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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
先輩にも、後輩くんにも判らない。
40/45

後輩くんはまだ慣れない

 蒔田さんのスマートフォンからの着信だったのに、スピーカーで先輩が出るなり聴こえて来たのは、

「先輩っ、けしからぬ、けしからぬことです、うらめしやぁあ」

 声は中寉さんのものであったが、言葉は普段の中寉さんが発するとはとても思えない、端的に言って常軌を逸したものであった。

 その声の向こうから聴こえて来る、

「あっこらちょっと何してんだ了どうやって俺のスマホのロック解除したんだよぉ!」

 これは、スマートフォンの持ちぬしである蒔田さんの声である。バンド仲間である二人、ボーカル中寉さんには勤め先のゲイバー「緑の兎」のマスターでありバンドの楽曲を書いている上之原さん、キーボードの蒔田さんにはバンドのギターである大月さんと、それぞれパートナーがいるのに、基本的にはいつもこの二人、一緒にいらっしゃる、美しいお兄さまたちであるのだが、どうも、様子がおかしい。

 先輩は眉間に皺を寄せて、はぁ……、と溜め息を吐いた。

「了、どうした、酔っ払っているのか」

「酔ってません」

「寝ていた人間と酔っ払っている人間はまず否定から入る、人間関係の構築が下手な人間も同様だね」

「失礼なことをおっしゃらないでいただきたい。ただ僕は、お二人が恋人同士初めての旅行でそろそろチェックインを済ませてついでにベッドインしようかというタイミングであろうと見計らって、邪魔をするために電話をさせていただいたに過ぎません」

「だいぶ人間のクズみたいなことを言っているが自覚はあるのかな」

「ちょっともうやめなよ了ほんとにさぁ」

「あっ皐醒そこグラス」

 大月さんの声も聴こえてきた。かちゃん、とグラスの倒れる音がして、

「ッギャー!」

 という蒔田さんの悲鳴。奥からは中国語も聴こえて来たので、どうやら横笛の蕭凱龍さんもいる、「ヴェル・デ・ラ・ビット」の美しい女装お兄さまたちが勢揃いしているのだ。ひょっとしたらライブか練習のあとの打ち上げなのかもしれない。

 お酒が入っていても別におかしくはないし、これまで見て来た限り、中寉さんという人は、後輩くんより少しはお兄さんであるだけのことはあって、多少のお酒が入ってもあまり変わらない。普段より少しばかり表情の振幅が大きくなるかな、ぐらいであるが、そもそも普段が感情を窺わせない顔でいるもので、血行が良くなって正常に戻るのだと見ることもできる。

「全くもってけしからんではありませんか、ええ、さぞお幸せでしょうね、いまごろもうお二人とも一糸纏わぬ姿になっていらっしゃるのでしょういかがわしい」

 少なくともこんなわからないことを言うひとではなかったはずである。なお先輩と後輩くんは、確かにいま、一つの同じベッドの上に乗ってはいるけれど、服はコートを脱いだだけ、ほかは、靴下だって履いたままだ。

「あー……、ええと、了、君は何か誤解をしているよ。私たちはいままで、後輩くんのお母さんとどういう形でコンタクトを取るかということを話し合っていたところで」

「結婚のご挨拶ですか」

「いや、そうではなくて。というか君は後輩くんのおうちの事情について知ってるはずだろう……」

 先輩を困惑させることが、後輩くんはあまり上手ではない。将棋をしていても、だいたいは先輩の手のひらの上で転がされている。

 しかるに、中寉さんはいま完全に先輩を困惑させている。なるほど、先輩を困惑させようと思ったら僕もお酒を呑めばいいのか、という知見を得たが、どうも、それはやめておいたほうが良さそうである。

「あーごめんごめんねファルヴィ」

 テーブルを拭き終わって中寉さんからスマートフォンを奪還したらしい蒔田さんの声が届いた。

「ちょっと、あの、了、今夜ペース早くってね、その……」

 ああ……、と先輩は何かを察したようだ。

「上之原さんが風邪でもひいたのかな」

「そう。風邪じゃなくて、……ミツルママと一緒に近くの倉庫、うちらの店の組合が使ってる倉庫ね、オーナーの持ってるやつなんだけど、そこの掃除したらアレルギー出て寝込んでる」

「そんなに汚かったのか……」

「オーナーが何年前から開けたことがない、『魔窟』とか『蠱毒』とか言ってた」

 なおオーナーのヴェルデグリーン氏、後輩くんも何度か顔を合わせただけだが、お世辞にもきっちりとした管理や整理整頓をしそうなタイプではない。

「上之原さんが体調を崩したということは、ミツルママは無事なのか」

「ママはぴんぴんしてるだけじゃなくて『アタシが鈍感みたいじゃない!』ってぷんぷんしてた」

 目に浮かぶようである。ミツルママはきっと鈍感なのではなくて頑丈なのだ。

 要するに、中寉さんは今夜、おうちに帰っても大好きな「マスター」とコミュニケーションを取ることができないということなのだ。中寉さんは「あんなプラスティックの人なんて別に何とも思ってません髪の毛の先ほども」みたいなことを言うけれど、本当は上之原さんのことが大好きで大好きでたまらなくて、放っておかれるとどんどん寂しさが悪い方向へ尖ってしまうようなのだ。

