家族というもの
何の変哲もない「後輩くん」だと思うのだ。思うっていうか、もう、変哲もない、価値もきっとそんなにない。
それなのに、先輩は本当に、……本当に嬉しそうに、ジンジャーレモンのお湯の中で後輩くんを抱き締めてくれたのだ。そしてどうやら先輩にとって、大事な後輩くんの象徴であるおでこの傷に唇を当てて、
「そうだったのか」
と溜め息を漏らした。
後輩くんは身の縮こまるような思い出ある。
「……です。けど、そんなにいいもんではないですよね。あの、だって、先輩の周りには素敵な人たくさんいるんです。僕はその、素敵なみなさんの中で、こんなのがいちゃっていいのかなっていつも思って」
「なぜ? 君はとても素敵だよ」
自分より背の小さな、そして童顔で、……うん、中学生ぐらいに見えるんだよな、中学生とこういうホテルに来たらダメなわけで。これまでも先輩は煙草を吸ったり、ウイスキーを飲んだり、その身体でそんなことしていいんですかって心配になるようなことをいっぱいして見せてくれてきたけれど、これは……。
「いま君を見て、嬉しいと思う、素敵だなと思う、……これは、少し執拗に思われるかもしれないけど、それでも敢えて言うんだけど、君がもうここにはいない君の半分でなくてよかったということではないからね。君がそちらの姿であったとしても、私はきっと同じ気持ちになっていると思うんだ」
気持ち。
はい、と後輩くんは頷いて、先輩を抱き締めて、髪に頬擦りをする。可愛いなぁ……、可愛い、本当に、可愛い。でもひとたび外に出ると、もう、こんなにカッコいい人いないよなってぐらいに強くて。仮に先輩の性別が逆であったとしても、僕は全く同じ気持ちになっていたんだろうなって後輩くんは思う。
「っていうか……、あの、先輩は本当に僕がどっちだかお判りになってなかったんですね」
「……ごめんなさい」
「いえ、あの責めてるんではなくて」
後輩くんの腕の中で、先輩がぎゅっと小さくなる。
「だって、……だって、仕方ないだろう。君は……、了だって『あの人どっちですか』って訊いてきたぐらいだぞ」
「まさかぁ。……あの、でも中寉さんたちは、先輩がどっちかってことはご存知なんですよね?」
「そりゃね、そんなの訊くまでもないことだろうし……」
先輩は俄かにまた不安を催したらしい。
「私は、……君を失望させてはいないだろうか。こうでなければよかったって、思わない?」
どうなのだろう。後輩くんは実のところ、自分が自分よりずっと小さくてあどけない見た目をした相手に強い興味関心を携えて生きてきたわけではない。けれど、先輩を見ていると、どうも自分はそういうたぐいの人種だったのではないかという気がしてくる。
「それはぜんぜん、ほんとにぜんぜん」
ぎゅ、と抱き締める。先輩は恥ずかしそうにしながらも、後輩くんの背中に腕を回す。力が掛かっているのは腕だけであるが、肌そのものがぴったりと吸い付いて、抱擁してくれているようである。可愛い顔、頑張って凛々しさを保つべく目には力を掻き集めて、間近な距離で後輩くんを見つめている。
「先輩あのね、僕、先輩が言ったこと、先輩が先輩の声で言ったこと、たくさん宝物だなって思ってるんですけど」
「……私そんないろんなこと言った?」
「たくさん。なかでもね、先輩が言ってくれたことで、僕の人生を変えたぐらいのものがあって」
「そんなだいそれたことを言っていたのか……」
先輩にはあんまり自覚はないのかもしれない。それでいいんだと後輩くんは思う。先輩が衒わずに口にしたあの言葉が後輩くんの道を照らした。色々と迷うこと惑うことは先輩と出会ってからもたくさんあったし、今後もきっとたくさんある。けれど、先輩の言葉が照らした一本道を外れることなく歩いてきて、こうして先輩に辿り着いた。だから後輩くんは、先輩の圧倒的なまでの正しさを信じるし、これからもその言葉を大事に人生を歩いていくつもりである。
