し抱いて、

「お前には、本当に苦労を掛けた」

 と何度も繰り返して言った。

「これから先のほうが、きっと大変だよ。家を、……お店を取り戻すことだって、出来るかどうか」

 縁樹くんの言葉に、フン、と息を吐き出して、お父さんは気丈に笑った。

「なぁに……。思いっきり高く売りつけてやるさ」

 お父さんがお父さんから受け継いだお店、未練はないのだろうか。

「そりゃあよ、ないわけはないが……、でも、過ぎたことだ。落としちまったもんを拾いに戻って時間を掛けるよりは、前を向いて生きていくほうがずっといい。お前にどう見られてるか判らんが、まだまだ老け込む気はねえからな」

 お父さんはニカッと白い歯を見せた。お父さんは歯並びがいい。昔から魚をたくさん食べているから歯が丈夫なのだ、と真偽不明の怪しいことを言っていた、そういえば、後輩くんも虫歯になったことはない。

 実際、お父さんは若返った。後輩くんの部屋を占領して、日がな一日無為に生きているころは、不健康にやつれていたのに。

「大日氣弥益の人たちが嫌がらせをしてくるかも知れません。こちらでも出来るだけ早く手を打ちますが、どうか身の安全を確保なさってください」

 真面目な顔で言った先輩に、お父さんはしっかりと頷いた。新しいアパートに帰っていくお父さんの背中を見送っているときに、先輩のスマートフォンがむーむーと震え始めた。

 了、の一文字。

「……また酔っ払ってるのではないだろうな……、もし……」

 応じた先輩の、スマートフォンをほっぺたに当てた右手がぴーんと伸びた。

 普段は淡々と、表情をほとんど変えずに、良きにつけ悪しきにつけいろいろなことを、あまり大きくない声でマイペースに言うのが中寉さんである。童顔で、涙袋の目尻側が、しらふのときでもほんのり紅色を帯びているのがどことなくセクシー。普段はゲイバーのスタッフとして働き、仲間とやっているロックバンド「ヴェル・デ・ラ・ビット」ではボーカルを務める。

 だから、本気を出せばでかい声が出る人なのだ。

 先輩は迷惑そうに、後輩くんのところまで中寉さんの声を届かせるスマートフォンを睨んだ。後輩くんがはっきり聞き取ることが出来るのは、大変なんです、という言葉の連発だ。

「落ち着きたまえ! そんなばかでかい声出さなくたって聴こえている。必要なことを、整理して落ち着いて語りたまえ」

 先輩の叱りつける声に、ようやく僅かばかり、冷静さを取り戻したか、中寉さんの声は後輩くんには聴こえなくなった。

 中寉さん本来の大人しい声で語られる言葉に耳を傾けている先輩の顔が、じわじわと厳しいものになっていく。

「わかった、すぐに行く。……ああ、後輩くんなら一緒にいるよ、安心したまえ。しかし……、ヴェルデグリーン氏にはもう伝えているのかな、まだなら大至急。場合によっては飛び道具(・・・・)に頼らなければならないケースも出てくるかもしれない」

 後輩くんの聞き間違いでなければ、いま、ものすごく物騒な発言があったようである。しかし中寉さんとの話を終えるなり先輩は、また別なところへ電話を掛ける。

「お疲れ様さまです所長、私です。宿木橋で大日氣弥益の人々が騒擾(そうじょう)しているとの報が入りました。富緑警察も現状手が出せないと。至急、対応願います」

 先輩の頬に現れるかたさ、つめたさ、……緊張感の度合いが、これまでで一番高い。

 それでも、先輩は少し頬を綻ばせる。

「急いで帰って来たから、今夜は君の部屋でお泊まりか、……あるいは、久しぶりに『レイクサイドヴィラ』に行くことも考えたのだが」

 まったく先輩と来たら、そういうことを言えば後輩くんの胸の中に赤やピンクの花が咲くことを知っていて、自在に咲かせるのだ。

「彼らは人と人とが惹かれ合い結ばれ合うことがどうしても許せないらしい。人の幸せな形にケチをつけるなんて、どこかの穴の小さい人たちだよね」

 悪い冗談の一つを挟んで、国道に出てタクシーを捕まえる。行き先はもちろん、後輩くんと先輩の大切な友人たちの街、宿木橋である。





 夜の宿木橋界隈、特に金曜の夜の混雑はすごい。ただの飲み屋街である以上に、この夜だけでなく上手くすればその次の朝まで過ごすこともあるわけで、ウィークデーの疲れもどこへやら、土曜の夕方ぐらいまでをも見越した人々の目は、爛々と輝いている。