 それを可愛いと思うか面倒臭いと思うかは人それぞれで、上之原さんにとっては、……彼もそれを表現するタイプの人ではないようだけれど、きっと目に入れたって痛くないと思っているはず。ただ、蒔田さん大月さん凱龍さんの三人は、上之原さんに何かあるたびにこうなってしまう中寉さんをあやすのに毎度手を焼いているようである。

「大人が二人ホテルの一室にいて大人しく話し合いだけして終わるわけがないでしょう。白状なさい、何をやっていたのですか」

 また蒔田さんから中寉さんへスマートフォンが奪い取られたようだ。

「将棋を指した」

「まあいやらしい」

「君の頭の中は今どうなっているのかな。あんまり仲間に迷惑を掛けるものではないよ」

「だって将棋ってあの九かける九マスの上でちっちゃい駒を指先であっちへやったりこっちへやったりひっくり返したり奪ったり奪い返したり」

 僕も仮に、会いたいときに先輩が側にいなくって、寂しい時間を過ごすことを強いられることになったら、いまの中寉さんみたいになってしまうんだろうか。寂しさは人を狂わせる、心にぽっかり出来てしまった穴を、どうにかして埋めたくて、……でも空いた穴にぴったりフィットするものでなければ、何をどれだけ寄せ集めたって冷たい隙間風が入り込んできて、つらい、つらい、つらい……。

 いま中寉さんの胸に空いた穴は上之原さんの形をしている。

 でも、もしも……、その寂しさを全て埋め尽くすものがありますよって言われたなら……?

「ん? 後輩くん、どうしたかな」

 まだ中寉さんが絡んでいるのを、右耳だけで聴き流しつつ先輩は、じっと考え込んだ後輩くんに気付いた。後輩くんは自分の中に浮かんだ考えの、とりとめもなさに少しばかり呆れてしまいながらではあるが、中寉さんの声に紛れて言った。

「みんなで同じことをやってる連帯感ってあるのかもしれないなって、思ったんです。その、……うちの母とか、寿羅くんところのお父さんお母さんとか……、とりあえず、仲間意識があって」

 言い換えれば、あの食堂のおばさんは仲間外れにされているわけだ。寂しさや心細さは当然あるはず、でも、だからと言って安易に合するという判断をあのおばさんはしなかった。

「ふむ……、つまりこういうことかな」

 先輩が後輩くんの中にある考えを、後輩くんがまだ言葉にしていないところまで含めて、まとめてくれる。

「君のお母さまや寿羅くんのご両親、……そもそも君のお母さまに入信を勧めたお向かいのおじいさんおばあさんも、皆さん寂しさを抱えていた。その穴を、宗教活動に打ち込むことで埋めようとした。まあ、これはよくある話だね、弱っている心というものは何であれ『救済』というものに無防備なもので、宗教というものはいつの時代もそこへ潜り込むものだよね」

 しかし、ぽっかり空いた穴が入信することでは埋まらない、というのが重要だと後輩くんは思ったのだ。

「ある程度は埋まるかもしれない、けれど決して満たされ切ることがない、……ゆえにこそ、熱中する。周りを見れば、自分と同じように寂しさを人質に取られて活動するご近所さんがいるとなれば、一層熱が籠ることにもなるだろう」

 電話の向こうでは、中寉さんがまだ何かぶつぶつ言っている。それを蒔田さんが慰めている声が聴こえてくる。中寉さんはバンドメンバーが大好きで、本当に大事に思っているけれど、でも、上之原さんの形をした穴を埋めることは彼らが集い一つの夜を分け合っても出来ないのだ。

「ごめんねぇ、とりあえず切る」

 蒔田さんの声がして、夜のビジネスホテルの部屋に静寂が戻ってきた。

「……これが初めてではないんだ。了はこれまでも何度か、上之原さんが風邪をひいたとかお腹を壊したとか、……健やかな人だからそうそうあることではないけれど、別々の夜を過ごさなければならなくなったときには、ああして荒れてしまう。君も知っての通り、普段はしっかりしているからね、その反動かもしれない」

 自分よりも歳上の人を評価するのに相応しい言葉ではないかもしれないが、小さなこどものような趣さえあった。

「あのあとは、だいたいめそめそ泣き始めて、泣き疲れて眠ってしまうんだ。……あれで全部忘れていたら周りもすっきりするのだけど、悪いことに了は酔いが覚めたとき全部覚えていて、ものすごく後悔するんだ。……嫌いにならないであげてくれないかな」

