最果ての夜
期待していたわけではないが……。
「……ああ……、なるほど、これは……」
先輩は後輩くんの実家、元魚屋さんの「魚神」だった建物を見て、やっとそんな声を発した。
呉暮駅から、バスならば五分なのだが、次のバスまで一時間以上待たなければならず、時間を潰せるようなところもないとあって、それならばと小雪のちらつく中を歩いて辿り着いた家……。
元々「魚神」は、魚屋さん、と聴いて先輩がおそらく想像していたであろうものとそう大きく違わない形をしていた。
というのはすなわち、奥まった二階建て民家の手前、通りに面した顔の部分が大きく口を開けて店舗となっていたのである。このあたりは呉暮町にあっては最も住宅が立て込んでいるあたりで、緩やかな左カーブを描くなだらかな坂の途中、近くには雑貨屋さんを兼ねた煙草屋さんや、スーパーマーケットもあった。ただ、スーパーのお客さんも「魚は魚神さんで」と口を揃えて言ってくれていたものである。人口少なく高齢化も著しい地域ではあるものの、毎日夕方近くになると通りは買いもの帰りの人の姿がちらほら見え、そうした人たちに向けて後輩くんのお父さんがよく響く声を張り上げている……、というのがかつて見られた風景だったのだが。
いまや、見る影もない。
後輩くんにいたっては、言葉も出ない。まさに絶句である。道の左手にはあのおじいさんおばあさんの家があるのだが、どうも、いまは空き家になってしまっているようで、戸には板が打ち付けられ、表札も外されていた。そして斜向かいにあるはずの自分の生まれ育った家を、後輩くんは直視し難い気持ちだった。
大日氣弥益を崇拝する団体のイメージカラーは金と青紫である。この二色は、櫻木山会館でもよく見られたし、そもそも後輩くんはお母さんがあれこれと買い込んでくる(正確には、お布施に応じてもらえる)グッズもそのツートンカラーになっているものがほとんどだった。
家が、そういう色に塗られているのである。二階建ての、店舗兼住居の、そう大きくもなければ新しくもない、これぐらいの季節の遅い時間に勉強をしていると、指先が泣きたくなるぐらい悴んでしまうほど隙間風が寒かった後輩くんの家が、一センチの隈も許さないという決意のもと、金と青紫に塗られているのだった。具体的には、正面左側が金色、右側が青紫色。
かつて「新鮮おさかな 魚神」と書かれた看板を掲げていたところには、「呉暮町会館」の文字。特筆すべきは「会館」のところ。団体の施設機能として、あの櫻木山会館と同等のものを有しているのだろう。もっとも、建物のサイズは段違い、……けれど、田舎なもので、あれで事足りてしまうのかも知れないが。
大きく口を開けた旧店舗スペースには、どうやら大日氣弥益グッズの販売所となっているらしく、ガラスケースが見える。少なくとも後輩くんの幸福には一ミリも寄与してくれていないお守りやらお札やら、あるいは数珠やら怪しげな書籍がずらずらと陳列されているのが見える。かつて後輩くんお父さんが休憩をするために置いていた椅子のあたりにレジカウンターが設けられていて、そこではどこかで見たことがあるようなおばさんが退屈そうな顔で座っていた。
どこかで見たことがある……、とちょっと考えを巡らせて、後輩くんは「うわ……」と、ようやく、小さなものではあるが声を発した。後輩くんの家は「呉暮町西桝」という住所のうち、だいぶ西の端っこにあって、駅から南西へ向かうと着くのだけれど、いまの「うわ」は地名が「西桝」になってから最初の発声であった。
「知っている人かい」
後輩くんは顔を顰めて頷く。
「……中学の時の同級生の、お母さんです」
「ほう……、なるほど。後輩くんは私の後輩くんであるのみならず寿羅くんにとっては先輩であるけども、同級生だっているのだね。そして……、なるほどね」
ぐるうり、周囲を見回して先輩は肩を一つ上下させる。
「失礼なもの言いが許されるならば、この小さな町に、意外なほど『彼ら』は浸透しているようだ」
先輩がその言葉を言い終えないうちに、何やら旧「魚神」の奥のほうが騒がしくなってきた。信徒たちの集会場として使われていたのは以前からだが、奥の、店舗と住居を隔てる扉が開くなり、そんなに広くもないあの家に一体どうやってそんな人数が入っていたのかと思うほどの人がぞろぞろぞろぞろ溢れて出てくる。後輩くんはまた言葉を失い、先輩は敏感に「君の知り合いに見咎められるのは本意ではない」と後輩くんを引っ張って廃屋と化した旧「おじいさんおばあさんの家」の塀の陰に身を潜めた。
出てくるわ出てくるわ……、同級生のお母さんやら、近所のクリーニング屋さんのご主人やら、……あれは病院の先生だ、看護師さんも一緒である、駐在さんのところの奥さんの顔も見えた……。