 しかるに、そこへ招かれざる客。

 中寉了が異変に気付いたのは、先輩に電話をする十分前のことだった。

「今日はお会い出来て嬉しかったです。是非またお二人でいらして下さいね」

 靴和さんと生江さんという、昔からのお客さん。同性パートナーシップ協定を認めている自治体に住んでいるので、晴れて「夫夫」となった二人が、久しぶりに訪ねて来てくれたのだ。彼らの出会いがこの店で、靴和さんに最初のビールをサーブしたのは蒔田皐醒だったし、とある……、いや、ぼかしたって仕方がないからはっきり言ってしまうと、都心でも無法者が集まる場所として悪名高い「山王駅東口トイレ」で危うい目に遭った生江さんを助けたのは中学生時代の了である。なお、了がなぜ中学生の身分でそんな場所にいたのかという点については、これこそぼかしておくのであるが、その後も皐醒と彼のパートナー大月結人の窮地を靴和さん生江さんに救ってもらったり、ウイルス禍が開けて「ヴェル・デ」が久しぶりに観客を入れたライブを開催した際には一番にチケットを買ってくれたり……、そんなかけがえのない友人たちなのだ。パートナーシップ協定を認めている自治体に引っ越してからは以前のように月に一度は「緑の兎」という頻度で来てくれることはなくなっていたが、今日は久しぶりに寄ってくれた。靴和さんはスニーカーのお店をやっていて、了と皐醒が履いているのは靴和さんのショップで買ったビジネススニーカーなのだが、新作のカラー紐をプレゼントしてもらった。了と皐醒はつい先日の「トミチュー」でのゲリラライブの様子を撮影したDVDを二人にプレゼントして、旧交をあたためて、店の外まで出て、二人の背中が小さくなるまで見送ってから、ふと目向けた斜向かいのビルの入り口に人集りが出来ていることに気が付いた。緑の兎同様にヴェルデグリーンオーナーが所有するビルである。つまり、治安は良く、この街に通い慣れた人も、今日初めて出会いを求めてやって来たばかりの人でも同じだけ楽しくお酒が飲めるしおしゃべりも楽しめる、そんな明るく朗らかな店ばかりが揃っているビルである。

 夜の街である。全く何のトラブルも起きたことがないなんてことは言わない。了も皐醒も巻き込まれたことはあるし、そうしたトラブルの中で同学の先輩で探偵をやってる赤目さんとも知り合いになったのだけど、治安の維持はこの町で働く全ての人の心からの願いである。

「どうしたのですか」

 困惑して立ち尽くしている知り合いの店主に訊ねたところ……。

「わかんなぁい……、なんかぁ、よく知らないんだけど、配信者みたい」

「配信者?」

「ミズキママのお店に急に入って来てさぁ、お客さんにカメラ向けて、『インタビューさせてください』とかいきなり言ったらしいよお」

 ミズキママのお店は、この界隈にいくつかある女装子好きが集まる店の一つ。ミズキママは、三十半ばだがなんとも言えない優美な曲線を纏った人で、また性格もたおやかであるものだから人気がある。彼の手解きによって女装の夢を叶え、美しく変身した人たちからは「アグリアス」との異名で呼ばれる。アグリアスはとてもとても美しい青い羽の蝶だ。ミズキママは初めての女装を果たしたお客に、決まって「あなたも美しい蝶よ」という言葉をかける。人々は、男の服で過ごす普段の自分を蛹になぞらえて、この店で美しい羽を広げるのだ。

