峠を越えて
先輩のことが、ほんのいくつか判るようになった後輩くんである。
○
後輩くんの実家は赤州の海沿いの街にある。
赤州というのは南北に細長い形をしていて、二つの県に跨っている。地勢としては、南部が山、北に行くに連れて平野部となり、後輩くんが住んでいた街は最北端と言ってよい半島にあって、半島を人の横顔に準えるならば、後頭部に位置する。新幹線が赤州を東西に突っ切って走っていて、赤州唯一の新幹線駅「赤州神戸」があるのだが、後輩くんと先輩が住んでいる都心からここまで新幹線の各駅停車で二時間(俊足のやつは一個も停まらない地味な駅なのだ)掛かるのに、ここから後輩くんのふるさと「呉暮町」までは幹線の特急とローカル線の鈍行を乗り継いで合計三時間かかる。
先輩の口数が減ってきたな……、と思う。
普段、新幹線に乗ることなんて滅多にないと言っていた。まず、先輩の一族のみなさんは揃って都心かその近郊に住んでいらして、わざわざ「里帰り」みたいな大袈裟なことをしなければいけないシーンがないのだそうで。
また、探偵さんのお仕事というのは、概ね地域密着型であって、調査対象を追いかけて東奔西走というのもないではないが、そうした大規模で出張費が嵩む依頼は大体ほかの有能な探偵さんたち、場合によっては所長が引き受けるのだそう。
だもので、新幹線では「いや、君は後輩くんなのだから窓際に座るべきでは」なんて言っていたけれど窓際に座らせてあげたら夢中になって窓の外を見ていたし、リクライニングは後ろに人がいなくなったタイミングで思いっきり倒していたし、トイレにも二回行って、二回目はなかなか帰ってこないなと思ったら「グリーン車を覗いてきた」なんて言うし、大変テンションが高かった。
赤州神戸で乗り換えるときには、小雪舞う在来線のホームでお蕎麦を食べて、それもまた大いに嬉しそうで、ほっぺたを赤くしてお蕎麦を啜る横顔のあんまりの可愛さに、僕ほんとうにこの人のパートナーになったんだろうかって後輩くんは胸が苦しくなってしまうぐらいに感動したのだけれど、特急に乗ってしばらくして眠くなり始めてしまったご様子。更に乗り換えたローカル線のディーゼルカーには「なんだかぶるんぶるん言っている」「座席が全部ボックスだ、これは旅情というやつでは」と俄かに元気を取り戻したけれど、十分も経たないうちにまた静かになってしまって、……いま、とうとうこっくりこっくりと船を漕ぎ始めてしまった。
車窓は、雪が深いわけでもないし、かといってものすごい荒れた海沿いを走るわけでもない。きっとこの国のどこに行っても似たような景色はあるのだろうなと思う、階層は低いがゆったりした間取りの民家、こんもりとした森を背負った神社、二十年間眠り続けているような工場、やけにメタリックな公民館……、つまり、見どころに乏しくて、飽きてしまったのであろう。
では後輩くんは飽きて眠くなったりしないのかと問われれば、……先輩を見ているのでそこらへんはだいぶ平気である。
先輩の寝顔を見るようになった、これは、ものすごいことだ。先輩の寝顔というものは、例のホテルで後輩くんの睡眠負債を補填するための時間の中で後輩くんが微かに目を覚ましたとき、偶然見ることが出来るだけのものだった。
……ついほんの一昨日のことだ。
後輩くんが大日氣弥益の施設「櫻木山会館」から救い出され、一緒にホテルに泊まって、お互いのことを明確に認識あるいは定義した次の朝、後輩くんが目を覚ましたとき、先輩はまだ寝ていた。
その寝顔を見たとき、後輩くんは自分がいま夢を見ているのではなくて、本当にこの小さな人、可愛い人、何よりも尊敬出来る人と一緒に生きていく現実の世界にいるのだと思って、胸が苦しくなった。この人と一緒に生きていくということは、この人の、この甘やかな眠りが、スマートフォンのアラーム以外のいかなる理由で途絶えることがありませんようにと祈ることなのだと気付いた。
