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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
先輩はどっちか判らない。
35/45

僕の大好きな先輩。

○


 そして、時と場所は再び、櫻木山会館で廣川と対峙した神楽坂縁樹くんのもとへ。


○


 凱龍さんの奏でる笛の音色が、地上から鉄格子の中の神楽坂くんのもとまで届いた。

 廣川はまだその音を知らないはずだが、神楽坂くんは目を輝かせながら立ち上がった。

 なぜ今ここで、ヴェル・デ・ラ・ビットの音を聴くことが出来るのか……。

 理屈は判らないが、理由なら判る。判ったから、神楽坂くんは嬉しくって笑いがこみ上げてくるのを止められない。

 それは決して大きな音ではなく、なんとなく漏れ聴こえてくる、ぐらいのものなのだけど、神楽坂くんにとってどんなにか心強いものであったろう。どんなにか勇気付けられるものであったろう。遅れて蒔田さんのキーボードに支えられて、大月さんのギターが踊る。

 そこへ、中寉さんの、あの愛らしい容姿からは意外なほどに凛々しく力強いボーカルが自由の翼を得て飛び回る。

「地区長、地区長、ちょっといらして下さい!」

 血相を変えて階上から転がるように降りてきた人物、声にも顔にも覚えがあった。あの行員風の立会人である。

「憲政党の砂子という者が、毎朝テレビの原口ヒナコを連れて来ています! 地区長にお会いになりたいと」

 廣川の綺麗なEラインの浮かぶ横顔が、縦に長くなった。唖然として、顎が大きく下がってしまったのだ。

 砂子大樹衆議院議員と原口ヒナコさんという取り合わせ。神楽坂くんも驚いた。ついこの間見たニュースの中の二人、……そして、当然ながら大日氣弥益の人々からすれば、自分たちの勧誘活動を社会問題化しようとするという意味で、極めて厄介な二人である。

「か……、帰ってもらいなさい!」

 廣川がそんな端的な言葉を搾り出すのも無理からぬことだろう。神楽坂くんが思うに、自分たちをこうして黙らせた次には、砂子議員たちにも攻撃の矛先を向けるつもりだったに違いない。しかるに、向こうからやって来られることは想定外だったのだろう。

 先輩のなりふり構わなさがすごい。政治家まで動かしてしまった。いや、原口ヒナコさんをごく早い段階で巻き込んでいた時点で、こうするところまでも視野に入れていたのではあるまいか。

 そう考えると神楽坂くんの可愛い先輩は、ヴェルデグリーン氏よりも恐ろしい人である。

 そして、言うまでもないことだが、どうやら神楽坂くんは結構前から、先輩にとって地球よりも重い存在になってしまっていたらしい。

 まったくもう、どうなってるのかな。僕はたた恋をしただけなのに。

「いいんですか?」

 神楽坂くんは茶々を入れる。

「みなさんのところ、この間の報道でちょっと反感買い始めてるところですよね? ここで変な対応しちゃったら、また騒ぎになりますよ。ヒナコさん人気者ですしね、砂子先生って確か小選挙区で通ってますよね新人なのに、確か与党の当時現職を破ってゼロ打ちしたんです、僕覚えてます。すごい有能な人ですよね。紙めくられて綺麗に揃えて国会でまたどんぱちやられちゃうかもしれないですね!」

 廣川の頬に汗が伝った。一昨年に、宗教団体と政治の癒着が騒がれたときには、この大日氣弥益の人らも肝を冷やしたはずである。ほとぼりが冷めてホッとしていたはずのところに、またぞろ対応を間違えて大騒ぎになってしまっては。

 言葉は悪いが、地区長ふぜいにその責任は取れないだろう。

 廣川の脳裏には、いま神楽坂くんが閉じ込められている牢屋の中に、こんどは自分が封じ込められる妄想がよぎったかも知れない。

 もっとも、それは神楽坂くんにはそれほど関係のない話である。

「地区長!」

「顔だけでも合わせておいたほうがいいですよきっと。ああでも、僕がここに閉じ込められてるのバレちゃったらいろいろ問題ですね」

 神楽坂くんは傘に掛かって捲し立てる。

「砂子さんは会ったことないですけど、原口さんは知り合いです。でもって、僕ら同じ大学の先輩後輩ですから。廣川さんはご存知ないかもしれませんけど九隅文科大学の学生って連帯の気質が強いですからね、二人とも本気で怒ってくれると思いますよー」