 微笑ましい、と思えてしまうのは、中寉さんの普段の姿がとても優れたものであるからだ。一個ぐらい抜けているところがあってくれてこそ、人間であるし、いとおしい。

「……君のお母さまは、どんな形の穴を大日氣弥益で埋めようとしたんだろうね」

 先輩の問いに、後輩くんは答えあぐねる。考えてみれば後輩くんはまだ先輩に、自分のお母さんがどんな人であるかをきちんと説明したことがないのだ。

「うちの母は……、僕の口からこんなこと言うのも変かもしれないですけど、結構なお嬢さま育ちだったんです」

 意外だ、なんて反応をする先輩ではない。しかし、双眸には興味の色が立ち上った。

 後輩くんのお父さんのお父さん、つまり父方のおじいちゃんは魚屋さん、……つまりお父さんは「魚神」の二代目だった。小さくとも目利きで鮮度の良いお魚を仕入れ、呉暮の人々に提供するという仕事を、誇りを持ってしているのが神楽坂家である。

 そういう家のおよめさんとなった後輩くんのお母さん、実家は赤州神戸にある由緒正しい呉服屋さんの三女である。

 お父さんとお母さんは、高校のときの同級生だった。

「ということは、……恋愛結婚?」

 先輩の問いに後輩くんは頷き、出来るだけ平たい口調でこう言った。

「素敵な恋で結ばれた二人であっても、結末が幸せなものとは限らないんですよ」



○



 後輩くんのお父さん、神楽坂武史さん。

 後輩くんのお母さん、神楽坂美代子さん。

 高校時代、一年生と三年生の時に同じクラスだった二人は、卒業とともに離ればなれになった。美代子さんは上京して大学へ、武史さんはすぐに自分の魚屋さんでお父さんを支えて働くこととなった。

 物理的に隔てられた二つの人生が再び交錯したのは、高校卒業から五年後のこと。武史さんが「魚神」二代目店主として、お父さんから受け継いだお店を忙しく切り盛りし、町の人々から信頼を集める一方、美代子さんは大学卒業後は就職せず帰郷し、ひとまずは家事手伝いとしておうちで過ごしていた。

 その秋の日、美代子さんの、二人いるお姉さんのうち、上のほう、長姉の敦子さんが、結婚することとなった。同じ赤州の、県議会議員の次男という人が婿入りし、呉服屋さんを継ぐことになったのだ。

 赤州というのはいまでも古式ゆかしい結婚式をする土地である。

 祝いの場にはやはり尾頭付きは必須であるが、他の土地では鯛であるところ、赤州では昔から「赤尾鯛」という、口と尾だけが鮮やかな紅色をした鯛が珍重される。しかも、大きさや身振り、尾鰭の色づきなどが立派であればあるほど高級で、ものによっては一尾二万円を超える。真鯛がいいところ数千円に収まることを考えれば、縁起物にしても高価である。

 名家の、しかも跡取りの結婚となれば、やはり赤尾鯛も相応に立派なものでなければいけない。しかるにこの年は赤尾鯛が不漁で、例年に比べて身が細く色づきのいいものが少ない、たまにこれはというものがあっても、いつもの倍から三倍近い値段。かといって祝いの席に赤尾鯛がないとなると、なんだか結婚自体が歓迎されていないのではないか……、なんて誤解を周囲に与えてしまいかねない。

 ご両親や家の番頭さんが困った困ったと言って戸惑っているのを傍目に見ていた美代子さんだったが、このとき同級生の神楽坂武史くんが魚屋さんであったことは全く覚えていない。彼女は、裕福な家の末娘の気楽さでお姉ちゃん大変ね、早くいいお魚見つかるといいわね、なんて心配する言葉を口にはするものの、自身で何か具体的行動を起こすということはせず、日々、街をふらふら歩いて回っていた。赤州ってやっぱり退屈なところだわ、やっぱり東京のほうが面白い……、なんてことを考えながら。

 その日は、赤州神戸の駅前に出来たばかりのお寿司屋さんでランチを食べた。大学時代の同期が同じ赤州の出身で、その女性は医者の娘。といっても病院があるのは半島の先のほう、つまり呉暮にほど近いところである、……のちに美代子さんから生まれる「後輩くん」こと神楽坂縁樹くんが車にはねられて担ぎ込まれることとなる病院の院長先生のお孫さんであって、美代子さんは彼女の出身地を聞いたとき、自身も同じ赤州の生まれのくせに「あっち何もないでしょ」なんて言ってしまったのだった。それでもやはり同郷の誼(よしみ)で、卒業してからも月に一度は顔を合わせて、市内随一のカフェだとか、県内で一番品揃えのいいブティックだとかに行って、束の間都会気分を味わっていた。

「アラ。ここのお魚、とっても新鮮だわネ」

 友達は言った。美代子さんはそんなもんかしら、と思いつつひょいぱくと頬張る。板前さんはにっこりと笑って、「赤村岬で獲れた鰤です」と応じた。あんな田舎でもお魚って獲れるのね、なんてことを、美代子さんは思って感心する。

