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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
先輩にも、後輩くんにも判らない。
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永遠の微睡の中

 赤州神戸。

 赤州最大の都市であり、新幹線の駅がある。もっとも、通過駅設定がある種別からはいの一番で弾かれるのだが。

 後輩くんも先輩も「私学文系の雄」と言われる九隅文科大学の文学部に所属しているので、赤州と言えば対句のように「『山里千歌集』の鳥部野弥兵衛」という言葉が出てくるのである。なお中寉さんはもうだいぶ長く九隅大生をやっているはずなのに、「へー、そうなんですか」ぐらいのリアクションであった。

 このほかは、地元でだけ食べられているうどんがちょっと名物であるぐらい、たいして見るべきものはない。どこにでもある地方都市である。

 ただ、呉暮町から戻ってくると、なんだかものすごい都会に来たような感覚に陥ってしまう。逆に、この町に生まれ育って呉暮町の魚屋さんに嫁いだ後輩くんのお母さんであるところの美代子さんは、ギャップの大きさにだいぶ戸惑ったのではないか。後輩くんはお母さんが、月に一度は実家のあるこちらへ帰っていたことを思い出す。今思い返すと、およめさんってそんな頻繁に結構離れたところの実家に帰るものなのかという気はするのだ。こころみに先輩に聴いてみたら、先輩のお母さんのご実家は都心から私鉄で四十五分の浅川にあるのだそうだが、「私が小学生のころは春休みと夏休みと冬休みに行っていたよ。まあ、距離が近いからね」ということで、そう考えると都心~浅川間よりはるかに遠い赤州神戸~呉暮町を月に一度は行き来していたというのは、手間が大きい。

「後輩くんのお父さまは、そのことに疑問を抱くことはなかったのかな」

 先輩はお昼ごはんを食べに入ったお店で「赤州うどん」を、後輩くんが「そんないいもんじゃないですよ」と止めたのに頼んで、出てきた、うどんに油揚げが乗っただけのもの(この地方では、そういううどんのことをわざわざ「赤州うどん」と呼ぶのである)を不満げに平らげたあとで訊いた。

「ありませんでした」

「後輩くんが誘われて一緒に行ったりとかは?」

「誘われなかったので、家にいました。言っても、祖父母とはあんまり親しくありませんでしたし、その、お小遣いもらえるわけでもないですから……」

 お父さんが、パートナーが頻繁に実家に帰ることへ寛大だったのは、まず間違いなく「いいとこのお嬢さんを嫁にもらってしまった」ことへの引け目だろうと想像する。大都会である赤州神戸から嫁いできた人には呉暮町は退屈であろうし、共通の話題を持つ人も少ない。であるならば、実家のある街に頻繁に帰ることにいちいち気を立たせる必要もあるまいという判断をしていたのだろう。

「……私は、誰かと夫婦になったことがないので判らないのだけど……」

 サービスで出てきたコーヒーがやけに美味しい。そのおかげか、先輩のごきげんが少し治った気配だ。

「愛し合って結ばれたものであって欲しい、なんて幻想を抱いてしまう。あるいは、きっかけがそうでなかったとしても、一つの家庭を守っていくプロセスの中で、相互扶助の精神が養われて、結果的にはかけがえのない関係となったらいい、なんてね。でも……」

「父は、母を愛していたと思います。彼があれほど情けなく落ちぶれてしまったのは、……今ようやく腹を据えて未来へ歩み始めたことは、もちろん理解していますけど、ああなってしまったのは、大事な店を失っただけでなく、あるいはそれ以上に、愛していた人に酷い目に遭わされたから、というのはあると思います」

 お父さんがお母さんを思うほど、お母さんはお父さんを思っていなかった、ということだろう。

 夫婦というのは、綺麗事だけでは済まない。くだらないトラブルは絶えず起こるだろう、夫婦というかパートナーは「不快な隣人である」なんて考えかたもあるようだ。自分と先輩もいつかそうなってしまったらどうしよう、なんてことを想像してすぐ、後輩くんはさも当然のように先輩と過ごす十年後二十年後を現実のものとして捉えている自分に気が付いて、恥ずかしくなった。

「しかし……」

 先輩はここでちょっと考えに沈んだ。珈琲を一口啜って、「ほんとに珈琲は美味しいな……」と少し悔しげに呟く。珈琲は、探偵をやる前にはきちんとしたお店でアルバイトをしていたぐらいで、鋭い味覚を発揮する先輩なのだ。