「うるさい(・・・・)!」

 廣川が声を張り上げた。一瞬、ヴェル・デ・ラ・ビットの音楽が遠のくほどの声だった。醜悪な本性が、その漂白した歯とともに剥き出しになっていた。行員風に向けて、「帰ってもらえ。いいか、一歩も入れるんじゃない!」と強い声で命じる。

「ですが」

「帰らせろ! 従わないなら警察を呼べ! 不退去はそれだけで犯罪の要件を満たす、こちらに非はない!」

「えー? 僕閉じ込めてる時点でだいぶ非がありますよねぇ?」

 神楽坂くんは元気だった。捕まった直後とは打って変わって、いや、ひょっとしたら捕まる前よりも元気なぐらいかもしれない。

 ここにいて、色んなことが解ったからだ。

 存在もあやふやな神仏的存在よりも、信じて指標にしたく思う存在を強く意識出来る幸せを、深く噛み締めて。

 震え上がった行員風の痩せた身体が、危うく階段から転がり落ちそうになった。それは、彼の横を風のような勢いで飛び込んできた小さな影があったからだ。

 びっくりしたのは神楽坂くんも、そして廣川も同じだ。その正体を捉えて、あっと声が出そうになった。

「ヒロ」

 天沢有華がいた。

 中寉さんと蒔田さん、ときには白湯川さんにも見てもらって健やかな暮らしを取り戻したと知っていても、会うのは久しぶりだ。神楽坂くんが「元気そうでなにより」という挨拶の言葉を口にしようとするなり、なんだか涙ぐんでしまって声にならなくなってしまうような対象が彼女である。

 昔の名前で呼ばれた廣川は一瞬顎を引いて、それでも作り笑いを浮かべて、猫撫で声を出す。

「どうしたの、有華。……最近ずっと来ていなかったね。君はとても殊勝な子だったのに」

 有華は整った顔をかたく白くして、真っ直ぐに廣川を睨んでいる。

 彼女がかつて、恋をした相手だ。その思いは、蓋をして、時間をかけて放っておいて、……何年も何年も経った後、その蓋を開けて見てみたとき、もう跡形もなくなっているのが理想。

 さもなくば、まだ据えた臭いを発するはずで、彼女の傷が癒えるために十分な時間が経ったとはとても思えないのだが。

「あたし、いま、宿木橋の人たちに勉強教わってる。もうここには来ない」

 後輩くんからは廣川の表情は伺えないが、それでも彼の纏う空気がすっと冷たくなったことは感じ取ることが出来た。

「聞き間違いかな、……君が? 仲良くしているの?」

「してる。してもらってる」

「あの、悍(おぞ)ましい、……ヒセーサンシャたちと?」

「ヒセーサンシャじゃない!」

 鮮烈な怒りの声が再びヴェル・デ・ラ・ビットの音楽を呼び戻した。

「みんな、あたしの大事な人たちだ! 親じゃないのに、先生でもないのに、みんなあたしのこと本気で考えてくれる人たちだ、了も皐醒も白湯川先生もミツルママも、あとマスターも、みんなみんなみんな、先輩も後輩も、あたしの大事な、大事な……」

 彼女の言葉がそこで切れた。続く言葉を紡ぐよりもいっぱいになってしまった感情が心の器から溢れ出す。

 神楽坂くんも目が潤んでしまった。

 彼女もまた、救いを求めて彷徨っていた。後輩くん自身とよく似た苦しみの中から、先輩によって光の当たる場所へと導かれて、中寉さんたち、信頼できる人たちと出会うに至ったのだ。