「うちの魚は、ぜんぶ赤村から仕入れています。ですが、一種類だけ、……お嬢さまがたは呉暮ってご存知ですか、まあ、だいぶ田舎のほうですが」

 美代子さんのお友達はちょっと眉を曇らせた。呉暮の隣町が、彼女の生まれ育ちである。

「赤尾鯛だけは、呉暮から特別に仕入れているんです。今日はいいのが入ってますよ」

「マア。じゃああたし、赤尾鯛のお造りをお願いしたいワ」

 赤尾鯛、というやり取りを訊いて、ぼんやりと、そういえばお父さんたちが探していたのはその鯛だったわ、と思い出した。

 赤尾鯛のお造りは、こりっとした歯応えに、淡白ながらしっかりと感じられる脂の甘みがまろやかな逸品であった。

「……ねえマチ子さん、あなたのおうちのほうではその鯛が獲れるの? たくさん獲れるの?」

 お寿司屋さんを出てすぐ、美代子さんは訊いた。

「ええ、赤尾鯛は呉暮町が一番って言われてるわネ」

「じゃあ、そこへ行ったら『カタのいい赤尾鯛』が手に入るかしら。あのね、うちの姉さんの結婚式で使いたいのだけど、今年は痩せたのばっかりで、ぜんぜん手に入らないそうなのよ」

「アラ、それは大変。……さっき板さんが見せてくれたのも、ちょっと痩せていたわネ。でも、探せばいい形のもあるかもしれないワ」

 お友達のマチ子さんがディーゼルカーに乗って帰っていくのを見送ってから、美代子さんはちょっと考えてタクシーを拾って、「呉暮町のお魚屋さんまで」と言った。運転手さんはちょっとびっくりしたが、美代子さんの身なりを見て「かしこまりやしたぁ」と車を発進させた。マチ子さんが乗ったディーゼルカーならば呉暮町まで往復したって五千円も掛からないが、タクシーならば片道だけで四倍以上かかるのである。運転手さんにとっては世間知らずのお嬢さまのおかげでメーターがびゅんびゅん回るし、美代子さんにとってはそれぐらいの出費はなんでもない、そして結果として赤尾鯛が手に入ったならお姉さんたちも喜ぶ、みんなが幸せになる旅路であった。

 寂れた海辺の田舎である呉暮町には魚屋さんが一軒しかなかった。美代子さんが辿り着いたとき、「魚神」という小さなそのお店は、町中の何割の人が来ているんだろうという賑わいで、そこだけ華やかで元気で、色彩に溢れているように見えた。

「エーらっしゃいらっしゃいらっしゃい、はい来たブリ、ブリ、ブリよっと、塩焼きがいいね、これはね、はいありがとうね、こちらアジ、ね、下ろしておいたから三枚に。はいよ、毎度あり。そちらのお姉さんは」

 突然、声を向けられて、美代子さんはびっくり、金魚のように目を丸くした。対して、……滅多に見ない感じのお嬢さんが田舎町のお魚屋さんに来たので、武史さんも実はちょっと、びっくりしたのだ。当時の美代子さんは誰が見たって、自分でお料理なんて出来そうにない、苦労知らずのお嬢さま、……そして事実、美代子さんは生の魚に自分で触ったことなんて一度もない人だった。

 そんなお嬢さんが、

「赤尾鯛を一匹ください」

 と、突然申し出たのだから、武史さんは面食らうし、店頭にいた他の奥さまがたも、ギョッとした顔になる。

「は。赤尾鯛、ですか」

「こちらには、赤尾鯛はございませんの?」

「ああ……、そうですねぇ、赤尾鯛は、三日前には言っといてもらわないと、ちょっと……」

 美代子さんはそう言われて気が付いた。仮にいま、赤尾鯛をこのお店で買っても、おうちまで持って帰らなければいけない、……そんな重たい荷物を抱えるなんてまっぴらごめんだし、そもそも結婚式まではまだ結構な日数がある。思いつきでタクシーを捕まえて走ってきてしまったが、ちょっと気がはやりすぎたようである。

 一方で、武史さんは、このいかにも世間知らずなお嬢さんの素っ頓狂な申し出に、何やら記憶の糸をぴぃんと弾かれたような気がした。頭の中のアルバムの写真はまだぴかぴかであるから、思い出すまでにほとんど時間はかからなかった。

「……あんた、石堂さん、石堂美代子さんじゃないのかい」

 美代子さんは確かに石堂美代子さんだった。どうしてこの人は私の名前を知っているのかしらんと首を傾げた彼女に、お魚屋さんは、

「忘れちまったかい、一年のときも三年のときも同じクラスだったろ、三年の一学期のときは、隣の席だった」

 そう、記憶を掘り起こしてくれる。三年生の一学期のときなら、覚えている。隣の席の、身体の大きな男子学生が、よく授業中に居眠りをしていた。隣で眠られると、先生の厳しい目が美代子さんのいる一帯に注がれることになり、美代子さんは教科書の陰でゆったりと本を読むことが出来なくなってしまうので困る。なので、彼が寝るたびに小突いて起こしてやっていたのだ。