あれだけの人数がぎっちり詰まっていたのなら、中の酸素濃度は相当薄くなっていたんではないかと、後輩くんは現実逃避にどうでもいいことを考えた。後輩くんやユノちゃんや外目黒さん、そして水鳥川に行ったときには先輩も面白がって買っていた「波主守」はボートレース好きの目印のようになっているが、旧「魚神」いや現「呉暮町会館」から吐き出された人々はみな一様に金と青紫のツートンカラーのグッズを手にしている。薄暗い空に立ち込める重い雲から小雪が降る、灰色の田舎町に存在する色彩が、金色と青紫色だけなんではないかと思ってしまいそうになるぐらい、その二色だけがきらきらと輝いていた。
先輩が瞬時に看破した通り、表面上はさいはての田舎町に過ぎないこの呉暮町、後輩くんの生まれ育った家を拠点として、もうすっかり大日氣弥益の信徒の町となってしまっている。
立っているのがしんどくなって、後輩くんはおでこの傷を抑えて屈んだ。先輩は隣で一緒に屈んで、背中に小さな手を当ててくれている。
「自分を責めるのはおよしよ」
優しさと厳しさが、綺麗に半分ずつ、重なって、後輩くんに届く。
「君のことだ、きっとまた、自分が事故に遭わなければと思っているのだろう。……判るとも、パートナーだからね、……いや、私でなくても、了や皐醒でも判るさ。後輩くんはとても素直な子だから」
単純な、という言葉は使わないでくれるのが先輩の思いやりである。実のところ後輩くんは自分を構成する糸の色数があんまり多くないことについては自覚的なのだった。
この閑散とした町において、この時間に自由な行動ができる人々のうち、結構な割合がいま、元「後輩くんの家」から出てきた。ただ「人」なだけでなくて、地域に根ざした仕事をしている人、人から尊敬されている人や、そのパートナーたる人々が構成しているグループである。のみならず、彼らの浮かべている表情を見れば、一時間か、二時間か……、どれぐらいの時間、あの家の中にいたのか知らないが、彼らにとってその時間はとてもとても楽しいものであったらしいことは疑いない。
「一旦離れよう。現状を把握できたというだけでも価値があると思わなければね……」
先輩は優しい声で諭してくれるが、後輩くんは石になったように動けなかった。
後輩くんは何も、宗教が悪いなどと思っているわけではないのだ。神仏に、無機物に、人はどれほど救われるものであるか、後輩くんも身を以て知っている。自然災害の、目を覆わんばかりの惨状、あるいは人間が人間を害するときの悍ましいほどのサディズムなどに触れるにつけ、どうか救いたまえと切なく願うことは決して間違ってはいないし、それで救われ得る以上、価値があると後輩くんだって理解している。
けれど、そうではない、そうではなくって。
後輩くんが大日氣弥益の人々を許しがたく思うのは、あの通り家がもう自分の家ではなくなってしまったとか、そのせいでお父さんが転がり込んできて眠れなくなってしまったとか、反抗した自分に先輩に危害を加えようとしたから……、ではない。それは、先輩が、お父さんが、許すと言えば後輩くんだって許せる範囲の出来事だからだ。
そうではなくて、彼らは後輩くんや先輩の、大切な人たちのことを今後も無節操に傷付け得る存在なのだ。
ヒセーサンシャ、という言葉を、彼らは用いた。
中寉さんや蒔田さん、ミツルママ、後輩くんの大切な友人たちを、友人たちのそのまた友人たちのことをも、少しの躊躇いもなく傷付けることを選ぶ。
彼らが攻撃する対象は、幾らだって増やせる。何らかの理由を以て人を害する言葉を発することに慣れてしまったならば、人は必ず、対象を増やす。人間は容易く憎悪になびく。憎悪は発生した次にはすぐに隣接するものを冒すのだ。そして近接する範囲に位置する人心を、自らがその対象になっては困るという恐怖で支配する。「『自分たち』と『自分たちではないもの』」なんて勝手な分類で他者を峻別し、後者を傷付けることを正当化してしまえるし、なお言うならば後者を幾らだって増殖させることが出来るのだ。
同性愛者だから。これこれこういう思想だから。
こういう顔だから。
どこで生まれたから。どんな言葉を使うから。
どんな形をしているから。
宗教と同じぐらいに、そうした憎悪にすがらなければ生きていられない人がいる。少なからずの数、いてしまう。
わたしはあなたのともだちです。そんな言葉に人はあまりにも弱い。群れずにはいられなくて、だから後輩くんはよく考えもせず入学直後に入ったサークルで痛い目に遭ったのだ。サークルを抜けて一人になって、眠れなくてしょんぼりしていた日々に、出会ったのが先輩でなくて、何らかの悪意を持った人だったら? 後輩くんはあっけなくすがりついていたかもしれない。
それでも確かに、強がりでなく言えるのは、人を差別し攻撃する人に与して得る安らぎになんて、僕は決して埋もれないぞ、ということ。後輩くんは自分が強い人間であるなどとは思わない、けれど一方で、そこまで弱くも腐ってもいないぞと言えるぐらいには、かろうじて、人間としての芯を備えているつもりだった。