「僕は先輩と生きていきます。先輩のパートナーとして、ずっと」
先輩はきっと、「たいしたこと言ってない」ぐらいの感覚だったのだ。というのは、先輩にとってそれはごくあたりまえのことで、ほとんどもう、無意識にしているってだけのことだったものだから。たまに必要が生じて、あえて言葉にしてみるならばそんな感じ……、というもので、だからつまり、それが先輩にとってはものすごく「本当」なことなのだ。
だから後輩くんは先輩を信じる。
「……まあ……、私が君に何を言ったのか判らないけど、そうだね、それで君が私を『いいな』と思ってくれたなら……。でも、ねぇ後輩くん、私なんて言ったの? そんなにいいこと言えるなら、今後もそれ使いこなして行くのもいいなと思ったんだけど」
意識して操ってはいけないタイプの言葉だろう、きっと、途端に軽くなってしまう。だから、いつか後輩くんが本当に先輩と一緒にお風呂に入って、一緒のお布団に入って、そこに付随する行為も含めて、二人が二人で過ごす時間が当たり前のものとして成立し、何十年も経ってどうしてもお別れをしなければいけなくなったときに、感謝の気持ちを込めて伝えようと思う。
今夜はその、最初の時間。
指を絡めて、少し、……いや少しどころではないレベルで恥ずかしがりながら、「あなたを愛する僕」と「君を愛する私」とが、どんな形をしているかを確かめて、キスをする。いつも後輩くんとキスをするとき、無邪気に嬉しそうにして、特に膝に乗ってそうするときにはとっても甘えんぼさんになるのだけど、今は、なんというか、幼い顔立ちに先輩の精神の年齢が浮かび上がって彩りとなって、後輩くんの胸を苦しくする。
「……あの」
「ねぇ」
言葉が重なって、譲り合う。細かなところを観察し合わなくても、状況証拠というか条件というか、すっかり揃っているのだ。藤村菊池に使った言葉をここで持ってくるなら。
濃厚な接触をしましょう。
唇を重ねるとき、きゅっと瞼を閉じた先輩の睫毛が、心にチクチク刺さる。なんて可愛いんだろうなんて愛おしいんだろう、後輩くんの指先で、先輩は服を着ているときよりも、もう一回り二回り小さくなってしまったみたいだ。
後輩くんは血管の一本や二本がぷちぷちいってしまってるんじゃないかってぐらい、心臓が腫れて脳が煮立っているがごとき状況、でも、この人のことを壊さないように愛する方法を必死に考えている。何せ、後輩くんだってこんなことは初めて。
「……後輩くん、ねぇ、後輩くん」
声に吐息が混じっている、あるいは吐息を繋ぎ合わせて声を編み、言葉にしている。
「お願いがある。……君も、私も、自分の愛した人のことをいま、初めて定義しているんだ。初めて、見て、触れて、……君にしか、私にしか、届かない場所に」
その言葉を飲み込んだとき、後輩くんは初めて、先輩と同じほどの嫉妬深さが自分にも備わっていることを意識した。
先輩の、肌に、とりわけこういう場所に、僕以外の誰かが?
思わず叫び出したいぐらいに、お腹の底がぐらりと燃えた気がした。落ち着いて。そんなこと、先輩は、僕は、誰にもさせないから。
「でも、ここにいない私、ここにいない君、……でも、消えてしまったわけではないんだ。私の中に君の中に、これからも共にいるよ。二人で仲良くしていると思うよ。だけどね、それって、ずるくないか。……私、変なこと言ってる……?」
はー……、と後輩くんは思った。ひょっとしてこの人の嫉妬深さは海より深い。少なくとも猪熊沼よりももっと。
そこまで理解できたなら、先輩が何を求めているかも解るのだった。
「いいですよ」
先輩を抱き竦めて、……ね、僕らいまこんなに欲しがっている、あなたの心の中にあるものも、いまここにはないものも、全部欲しくてたまらなくなっている! 欲深な互いさえ認め合えるなら、なにもかもを飲み込み合うことにどんな問題があるでしょう?