 彼は、「悪いね、家が魚屋なもんでさ、朝が早くって」と照れ笑いしていた。魚屋さんって朝が早いの、と訊いたら、彼は大いに頷いて、「仕入れがあるからさ。まだ親父の手伝いだけど、市場について行って……」と熱っぽく説明してくれた。

 彼の名前は、……そう、確か……、

「神威岬くん」

「神楽坂だよ」

 これが、のちに夫婦となる神楽坂武史くんと石堂美代子さんの再会であった。

 美代子さんは改めて、赤尾鯛の仕入れを武史くんに依頼し、武史くんは市場で懇意にしている船の主に頼み、一番立派で型の良い赤尾鯛を用意し、当日、自ら車を運転して式場まで届けに上がった。

 トロ箱から取り出した赤尾鯛を見て、格式高い呉服屋石堂家のみなさんは歓声を上げた。親戚の人々は美代子さんの仕事を褒めてくれたし、もちろん「魚神さん」である武史さんのことを大いに評価した。今後は石堂家で宴席を設けるとき、魚は毎回魚神さんにお願いしよう、なんてことまで決まってしまったぐらいで、「魚神さん」としてはひょんなことから大口の取引先ができて嬉しいばかりの出来事、美代子さんのお姉さんの結婚式は晴れ渡った秋の日に、なんとも盛大に、華やかに行われたのだった。

 お姉さんの門出、というよりはおむこさんが入ってくる様子を眺めていて、結婚って素敵なものね、と美代子さんは生まれて初めてそのイベントを現実的なものとして受け止めた。私もいつか素敵な人と結婚しておよめさんになるのかしら……、なんてことを思ったとき、彼女の近くにはずいぶん手頃な人がいるのだった。

 初めて「魚神」を訪れて以来、約半月に渡って、美代子さんは武史くんと繰り返し会っていた。それは艶っぽい話ではなく、単にお姉さんの結婚式に赤尾鯛を準備するための調整であったし、美代子さんが果たした役割というのは概ね、家のお父さんや番頭さんに「これぐらいのお値段なんですって」「何時ぐらいに着くんですって」といった言伝をするぐらいではあったのだが、とはいえ年頃の、同い歳の二人が一つの目的に向かって共同作業していたと見ることはそれほど難しくはないし、自分と違って何事もテキパキと手際よく働く神楽坂武史くんは、美代子さんにはずいぶん立派な大人に見えた。

「いやあ、よかった、立派な結婚式だったねぇ。石堂さんのとこがこんな立派なおうちだなんて知らなかったから、俺ぁ高校時代ずいぶん失礼なことも言っちゃったかも知れないけども、どうかこれからもよろしくお願いします」

 丁寧に頭を下げて、「じゃー俺はこれで」と鯛を積んできたワゴン車に乗り込もうとした武史くんの袖を美代子さんは掴んだ。

 その動作一つが、たぶん、彼女がした唯一の行動であり、表現だった。

「これからも、会いましょうよ」

 学生生活を終えてからすぐ仕事を始め、遊ぶ、なんてことをまるでしないで来た武史くんにとって、この令嬢からの積極的な誘いはあまりに大きな衝撃であったという。結婚式の日から、二人は週に一度は必ず会った。毎回一張羅を纏った武史くんが魚くさいワゴン車で赤州神戸までやって来て、鯱鉾ばってぎくしゃくと並んで歩き、美術館に行ったり映画館に行ったり。それが第三者から見たとき「楽しそう」であったかどうかは判然としないが、少なくとも美代子さんは武史くんと一緒にいる時間は好きだった。なぜって、武史くんは非常にしばしば、美代子さんを褒めてくれたから。自分のほうがお金はたくさん持っているのに、お茶もお菓子も全部武史くんが出してくれる。美代子さんは家にいるときよりもずっとずっと、裕福な娘になったような気持ちだった。それは、言うなれば「お嬢さま」を超えて「お姫さま」になったような幸福感……。

 やがて美代子さんは、まあいいか、これぐらい尽くしてくれているのだし、というぐらいの気持ちで、武史くんの手が自分の身体に触れることを許した。

 そうしたい、と願う気持ちが人並みに備わっていた武史くんにとって、女性がそうさせてくれるというだけで、美代子さんはあまりにまばゆい存在だった。美代子さんはわりに顔が良いほうで、高校時代は学年で何番目、ぐらいの美貌を持っているとされていた。そうした女性に触れる喜びは、二十代前半の武史くんにとって何事にも変え難い。また彼女の、教育を施されてなお、すれていないところ、……言い換えればものを知らないところに、武史くんは夢中になった。