先輩が後輩くんを信頼しているからこそ、こうやって移動中に無防備に寝入ることが出来る
この、可愛らしい、無垢な、……そう、天使の寝顔を見せられるということは、先輩がもう百パーセント後輩くんに気を許しているからで、信頼しているからで……。
この人にパートナーとして認めてもらえた喜びが、後輩くんの中に染み渡るように広がる。
窓の外では家並みがまばらとなり、俄かにディーゼルカーはうんうんと唸りながらも速度がぱったりと落ちた。半島の基部にある峠に差し掛かったのだ。「波境峠」という名前の峠で最高地点でも標高はそれほど高いわけではないのだが、険しく、線路はその急坂にちょっと挑もうとしては諦めて迂回し、またちょっと頑張ろうという気を起こしては「やっぱ無理」って遠回りを選ぶ……、の繰り返し。峠を越え切るまで集落らしい集落もないので、およそ二十分にわたって駅も設置されていない。季節によっては鹿や猿、あるいは熊の姿を車窓に見ることも出来る、なかなかの秘境感が滲む。
でも、先輩をわざわざ起こして「すごいでしょう」と言うほどのものでもない。
この波境峠で赤州の大きな都市と隔てられているもので、後輩くんのふるさとはずいぶんな田舎になってしまう。乱暴な響きである赤州弁はこの峠を越えても濃度が薄まることなく誰もが口にするのだが、例えば赤州神戸あたりの人から言わせると「峠んが先ぁ、セーのがっ地ゃら(波境峠の向こうは別な国のようなものです)」とのことで、ずいぶん低く見ているのだ。
それでもちゃんと街がある。
長いトンネルを超えたとたんに、唸る必要がなくなってぷすんと静かになり、ディーゼルカーはかたんことん、かたんことん、コロコロカラカラと音を鳴らして坂を下っていく。
久しぶりのふるさと。
先輩にバレないように、表情には出さないよう気を付けてはいるけれど、後輩くんの胸の中には冷たい霧が立ち込めている。
家はどうなっているだろう、母は、……後輩くんの人生の線路が大きく乱れるきっかけとなった、おじいちゃんとおばあちゃんは。
後輩くんのお父さんは昨日別れ際に、
「ちょっと、ちょっと待っとけ」
と言い置いて二人を待たせ、いまの住まいである寮まで大急ぎに駆けて行き、息を切らせて戻ってきた。
「こっ、……これを、はぁ……、これを、持っていけ」
細長い茶封筒に入った、何か、紙。茶封筒にはスーパーの銘が入っていたから、たぶん会社の書類の授受に用いられていたものだろうと想像する。
「離婚届が」
「えっ」
「こっちのは、もう、名前も書いてある、ハンコも押した」
お父さんは、額に浮かんだ汗を拭い、ニカッと笑って見せた。
「こっちは覚悟決まっとうが、この先は話し合いがじゃ。な。向こうが何を言ってくるかはしらんじ、こっちにも言いぶんってもんがある、それをやりとりして、落ち着くべきとこに落ち着かせるっていう、それだけの話が」
先輩がいるから、赤州弁を少しマイルドにしてお父さんは言う。
「……まだ、結論を出すには早すぎるのではありませんか」
先輩は静かな声で言う。しかし、後輩くんには先輩が少なからずの狼狽をしていることはうかがえた。
しかし、お父さんは全く揺るがなかった。
「親が子にしてやれることが、……成人した子供にしてやれることが、もしもあるならば、それはね、ただ、迷惑をかけねえ、人生の邪魔にならねえっていう、それだけなんですよ」
後輩くんは、お父さんがそんなことを考えていたなんてこれっぽっちも知らなかった。
優しい、優しい目をしてお父さんは言う。