 しかし、性質上プライバシーは尊重されなければならない。女装体験バーに限ったことではないが、職場や家庭で自身の性のベクトルを隠して過ごし、宿木橋に来たときだけ束の間本当の自分になれるという人も少なくない。ミツルママの店にいる客たちが、望まぬ動画出演などさせられていては……、戦慄した了の耳に、違う場所から怒鳴る声が聴こえて来た。

「おいコラてめぇ、人の店で何しやがる!」

 宿木橋は平和なゲイ・タウンだが、ゲイの嗜好というのはノンケのそれ同様多岐にわたる。主流なのはやはり、男らしい男、筋骨隆々とした武闘派お兄さんあるいはマッチョ紳士、もしくはぽっちゃりお兄さんふくよかおじさま、といった人々である。声の主は、いつも欧州サッカーのライブを店内の大型モニターで放映し、それをお目当てに、ノンケのサッカーファンまで常連になってしまうというバー「ミシェル」のオーナーであるゴンザレスである。ゴンザレスは小型のカメラを構える若い男の胸ぐらを掴んで、大いに怒っていた。

「止めろ! カメラ止めろっつってんのがわかんねえのかこのクソガキ!」

 ゴンザレスに今にも張り倒されそうな男は「暴力だ」「我々には報道の自由があるんです」「これが宿木橋の現実なんですか」などと早口に言い募る。

「やばい、やばいよ了、止めないと!」

 言うが早いか皐醒が騒ぎの渦中に飛び込んでいく。

「ゴンさん、ストップ! ストーップ! 暴力はっ、暴力はマジやばいから! お店潰れちゃうよぉ!」

 同時多発的に、あちこちで物見高い「動画配信者」を自称する者が無許可の撮影を始めているようだ。

 了は動画配信者界隈には明るくないが、令和を生きるものとして、まあ最低限度の知識は有しているつもりだ。彼ら彼女らのほとんどが無害有益な情報提供者、あるいはエンターテイナーであるという認識で間違っているまいが、中にはPV数を稼ぐために違法スレスレな行為をしたり、人に不快な思いをさせたり、差別をしたり……、といった者もいて、しばしば問題となっている。

 迷惑系……、なんて名前で呼ばれていることは、了も知っていた。

 そうした人たちはPV数と、その先にある収益のためならば手段を選ばない。過激で、時に差別的な言動を行うとPVが伸びるらしいという話を小耳に挟んだとき、人間の本質に差別意識があって、ゆえにこそそうしたコンテンツが栄えてしまうのだとと暗澹た気持ちになったものである。追い討ちをかけるように、そうした人々の中に政治の世界でも商売をしようとする者もいるそうで、そうした人々自身はもちろん、周りももっと地に足をつけて生きよ、なんて柄にもなくかっちりしたことを言いそうになってしまった了である。

 ゴンザレスさんのことは皐醒が止めてくれたからいいようなものの、この様子ではいったいどこでどんな人間が勝手な「配信」しているかわかったものではない。恐るべきは、ひとまず「(無許可ではあるが)撮影をしているだけ(・・)」と主張する彼らに対し、ゴンザレスさんの他にもゲイの中に喧嘩っ早い者は、一般的な男性同様一定数いてしまうものなので、そうした人がトラブルの火をより大きなものにしてしまわないかどうか。

「中寉」

 声がして振り返ったところ、了の大好きな大好きなマスターこと上之原承、自身のスマートフォンを持って、顔を顰めている。

「えらいことになってるぞ」

 今朝まで倉庫掃除で出たアレルギーであっちが痒いこっちが痒いとのたうち回っていたけれどすっかり快復した彼は、今日から通常通り営業しているのだが、店に立ちシェイカーを触れるようになった矢先にこんな目に遭うのだから、全くもって呪わしい気持ちでいることを隠しもしない。マスターが見せてくれたのは、SNS上でいわゆる「迷惑系」という冠を持つ人々が相次いで「宿木橋到着」「いまから宿木橋へ」「これから宿木橋で緊急で動画回します」といったつぶやきを放流しているところ、そして、これまでも同じぐらいに迷惑な配信をしていた彼らがこの数時間で急に、「この国の治安を乱しているのはLGBTの人々! 彼らの主張はいつも非生産的で、一般国民である我々に負担を強いて平然としている」「弱者だと主張する彼らが、実は重大な利権の持ち主であることは明らか」「憲政党の砂子はLGBT支援団体から献金を得ている」……などといった荒唐無稽な主張を異口からせーので放っているところ。