 美代子さん、俺と結婚してくれませんか。

 という言葉を、どれほど緊張して言ったことか。

 ウチは小さな、貧しい魚屋です。でもあなたのことを一生、幸せにすると誓いますので。

 その言葉を受けて、美代子さんはその日の夜、お父さんとお母さんに「武史くんにこう言われた」と言伝をした。お父さんとお母さんは顔を見合わせて、

「お前がそうしたいんならそうしたらいい」

 と応じて、若い二人の結婚が決まった。神楽坂武史という青年は、なかなかに有能で気持ちのいい子だね、というぐらいの評価で定まっていて、相手としての問題はなかったし、美代子さんは三女なので、どうやらご両親の中には「まあ、どこへなりとも……」という気持ちがあったようである。

 このとき、上のお姉さんの結婚から半年。お姉さんのお腹には、ご自身と旦那さんとで結んだ命が息づいていた。跡取りの心配もないので、美代子さんがおよめさんとなってどこかへ行くことにへの障害もない。

 かくして呉服屋・石堂家と魚屋・神楽坂家の、はっきり格差婚が成立した。恋愛と呼ぶには、あまりにも薄く、しかし若人たちは幸せなのだった。

 もっとも、その幸せの質には新郎新婦の間では違っていたかもしれない。武史くんは素敵な女性を射止めることが出来たという喜びと、……白状するなら、石堂家の経済力を拝むような気持ちもあった。一方で美代子さんは、ただただ、自身が「およめさん」であることに夢見心地であったようだ。

 結婚式にはもちろん、赤尾鯛がぴんと反り立って並んでいたそうである。



○



 後輩くんもここまで詳しいことは知らないのだが、お母さんの実家がいわゆるお金持ちであることは知っている。とはいえ、

「それでいい思いというのは、全くしたことがありません」

 と苦笑する。

「おじいさんおばあさんとは、あまり会わずにきたのかな」

「どうも、母に対しての愛情があまりなかったのではないかと想像しているんですが。……これはひがんで言うわけではないんですけど、上の伯母さんのところの一人息子、僕から見れば従兄は、もう、とんでもないレベルでお金をかけられていますけど、僕はそうしたことは一切なくて」

 その従兄が「東京へ行きたい」と言えば、移動は飛行機であるし、泊まるのは一泊五万円からの部屋であるし、滞在中の移動はハイヤーだそうだ。次期当主となれば、それぐらいの扱いを受けられる。どうも祖父母の愛情というのは一点集中型であるらしく、三女であり家を出た美代子さんは、もう「よその子」ぐらいの扱いである。悲惨なのは美代子さんの一つ上のお姉さんで、この人も美代子さんの結婚からしばらくして結婚したのだが、相手がひどい男の人で、一年もたずに離婚。しかし、家に帰って来てからというもの、すっかり冷遇されて、お手伝いさんの住むような部屋で寂しく暮らしているのだそうだ。

「それは極端な……。でも、そうか、なるほどな。君のお母さんのご実家が、……あんまりこういう言いかた好きではないが『太い』のに、後輩くんやお父さまはあまりそういったところを窺わせない」

「僕の中では、僕の家は僕が生まれたときからずっと貧乏暇なしでやってるっていうイメージです」

「そうだとして、お母さまはご不満を抱いたりはなさらなかったのかな」

 後輩くんは少し笑って、

「不満しかなかったと思いますよ。でも、彼女にとっては『悪い夢』なんです」

 と言ってから、気が付いた。

「だから、宗教にハマったのかもしれないですよね」

 実の母親に対して辛辣な言葉を選んで使う自分を、先輩に見せることに躊躇いがなかったわけではない。

「夢のような人生を送ってきた感覚でいる人だから、いまも夢の中にいるのかもしれません」

 後輩くんの表情を見て、先輩はどう思っただろう?

 そこに、寂しさはない。悲しさはない。後輩くんは事実として、そうしたものは一枚だって自分の辞書には含めていなかった。

 だからこそ、「訣別」という非常に強く、尖った言葉を選んだつもりである。

「甘い考えだと言われるかもしれないけど……、私は少しぐらいは、軟着陸する方法はないものかと模索していたつもりだよ。お父さまが君に託された書類も、そのまま持ち帰ることが出来たなら、それに越したことはないだろうからね」

 離婚届である。母はそれを見せれば、きっと何の躊躇いもなく名前を書き、判を押すことだろう。

 自分がお腹を痛めて産んだこどもの存在が、何らかの力を持つはずがない。

「……あの人が求めているのは、賞賛の言葉なんじゃないかって、僕はそう思います」

「賞賛の言葉?」

「はい。僕が中学とか高校とかのころ、こどもの評価ってやっぱりテストの点ですよね、でも母は、どんなに僕がいい点を取っても褒めてくれることはありませんでした。『そう』とか『ふうん』ぐらいのもので。それは、閉じた世界の、彼女の触れられない世界の評価であって、僕に下された評価でしかないから」