「俺らはねぇ、こいつにずいぶんと迷惑を掛けちまったんです。重しになっちまうようなことは、ね、少なくとも俺はしたくない。もしもあいつにまだ、母親としての矜持があるってんなら、判を押してくれるでしょうよ。必ず押してくれるでしょうよ」
お父さんの思うところを、後輩くんはちゃんと理解しているつもりだし、同じほど期待し、願っているつもりでもある。
ただ、残念ながらお父さんほど楽観的ではないのだった。
昨晩、旅支度のために先輩と「おやすみなさい、また明日」という言葉で別れて、一人の部屋に戻った後で、後輩くんは何度か躊躇ったすえに、電話を掛けてみたのだ。十円玉を何枚も握り締めて、公衆電話を探してあちこち彷徨い、結局、猪熊駅まで戻ってくる羽目になってしまったのだが。
誰にって、お母さんに。
結論から言うと、電話は通じなかった。公衆電話からの着信だという理由で出なかったのか、それとも「公衆電話」から自分の息子からの着信であることを察知して出なかったのか、真相は不明である。公衆電話を探し彷徨ううちに十時を周ってしまっていたし、単に眠ってしまっただけだったかもしれないし、たまたまお風呂に入っていたタイミングだったのかもしれない。
わからない。
繋がったとして、自分がどんなことを言うつもりだったのかも、実のところ後輩くんには判っていないのだった。ただ、仮に電話で済むのなら、わざわざ先輩を連れて、後輩くんの不幸の現場まで連れて行くことはないと思ったのである。
後輩くんはポケットの中に念の為にと百円玉を二枚ほど入れて来ていたが、結局それを使わずには済んで、代わりに往復二万という大金を使って赤州を目指すことになっている。
節約のため。
いいや、そうではない。自分のスマートフォンから鳴らせば、自分が電話を掛けたことが知られる。それがなんだか癪だった。後輩くんはつまり、もうお母さんと接したくないのだ。それを自分自身ではっきり確かめるための、夜の彷徨、あるいは、気分転換の散歩。
廣川に見せられた、演出感たっぷりの映像を後輩くんは苦く思い出した。冷静になってみれば、あれはもう、本当に笑ってしまうぐらいのペテンである。しかし一般的な人間は自分の母親が虐げられているシーンを見せられれば心が折れるものであるという、心理を、いや真理を突いたアイディアであった。なりふり構わず後輩くんを、というよりは先輩を止めなければいけないという大日氣弥益側の危機感が露呈していたと見ることもできるし、それだけ彼らが「家庭」とか「親子」というものを尊んでいるのだと解釈することもできる。そしてまた、あの場で廣川の脅しに屈することなく背筋に力を入れ直した後輩くんという人は、もはや家も親も必要としない人間だという意味でもあろう。通りのいい言葉を用いるならば、後輩くんはとても「ばちあたり」な存在なのだ。
お母さんにはもう、櫻木山会館で後輩くんが見せた態度は伝わっているはずだ。
ふるさとに、お母さんのもとに直接足を運ぶことにしたのは、ぼんやりとした言いかたの中に包括される例外、異分子である人間として、異を唱えるため、……以外の意義はない。そして、そんなことをするために貧乏な後輩くんが赤州まで出ていくのは、端的に言えばナンセンス。
けれど。
窓の外に、消防車にはねられたときに後輩くんが担ぎ込まれた病院のシルエットが、薄い雪の膜の向こう、灰色に横たわっていた。
無意識のうちに前髪の陰の額に右手の指先で触れる、少しだけ、痒くなったような気がしたのだ。もう塞がって、跡が残るばかり、顔を洗うときを除けば気にすることなんてもうほとんどなくなって久しいのに、気持ちの上下に応じて、いまだにこうして疼きを感じる。どんな顔をしてその事実を受け止めたらいいのやら、後輩くんにはいまだ判らなかった。行こう、と思ってこうして来て、ディーゼルカーを降りた後、どこへ行くか、何をするかということに具体的なアイディアなんて一個もないのだ。そんなおぼつかない道行に先輩を付き合わせてしまったわけだ、せめて風邪をひかせることだけはしないように……。