「いまここにいる先輩と、もうここからいなくなった先輩と、どっちも僕の大好きになった先輩なので……、はい、だから、僕はこの人のどちらも愛して生きます」
「……君にも、同じようにしていい? と言ってもその、私もこういうことするのは初めてだから、つまり、……その、同性にするのと異性にするのと、どっちも同じほど上手ではないに違いないんだけど」
「上手じゃないのは僕も同じだと思います。けど、先輩はいま僕が抱き締めてるだけで、そういう感情が膨らんでるんだなって思いますし、僕もそうなわけで、……だから、こと僕たちには何の問題もないと思います」
先輩は、嬉しそうに頷いた。すりすりと後輩くんの頬に頬を擦り寄せて、
「うん、そうだね、うん……、うん。大好き……、大好きだよ、大好きだよ、後輩くん、ああ……、夢みたいだ、こんなに嬉しい、いまここに君と二人でいられることがこんなに嬉しいんだ……」
そして先輩は、こうも言った。
「君とこうしていられるなら、私は、私も君もどっちだって構わない!」
つまり、先輩と後輩くんは可能性の塊なのだった。
先輩が男性なのか女性なのか、後輩くんは男性なのか女性なのか。はっきりと肉体に顕れた事実とは無関係に、どっちがどっちになってもいいということだ。異性愛者になればいい、同性愛者でいてもいい、男同士? 女同士? どっちがタチでどっちがネコで、それともどっちが男でどっちが女で、そうであったとしてどっちが何をしましょうか? なんならくじで決めましょう、じゃんけんでもいいよね。
つまりこれから先、夜の数だけ、「先輩と後輩くん」の恋が甘く実るのだ。
そうだとして、……じゃあこの夜を、二人がどんな具合に愛し合うことを選んだのかをくどくどと並べる必要はもはやあるまい。二人は幸せになった。夜更かしをして何度も何度も幸せになって、夢うつつの中をたゆたいながらキスをした。
肉体の輪郭も境界線も曖昧な一つの塊になって、溶けて蕩けて混じり合って、どっちがどっちだか判らなくなって、どっちでもいいや好きだからって結論が出て。
解けたら、既に行ったことのある場所へ、こんどは違う行きかたで。
「ねぇ……、後輩くん、まだ起きてる?」
先輩が手を握ってくれたのが判る。とても眠そうな声、でも、言いたくって言うのだ。
「おき」
えらく掠れた声になってしまった。「ています」
「君の、……名前を呼んでみたい」
先輩が身を起こして、もう、そうしているのが呼吸と同じぐらい自然なことだと思うのだろうか、後輩くんの唇に、それからおでこにキスをした。
「カグラザカツナグです」
「ツナグくん」
「『縁』のある『樹』木で、ツナグって読むのです」
「そうか。素敵な名前だ。……ツナグくん。でも、後輩くんって呼ぶだろうね。ツナグくんって呼びたいときには、呼ばせてもらうよ」
きっと、後輩くんが全く油断しきっているタイミングで不意を突いて「ツナグくん」って囁いて、ツナグくんがアワアワするのを面白がるつもりなのだろう。
先輩は後輩くんにまた肌を重ねた。後輩くんが背中に腕を回して、それだけでは足りなくて両足も使ってしっかり抱き締める。
「私の名前はね……」
先輩は言った。
ああ、とても、……とても先輩らしい、美しい名前だ。
響きが。きっと字も。
これから先、ずっとずっと、先輩、って呼ぶときと同じぐらいに後輩くんを幸せにする響きだと思った。後輩くんがもう夢の中にいるみたいな気持ちでその思いを表明したら、先輩はちょっと照れくさそうに後輩くんの胸におでこを当てて、
「私は私の謎で真実で君を悦ばせることが出来るんだね」
とご満悦の声を聴かせてくれた。