 先輩の眉間に皺が寄った。

「……というのは?」

 後輩くんは曖昧に笑った。

「例えば、ですけど。家庭訪問で先生が来る日があったとして、あるいは三者面談でもいいですけど、僕の成績がいい、努力が認められたってことを、僕の、ではなくて、母自身の評価(・・・・・・)として受け止められる世界だと、彼女はとてもとても喜ぶんです、天に昇るんじゃないかって思うぐらいに、大喜びをして、極端なお小遣いをくれたり、ごちそうを作ってくれたりするんです」

 ご家庭の環境がとてもよいのでしょうね。

 お母さまの教育が行き届いていらっしゃるんでしょう。

 神楽坂縁樹に下される評価を自身の評価として容易に受け止められるとき、初めて彼女は満たされるのだ。

「それほどまでに、賞賛というものに飢えているということ……?」

「そう考えれば、辻褄が合うのかなって気がします」

 お母さんは、学校を出るまでは、常に好意的に評価されて来たのだろうと想像する。この後輩くんがそうであるように、赤州を出て東京の大学に通うというのは、相当な学力がなければ叶わないことであって、それ自体が相当なステータスになる。つまりお母さんは幼いころから学力で、きっと容姿も、そしておっとりとして齷齪したところのない振る舞いも含めて、色々なところで好意的に評価されて来たのだ。彼女自身、そうした言葉で自らを定義してきた。

 けれど、大学を卒業して、どんなものであれ職に就かないでいれば、「評価」される機会は著しく減る。逆に言えば、好意的な評価を受けようと思ったなら、仕事をするなり何なり、社会・他者との関わり合いは必須となる。

 魚屋の武史くんは彼女を美しい人であると評価した。

 石堂美代子さんという女性は、その評価だけでは慊(あきたり)ないのだ。

 縁樹くんを産み育て、その間、幾度かの好意的な評価を大事に噛み締めて生きて来たけれど、縁樹くんが育って来て、恐らく縁樹くんが齎す最後の彼女の評価となる大学受験が、何とも悲しい形で失敗に終わってしまったことで、彼女は飢餓感に耐えられなくなってしまった。

 他者評価を軸にして生きてきた人が、評価の機会を失ってしまったのである。その矢先に……、向かいの家のおじいさんおばあさんが、大日氣弥益の団体について教えてくれた。

「団体では、頑張れば頑張るほど褒められるのでしょう。彼女が熱中したのも、そう思えば解る気がするんです」

 彼女のした頑張りというのは、自身の生きる現実の世界に確かに存在した幸せを、幻想のために切り売りすることだ。

 そうすることで、褒められる社会に属しているということだ。

 彼女は、神楽坂家という家、「魚神」という小さな魚屋さんでの暮らしに幸せを見出すことが出来なかった。彼女という器は、その幸せを掬って貯め置くことが出来ないのだ。それが出来る人は、わざわざ手にしたグラスに人から賞賛という恵を注いでもらって、それをほれぼれと眺めなくても平気で生きていられる。僕はいまこんなに幸せなんだから、人と比べたってしょうがないじゃないかって思える、……僕はいまこんなに幸せなんだぞ! って誰かに見せびらかさなくたって。

「後輩くんはこんなにいい子なのにな」

 ぽつりと先輩は言って、悲しそうに嘆息した。

 かつて確かに不幸だった後輩くんには、もう、少しも足りないものがない。

「すみません。ちょっと、よくないことを言ったかもしれません」

 先輩はゆっくりと、そうっと、微笑みを取り戻して、後輩くんの髪に触れた。

 前髪を優しく持ち上げて、そこにある傷に顔を寄せる。後輩くんはいまだに先輩と顔の距離が近くなると、とてもどきどきする癖が止められない。たぶん、きっと一生治らない。

「あの、あの先輩」

 そこへ唇が触れそうになる気配があったので、後輩くんはきゅっと首を縮こませる。先輩にそうされるのが嬉しくないわけでは決してないのだけれど、

「まだ、手を洗っただけです、顔とか頭とかあと身体とかは」

「それは私もそう。私たちは長旅をして来た服のまま身体のままでベッドに乗っているわけだね。もっともそれは、こっちのベッドをくつろぎラグとして用いることに決めてしまったからだ。寝るときはそっちを使う」

 先輩はまだきゅっと四角いままのベッドに目をやって言った。

「シングルベッドだけど、君も私も小柄なほうだから問題ないだろう。あと、これまで見て来た限り、君の寝相はおとなしいほうだから。まあ、眠りに就くまではどうか判らないけれどね」

 示唆するところの深さ、そこから感じ取れる匂いに、後輩くんはあっさり冷静さを失いそうになる。どんな焦り、どんな怒りよりも、後輩くんに熱感を催させるのは先輩のちょっとした言動だった。昼間、様変わりしてしまった自分のおうちを見たときに暴走しかけて、先輩に止められた……、けれど他ならぬ先輩自身が、意識的にかそれとも無意識なのかもしれないけれど、後輩くんを唆す。