「……昨日の夜の後輩くんの話を思い返してみるに……」

 そこまで言って、先輩は首を振った。

「なんでもない。……そろそろ行こう、寿羅くんと待ち合わせの時間が迫っている」

 このあとに後輩くんはお母さんとの騙し討ち面会を控えているのであるが、そこには寿羅くんが同席することになっている。

 というか、「同席」ではなくて、「寿羅くんがお母さんとお話ししているところに偶然遭遇する」というテイで行こう、ということに、今朝、なったのである。

 これは、

「自分、やっぱり嘘つくのはしんどいっす」

 という寿羅くんの思いと、彼女に嘘をつかせることが後々まで引き摺る厄介ごとに繋がってしまっては困るという後輩くんの願いの一致するところであり、今朝、後輩くんははっきり硬い声をしていた寿羅くんにたくさん「ごめんね」と「ありがとう」を言って、最終的には、

「先輩がつらいのは、自分も嫌なんで。……自分のすることで先輩がちょっとでも幸せになれるんなら、協力したいっす」

 という意味の言葉を(赤州弁で)聴かせてくれるに至った。

 寿羅くんが後輩くんのお母さん、現状はまだ「神楽坂美代子さん」である人との待ち合わせに指定したのは、前夜も言われていた通り、「喫茶室ル・ボン」である。

 場所は二人がごはんを食べた店の、ちょうど反対側。

「後輩くんはこのお店に行ったことがあるのかな」

 いいえ、と後輩くんは首を振った。実のところ、呉暮町に住んでいる人間にとっては東京と赤州神戸にそう大きな違いはない、どっちも「遠い都会」なのであって、休みの日にぷらっと来て歩き回るようなことはしないのだ。

「中学までは父の車で来たことがあっただけで、……高校に上がってからですね、友達と何度か来ました、参考書とか買うために」

「ははぁ……」

 真面目でおとなしい後輩くんであった。

 名前からすると「ル・ボン」は欧風の格調高い喫茶店のようである。

 駅のコンコースを南から北へ抜けつつ、少しずつ高まる緊張に、深呼吸。

「それにしても、寿羅くんの側から場所を設けると言い出したことには少し驚いた。でも確かに、あちらに指定されてしまうと、あちらのホームグラウンドということになる」

「僕が来るなんてことは全然想像していないでしょうから、油断もあるんでしょうね。あと、彼女いちおうこっちでは有名人ですから」

「なるほど、仮に大々的に広告塔として使えれば、呉暮町のように一気に信徒を獲得できるかもしれない。そう考えれば、譲歩はするか。……ん、ここかな?」

 想像していた感じの建物ではなかった。「ル・ボン」という看板を掲げているのは駅を出て向かいの、背の低いビルであって、そこの二階のようだ。パッと見た感じ、まあ、古ぼけた雑居ビルである。宗教施設を前にするとたじろいでしまう後輩くんだが、雑居ビルにもそうそう入らない。ただ、先輩が勤めている探偵事務所がちょうどこんな感じのビルなので、免疫はある。

「では」

 後輩くんはもちろん、先輩も「面」が割れている可能性がある。あらかじめ後輩くんは「話し合いの場には一人で行きます」と言ってあったし、先輩も渋ったけれど同意してくれた。代わりに私、見えるところから目を光らせているからねと言って。あんまりピカピカ光らせると目立ってしまいそうなのだが。

 後輩くんはあくまで、この喫茶店で珈琲を一杯飲むために立ち寄っただけ、そうしたら偶然、後輩であるところの寿羅くんとお母さんが何やら話し合っているところに遭遇して、……あとはまあ、一悶着、なんてことにはならないで収まればいいのだけれど。