「後輩くん」
気付いたときには立ち上がっていた。道を渡るときには、左右を確かめてから、大股で。道路の中央に差し掛かるときには走るぐらいの勢いになっていた。
止めなくちゃ、と思ったのだ。
仮に自分のお母さんが、この地域での、この活動の中核を担う存在であるならば、やはりきっかけは自分だろうと、どうしても思ってしまう後輩くんとしては。右のごとき状況を直視してなお、放っておくことはし難いのだ。
「後輩くん」
先輩は、力があんまり強くない。小さな身体には、そのサイズ相応の力しかないのである。
それでも、俊敏さにおいては後輩くんをはるかに上回るし、
「後輩くん、待ちなさい」
その指先は、我を失いかけた後輩くんの心を鎮めることが出来るのだ。素早く後輩くんの前に回り込み、往来でありながら、キスをするときと同じように手袋の両手で後輩くんのほっぺたを挟む。
「私を見なさい」
視線を、先輩の双眸に下ろす。先輩は微笑んでいた。先輩の微笑みはいつでも上品で、とても優美である。
その顔を白く曇らせるものがある。何かと言えば、後輩くんの唇から溢れる白い息だ。冷静さを失っているせいで、やたら熱く湿っぽくなって、速いペースで吐き出される息だ。
「一人で熱くなってはいけない。君の熱は、私の大好物の一つだよ。君がそんなふうに熱くなっているときには、私も同じぐらいに熱くいなければいけない、……そうでなければ面白くないって思うからね。いまはまだ、そのときではないし、ここはそうするべき場所ではない」
滑らかな声なのだ。
女性の声としては相当低い、けれど、男性のそれだとしたら、まだ声変わりを迎えていないんじゃないかと思うほど、……だから後輩くんは初対面からずっと、先輩が自分と同性なのか異性なのか判じかねていたのだ。
しかし、それでも構わず恋をしたし、自分のものおもいが少しも非生産的ではなかったことを、後輩くんははっきり知っている。
中寉さんがお店のマスターの上之原さんと、蒔田さんがバンド仲間の大月さんと、そして、……男性同性愛に限ったことではない、あらゆる恋人同士が幸せであることには正当性があり、それを詰ることは、いつだって不当である……。
「君は正しいよ、後輩くん、私が保証しよう。しかし、君が正しいがゆえに君が傷付くことは、私には耐え難い。……なので、ひとまず」
ぐるりと、寒々しい道のあちらの果てからこちらの果てまでを見回して、先輩は言った。
「ごはんを食べよう」
後輩くんの弾んでいた呼吸が、少し収まる。
「私お腹が空いてきた。なぜだろうね、お昼だってちゃんと食べたし、電車の中ではぐうすか寝ていて、たいしてカロリーを消費したわけでもないのに」
先輩は食欲が旺盛な人だ。可愛らしい顔に小さくて細い身体、繰り返しになるがどっちかわからないぐらいなのだが、食欲に関してはほとんど男子中学生のそれだ。味噌ラーメンには半ライスを付ける、そして「ライスを半分にしたのだから麺は大盛りにしたっていいのではないか」なんて言う。今回こうして赤州に来るにあたって、この土地の魚をたらふく食べるつもりでいる。
「……でも、あの、街のほうに出ないとあんまりたいしたものは……」
赤州神戸まで、とまでは言わないにせよ、学校の最寄り駅まで二駅ほど戻らないといけない。この呉暮町、海辺の住宅街で、人口は意外なほど多いのだが、それに対して施設が貧弱すぎるのである。
「たいしたものでなくってもいいさ。だって、……ねえ後輩くん、気付いているかい? これは私と君が正式にお付き合いを始めてから、最初の旅行なんだ。君と一緒に食べるごはんはいつだって特別なものになる。それがたとえ、どんなにいい加減な仕上がりのものであったとしても」
せっかくここへ来たのならば魚は食べてもらいたいが、この街にあるのは駅前に寿司屋が一軒と、あとは食堂が何軒か。ただ心配なのは、果たしていまもやっているのかどうか。観光地の寄り付くような街ではないし、飲食業はウイルス禍で一番大きなダメージを喰らいがちだ。
「構わないよ、どうしても行き詰まったら、君の学校の最寄りに行ってみよう。君が生まれ育ち、その足で踏みしめて歩いた道を、いまこうして君と並んで歩いているのだ、それだけで私は楽しい。……そしてね、白状すると、年末に君を私の街に連れて行って歩かせたときに、私は大いに得意な気持ちになっていたんだ、いつも一人で歩いていた道を、こんなに可愛い子を隣にして……、とね」
そんなことでいい気持ちになってしまうのは、少々謙虚に過ぎるのではないか。
「そういうお店があるのは駅のほう? では戻ろう。でもって、今夜の宿も決めなければね。私はもちろんどんなところでも構わないよ、……まあ、見たところこのあたりには君と二人でこれまで泊まったようなホテルはないみたいだけど」