輪郭の内外の差なく、あなたが存在している事実で悦んでしまうのが僕なんですよ、ということをちゃんと言ったかどうか、後輩くんは覚束ない。
○
あっ、この二人、やりやがったな。
……みたいなことを思っても、決して口に出すようなことはしないのが中寉了である。
そもそも「やがる」なんてお行儀のよろしくない言葉遣いはしないのが、了という成人男性(そうは見えなくても)である。育ちのいい野良猫というものがいるだろう。もともと飼われていた経験があって、でも、何かのきっかけで家を失って。野良猫なのだけど、顔立ちが毛並みが消しようもなく家猫のそれで、再び人間の家の猫になると、トイレの教育も必要ないし妙なところで爪を研ぐようなこともしない。人間に対して一定の信頼を寄せていて、距離感が近い。
了はそういう人間であるので。
ただまあ、たくさんの人たちがくっついたり離れたりする様子をバーのカウンターの中から日々眺めているので、ちょっとした距離感の変化には敏感である。
極論、センチ・ミリ単位でも変化するものだということを知っている。原則的に好き合う人同士は互いの体温を心地よく思うものであるから、ちょっとした身体動作ひとつにも気持ちが顕われてしまうものなのだ。別に恥じる必要はない。
かく思う僕は、そうでもないんですけどね。
……と了はゲリラライブから中一日空けて(了はライブの翌日はだいたい自主休講するのだ)大学の食堂で再会した二人を見てそんな感慨に耽ったのだが、自分だけは例外だと思っているこの成人男性はパートナーが出来た翌日から財布がパートナーとお揃いのものになったしスマートフォンのカバーの色も一緒にしたし、なんなら待受画面はパートナーの部屋にあったギターになった、……要するに誰が見てもわっかりやすくバレバレだったのであるが。
それはそれとして。
「はぁ。まあ、試験前ですからね、春休みを待つよりは逆に動きやすいとは言えそうですけど」
二人が「明日から出掛ける」と言い出したことに関してこのような感想を述べた。大学の試験というものは、もちろん単位の取得に多大な影響を及ぼすもので、一年生である後輩さんには三年進級時にすんなりゼミに入れるかどうか大事なことでもあるのだが、他方、きちんと講義を受けて知を自分の血肉としたすえの学生であれば、そうそう苦しむものでもない、……少なくとも文系ではそうなのだ。
むしろ怖いのは単位にレポートの提出が義務付けられているタイプの講義である。期末の試験が免除される代わりに年間六本の提出を求めて来たりとか、本数は少ないけど「卒論かな?」ってぐらいのヴォリュームを課してきたりとか、これぞ私学文系の最高峰と言われるだけの厳しさがある。
後輩さんはその点、しっかりしたものをバイトの傍ら、特に最近は本当に色々あった中でも仕上げて提出してきたので、試験前に数日どこかへ行くぐらいなんてことはない。むしろ問題は、四月からまた四年生をやることが決まっている了のほうである。
「で、どこに遊びに行かれるんですか。まだまだ寒いでしょうけど、景色のよくてロマンティックな場所に行かれるんでしょうね」
なにせ、正式にお付き合いを始め、明確に深い関係となった二人の最初の旅行であるから。
……いや、そうなると景色とかわりとどうでもよくなるのかもしれないな、なんてことを了は考えた。了自身、恋人との最初の旅行は、一泊二日だったけれど、そして、温泉旅館だったのだけど、食事以外で部屋から出なかった。
「遊びに行くんではない」
先輩はまじめくさった顔で言う。いけない、また言葉が悪くなってしまった。でも口に出してないからセーフ。
「後輩くんのお母さんに会いに行くんだ」
「ああ、そういう……」
「いえ、あの、そういうんではなくてですね……」