 もう母親は来ているだろうか。

「行ってきます」

 頷いた先輩が、手をぎゅっと握ってくれた。

「大丈夫だよ、私がついている」

 すぐ近くにいるわけではなくとも、一番信頼できる人の言葉は、それだけで後輩くんに勇気を与えてくれた。

 背筋を伸ばして収まった狭いエレベーターの箱で二階に上がり、灰色主体の寒々しい廊下に、ちょっと場違いな感じの重厚さで木のドアがはまっている。

 深呼吸を一つして、扉を開けた。

 カランカラン……、とドアベルが鳴るなり、

「……お帰りなさいませ」

 長身のお兄さんが、スッ……、と後輩くんの前にやってきて、深々と首を垂れた。

 店を間違えた、と思って後退り、廊下に出るが、間違いなく「ル・ボン」の看板が出ている。

「あっ、えっ、あの、これっ、どっ……」

 廊下とは全く趣の違う白基調の店内は意外なほど広い。雑居ビルの中であるということを考えると、ちょっと異空間である。

 戸惑っている後輩くんに、顔を上げた青年はにこっと微笑む。スポーツをやっていたに違いない、しっかりとした体格が、蝶ネクタイを添えた白いワイシャツの向こうからはっきり伺える。

「神楽坂先輩でいらっしゃいますね」

「はぇ」

 こんな美青年の知り合いはいない。

 いや、美青年の知り合いがいっぱいいる後輩くんなのだった。

 中寉さんは年上の人に失礼と指摘されそうだが「美少年」の枠であるが、蒔田さんや上之原さんといったあたりは間違いなく美青年だ、東英大学の寺前さんもそう。世の中には美しい男の人がたくさんいるものだと感心させられる……。

「寿羅がいつもお世話になっております」

「へ……?」

「私も、あなたの『後輩』なのですが」

 後輩くんの顔に、驚きが広がっていくのを彼はにこやかに見ていた。

 この人が、寿羅くんのパートナーなのだ。

 ということは、中学時代のサッカー部の、一個上の先輩。

「あちらの、窓際のお席です」

 寿羅くんの彼氏くんの手のひらが示した先、こちらから顔の見える角度に座った寿羅くんがいる。

 そして彼女と向かい合って、……黒髪を思い切ったショートヘアにした女性が、角刈りの男性を伴って、いた。後輩くんの記憶では後輩くんのお母さんは肩までの髪を、月に一度、この赤州神戸に来るたびに整えて、大事にしていたのだけど。

 先日、廣川に見せられたタブレットの中のお母さんはもう少し髪が長かった。あの動画を「収録」したあとに切ったのだろう、ばっさりと。

 寿羅くんが、先輩であるところの後輩くんに気が付いた。

 その視線を追って、お母さんが振り向く。

 窓の外では曇り空の地方都市が、当たり前の日常を過ごしている。いま、西に向かう新幹線が空にきぃいんと甲高い音を響かせて走り抜けて行った。その音に驚いたのか、バスロータリーにたむろしていた鳩が、一斉に飛び立つ。

 母と子の視線がぶつかった。

「やあやあ先輩、奇遇ですね、お久しぶりです」

 寿羅くん、ボートに乗るのは上手い、いや、上手くなってきつつあるのだが、演技は全くの大根であった。

 しかも、見たところここはいわゆるコンカフェ、「執事喫茶」である。

 彼女にこうした趣味があったことについてはノーコメントであるが、後輩くんがふらりと一人でこんなところに入るはずもない。そして、大日氣弥益の人々と広告についての話をするに相応しい場所でもない気がする。

 それはそれとして、だ。

 大学進学を機に上京し、家を出て、約十ヶ月ぶりに母親と顔を合わせて、自分の中に渦巻いた感情を、後輩くんは言葉で説明できる自信がちっともなかった。

 懐かしい、とは思わない。それほどの時間が流れたわけではないのだ。

 でも、愛情、あるいは愛着とでも呼ぶべきものが、当然のようにまず湧いてきたことには、少なからず驚いた。さっきまで、この女性に対してそんな気持ちを催すはずがないと信じ切っていたものだから、少なからずびっくりしたし、戸惑いもした。

 自分の母親である。

 この女性がいなければ、自分がここに存在することはない……、という事実が、鎖のように喉へ食い込む。きっとこれは、理屈ではない。本能のようなものだろう。親に対して子というものは、常に心を人質に取られているに等しいのだという事実を今更のように突き付けられる。自身の生きてきた二十年の大半、いや、ほとんど全てと言っていい時間は、彼女と共に在ったのだ。

 そうした人間と繋がる意図を、当人の目の前で切断することが出来るのか。

 後輩くん、……神楽坂美代子さんの息子である神楽坂縁樹くんのコートのポケットには、お父さんから託された離婚届があった。神楽坂武史さんと美代子さんは夫婦であって、血の繋がりはない。だからこそ、その無形の糸は書類によって切断することが出来る。届出用紙の薄紙の縁は鋭利な刃物となって、まるで最初から武史さんと美代子さんの間には何もなかったかのように二つに分けてしまうだろう。