先輩と二人でちゃんとした旅館に泊まった経験なんて、後輩くんには一度もない。裏を返せば、これまで先輩と一緒に泊まった「ホテル」というのは、……二人で泊まることが前提なのに、ベッドは大きいのがひとつどーんとある部屋ばかりであった。
「何をするにしても、だ。腹が減っては戦は出来ぬと言うからね」
先輩はコートのポケットに手を入れてひょいひょいと歩き始めてしまった。いま先輩の言葉が示唆するところを受け止めようとしたならば、他のことを考えるためにしゃがみこんでぐるぐるしているわけにはいかないし、先輩を一人で行かせてしまうわけにもいかない。後輩くんは慌てて立ち上がった。先輩は、強くて賢くて、後輩くんを元気付けることがとても上手い人だ。
先輩の美しい指に急所を衝かれて、
「うっ……」
という呻きが思わず後輩くんの唇から漏れた。
先輩が指をそっと退かして訊く。
「……痛かった?」
その目は、憐れむような、しかし同時に、後輩くんの動揺を見とめて込み上げる嬉しさも隠せない、……無邪気なサディズムも立ち上り、一種異様な凄惨さめいた色を描き出している。
後輩くんは声を失った。先輩は、とても恐ろしい。こんなにも優れた人、可愛らしくて格好良くて、いいにおいがして。でも、先輩に対して根本的な部分で劣位に立たされたとき、対等でいるときには感じない恐ろしさのようなものを感じる。それというのはつまり、先輩が普段後輩くんのために対等でいるよう努力してくれているのだということがはっきり判る……。
二人は、呉暮駅前に一軒だけあるビジネスホテルに投宿していた。こんな町にいったいどんな「ビジネス」があるのかとは思うのだが、後輩くんが物心ついたときにはもうあった、駅前の四階建て、この街では一番背の高い建物である。なお、後輩くんはそもそもホテルというものを、先輩と一緒に泊まったあの系統のホテルしか知らないので自前の尺度を持っていないのだが、ドアを開けたときの先輩の浮かべた表情を見れば、これがだいぶ貧しい設備なのだなということはなんとなく判るのだった。先輩は「赤目の土竜」と一緒に、全国を旅した経験がある、そしてその行く先々でいろんなホテルや旅館をご存知なのだ。
二人部屋は、「一人半」ぐらいのスペースしかなくて、シングルベッドを二つ並べて部屋はほぼそれでいっぱい。あとはテレビと壁際の小さなカウンター、電気ポット、ズボンプレッサー。部屋には一応トイレと一緒くたのバスルームがあったけれど、狭い。あと、さっき順番に浴びた、……後輩くんが先に浴びたのだけど、なかなか適温にならなくて往生したし、先輩は浴びている最中に急に水になったらしくて「ギャッ」という、普段あまり先輩の上げないタイプの叫びが聴こえてきた。
しかし、それでも、二人きりの初めての旅の夜であり、密室である。ベッドは二つに分かれているけれど、それは別にどちらか片方だけを使えばよく、先輩と後輩くんは窓辺のほうに二人で乗っかるなり、向かい合って……。
いつものように、将棋を始めたのである。
罠に引き摺り込まれるようにピンチを招いてしまって、後輩くんの先ほどの呻きは痛恨の角打ちを許してしまったことで思わず漏れたものであった。
劣勢を意識しながら指す将棋というものは、常につらい。しかるに後輩くんはお行儀よく、明快な七手詰めが見えるところまでは指して、
「負けました」
と頭を下げたのである。
「ん、ありがとうございました。……やっぱり、悩みがあるときというのは、指し手が鈍るものなのだね」
それは、先輩が、……先輩でさえ、動揺しているととんでもない手を指すことがあるという事実からも明らかである。
まだ寝るには早いし、考えなければいけないこともある、でもその前に頭をスッキリさせておくのがいいだろう、と先輩はご自身の鞄から折りたたみ式の将棋盤と駒を取り出して言った。もちろん「おじいちゃん」から譲られた高級盤駒ではなく、安価なものであるが、わざわざ持ってきてしまったのだし、後輩くんとしても先輩と対局するのはつらくとも至福のときなので、いい気分転換にはなった。
「お茶を淹れよう」
「あ、僕やりますよ」
「いいよ、君はゆっくりしていなさい。私ちゃんとティーバッグも持って来ているからね、こういうところのお茶もたまにはいいけど、やっぱり味わいが違う……」
少し早めの晩ごはんは、この駅前ビジネスホテルからも程近い食堂で摂った。