後輩さんが了の誤解を慌てて訂正する。後輩さんのお母さんは例の宗教で家をめちゃくちゃにして、そのせいでお父さんが後輩さんのところへ転がり込んできて、しばらく後輩さんは眠れない日々を過ごしていたのだった。仮にパートナーが出来て将来を約束し合ったとして、わざわざ交通費かけて赤州に帰るなんてことはしないはずである。
「おととい、僕が拐われたときに、……あそこの地区長の廣川って男が、母の動画を見せてきたんです」
了は首を傾げた。
「恐らくは、僕を翻意、……翻意っていうか、僕に先輩を止めさせようとしたんだと思うんですけど……」
後輩さんの話を聴いていて、了はこめかみがちりちりと痛むような気持ちになってしまった。
これは、先輩にも後輩さんにも話したことがない、知っているのはパートナーであるマスター、そしてオーナー、あとはヴェル・デの三人だけであるが、了も自身の両親というものにはだいぶきつめの屈託を持っている。それを超えて、いま上之原承というパートナーがいて、友達もたくさんいて、人生で足りないものなんて何もないと思っているものの、全てを乗り越えられたわけでもなく、ごくたまにぼんやりと昔のことを思い出して、「了、了、グラスを眼力で割ろうとしないで」と皐醒にたしなめられる。
眉間に寄せてしまった皺をほぐすために左の親指でぐりぐりしたのちに、
「なるほど。最終確認というか、ケジメというか」
了は納得した。
「廣川が地区長を務めていた東京地区は、今回の一件でずいぶんと勢いを無くすのではないかと踏んでいる。とはいえだ、全国津々浦々にある彼らの団体を壊滅させることは、現状の私たちでは出来ないだろう。私は自分の力を見誤ってはいないはずだ。砂子先生やヒナコくん、適材適所と言っては言葉が悪いかな? でも、武器を持ち戦場の走りかたを知っている人々にそれを任せるのが妥当だと思うんだ」
原口ヒナコさん・砂子大樹衆議院議員の尽力によって、今後ますます彼らに向けられる視線は冷たく鋭いものとなっていくはずだ。
しかしながら、彼らを支持する人間がいることもまた事実。同性愛者の当事者として、「ヒセーサンシャ」などという言葉をぶつけられることに関しては、……そればっかりは、お行儀よくしていなければいけないと日々思っている了だって、平和主義者の皐醒だって、それを上回る罵声を返すことで抵抗しなければならないと本気で思っている。許し難い、そういう口吻を紡ぐ舌があまりに無意識で無邪気で、しかもその舌の持ちぬしが政治家であったりインフルエンサーであったりする。そのたぐいの人々と繋がっているのが大日氣弥益であるというところまで、もうすでに世界は知っているのに、なお憎悪煽動機関として一定以上の支持者がいるのが素晴らしく美しきこの国、この世界である。
言ってしまえば、拡声器でがなり立てるタイプの活動を、個人の迸る情熱としてやるならば同じ迷惑でもまだ話のしようがありそうだが(あるいは知恵によってそれと対峙することも出来そうではある)後ろ盾を設けて組織的にやっているに等しく、一つどうにかしてもまた次から次へと顕れる。差別なんかするんじゃありませんよみっともない、なんて叱られれば、まずもって叱られたことに腹を立てるという幼稚な反応を示して、SNSではよってたかって騒ぎ立てる……。それを組織的にやっている人々が、たとえば大日氣弥益の人々あるし、その存在を是としているのが、砂子衆議院議員がこれから対峙することになる一部の議員たちということである。
「そして、これはあくまで私と後輩くんの、個人的な、ごく狭い範囲の話。後輩くんのお母さんが先ほど言ったような動画で後輩くんを籠絡しようとしたのか、それとも後輩くんの、……正確には、私の教唆による後輩くんの行動によって本当に組織内でいじめに遭っているのか、見極めなければいけない」
