さくらノヴェル
ほんわかと甘く、風が匂い立つ。
その風に舞い上げられたのは、猪熊沼のほとり、今年も盛大に咲き、人々の目を大いに楽しませた末に散る桜の花弁だ。
ふわり、ふわり、ふわり、くるくるくるり。四月を踊った末に、ずいぶん高いところまで至ったその一枚の花びらは、いま、五号館校舎の屋上、取り残されたような喫煙所の、すっかり色褪せたベンチに横たわって眠る人物の頬で羽を休めた。
横を向いて眠るその人物の長い前髪が、風で乱され、ざっくりとした傷痕が残る額があらわになっている。光が当たって眩しいのだろう、眉間に少し皺を寄せて、それでもまだ、眠りに執着しているその人物は、ここにおいても一番多く向けられる呼称に基づいて、「後輩くん」と呼ぶべきだろう。
後輩くんの瞼に手のひらをかざしたのが、後輩くんのことを一番多く「後輩くん」と呼ぶ人物である。
すなわち、「先輩」である。
「やっぱりここに居たか……、後輩くん。……後輩くん」
優しいその声は後輩くんの耳の中から這入り込んで、瞼の裏の捉えどころのない夢から明快な四月の現実へと引き戻した。ううん、と呻いて、そろそろと目を瞼を持ち上げる。ボヤけた視界を覆う、黒髪、白い肌、紅みがかった瞳、……あどけなくも知的に形作られた表情の人、後輩くんの大好きな「先輩」は、後輩くんの頬を人差し指でさらりと撫でて、
「ダメじゃないか、こんなところで居眠りをしては。風邪をひいたらどうするつもりなのかな」
とちょっと唇を尖らせた。
「……すみません、先輩……、あふ……。あったかくて気持ちよくて、寝てしまいました……」
「春眠暁を覚えずとは言うけれどもね、君、私だって心配するんだよ? 大事な人が無防備に寝ているのを、不心得者が見付けたら、と想像してしまうんだ」
先輩みたいな可愛い人がこんなところで居眠りしているのを見たなら。まだ先輩と出会う前の後輩くんなら、話し掛けて起こしたりしたら事案になりそうで、だからと言って放っておいたら、それこそ何かの事件に巻き込まれてしまうのではと心配になって、……結果として、少し離れたところをうろうろして早く起きないかなと案じるという、最も不審なムーブを晒すことになりそうだ。
もっとも先輩は、少なくともおうちの外にいるときには、そんなに無防備な人ではないのだ。百六十に届かないコンパクトな身体、中高生と言って誰も疑わない童顔、大人なのかこどもなのか測りづらいし、そもそも男性なのか女性なのかじっくり観察したってなかなか判らない容姿をした人だけれど、探偵だ。ハードボイルドであると言ってもいいし、ダンディであると形容してもいい。ウイスキーはアイラモルトをロックで、珈琲はブラック、でも鞄の中には優しいハーブティーを常備している人。
そして、いまはメイドさんの格好をしている人。
寝起きでぼうっとしていた後輩くんはようやくそのことに気付いて、眠気が春の風に吹かれて掻き消えていくのを感じた。
「あっ……、あっ、そうか、そうでした」
「そうだとも」
「そうでしたね……、ごめんなさい、忘れてました」
今日は新入生歓迎会。「王子様部」も新入部員を迎え入れるべく、明るく健やかな勧誘活動に勤しんでいて、先輩もそのお手伝いでこの通り、「メイドのデルフィネス」になっているのだった。
起き抜けに、先輩のメイド姿はちょっと刺激が強い。
「今日はファルヴィニッヒ王子様じゃないんですか」
けれども、王子様になられていたとしても、ちょっと心臓に悪い。先輩は王子様/メイドさんのどっちになっても仕上がりがとても良いもので。
「今日は皐醒が来られないから、メイドさんの人数が足りなくてね。後輩くんがやってくれたらいいのに」
「いやです」
王子様になる資格はないし、メイドさんになって先輩の隣にいるなんて。
「私は見てみたいけどな、後輩くんのメイド服姿。……まあいい」
先輩は後輩くんの座り直したベンチの隣に腰掛けて、缶コーヒーの蓋を開けて、くいっと一口飲んで、「ん?」と後輩くんに訊く。いただきます、と後輩くんも一口もらう。真っ黒い缶なのに、ほんのり甘い。スマートフォンをインカメラにして、先輩は後輩くんと自分を一つの画角に収めてセルフィーを撮った。
三回目の大学四年生の前期を迎えた先輩とともに、後輩くんは大学二年生となっている。
今更そんなもん説明されんでもわかるわいと言われそうであるが、大学というものは、進級ならびに卒業するに当たっては講義や演習において規定以上の率で出席をし、試験でも及第点を獲得して単位を取得することが必要。もっと具体的に言えば、二年修了時に十分な数の単位を取得出来ていないと、専攻課程に所属することが能わず、必然的に卒業が遅れるという事態に陥ってしまう。
先輩は探偵のお仕事をやっている関係で出席率が低くなった年があって、ゼミに入るのが一年遅れた上、必修の単位をあとわずか取り損ねてしまった関係で、今年も四年生をやらざるを得ず、後輩くんはそうした事態にはならぬよう、一年次で卒業までに必要な単位の三分の一以上を取得した。