あるいは、ただ観光するだけで帰ってもいいかもしれない。
美味しい魚が食べられる、という期待を先輩は抱いているようだ。魚屋の家のこどもだったもので、多少はそのあたりのことについては明るい。どこへ行けば美味しい魚を食べられるか、寿司ならあそこがいいな、あそこの食堂も、小さいけど意外なぐらいにいいものを出すんだ、なんてことを、後輩くんは知っている。だからもう、先輩を楽しませてあげられるだけでも十分かもしれない……。
まだ午後二時を回ったところなのに、なんとなく薄暗く見える窓外から車内に視線を移す。向かいの席の先輩は、ボックスシートに斜めになっているところだ。
先輩は先ほど「旅情」なんて言葉で優しくラッピングしてリボンも付けてくれたけれど、都心の電車とは比べものにならないほど古いのである。おんぼろと言い換えてしまってもいいかもしれない。鉄の車輪がレールの継ぎ目を踏み越えるたび、先輩の小さくて軽い身体はばゆんばゆんと揺れる、……ボックスシートの座面のスプリングもだいぶばかになっている気がする。青いモケットのボックスシート、窓の桟には後輩くんが小学生をやっていたころの年代を添えてどこかのカップルの相合傘が刻まれている。壁は緑色のような青色のようなそのどちらでもないようなもさっとした色で、車内には先輩と後輩くんを除くと片手で数え切れてしまう程度のお客さんしか乗っていない、そしてそのいずれも、おじいちゃんでありおばあちゃんである。みんないっしょになって弾んでいる。
僕の生まれ育った世界ってこんな感じだ。
小さなディーゼルカーが大義そうに身体を揺らして、峠によって隔絶された小さな世界の内と外とを行き来する、「向こう側」が後輩くんのいた世界、「こちら側」から見たとき、あまりに狭くて、暗くて、貧しい世界。
ききききぃいいと高いブレーキ音がして、それ以上に大袈裟なGが身体に掛かって、命を削るように停車したディーゼルカーは、ぷしゅうん、と溜め息を吐いた。後輩くんの通っていた高校の最寄駅だ。いま後輩くんが乗っているのは単行、すなわち一両だけのディーゼルカーだけど、通学時間帯には三両編成にして、それでもデッキまでぎゅうぎゅうになってしまう。まだ授業の終わる時間ではないので、奥行きは狭いけれど三両ぶんが停まれるのでやけに細長く見えるホームに人影はなかった。後輩くんは、これは二年生のときのことだが、ある日の三時間目の授業を受けているときに具合が悪くなって早退した日のことを思い出した。あれは確か二月の下旬で、だからちょうどこれぐらいの時期で、こんなふうに細かな雪が降る寒い日。悴む指先を温めながら、日中は一時間に一本もないディーゼルカーを待っていた。
灰色の膜をおでこのライトで掻き分けるようにして走ってくるディーゼルカーは、やけに温かみのある表情であるように見えた。ただ、それだけだ。後輩くんは病院にも寄らず、まっすぐ家に帰った。店先で指先を吐く息で温めていたお父さんは「おう、どうしちゃが」と目を丸くしたし、お母さんはあまり食欲のない後輩くんのためにちゅーちゅー吸うゼリーを買いに走ってくれた。まだ平和だったころの、かけがえのない記憶。
そういった、自分がこの街で生きた時間の一部に、「青春」という名前を付けることには、少なからずの抵抗がある後輩くんだった。例えば、小熊寿羅くんが「先輩!」って言う声のほうに、まだなにがしか、そういう瑞々しいものを感じたい。
あるいは。