仮に了が、親子という関係、家庭という括りに拘泥するタイプの男であったなら、表情を曇らせていた可能性もあるが、
「なるほど。いずれにしても、あちらにたいしてイチャモンを付ける理由としては十分ですね」
「イチャモン」
「ああ失礼。とにかく、気を付けて行ってらしてください。この時期の赤州では、なんて言いましたっけ、美味しい魚が食べられるのでしょう」
そうなの、と先輩が目だけで訊く。「魴鮄の旬です」と後輩くんが小さく返す。高級魚である。
「ふぅん……。いやふぅんではない、観光に行くわけではないからね今言った通りにね。まあ、私としても後輩くんと私の行為がきっかけでお母さんが団体の中で地位を下げていづらくなったなら、とっとと退会しておうちを元通りにしたらいいと思っている。了も知っての通り、後輩くんのおうちは魚屋さんだからね、赤州の、素晴らしく美味しいお魚を街の人々に届けていたわけで……」
そういうおうちの子になれば、自分も美味しいお魚をたくさん食べられる……、ということを一ミリも考えないほど無欲な先輩ではない。後輩さんはもう気付いているだろうけど、先輩は食いしんぼうである。
「じゃあ、まあ、あっち寒いでしょうからお気を付けて行ってらしてください。先輩はあっちで食べ過ぎたり飲み過ぎたりして試験に戻って来そびれませんように」
「まあ、そこらへんはね……。私だって四年生は来年度で終わりにしたい」
「えっ」
四年生の回数で言えば先輩よりも了のほうが「先輩」なのであるが、そういう話はしないでおく。後輩さんが目を丸くして指を折って何かを数え始め、了と先輩の顔を何度も視線で往復したが、それは別に気にしなくてもよいことであろう。
了がすべきは、この大事な先輩と後輩さんに向けて、
「僕のお土産なんて気にしなくていいですから、実り多き旅でありますように。なお僕はいわしのパリパリにしたおせんべいが好きですが、どうかお気になさらず」
と背中を押してあげることぐらいであった。
○
後輩くんが自身のバイト上がりに会いに行くと、同じくバイト上がりだったお父さんは「ええ」と困惑した声を発した。
「今更会いに行って、何かが好ましいほうに転がるとは思えんが。かえってお前が嫌な思いをするだけなんじゃないか」
なお、例によって難解な赤州弁であるから、適宜翻訳されたものであるとご承知おきされたし。
親子はスーパーの裏を出て、お父さんの暮らしている寮までの道すがらにある小さな公園に入った。底冷えする夜、それぞれにポケットに手を入れて、痩せたベンチに背中を丸めて並んで座る。お父さんはがっしり固太り体型、対して後輩くんはひょろりとしている。しかし、二人が並んで座った姿を後ろから見たなら、誰だって「親子」だと判ってしまうことだろう。
「……そうかもしれない、けど、そうじゃないかもしれない。それは行ってみないと判らないし、だから行くんだ」
後輩くんは自分の身に一昨日までにあったことをすべて隠さず告げた。大日氣弥益の人々と対峙したがゆえに、探偵事務所に寝泊まりしていたこと、真剣師の戦いの場に赴いたこと、そして、自身が拉致監禁の憂き目にあったことも。お母さんの動画について語ろうと思ったなら、それらはどうしても伝えておかなければいけないことだったから。
お父さんはちょっと言葉を失って、やがてぐらぐらと目の中に炎を揺らして、
「……俺も行く」
と震えた声で言い出した。
「父さんはバイトあるでしょ」
「バカ言え! お前、なあ、自分とこのこどもがそんな目に遇わされて、父親が黙っていられるか。しかもお前、元はと言えばあいつが……、……いや、俺も、か。俺がちゃんとしてりゃあ、こんなことにはな……」