「もっとも、身体が汚れているのは私も同じだ。そちらのベッドに入る前にはシャワーを浴びなければいけない。……それとも、もう一局ぐらい指してからにする?」

 そう言うとき、先輩の顔は本当に嬉しそうで、無邪気で、いっそ小悪魔である。そして、恐らくはご本人が想定しているよりもだいぶあどけない顔になっている。最高に楽しいことが目の前にあると知って、その楽しさを余すところなく受け容れる体勢を整えるに当たって、まずその目から純粋なこどものそれになるのだろう。

 後輩くんはまだ慣れない。この小さくて、いまは「可愛い」が特に強く顕れている人を愛することに慣れない。その権利を有する自分であることが慣れない。先輩を愛することが法に触れないかどうか自信がない。狭いシャワーで「洗って」と求められたときに、その身体に触れるときにはいつもお腹の底で「よし」と覚悟を決めるための二秒を要する。

 先輩は、噴水や砂浜で遊ぶときにパンツ一丁や、あるいはすっぽんぽんでいいと思ってしまうような幼子のように、自身の姿に無頓着で、楽しみに対して貪欲なのだ。同時にとても甘えん坊になって、「後輩くん後輩くん」って、いろんなことを欲しがる。言葉にはなかなかしたがらない、けれど後輩くんの手を取って、自身へと導くという形で求めてくる。後輩くんが辿々しくその求めに応じ、先輩が満足そうに息を吐き出すとき、後輩くんいつもより少しだけ強く、自分が先輩の恋人であることを実感するし、語彙を失っていくのを実感する。先輩、好き、可愛い、先輩、愛しています、大好き、こういったいくつかの単語だけで頭の中が満ちてしまって、他のことなんて考えられなくなってしまう。

 驚くべきことに、先輩もそういうところがあるようなのだ。

 お互いの溢れそうなものを重ねて一つにして、じっとするとき、先輩はどんなに焦っているときでもきちんと携えている知性を解いて、心が本当に一糸すら残さず裸になるのだ。指を絡めてまだ足りないと強く握り締めて、齧るように後輩くんにキスをする。

 二人はこういう関係になるときに交わした約束として、あらゆる選択肢を、裸になるその一秒前まで排除されなかった可能性を、捨てずに愛し合うことを決めていた。先輩が/後輩くんが、男/女であるという枠を外して、一対の人間で、あらゆる形で愛し合うことを目指すことにしている。いまだって後輩くんは自分がどういう身体の形をして、先輩を抱いているのか先輩に抱かれているのか、はっきりとは判らないでいる。そして、自分が人間の形を保っているのかどうかも自信がない。つまるところ後輩くんは先輩と一緒に幸せになれるのなら自分が人間でなくてもいいとさえ思うのだ。

 ああ、でも、将棋は指したいな、先輩と。そうなると、猫の手ではちょっと難しいか。

「後輩くん」

 声を低くして、先輩が訊く。

「声を聴かせて」

「……はい」

「もっと」

「はい、……あの……」

「もっと」

 いまこの瞬間は格好いい先輩だ。

「……愛しています」

 だからと言って後輩くんが可愛いかどうかは別の話なのだが。

 シャワーだけでのぼせる、という貴重な体験を、後輩くんはした。自分の家のシャワーであればガス代や水道代を意識して、まだ芯まで温まっていないのに震えながら出てくるという苦行を自らに強いるのであるが、ホテルのお風呂では気兼ねなく使えるもので、ざばざばと浴びて、ぽかぽかと温かい。まだ使っていなかったほうのベッドに二人で身体を放り込んで、夜と名付けられる時間をどこまで引き伸ばそうか決めないうちに唇を重ねたタイミングで、先輩のスマートフォンが鳴動した。む、と先輩がほっぺたを固くしたのが判って、それが少しおかしかった。

「……寿羅くんからだ」

「え」

 後輩くんも顔を上げる。

「代わりに読んで」

 とロックを解除した状態で手渡されたスマートフォンに表示されたメールによれば……。

「えっと、……明日、午後一時に、赤っ……、赤州神戸の、喫茶室『んおぼんっぉ』」

「けったいな名前の喫茶店もあったものだ」

「……喫茶室『ル・ボン』にっ、来てください……、って書いてあります……」

「ふうん……」

 寿羅くんは、呼び出してくれたのだ。騙し討ちに協力してくれたのだ。もちろん、彼女の立場が危うくなる、恨みを買うかもしれないことまで理解した上で。

「騙されていることに気付かなかったとしても、一人で来るとは思えないが……」

 先輩は手と口の動きを少し止めて考える。考えた末に、再び動き始めた。

 後輩くんも、急いで「ありがとう」と返信をしてから、考えるのをやめる。

 今この瞬間一緒にいる先輩のことだけを考えて、自分の中を満たしていたいという気持ちだった。

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