 幸か不幸か、二人の間に生まれたこどもである縁樹くんはそうではない。どこまで行っても縁樹くんは、美代子さんと武史さんのたった一人のこどもであり、二人の血の染み込んだ糸で編まれた身体で心を包んで生きている。

 この糸を切る行為は、自分の半身を切断するに等しいものだと、今更のように後輩くんは気付いて、立ち尽くした。

 お母さんは、なにやらきょとんとした顔でいた。自分のこどもである縁樹くんがこんなところにいるはずがないのに、出来事を、あるがままに受け止めている。いっそ自然なことであるとすら思っているみたいに。だって、二人は母と子なのだ、一緒にいるのが当たり前の二人なのだ。二十年の人生の大半を一緒に過ごしてきた人を、自分だけは無傷で切り捨てられるなどと思っていた自らをの甘さに、縁樹くんはこのとき初めて気が付いた。

 喘ぐように、

「なぜ」

 神楽坂縁樹くんは、……神楽坂美代子さんから産まれてきた命は、やっとのことで言葉を紡いだ。

「……家を、見てきた。なぜ、あんなことになっているんだ。父さんの、店、……僕らの家、どこにやってしまったんだ、あなた(・・・)は」

 母さん、と呼んだ瞬間、自分の心の背骨が折れてしまう気がして、……だからと言って、そういう他者に向けて用いる呼称を選ぶことには、相当な勇気が要ったのだった。

 お母さんは、縁樹くんの中にあるものになどまるで頓着することなく、

「元気でやっているの」

 うっすらと微笑みさえ浮かべて、こう言って、更に付け加えた。

「少し痩せたみたい」

 後になって、後輩くんは振り返る。

 もしこのとき、何か違う言葉を掛けられていたなら、僕、腹を決めることは出来なかったかもしれないです。

 自分がこの人のこどもとしてしか居られないって信じ込んでしまっていたかもしれません。他の、どんな言葉であっても、彼女は僕を取り戻すことが出来たのに、その言葉だけはきっと、言ってはいけなかった。

 僕が元気で居たはずがないでしょ。

 僕が痩せたとしたら、責任の所在ははっきりしてるでしょ。

 僕がこうして今、痩せていようが、元気やっていられるとしたら、それは。

 目の前の女性に依拠して立っている足元が、すぽんと抜けたように錯覚したと後輩くんは言う。世界と自分とを繋ぐ糸が、無意識のうちにその糸を掴んでいた右手ごとばっさりと切り落とされて、底のない闇へと落っこちていくような……。

「旦那さま(・・・・)」

 優しい声がして我に返った。後輩くんの右肘にそっと触れて、肩の高さから包むような声。

 後輩くんは世界に立ち返り、声の主を見た瞬間「ンンっ……」と稲妻に貫かれたような呻き声を発した。というのは、そこにいた、ワイシャツ姿に蝶ネクタイ、ヘアピンでいつも下ろしている前髪をあげて白いおでこを見せた人、ファルヴィニッヒ王子様でいるときにもその男らしい格好よさと美しさに痺れたものであるが、あのときに匹敵する衝撃。

 いつの間にその衣装を用意したのか、……いや、寿羅くんの彼氏さんに協力してもらったに違いないが、執事と化した先輩。

「どうぞ、お座りください。旦那さまのためのハーブティーをご用意いたしましょう」

 こんなに可愛らしい執事がいるものか!

 先輩が非現実的であればあるほど、後輩くんはこの世界で生きていく自信が湧いてくる。一人ではない、独りになど、決してなれるはずがないと先輩が教えてくれる。縁樹くんは急速なスピードで「後輩くん」に戻りつつ、先輩の手に導かれてお母さんたちと少しだけ離れたソファに導かれる。寿羅くんは「先輩の先輩さん」の振る舞いに唖然としていた。先輩の正体を知らないお母さんはこれといったリアクションもない、その向こう、教団関係者と思しき人物は、東京地区櫻木山会館に打撃を与えた謎の探偵の情報を有していたのだろう、何やら手元のスマートフォンと、先輩の入っていったキッチンとを何度も見比べてから、早口で隣のお母さんになにごとか囁いた。