「砂子先輩が献金を得ているなんて、そんなばかな」

 唖然とした了に、

「デマに決まっているだろう。……しかし、こうしたものは言ったそばから拡散していく。真偽を精査することもなく、悪意のない指先一つで撒き散らして、真相が明らかになったとしても認識が修正されることなんて稀だ」

 去年、「『デマによって失職した可哀想な公職者』というデマ」によって踊らされた有権者がその公職者を続く選挙で再び当選させてしまって、現在まで続く騒動になっているのは記憶に新しい。デマを拡散した人は責任を感じて訂正するのが本来であろうと了は思うのだが、ムキになって「あれがデマだと言うのをデマだと言うほうがデマだ」と叫び続けることを選ぶ人のほうが多いようである。またデマの火元はといえば、「いつまでそんなこと言ってるの」とでも言いたげに、さらりふわりと身を交わすのがとても上手なのだ。

 いま恐るべきは、この街の誰かが挑発に乗って何らかの、暴力的な対応をしてしまうことである。

 動画配信者からゴンザレスさんを引き剥がした皐醒が、自分よりもずっと大柄なゴンザレスさんに向かって、珍しくドスの聴いた声で諭している。

「いーい? ゴンさん、どんなに腹立っても手ぇ上げたら負けだよ、ゴンさんが悪いってことになっちゃう。ゴンさんが悪いってなったら? あいつらきっと、この街のみんなが悪いって決めつけるよ」

 小柄な皐醒が大男であるゴンさんに抱きついて宥める。なお、了に「小柄」と表現されたことをしったら皐醒は相当に気分を害するはずである。だって皐醒のほうが十センチも大きいのであるからして。ゴンさんはフーフーと肩で息をしたすえに、どうにかこうにか感情を飼い慣らし、「いーい? だいじょぶ? 暴力は差別とおんなじぐらいダメなことだからね?」と皐醒が肩を抱いて問う言葉に、一つひとつ、深く頷いた。

「……すまねぇ、もう大丈夫だ。……けど、血の気が多いのは俺だけじゃあねえぞ、他の連中も……」

 ゴンさんがそこまで言ったタイミングであった。

「いーい加減にしなさいよアンタたちぃッ」

 通りを駆け抜ける、お腹の底から突き上げるような、ドスの効いた怒鳴り声! 言うまでもなくそれは、ミツルママのものである。マスターが「あのバカ……」と舌打ちをして駆け出す。ミツルママは可愛らしい人、そして寛大で懐深く、何より情に篤い人だけれど、それだけにこの街の平穏を見出す者に対しては誰より厳しい対応をする。その熱い正義の心に救われたことがあるのは了だけではない、が、今夜に限っては、大変危険である。

「了、ねえ了、なにこれ、なにがあったの」

 不安そうに天沢有華が顔を覗かせた。午後十時が近付き、高校生はそろそろ帰らなければいけない時間である。「緑の兎」は特別なイベントや貸切パーティーの日でない限りは、ゲイバーながら静かでオーセンティックな雰囲気を売りにしている、……実際、さっきの生江さんは当初、毎週金曜に来ては、カウンターで文庫本を読み耽って時間を過ごしていたぐらいで、カウンターの隅っこで了や白湯川さんが受験生の家庭教師をしてあげることにも何ら問題はなく、ゲイタウンは場違いな女子高生であるが、彼女の受験が上手くいくことを、店に来る誰もが祈っているのだ。白湯川さんは今夜、ミツルママの店「さよならメルセデス。」で働いているので、彼女の勉強は了が見ていた。