後輩くんは地元民なのであることは知っていても入ろうと思ったことは一度もなかった、「大衆食堂しおさい」という錆びかかった看板に色褪せた暖簾を出した店で、青白い蛍光灯に照らされた店内に他に客はいなかった。寒々しい店内の壁にはフチの黄ばんだ短冊メニューが出ていて、煮魚定食・焼魚定食・刺身定食のいずれかしかない。後輩くんは煮魚定食を、先輩は刺身定食を頼み、程なくして出てきたそれら、一口食べるなり二人して顔を見合わせてしまった。後輩くんは長らく忘れていた地元の鮮魚の味に、今日ここへ来て初めて、好意的な意味での懐かしさを催したし、先輩はただただ感動しているようだった。二人でシェアし合って、あっという間に平らげて、なんだかまだ少し足りない気がして焼魚を単品で出してもらえるかと頼んだら請け負ってもらって……。
先輩が嬉しそうに「とても感動した。これほどのお魚が頂けるなら、いい町だ」なんてことを言った。ずっと二人に料理を運んできてくれていた年配の女性が、その言葉に反応した。
「……あんたたちは、どこから来たんね」
赤州弁ではないが、訛りがある。どこかから嫁いできた人なのかもしれない。口ごもる後輩くんに変わって、先輩が「ちょっと所用で」都心から来たことを告げる。
「はあ、じゃあ、あんたたちはあの拝みさんたちじゃあないんね」
拝みさん……、大日氣弥益の人々ということだろう。先輩と二人揃ってぶんぶんと首を振ると、おばさんははっきり、安心したような顔になった。
「あっちにねぇ、ほれ、施設が出来て、ここんとこはあそこの人たちしかぁ来んようにのうてね。それより前は、『魚神』さんちゅうて魚屋さんがあってねぇ」
翻って表情が一変したのは後輩くんである。先輩にもよく知られていることだが、後輩くんはちょっとばかり迂闊なところがあって、地元が魚が有名な海街であって、大衆食堂でも魚料理を大いに出している、となればそのお店で出される魚はかつて、自分の家の卸していたものであったと当然一本の線で繋がっているはずなのに、完全に頭から抜け落ちて、無邪気においしいおいしいとはしゃいでいたのである。
「その頃は、いまよりももっともっとええ魚を出してもらうてたんがじゃねぇ……」
はぁ、と嘆きの溜め息を吐き出すおばさんは、単純に「もっと美味しい魚を食わせてあげたかった」という思いからそう言うのであろうが、後輩くんと先輩は全く違った受け止めかたをせざるを得ない。
先輩はあくまで冷静に、
「我々は所用で外から来たばかりで、ちらりと見ただけにすぎませんが、……その『拝みさんたち』は、かなりの支持を集めているようですね」
どうやら大日氣弥益からは距離を置いているらしいおばさんに、そっと訊いてみる。
「そうがよ。でも、あれぁ、金が掛かるがん」
ちらり、先輩が後輩くんを見る、後輩くんはこくりと頷いた。
「うちみたいなんはぁ、自分とこで精一杯やで、とてもとても。でも、あの人らぁ次の町長選挙では、誰かそういう人を担ぐんじゃ言うて……。どうなってまんだろいねぇ……」
途方に暮れたくなるのは後輩くんたちも同じであった。せっかく美味しかった魚の味も少し遠のき、すっかり暮れ落ちた道をとぼとぼと辿ってホテルにチェックイン、そしてまず何よりも「スッキリするために」と将棋盤を挟んで一局を終えて、今に至る。
「この町だけではないのだろうね。こうしたことが、いま、この国のあちこちで起きている」
先輩の淹れてくれたカモミールティーの、優しい香りに包まれながら、後輩くんは悲しい気持ちで呟いた。
「何も、こんな田舎町で……」
「まあ……、私は自分のパートナーが生まれ育った街をそう呼んでいいのか判断出来かねるけれど、……『田舎町』だからではないかな」
その言葉を少し苦く感じるのか、先輩は顔を顰めて言った。
「シンプルな話さ、……例えば、テレビのチャンネルの数が少ないというだけで、人々の得られる情報はずっと限定的なものになる。SNSにおけるエコーチェンバーは、オフラインにおいても起きるということさ。都心部、中央部、あるいは世代的に幅広く存在する地域であれば、同性愛者を排斥するような動きに対しては、『どうもおかしいぞ』と思う人が多数派を占める集団があって、それが存在感を発揮することが往々にしてあるし、現実の結果として都市部の人々に大日氣弥益が支持を受けているか、既に彼らの活動が成功を収めているかと言えば否だ。一方で……」
情報が限定化され、また住んでいる世代や世帯年収の近似しがちな「田舎」は、都市部においては淘汰される思想・宗教であっても市民権を得てしまうことがありうる。
「さっき、あの食堂のご婦人が町長選という話をなさっていたね。おそらく、そうした形で少しずつ支持を拡大していくつもりなのだろう。ある程度まで膨らんだところで一気に弾けることがあっても不思議ではない」
このとき、後輩くんは「そんなものだろうか」と、まあ、大好きな、そして敬愛する先輩の言うことなので、素直に頷いて飲み込んだ。
「……君は君のお母さまに会ったとして、どうするつもりかな」
この問いを向けられたとき、後輩くんには明快な答えが一つあるのだった。
「訣別します」
あまり声に出す言葉ではないな、とは思った。文語的で、また直截的だ。響きも強い。