先輩を見る。都心の電車よりも、なんとなく薄暗く感じる車内で、ちょっと寝心地悪そうに眉間に皺を寄せて、でもまだ眠りに執着している人が、自分の世界に現れたその瞬間を……、あるいは、今を、いつか「青春」と名付けて呼ぶ時間が来る予感を、うっすらと、後輩くんは覚えている。そんなことを言ったら先輩は「君はときどき面白いことを言うね」なんて笑われてしまうだろうか? それとも、もっと優しい言葉をくれるだろうか? いつかこの時間を振り返って、なんと呼ぶか迷ったとき、一緒に検討してくれるところに先輩にいてもらえたら素敵だと思うのだが、これはいくらなんでも甘ったるさに過ぎる妄想だろうか。
哀しげな踏切の音が尾を引いて流れていった。
後輩くんは、先輩がいまここにいることを確かめる。多くのものを後輩くんは十八十九という二年間で失って、眠りのリズムも乱して、ことによっては自身の健康さえ失ってしまいそうになっていたところで先輩と出会って、救われて、いまもここに、先輩と一緒にいる。
楽しかった日々のことが遥か遠くに深くに見えるほど深い悲しみの湖の中へ先輩と共に戻ってきた。先輩が一人いるだけで、正負の記号が全て逆転したなら素敵だけれど、空を海に変えてしまったなら後輩くんにとって幸せに羽撃ける場所が今度は沈んでしまって、それで困るのは中寉さんや蒔田さん、大切な大切な友人たちである。
彼らのもとへ先輩と一緒に帰るために、またいっぱい笑うために、いま、束の間の悲しみを。
後輩くん一人では心許ないから……、という言いかたはしなかったけれど、きっとそういう思いがあればこそ、一緒に赤州へ行くことを先輩は選んでくれたのだ。あんまり甘えるわけにはいかないけれど、同じ歩幅で歩いてくれる人への感謝をこの旅の道中、いや、猪熊で、都心で、過ごす時間の一秒だって後輩くんは忘れない。起きているときはしたたかで凛々しさも漂うけれど、寝顔はこんなにあどけない先輩の表情が、少しだって曇ることがないように、後輩くんが元気にいられる世界はまず後輩くんの手によってこそ、構築されなければいけない。
赤州の街としては最北端に位置するのが、呉暮町である。ここより北へもまだ線路は続いているが、街、と呼べるのは呉暮町が最後である。
もとは「呉墓」という地名であったそうだが、地名としては致命的に字面が悪いということもあって、江戸末期だか明治初期だかに「呉暮」に字を変えられたという経緯を持つ。とはいえ「呉墓」というのは本当にこのあたりの豪族であった「呉家」の墓があったと伝えられるからで、別に縁起が悪いというものではないのだが。
海の近く、寒々しい、なんてことのない地方都市である。テレビのチャンネルは四つだけ、コンビニは駅の隣に一軒、午後六時に閉まるし日曜は休み。町内に小学校と中学校が一つずつで、実質「義務教育学校」の趣であり、後輩くんも小熊寿羅くんもここを卒業した。
名産は鮮魚ならびに鮮魚加工品。景勝地と呼べるほどのものはないが、ここからもう十キロ北、半島の突端まで行けば二時間ドラマのラストシーンの撮影に良さそうな断崖絶壁などがあって、そこへのアクセス拠点として一応駅前にホテルが一軒、町の北の海岸線にももう一軒ある。
ただ、ご想像の通り、いつでもちゅんちゅん閑古鳥が鳴いている。
「……いいな」
自分たちを乗せてきたディーゼルカーが去り行く音が膨らんで、相変わらず細かな雪を降らせる空へ広がる駅頭に立って、先輩は呟いた。
「……いい、ですか?」
「うん……、いい、とてもいい……」
黒い傘を差した先輩は夢見るように言う。傘は、七十センチの、つまり普通の傘なのだけど、先輩が差すとやたらにでかく見えてしまうそれを少し傾がせて、
「素敵なところじゃないか、後輩くん。君のふるさとに来ることが出来て、私は嬉しい。なんだかまるで、君というおよめさんをもらうために挨拶に来たみたいじゃないか」