 女子高生である彼女は、街を彷徨(うろつ)く悪意の配信者たちには格好のターゲットとなるだろう。了は慌てて彼女を連れて店に入る。皐醒とマスターはゴンさんと一緒にミツルママを止めに行ったようだ。店内のお客さんたちも、もう街の異変に気付いて、一様に不安そうな表情を浮かべている。

 全く、このままではせっかくの金曜の夜が台無しになってしまう……。

「先ほど、マスターが言っていました。彼らは迷惑系配信者で、騒擾を惹起しようとしている……。そうすることで、この街に集う人々、この街に働く僕らのような者を理想的な敵に仕立て上げて、街の外から攻撃させて、潰滅に導こうという魂胆なのでしょう」

 トミチューでのゲリラライブ、後輩さんを救うための作戦は成功し、隣町の櫻木山会館はすっかり寂れたそうである。また、トミチューキッズたちに「ヴェル・デ・ラ・ビット」は人気者となった。薬物のオーバードーズなどよりも、「ヴェル・デ」の音楽を浴びたほうがよっぽど健康的にご機嫌になれることに、少年少女たちは気付いてくれたようだ。

 しかるに。

 大日氣弥益の人々はただでさえ同性愛者を「ヒセーサンシャ」と強い差別の対象としている。そこへ、自業自得であろうと活動の妨害を行ったのが宿木橋界隈の人間であり、主導的立場であった赤目先輩もまたこの街に根を生やした探偵である。逆恨みもいいところであるが、手段を選ばぬ反撃に出てきたらしい。

「窮屈かもしれませんが、君は、そしてお客さまたちは、外が落ち着きますまで、こちらにいらしてください」

「了は、どうすんの」

「僕は知り合いの店の様子を見てきます。ミツルママが落ち着けば、マスターや皐醒とも合流出来るでしょう。事態を早期に鎮静化させなければ……」

 了の言葉が終わらないうちに、ドアの外でガラスの割れる音が聴こえて来た。有華が小さく悲鳴を上げる。

「みなさん、有華をよろしくお願いします」

 意を決して表に出る。ほんの数分で自体は一層悪化していた。無許可の撮影でプライバシーを侵害されたとして、配信者を取り囲んでいる宿木橋の酔客たち、対して、執念深くカメラを回し、なんなら殴られたら報酬でも出るのではないかと勘繰りたくなるような挑発的な発言を繰り返す配信者、マスターや皐醒の姿は見えない。街のあちこちから怒号が聴こえる。

 中寉了が宿木橋にやって来て、親愛なるマスターと出会ったのはまだこの世界がウィルス禍に見舞われる前だった。

 だから、もうかれこれ五年になろうとしている。その中で、最低最悪の事態が目の前で起こっている。

 どうにかしなくては。

 震えそうになる膝を叱咤して駆け出しながら、スマートフォンに耳を当てる。昨晩は、マスターが体調を崩していたせいで、「ヴェル・デ」の仲間たちが一人寂しく夜を過ごす了を慰める会を催してくれたのであるが、了の悪癖でマスターのいないところで酒を飲むとマスター恋しさから非常に面倒くさい酔いかたをしてしまった。尚且つ眠って起きて素面に戻ると自分がどんなことを言ったのか全部覚えているという厄介な性情をしているので、これから電話を掛けようとする赤目先輩と会話をするのは、普段であれば「やめときます」となるのだろうけれど。

「先輩!」

 ボーカルをやるときの声の出しかた、謝罪の言葉も省略し、了は必要なことだけを言い切る。ヴェルデグリーン氏にも伝えるよう言われたが、先刻承知である。了が走って向かっているのは、宿木橋界隈を統べる王ロッツェ・ヴェルデグリーン氏の住処のある雑居ビルの屋上のペントハウス。屋上の鍵は、宿木橋でもごく限られたメンバーしか持っていなくて、了はそのうちの一人である。運動神経がなくて筋力がなくて体力もなくて、腕立て伏せなんて一回も出来ないのが了ではあるのだけれど、ことこの状況にあっては我が身よりもこの街の平和が可愛い。屋上のドアを開けたときには、ほとんどもう声も出せない、ひゅーひゅーと死にそうな細い息を喘ぐように搾り出すのみであったが、