「まあ」

 というような声を、お母さんが上げたとき、既にスタンバイされていたのだろう、お茶を淹れるにしては短い時間だけを挟んだ先輩が戻ってきた。

「お待たせいたしました。これを飲んで、……リラックスしたまえよ、私の可愛い後輩くん」

「ぴゃっ」

「ヒャッ」

 いまの二つの声は、先輩の唇を頬に当てられた後輩くんと、それを目撃した寿羅くんのリアクションである。

 お母さんはずっと浮かべていた笑顔を消した。教団の角刈り男ははっきり顔を顰めた。

 なぜって、神楽坂縁樹くんの性別は当然把握している一方で、先輩の性別はパッと見では判らないにしても、二人が同性同士に見える可能性が半分ほどあるからだ。先輩はどっちか判らない、そして後輩くんも、実は初対面だとどっちか判らないらしい(後輩くんは疑わしいが、少なくとも中寉さんは先輩に「あの人どっちですか」と訊いたそうである)ので、男同士なのか女同士なのか、異性カップルなのか、そうだとしてどっちが女なのか男なのか瞬時の判断は下せず、結果として同性愛者を差別する人々としては、とりあえず差別をするほうにベットする癖がついているようなのだ。

 先輩の身体の性別を把握してもなお、後輩くんは先輩がどっちでもいいと思っているし、本気でどっちか判らないときがある、……いまもそうだ。可愛い女の子が凛々しく男装しているように見える、一方で、きちんと格好いい男の子が、育ちの良さを姿勢で表現しているだけにも見える。どちらであれ、好き、好き、好きが止まらなくなってしまうのが、先輩を見るときの後輩くんなのだ。

「どうも、はじめまして。神楽坂縁樹くんの先輩をやっています、赤目と申します」

 丁寧に、先輩は頭を下げた。真剣師「赤目の土竜」こと赤目燈流さんのお孫さん、でもって、赤目燈流さんは先輩の父方のお祖父さんで、先輩のご両親はいまも仲良くお二人で暮らしているそうなので、先輩にも苗字は受け継がれている。中寉さんと蒔田さんは「ぴったりの苗字もあったものです」「目ぇ赤いもんね」なんて言う。充血しているのではなく、瞳が少し赤みがかっているのが先輩で、その目に鼻の触れそうな距離で見詰められるのが、後輩くんの特権である。

「そして、……そちらのかた。ええ、あなた。ご存知でしょうね、そちらのみなさんの、東京地区櫻木山会館において、活動の妨害をさせていただいたのが、この私です。もっとも、私の後輩くんであるところの神楽坂くんに対しての著しい人権侵害があったことが認められましたので、已むを得ずの対処をさせていただいたにすぎませんが」

 穏やかな口調で、先輩はいる。相手に対して丁寧な言葉を選び、姿勢も正しく、きちんとした社会人であることをことさら強調しなくとも、相手に理解させるものである。

 こういう人は厄介だ。やがて就職活動というものをしなければならず、想像するだけできゅっと胃の縮こまるような気持ちになる後輩くんは思った。だって、態度を間違ったならたちまち、自分のほうが社会において成熟した人間ではないと見做されてしまうことになるから。

 お母さんは、どうか知らない、……家を差し出して「呉暮町会館」にしてしまったぐらいだから、見返りとして相応の立場を得ているのかもしれない(そもそも、それを「賞賛」と解釈する思考回路の持ち主であればこそ、そうしたことが出来たのだ)が、もう一人の、まだ名も知らぬ教団関係者の男性はどうであろうか。

「……赤青二州地区長の、萩元と、……いいます」

 赤青二州は、赤州と青州、峠を挟んで並ぶ二つの地域を合わせた呼び名だ。文化も方言もずいぶん異なるのだが、隣り合っているもので他地方からは一緒くたにされがちだ。萩元氏は先輩に応じて少し顎を引き、ひとまずは礼儀正しく対応するという判断を下したようだ。

 後輩くんはカモミールティーを啜って、冷静さを取り戻していた。

 僕はこの人と一緒に生きていくのだ、という当たり前のことに、改めて気付いたのである。

 よく言われている通り、過去のことは、自分以外のことは、どうすることも出来ない。つまり、二十年という過去、お母さんと一緒に生きてきたことを、後輩くんは変えることは出来ない。またその過去によって醸成されたお母さんへの親愛の念が消し難いことも事実ではあるが、今夜のこと、明日のこと、明後日のことに目を向けたなら。