と言った。先輩はもう後輩くんのお父さんへの挨拶は済ませているし、お母さんにあるとしたらそれは「挨拶」という言葉の定義からは少々外れた用件になることが避けられないのだけれど、そうした道理とかは無視して、先輩が後輩くんの心をかき混ぜるために言ったのである。
後輩くんは先輩を相手にするととても単純になるので、容易くかき混ぜられる。
「……でも、あの、住むには適していません。何もないところです。コンビニはそこにあるのだけです、あと、娯楽もありませんし……」
「ふむ、そのようだね。ボートレース場もないようだし、プロ野球の試合をやる規模の野球場もなさそうだ」
「先輩、野球お好きだったんですか」
「こう見えて小学校のときはピッチャーをやっていたんだ。体格がこれなもので、すぐに諦めてしまったが」
児童時代の先輩に思いを馳せて、……いまとあんまり変わらない姿を想像するという無礼を脳内で働いた後輩くんだった。
とにかく、何かりっぱなものが一個でもあるわけでもない街であって、呉暮駅の平家の駅舎はだいぶ黒ずんでしまっているし、駅前のロータリーはタクシーが一台停まっているだけ。ロータリーの中央には、なんだか示す時刻に信頼が置けない時計が立っていて、目を引くのはその時計が着ている服というか、垂れ幕である。
「祝 小熊寿羅選手(呉暮中学校卒)ボートレーサーデビュー おめでとう」
先輩もそれに気付いて、なんとも言えない表情を浮かべた。先輩の可愛い後輩くんの可愛い後輩であった寿羅くんはボートレーサーになって、つい先日見事にプロ初の一着を獲った。後輩くんは櫻木山会館に監禁されていたためそのレースをリアルタイムで観ることは敵わなかったのであるが、あの子が……、そうかぁ……、と込み上げるものがあったのは事実である。
ただ、小熊寿羅くんがボートレーサーとしてデビューしてから短からぬ時間が経過していて、いまだその垂れ幕が掛かっているというのは。
要は、この地出身の人間として史上もっとも有名な存在が寿羅くんなのである。彼女の存在は呉暮町の誇りであるが、まだまだ駆け出しの彼女を誇りにしなければいけないというのは、少しばかり恥ずかしい気がする後輩くんだった。
「私は、何ごとも流れが早過ぎてあくせくしている都会に生まれ育ったものだから、こういう空気も悪くないと思うけどね」
先輩は穏やかに、でも同時に、とても可愛らしく笑って言う。
「君がいるところだったら、私にとってはそれだけで『いいところ』になってしまうんだよ。大学の屋上も、沼のほとりも、場末のラブホテルの中でもね、つまりここも例外ではないということだ」
もうこの人は僕のパートナーなのだということを、先輩は折に触れていろいろなやりかたで後輩くんに伝えてくる。いま、触れた指先をきっかけに後輩くんの頬が少し赤くなるのを、面白そうに観察して、……背伸びをして、唇を当てる。誰に見られたって知ったことか、私はこの子のパートナーだと、堂々としたものだ。反射的に知り合いがいなかっただろうかと周りを確かめてしまう後輩くんは、相変わらずせせこましい。
「では行こうか、私の後輩くん。まずは君のご実家の魚屋さん、……だった場所へ案内してくれるかい。ああ、いまも現役の魚屋さんでないことが私にはあまりにも悲しいよ。私は肉も好きだがそれ以上に魚がね、あればあっただけ食べてしまうので、……そう、だから、私を回転寿司に誘うときにはくれぐれも用心しておきたまえよ」
こういうところが、とても猫っぽい。今日は先輩が持っている三着のうちで、一番暖かいダウンを着ていて、輪郭が黒く大きく膨らんで、丸っこいもので、なんだか余計に猫っぽく見える。