「……大丈夫?」

 ヴェルデグリーン氏と彼のパートナーであり了のバンド仲間である蕭凱龍さんが、コンクリートに顔から落ちる前に抱き支えてくれた。凱龍さんが中国語で短く何か言う。

「うん、そうだね。……了のお店も、金曜はかきいれどきなのにねぇ、迷惑な話だよ。せっかくウイルス落ち着いて、みんなが楽しく外呑みしてくれるようになって、街にも活気が戻ってきたっていうのにさ、あんなカルトの連中のおかげでぶち壊しになるなんて冗談じゃないよね」

 屋上は冷たい風が強く吹いていた。地上から、ガヤガヤと人々の声が混じり合って浮遊している。ミツルママがお腹から出す声は、この高さでもはっきり聴き分けられるのだった。

「ゔぇひゅ……っ、んぅ、うぇ」

「吐かないでね」

「……んぐ。……どう、……どう、なさる、おつもり、ですか……、オーナー……」

 ヴェルデグリーン氏は、よしよし、と了の髪を撫でてくれてから、緑色のフェンスに寄った。

「そりゃあ……、ねぇ、どうにかしなきゃなんないよ。だってここは、みんなの街だもの。俺はご覧の通り、よそから来てこの街のあちこちを買わせてもらっただけの商売人だけどさ、買った以上は、ここで暮らしてるお前やお前の大好きな承に、ミツルや、みんなに、責任を持ってるつもりだから。ここが小さな国なら、全員がくまなく健やかで幸せでいて欲しいって願うんだよね。それってさ、王様の仕事じゃん?」

 不遜、と受け取ることだって可能なもの言いではある。自己紹介の通り、ロッツェ・ヴェルデグリーンは外国人であり、よそから適当な街を、ビルを、一つのエリアまとめて買い上げて、そこを支配する者である。平和的なマフィア、あるいは屍肉を貪らないハゲタカ、……何と呼ばれる人であろうと、了はこの人を信頼している。それは、この人が「王」だとすれば、国民に幸福が行き届いていることを確認した上でなければ君臨する気の起きない人であると思うからだ。

 この人が宿木橋に来てから、各店舗が必要経費として泣く泣く支払っていたみかじめ料はすっぱりゼロになったそうだし、ウイルス禍で苦しくなった店は、一旦閉じさせて、代わりに自身のビルで別な仕事をさせることで暮らしを繋いだ。「緑の兎」がランチのお弁当営業を始めたのは「お前ごはん作るのすごい上手だって承が褒めてたから」というヴェルデグリーン氏のすすめであったし、弁当売りを始めてからはしょっちゅう凱龍さんを買いに走らせてくれた。

「あの探偵には?」

「連絡、しました。あの人はあの人で、オーナーに急ぎ伝えるようにと。飛び道具がいる、と言っていました」

「飛び道具ね……。まあ、飛び道具、そうなぁ……」

 物騒な言葉選びであるが、実際にそういったものが出てくるとは思わない。前にこの街を支配していた人々、高額なみかじめ料を納めない店に自由な営業を許さなかった人々は、そういうものもお持ちだったのかもしれないが。

「皐醒はまだ下か。結人は?」

 了はびっしょりかいた汗を手のひらで拭いて、「金曜日なので、皐醒を迎えに十時過ぎには着くはずです」と答えた。

「あいつギター持って来てるかな」

「お店に置いてあります。練習用のですけど」

「皐醒のキーボードもあるよね? よし、じゃー、お前たちには思いっきり『飛んで』もらうよ。結人に、着いたら皐醒と一緒に楽器持ってここ来るよう伝えといてよ。三十分後ぐらいには始められるかな、……どう? 三十分あったら呼吸整う?」

 まだ心臓はばくばくしているし、恐らく目元の赤みも薄くなって、普通の人の顔になっているはずであるが、了は頷いて言った。

「三十分も頂けるならば……、きっと、ぎりぎり大丈夫だと思います」

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