出さずに済むのであればそのほうがいい類の言葉ではある。出会いと別れは人生において繰り返し生じるものであるが、不等号で、できる限り前者のほうが多くあってほしいものだと誰もが願うはずである。
無論、先輩だってそんなことはよく判っている。後輩くんの言葉をじっと受け止めて、そのことの是非を問うのではなく、次の段階を見据えるのだ。
「では、そのためにこそ、会わなければいけないね」
先輩は、具体的な人である。ものごとを現実的に捉え、どうしていくかの段取りを、冷静に考えられる人である。
「あの『会館』に乗り込んでもいいが、あそこにお母さまがいるとも限らない。そしてこの街の大多数の人が大日氣弥益を信じているとなると、私としてはそんなところに後輩くんを入らせたくはない、……仮令私が一緒であったとしても、ね。どうにか君のお母さまだけを呼び出して、一対一かそれに準ずる状況で話をする場を設けてもらえないか……」
一対一、というのは、後輩くんにとっても極めて重要なポイントだ。自分の母親と同じものを信じる人々、……その中には自分の友達のお父さんお母さんや、学校の先生だっているかもしれない中で相対して「訣別」するというのは、相当に難儀なことである。
しかし、一対一という状況を、おそらく「あちら」は避けてくるだろう。廣川が櫻木山会館にて先輩一人に退けられた上に、そのあと現れた真剣師御一行様+ヴェルデグリーン氏という物騒な団体にこてんぱんにやられたことはもう共有されているはずで、数的有利を作ることを原則に考えるだろうことは想像できる。
残念ながら、後輩くんには自分の理想を叶える方策が一つも思い浮かばなかった。
「ちょっと、一件電話を掛けてみようと思うがいいかな」
「はぁ……」
先輩はスマートフォンを頰に当てた。誰に掛けているのか、後輩くんは先輩のスマートフォンのディスプレイを覗き見るようなことは考えないので、知る由もない。
「やあ、私だよ、……久しぶりだね、元気かな。うん、急にすまないが、いま大丈夫かな」
ちら、と後輩くんを見て、
「いま私と一緒にいるよ。……ああ、じゃあ、先に声を聴かせてあげようか。スピーカーにするよ」
きょとんとしている後輩くんに、
「せんぱーい!」
という高く弾んだ声が聴こえてきた。
後輩くんの後輩くんであるところの、小熊寿羅くんである。
「どっ……、どうして彼女の連絡先を先輩がご存知なんですか」
「自分が教えたからっす」
「私が教えてもらったからさ」
改めて、小熊寿羅くんはボートレーサーであり、全国各地を飛び回って水面を駆けるという忙しい日々を送っているが、拠点はこの赤州からも近い、……と言っても六十キロほど離れた宝咲湖というボートレース場で、現在の住まいも宝咲湖近くだそうである。ボートレーサーはデビューにあたり、出身地から最も近いボートレース場が拠点になるのが慣わしだそうで、同郷の先輩に弟子入りして、操縦や整備の腕を磨くのである。
月のうち半分近くを競走実戦に費やし、また残りの大半は練習をして過ごす寿羅くんなので、後輩くんは仮に彼女がお休みの日であると判っていても、連絡を取ろうと試みたことはない。あと、寿羅くんには彼氏がいるので、あんまりこんなよくわかんない先輩が電話を掛けて貴重な時間をつぶさせてしまうのはよくないんではないか、なんてことも思っていた。
「あ、あー、えと、あの……、そうだ、初勝利、おめでとう、水神祭、あの、寒かったでしょう」
くはっ、と寿羅くんが噴き出す声が聴こえたし、先輩も少し顔を背けて笑いを堪えた。
「このタイミングで言いますかそれ。あーでも確かに寒かったっすよー、すぐお風呂いきましたもん、でも幸せでした。自分、勝つのが先輩への一番の恩返しだって思ってるんで!」
「僕の、友達……、友達でいいのかな、の子が、何人か寿羅くんの舟券当ててたよ」
「えーマジすか、それは嬉しい。あれっすか、先輩の友達って、中学生ぐらいの女の子連れた髪の毛まっきんきんのギャルの人っすか」
水面からでも金髪ギャルの外目黒さんは目立つし、女子中学生であるユノちゃんはボートレース場の観客としてはとても珍しいので、判るらしい。記念すべき寿羅くんの初一着の舟券を当てたのは、他に中寉さんと蒔田さん。
肝心の後輩くんは、そのころ櫻木山会館の檻の中だったのでそもそも舟券を買える環境ではなかったのだが……。
「実はね、寿羅くん、君に相談したいことがあってね。……私たちは今、呉暮町に来ているんだ」
「は?」
寿羅くんが声を失って数秒、「……は? あぁがなんもながあしょに、なにしに?」呆気に取られていたせいだろう、丸裸の赤州弁で問うた。
「寿羅くんは今年のお正月にご実家には帰ったのかな」
「えー、ああ、帰った……、と言えば帰りましたね。宝咲湖は年末の三十一日から五日まで毎年恒例の開催があるんで、その後ですけど」