 そこには先輩がいる。

「東京地区の長であった廣川氏は、将棋の真剣勝負で私に敗れたにも関わらず、私たちから手を引くという約束を反故にして、後輩くんを拉致監禁するという暴挙に出ました。そのことをご認識ですか」

 寿羅くんには、まだ後輩くんがそうした目に遭ったという話はしていなかった。彼女は「えっ」と声を上げて、神楽坂母子を交互に見る。

「その際、後輩くんを入信させるためにこちらの、後輩くんのお母さまを使ってフェイク動画を作ったとのことでした。萩元さん、あなたがそのことを知らないとは思われませんが、いかがでしょう」

 後輩くんは萩元氏を見ていて、……確信めいたものが浮かんできた。動画の中でお母さんを恫喝していたのは、この人物だ。

「そんなことしてたんすか……、マジか……」

 寿羅くんは顔を引き攣らせて、「ねー、ちょっと、ユーゴくん」と声を上げる。彼氏はユーゴくんという名前だったらしい。洗いものをしていたのか、濡れた手をタオルで拭きながら「ご用でしょうか、お嬢さま」とまだ執事然としてやってくる。

「ワーがやっからり宗教やめるー、攫われすんがの怖いもん」

 対外的には標準語も喋れるのに、彼氏には赤州弁丸出しになるのが、心の距離の近さで微笑ましい。ユーゴくんは「おーがじゃ、ときめときゃ」と一つ歳下の後輩彼女にうんうん頷いた。他地方の人には難解な方言であるが、先輩にも萩元氏にも大意は伝わったと見える。

「また邪魔をするのか、あんたは」

 あっさりと礼儀を脱ぎ捨てた萩元氏は、鼻の穴を広げて不満の熱風を噴き出した。

「もういい加減にしてくれ。あんた一人のせいで、どれだけこっちが迷惑してるかわからんのかな!」

 先輩が、にまぁ……、と珍しいぐらいに喜びを全面的に表現する。

「ほう……、迷惑。迷惑。迷惑にお感じになられていらっしゃるのですね、それはそれは……、それはそれは……」

 先輩の内面に、少なからずサディストなところがあることを、後輩くんは知っている。将棋を通してもそれは見え隠れするけれど、相手が後輩くんであるものだから、滅多なことではそれを発露させることはしないのだが、そんな笑みをいつも隠しているのかもしれない。

「結構」

 声も言葉も表情も、いつも抑制が効いていて、例外は後輩くんと二人だけの、ごく限られた時間、……それは一つのバスタブやお布団をシェアしているときだけだと思っていたので、理由はどうあれ先輩の隠しておきたい素顔が自分以外の誰かに向けて発露されることには、ほんのりと嫉妬してしまいそうになった後輩くんだった。

「とても結構。あなたがたの活動の妨げになることこそが僕の願うところですから。……おや? どうしてかお分かりになりませんか? 萩元さん、それから……、縁樹くんのお母さま。寿羅くんはどうかな。とても簡単なことなのだけど」

 緩やかに首を傾げる。寿羅くんと差がないぐらいに小柄である先輩なのに、その無邪気な振る舞いを前に、誰も身動きが取れない。いや、ただ一人、神楽坂美代子さんだけは、ぼんやりと、事態を飲み込めていないようにも見える。

「あなたがたが、私の大切な人の幸福の妨げになっているからですよ」

 先輩の声は、あくまで静かで、甘ったるささえあった。表情をそっと伺う、……普段の先輩を知らない寿羅くんや、萩元氏やお母さんは気付かないはずだが、後輩くんは瞬間的に理解した。

 先輩は激怒している。

 表情にはほとんど出していないのだが、その瞳の奥で、思いが、ぐらぐらと煮立っているのが覗けた。

「神楽坂美代子さん。あなたが結婚後もたびたびこの街に足を運んでいた理由は、こちらの萩元さんですか、それとも、他のどなたかでしょうか」

 後輩くんは予期していなかった問いに、声を上げられなかった。寿羅くんが「えっ」という、だいぶ嫌悪感の混入した声で、テーブルの向かいに座る二人を見る。

「どう、どういうことすか、先輩、お父さん、いるんすよね。この人が先輩のお母さんで」

 という、動揺した言葉は赤州弁ではなく標準語。恐らく混乱しているせいで誰にどっちで話すべきか判らなくなってしまったようなのだ。

 萩元氏が、何か言う。名誉を傷つけられたの何のというような、しかし、はっきりとした動揺を隠せない声の震えが、後輩くんにはまだ受け止められないなにごとかの存在を、嫌と言うほど突きつけてくる。