勢いよく怒りを表現しかけたお父さんはすぐにしょんぼりと項垂れてしまった。きっと、「誰か」が悪いことではないのだ。責任の割合を探し始めてしまったら、そもそも後輩くんが消防車にはねられたのが悪いってことにもなってしまいかねないではないか。
「赤州に戻って暮らせるとは思ってないんだ。いいところだとは思うし、好きな街だけどね。でも、あの街に心を残したままではいられない。……父さんだって本当はそう思ってるんでしょ?」
お父さんはぎゅっと両手を握る。叩き合わせるととっても大きな音が出るのが、お父さんの分厚い両手である。弾けるような音を立てて「さーぁ安いよ安いよぉ今日は鰤だ脂の乗った鰤だ鰤だ鰤だ」と声を上げれば、たちまちお客さんの頭の中で「お刺身、それとも照り焼き? 脂ののりがいいならシンプルに塩焼きかしら」なんて具合に今夜の献立が決まっていく……。
そんな、幸せだった時間に別れを告げて、遠く離れたこの街のスーパーで、五十歳のパートさん。
恨んでいるだけでも時間は過ぎていく。
やがて、深い溜め息を吐き出して、
「縁樹」
お父さんが後輩くんの名前を呼んだ。
「すまねえな。お前には苦労を掛ける。……俺はよ、俺のことは、もう、何も気にすんな。なんとかやってみせるさ。これ以上お前の迷惑にはならん」
苦しそうなお父さんを見るのは、後輩くんとしても苦しかった。誰も悪くないんだと、後輩くんはもう一度考える。お母さんを責めるために行くのではない。
後輩くんが、お父さんが、そしてきっとお母さんも、過去は過去と切り捨てて歩き出す最初の一歩のために、後輩くんは行くのだ。
「父さんは、こんな言いかたは嫌って思うかもしれないけどさ」
後輩くんは白い息を漏らして笑った。
「親子って、たまたまなんだよ。僕が父さんのこどもであるのはたまたま。父さんと母さんが出会ったことだってたまたま。家とか、家族とか、……あっちの人たちがすごく大事にしてる『家庭』とかっていうのは、本当にあやふやなものでさ。そこにことさら価値を見いだそうとするのって、かえってそれがいい加減なものだってことを証明しちゃってると思うんだよね……」
後輩くんの言葉に、まだ、首肯はしかねる、という顔でお父さんはいる。認めがたい気持ちであることを、後輩くんは理解できるのだ。
人間同士の縁なんてどこまで行っても偶然の産物でしかなくて、だからこそ、枠をはめることで固定化したいと願ってしまう。
血の繋がりというもの、……自身がなければないほど、国籍とか肌の色とかに根拠を求めたくなってしまう。人間はなにか理由をつけてでも、無理にでも、連帯感を求めずにはいられない生きものなので、これはもう、宿命である。
一度できた繋がりが壊れることに、途方もない恐怖心を抱いてしまうのは、遺伝子レベルに組み込まれた本能みたいなものだろう。
ぴう……、と冷たい風が吹いて、後輩くんもお父さんも揃って首を竦めた。
「でも、家族は減るし、増えるよ。父さんと母さんが他人同士でくっついて家族になったなら、他人に戻ることだってあるだろうし、……逆にさ、家族が増えることだって起こりうるんだ。そうだよね?」
後輩くんの言葉に、お父さんがちょっと顔を上げた。その視線の先に、後輩くんより小さくて、どう見ても未成年か、高校生か……? と思うような人がいた。もちろんそれは先輩である。先輩はちょっと緊張した顔でいた。いつでも堂々としている人なのに、ちょっと小さくなって、「こんばんは」なんて小さな声で頭を下げる。
お父さんはこの人のことを知っていた。今日の仕事中、店にいて、お父さんのことを遠くからじーっと見ていたのだ。なんだろう、と気にはなっていた。