「年末年始にお疲れさまだね。では、そのあとにご実家へ寄って、……気が付いたことはなかったかな」
そう訊くとき、先輩は穏やかな声だが、目元からは笑みを消していた。
「ああ、……えー……」
「君が気付いたかもしれないその『変化』が、実は後輩くんと私がこうして君の地元に来ている理由なのだけど、……そこまで言えば伝わるかな」
先輩の、示唆するところの多い問いかけに、寿羅くんは少し黙って、
「……先輩の、おうちのことっすか」
先輩よりもはっきり精神的な負担を感じていることが明らかな声で応じた。
後輩くん、「神楽坂」という苗字は、赤州でも珍しいものである。呉暮町では後輩くんの家しかないし、もうちょっと広く見ると、赤州神戸に二世帯ほどあるのだが、いずれも後輩くんのお父さんのきょうだいの家である。よって、「神楽坂」という姓を赤州周辺で見ればいずれも後輩くんと縁のある人という見方をして間違っていないし、こと呉暮町に限れば「後輩くんのおうち」ということになる。
「端的に問いたい。しかし、その答えによって私や後輩くんの君に対する感情が少しも変わらないことをあらかじめ誓っておくけれども、……寿羅くんのおうちは、大日氣弥益の信徒になっているのかな」
先輩は顔と声の表情を普段と少しも変えずに問うた。
寿羅くんは、数秒沈黙を挟んだ上で、
「はい」
と、少しの困惑を滲ませた声で返した。
「それは、いつごろから? うちの後輩くんは去年の春にそっちを離れて、こっちの大学に来ているわけだけども」
はー……、と薄い溜め息が聴こえた。
「お正月の開催明けに、実家帰ったら、なんか……、よくわかんないんすけど、そういうグッズいっぱいあって、見たことない仏壇も。……自分、おばあちゃんが小学校のときに亡くなってて、実家帰ると一番におばあちゃんとこ挨拶行くんです、手ぇ合わせて、ちゃんと無事に帰って来ましたって。出るときは、これからもお守りくださいって。でも」
その仏壇の、向かいに新しい、金色と紫のカーテンをあしらった大日氣弥益の仏壇があったそうだ。いや、大日氣弥益は仏教ではないので正確には「仏壇」ではないのだが、寿羅くんにそこまでの正確さは求められまいし、形としてはそれに近いものなので、便宜上はそう取り扱うこととしよう。
「周りの家、みんな入ってるから、うちも入ったって。入ると、なんか、八百屋さんでお野菜が安くなったとか、あと、新しくできた魚屋さんがサービスしてくれるとか、そういう……」
「新しくできた魚屋さん……」
後輩くんは思わず呟いてしまった。さっき食堂のおばさんの話を聴いていなかったら、もっとつらい動揺を催していたかもしれない。
「うちの両親、昔から周りに合わせるタイプで、……誘われて、みんなやってるって言われると、やっちゃうんすよ」
言葉は悪いが、田舎はそういうものだろう。意見が一揃いしやすい。というのは、横のつながりが強固な環境で孤立してしまうと、いろいろと不都合が生じる。一方で、「サービス」という形で優遇されるのであれば、ブレーキは効き難い。
「寿羅くん自身は、どうなのかな」
寿羅くんは、黙り込んだ。
「君も、当然お父さまお母さまから誘われたのではないかな。……君は、呉暮町では有名人だ、いまでも駅には君のボートレーサーデビューを祝する垂れ幕が掛かっていたね。ああ、誤解はしないでくれたまえよ、君がお父さまお母さまの求めに応じて『彼ら』の信徒となることには少しの問題もないと思っているので」
そこまで先輩が言った末に、寿羅くんはまた、細く溜め息を吐き出した。
「……だって、入ったら、なんか、両親喜ぶって言うんすもん……、そりゃ、『変なこと言ってんなぁ』って思いましたよ、そりゃね、だって、……同性愛者の人ダメだって言うんでしょ」
「同性愛者がダメ、というか、彼らの主張の根底にあるのは百年ほど前に主流だった価値観だね。復古主義的と言ってもいい、『家』あるいは『家族』というものの形に対して強いこだわりがあって、それから外れるものは徹底的に攻撃し排除しなければいけないという考えを持っているという解釈でよかろう」
「自分は、ほんと言うと、そういうの嫌っす」
暗い声で寿羅くんの紡いだ言葉は、後輩くんにはずいぶん救いだった。
「だって、……自分らは、ファンあっての仕事ですもん」
ほう、と先輩が続きを促す。
「ファンの人、……いっぱい、いろんな人がいるわけっすよね。その、やっぱりおっちゃんが多いですけど、でも、神楽坂先輩みたいな人もいるし、あの金髪のギャルの人とか、女子中学生とか、ひょっとしたらもっと他にもいるかもしれないし、その中には同性愛者の人だっているかもしれないですよね? そういう人たちに、『あなたたちはダメです』って言うのは、仕事じゃない、商売じゃないって思うんで……」