先輩は「できれば今年は卒業したいなぁ」なんて言う。当然のことながら、卒業が一年遅れればそれだけ学費も余計に掛かってしまうのだ。探偵とはいえアルバイトだから、「これ以上両親に迷惑を掛けるわけにもいかない」と、今年に賭ける決意は並々ならぬものがある先輩である。来年までいてしまうと、有華が後輩として入って来てしまうので、だいぶ危機感を抱いているようだ。
「王子様部に新入生が入ってくるとなれば、後輩くんにも後輩くんが出来ることになるね」
缶コーヒーを飲み終えた先輩が言う。そうですねぇ、と相槌を打ちかけて、
「……僕いつから王子様部の部員になってたんですか」
危ういところで踏みとどまる。
「了とか皐醒とかはすっかりそのつもりだよ」
「ええ……、どこも王子様じゃないですし、メイドさんではもっとないです」
先輩は楽しげに笑って立ち上がり、
「ま、君の王子様は私だけどね」
メイド服の胸に手を当てて、凛々しく言うのだ。
「それは、まあ、そうだと思います」
「でもって、君は私のお姫様でもあるんだよ、……そこのところ、自覚はあるかい?」
「まあ……、光栄っていうか、申し訳ないなって気持ちですけど」
白いグローブをした細い指が、後輩くんの頬に触れる。
「既に何度も言っている通り、私は君と共に生きる道を選ぶ。君の笑顔を、君の幸せを、……ごく当たり前な君の日常を守りたいって願うからね。別に肩書きに拘る必要はないだろうけど、王子でも探偵でも、もちろん『先輩』でもいい、使命を帯びて側にいるのさ」
困ってしまうぐらい、可愛くて格好いい僕の先輩……。
後輩くんは自分たちのいまのありようを誰かが見たなら、きっと首を傾げるだろうなと思って、……僕が傾げられるぶんには一向に構わないのだけど、巻き込まれて先輩が怪訝な目を向けられるのはちょっと忍びないな、という気持ちになってしまうことを、なかなかやめることは出来ない。
先輩を守らなきゃ、と思うことがこのところ増えた。
以前から、自分より背が低くて、頼もしく感じる一方で、危なっかしさを覚えるときは度々あったけれど……。
先輩が自分の身体と繋がることを、何度も何度も意識したからだろう。先輩が幸せなとき、僕も同じだけ幸せなのだと学べば、先輩が傷むとき僕の心身にはどれほどの痛みが走るのだろうと、想像するだに恐ろしい気持ちになる。
僕が傷むぶんには一向に構わないけれど……。
いいや、僕の身体に心に痛みが走るとき、先輩が同じほどの痛みを味わうことになるのだ。であるならば、やっぱり僕だって傷付いてはいけない。危ないことなんてなんにもしないで、おとなしく、直射日光と高温多湿を避けたところでおとなしくしているのがいいと思うほど。
なのに、先輩は危地に赴く。
大日氣弥益を崇拝する人々との戦いは、静かに、でも、確かに、続いている。
つい先日、砂子議員が自身の名誉毀損で、件の投稿を行った地方議員を告訴した。また、あの投稿を無責任に拡散した人々に対しても、厳しく対応していくことを名言した。
それはまだ、小さなニュースに過ぎない。一つ潰せばまた一つと、砂子議員を不当に攻撃する投稿が行われている。レイシストは一体どこでどうやって悪意を育てて毒の花を咲かせるのか、後輩くんにはまるで判然としないのだ。人間が人間に対してこれほどの言葉を用いるのかと、戦慄するほどだけれど、砂子議員は雄々しく戦う決意でいる。
一方、去年の秋までは、朝のお天気お姉さんだった気象予報士・原口ヒナコさんが一人のジャーナリストとして奮闘している。
自分たちの通う大学のOB・OGであるから、九隅大の学生たちのほとんどは、砂子議員や原口さんの頑張りに対して好意的な眼差しを送っている。いや、その視線に籠る敬意は、すっかり友好的な関係になった東英大学の学生たちの瞳にこそより強く籠っているかもしれない。
今後世の中がどうなるか、凡人を自認する後輩くんには全く判らない。
しかし、先輩が見ている方向を一緒に見ていたいし、その視線の先にあるものが、どんなものであれ二人でいられる世界ならば、行きたいな、なんて思う。
だから、これからも一緒に彷徨い歩くのだろう。
「さて、あんまりサボっていては了に怒られてしまうから、そろそろ行かなくては。……後輩くんも、メイドさんや王子様にならなくても構わないから、一緒に来たまえよ」
まあ、平民そのもののような後輩くんがいれば王子様もメイドさんもその華やかさが一層引き立つというものだろう。先輩と一緒に立ち上がった後輩くんは、先輩にしっかりと腕を絡められた。
「ね、後輩くん、下に行ってしまっては出来ないよ。……私がただサボるために階段をえっちらおっちら上がってきたと思うのかい?」
中寉さんは滅多なことではこの屋上まで上がってくることはない。体力がないもので、途中で力尽きてしまうのである。そんな中寉さんであるものだから、階段のない校棟の上階にある講堂での講義を履修することは二年次から諦めていて、結果的に卒業がのびのびになっている。
……という無駄な知識を語る間に、先輩と後輩くんのキスとハグは終わった。
「では、……行こうか後輩くん」
桜酒を喫したように染まった後輩くんの頬を白い指の背ですいと撫でて、先輩が言った。どこへ行くのであれ、その靴音に従う特権を、執事でもメイドでもないけれど、多少は騎士のような気持ちを携えて、後輩くんは頷いた。