そして、あの子はどっちなんだろう、と思ってもいた。えらい顔の可愛い男の子か、それとも、カッコいいタイプの女の子か。
「僕の、家族になってくれる人」
後輩くんが立ち上がり、その人の隣に立った。お父さんは縁樹くんという自分のこどもが「背が小さくてひょろひょろしてる」と思っていたけれど、そのときばかりは縁樹くんが少しだけ大きく見えた。まあ、隣に立つ人が二回りぐらい小さいからであることは否めないけれど。
その人は、とても緊張した顔で、
「……はじめまして。あの、……縁樹くんの、先輩をやっていて、その、……お付き合いを、させていただいております」
後輩くんが先輩に向ける目を見て、お父さんは確信した。
この二人はもう家族になっている。
後輩くんの家族であるということは、お父さんにとっても家族であると言ってしまってよい──こんなおっさんにそんなこと言われて、この人が嬉しいかどうか判らんが──はずである。
その事実を前にしたとき、お父さんの心に生まれたのは、まず「嬉しい」という気持ちだった。
縁樹にそういう相手が出来たのかぁ、という感慨。だって縁樹くんはおとなしいし、あんまり自己表現も得意ではない。お父さんとしては「こいつ大丈夫なのかよ」とずっと心配でいたぐらいで……。まして、家がこんなことになってしまった。自分のせいで、若いのに、恋愛なんて二の次三の次で、辛い日々を送らせてしまっていることを、悔やまない日はなかった。
それなのに、なんだよおい、こんな可愛い? カッコいい? 人と、なぁ。
お父さんは、「先輩」がどっちであろうが構わない。
縁樹くんと「お付き合い」してくれていて、のみならずこうして、お行儀よく挨拶に来てくれたというだけで、どうして愛しく思わない理由があるだろう? どっちであろうが好きである。どっちというのは、縁樹くんと同性であろうが異性であろうが、んなこたぁ当人たちが幸せだったらいいじゃねぇか、他人が口出しするような問題じゃあねぇよということ。
うっかり、お父さんは目が潤んでしまいそうになったのだ。
それを北風のせいだと言うには、はっきりと。
「……そうかぁ……」
家は壊れた、家族は、家庭は、ばらばらになってしまった。
だけれど、人は生きている。
家庭、家族が崩壊しようと、その構成員たる人は壊れない。人は人として、また生きていくのだ。
お父さんも縁樹くんも、まだまだこれから生きていかなければいけない、元気に、一生懸命に。だって元気でなければ一生懸命になにかをすることはできないし、この国のこの世の中っていうのはとっても過酷で、ちょっとでも気を抜いたらたちまち生活の基盤が崩れてしまうぐらい危なっかしい。
だけど、だからこそ、誰であれ、繋がっていることが嬉しい。無理矢理固い金型に嵌めてしまう必要なんてどこにあるだろう? 自分の大切な人の幸せより優先すべき規律なんてこの世にあるはずがないのだ。
だからお父さんは、ベンチから立ち上がり、潤んだ目を隠すべく頭を下げて、……そのまま「先輩」の足元に膝をついた。
「……ありがとうございます。どうか、こいつのことを、よろしくお願いします。一緒にいてやってください。こいつは、ね、こいつは、ボケッとしてて、昔から、怖がりで、……でも、だから、悪いことなんてのはもう、何も、一個もできないような奴ですから……」
先輩も慌てて膝をつく。両手でお父さんの手を取り、同じく潤んだ瞳の横顔で、何度も頷く。ここ数日で先輩の嫉妬深さが伝染してしまった感のある後輩くんは、お父さんと先輩を引き剥がしたい気持ちを抑えるべく、ポケットの中で両手をにぎにぎしているのだった。