昔、将棋で後輩くんに任されてめそめそ泣いていた子とは思えない。後輩くんは寿羅くんを、ボートレーサーになりたいという夢を叶えた時点で立派な人だと尊敬していたが、きちんと筋の通った考えを持っている人だと知って、歳の上下は関係なく、改めて尊敬の念を強くする。
「君の言うとおりだ。ある属性を持つ人たちを排除するという考えは、仕事、商売という点においてはマイナスでしかない。君がそのことを理解している人でよかったし、君という後輩を持つ人のパートナーであることを私自身誇りに思うよ。そうだ、君の水神祭の舟券を買って大いに儲かった人物、私たちの知り合いにもう二人いてね。その二人というのは、それぞれ同性のパートナーを持つ青年たちだよ」
「ありがとうございます、って伝えてください、あと、おめでとうございますって」
寿羅くんの声が、柔らかさを取り戻していた。後輩くんも、ほっとする。後輩くんの立場であったとしても、両親がその宗教に入信して、自分もそこに名を連ねることで二人が幸福になるのだと言われれば、はたして断ることが出来るだろうか。名前を書くだけだろう、ぐらいの気持ちできっと認めてしまうのではないだろうか? ごく一般的な感覚である。
もっとも、「一般的な感覚」で出来てしまうことだからこそ、いま、この町は今日見てきたような状況になっているのだが……。
「……それで、あの、先輩たちが掛けて来たのって……?」
「ああ、うん、……君に、ちょっと調べてもらいたいことがあってね……。君の『先輩くん』の、お母さんの所在を知りたいんだ。君が入信しているならば、ひょっとしたらコンタクトを取れるのではないかと思って」
なるほど、と「先輩くん」こと後輩くんは納得した。後輩くんが呼び出せば、到底一対一での面会は叶わない。一方で、会いたがっているのが後輩くんであることを隠して呼び出すことが出来たならば……? 少なくともあの「呉暮町会館」にぞろぞろ居たような町の人々に囲まれて、言うなれば完全アウェイの状況での面会を強いられることにはならないだろう。
詳しく事情を話しているうちに、寿羅くんの纏う空気が徐々に暗く冷たくなっていくのが判った、……それこそ、顔なんて見なくてもはっきり感じ取れるレベルに。
だって、それも当然のこと。
「……その、先輩と、先輩さんたちが騙しうちするのの手伝いを、自分とか自分の親にしろっていうことっすよね……?」
そうなのだ。
それが明らかになったとき、団体の中における立場が悪くなるのは寿羅くんと寿羅くんのご両親である。
しかし、先輩は顔色を変えない。
「君の尊敬する神楽坂先輩くんのためにそうしてくれたら助かるのだけどね。ああ誤解なきよう言い添えておくと、このアイディアは、いまのいままで私の頭の中でのみ組み立てていたものだ。神楽坂後輩くんはいま私の目の前で真っ白な顔になっているよ」
先輩にとって確かに「神楽坂後輩くん」は可愛くって可愛くって仕方がない、目に入れたって痛くないぐらいのパートナーである、……先輩にとっては、そう。でも、寿羅くんにとって「神楽坂先輩」は、まあ、多少は思い出深いところもないではないだろうけれど、それでもただの先輩である。彼女にはちゃんと、男性のパートナーがいて、家族もいて、そしてボートレーサーとしての仕事もある。自身や大切な家族の立場を危うくしてまで「神楽坂先輩」を助けてやろうかという気持ちになるのは、なかなか難しい。
成果を求めることが酷であるばかりか、そもそも期待することが罪深くさえある。
「……すいません、あの、すぐには答えられないです。それは、あの、自分もちろん、先輩の助けになりたい、……先輩のおうちが、この宗教のことですごく環境変わって、先輩大丈夫なのかなって思ってたところは、あります。でも……」
「あの、……あのね」
後輩くんは慌てて、可愛い後輩の寿羅くんのために言った。
「気にしなくていい、君は、だって、……だってね、家族だよ、お父さんとお母さんを大事にしなきゃ、ね」
慌てているので、なんとも通りの悪い、あわあわとした声になってしまった。寿羅くんは小さな声で「すみません」と言って電話を切った。
先輩は悪びれもしない。目的を果たすためにはどんなことだってするし、ことが後輩くんの身の安全に関わることとなれば、それこそどこまでも冷たい合理性を、信じ難い勇敢さで発揮してしまうのが先輩である。そういう人とパートナーになったことは、後輩くんもよく判っているので、なんとも言葉が出てこない。逆に、そういう先輩だからどっちか判らなかろうと好きになったのだという側面もある……。
「待って欲しい、と言われたのだから待つさ。そして、並行して別な手段も考える。例えば……」
先輩が言いかけたそのとき、待ち受け画面が消えていたスマートフォンがまた光り始めた。今度は、誰が掛けて来たのか判った、「皐醒」との表示、蒔田さんである。