 後輩くんは呆然とお母さんを見ていた。

 お母さんはそのとき、初めて生々しいリアクションを示していた。すなわち、……後輩くんから目を逸らして、窓の外を見たのだ。

「昨晩、後輩くんから話を聴いている限りのことではあるけれどもね」

 後輩くんから見たときに、「伯母」に当たる二人の女性、お母さんの二人のお姉さんのうち、上のお姉さんは婿を取って石堂家を継いでいる。

 下のお姉さんは、結婚して、離婚して、出戻りしたけれど家ではとても冷遇されているという。

 となれば、魚屋さんに嫁いだ三女である美代子さんが月に一度実家に寄り付いて楽しい時間を過ごせるものだろうか?

 よく帰ってきたね、くつろいで行きなさいと、歓迎されるものだろうか?

「何より不自然だと思ったのは、……末娘の子であれ、孫が可愛くないはずがない、だって後輩くん、……縁樹くんは、ほら、こんなに……、こぉんなに可愛いというのに!」

 それは個人の感想である。だから寿羅くんもユーゴくんも萩元氏もこれといったコメントはしなかった。

 ただ、いまの先輩の、あまり共感を得られそうにない意見に対し、ただ一人、首肯しないまでも、何らかの反応を示したっていい美代子さんまでもが黙殺した、あるいは、黙殺するという演技をした。

 後輩くんはたぶんこのとき、過去の頸木を断ち切って、未来に向けての偉大なる第一歩を踏み出したのだ。

 世界中で誰にその言葉を言われたってピンと来ないけれど、先輩に言われただけで、胸がぎゅーっと音を鳴らす。多数決に頼るまでもなく、実際にはそんなに可愛いはずがない後輩くんである。前髪を上げるとおでこにでかい傷跡があって、それから目つきもあんまりよくない。それでも、先輩が「可愛い」と言うのならば、……後輩くんは先輩の言うことを全面的に信じることに決めているので、それは本当に違いない。

 ああ先輩、可哀想な先輩、世界でもう先輩だけが、僕を「可愛い」なんて思ってしまうのだ。全てを見通すまっすぐな瞳、だけどどうしようもなく歪んだ審美眼を、僕に飲ませてください。

「恐らくはお母さまをこの街に惹き付ける引力はずっとあった。その引力たる人物が、……萩元さん、あなたでないのであれば謝罪申し上げますけど、教団関係者であることが濃厚だと私は読んでいます。……探偵としては、予断を持って調査に当たるべきではないのでしょうけど」

 探偵? と小さくユーゴくんが寿羅くんに問う。寿羅くんがこくんと頷いたのを見て、「どえぐいかっけ」と呟いた。ものすごくカッコよくて素敵だなぁ、ぐらいのものであるが、標準語でそう言うよりももっと、崇拝に近いニュアンスがある。

 後輩くんは自分の懐に何が入っているかを思い出した。

 この二日間、折らないように気を遣って持ってきたその茶封筒を取り出し、

「あの」

 意識的な他人行儀で、その書類を差し出した。

「これ、署名して、押印してください」

 先輩はひょっとしたら、この女性を、この女性の向こう側にいる人を、「後輩くんにしんどい思いをさせた罪」として何らかの私刑に処さなければ納得し難いのかもしれない。しかし、後輩くんはこれで十分だった。

「あのお店の名義人は、お父さまではないのかな」

 先輩がポツリと言い、後輩くんは頷いた。そのことの意味するところは、少なくとも萩元氏には明らかだったはずだ。離婚が成立すれば「呉暮町会館」と、それが建つ土地をこれまで通りに彼らが使うことは出来なくなる。

 お父さんが呉暮町に戻って再び魚屋さんをやるという選択肢は、もう現実的ではない。それでも新しい人生を歩むに当たって、前向きな材料になることは確かだ。

 まだ神楽坂美代子である人は、後輩くんがテーブルに置いた書類にぼんやりとした目を落としている。遠く離れたこの街で、後輩くんの眠りを妨げて来た人は、いまも穏やかな眠りの中にいるようだった。

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