 彼女の言葉は、僕の言葉だ。だから、涙ぐんでしまうのだろう。いいや、泣くには早すぎる。

 だって、こつん、こつん、こつん、靴の踵が軽やかに鳴る音が響く。

 神楽坂縁樹くんが、まもなく、後輩くん(・・・・)に戻る。

「感心しないな……」

 体重は軽い。貧弱ボディの後輩くんが膝に乗せて平気でいられるぐらいに軽い。だけど炭水化物が好きな人。理と智の人なのに、半ライスを添えたこってり味噌ラーメンにお酢を入れて「さっばり味なのでカロリーも相殺出来ないだろうか」なんて筋の通らないことを言いつつ、レンゲにすくったライスを背脂の浮いたスープに浸して食べて、幸せで仕方がないって顔をする。

 僕の大好きな大好きな先輩。

 どっちか判らないことが、一ミリの問題にもならない先輩。

「女の子を泣かせるなんて、貴君はよっぽどな悪漢らしい」

 階段を降りて来る布靴、スキニーの足、膝が覗いてまもなく、先に、コートの裾がひらめいた。別に高価なものでなくっても、先輩が着るとそれだけで生地が喜ぶ、デザイナーもきっと。後輩くんが知る限り先輩はコートを三着持っていて、どうやら寒さの加減によって使い分けているのだけど、今日は、一昨日からずっと同じ。黒のダッフルコート、どうやら二番目に暖かいのがそれで、初日の出を見に行きましょうって待ち合わせた大晦日の夜には黒のパファーコートでもっこもこに膨らんで現れた。あれたぶん女性ものだったな、と思い返すのだけど、それがどうした。

「こ、困ります、あなた! ここは関係者以外が入っては……」

 行員風が悲鳴に近い声を発する。しかし先輩は、……まだ後輩くんからは顔の見えないところで立ち止まって、悠然と言い放つ。

「彼女がこちらの地区長の関係者であり、私はあなたの知人である」

 将棋の用語に「先手を取る」というものがある。特に終盤の攻め合いしのぎ合いの中において、攻撃的な手を指すことで相手に守りの手を強い、自分のペースで指すことを意味する。行員風の反撃は先手を取るためのものであったろうが、先輩は軽やかに切り返して先手を取り返した。

「のみならず」

 一歩、もう一歩、先輩が階を降りて来る。

「私の愛する人が幽閉されているのであれば、もう既に十分過ぎるほど、私はこの施設の関係者である」

 先輩は。

 ヴェル・デ・ラ・ビットの音楽をBGMに、人気のお天気キャスターと衆議院議員と女子高生を露払いに、やって来てしまった。

 めちゃくちゃだよ、ほんとにめちゃくちゃだよね。

 先輩は優しく有華の髪を撫ぜた手をポケットにしまうと、自分よりずっと大きな廣川と同じ高さのフロアに降り立つと、冬の夜明けよりも冷たく冴え渡った顔で、

「お初にお目にかかる」

 声で、言う。

「私の可愛い後輩くんに狼藉を働いてくれたのは、貴君か」

 狼藉、……と呼べるほどのものかどうかは。いや、察するに先輩も後輩くんもスタンガンの一撃を喰らったのである。十分に狼藉かという気もする。

 いや、しかし、そうであるが、そうではない。

 先輩が怒っている。

 めちゃめちゃ、……めっちゃめちゃ怒っているのは、もちろん何割かそういうことも含まれているんだろうけど、実のところ先輩の血がぐらぐらと煮えたぎっていることには、きちんと別な理由がある。

 その理由に基づいて先輩は、もう、この団体をぶっ潰さずにはおれないとさえ思って、友人のバンドやら自分の所属する探偵事務所やら宿木橋の顔役やら、あと政治家とかテレビ局の関係者とかまで巻き込んで、ここにやって来たのだと後輩くんは確信出来てしまった。

「有華。砂子先生たちと先に帰っていなさい。『ヴェル・デ』のライブはまだ始まったばかりだよ」

 先輩が出せるものとしては一番低い声でそう命じる。すん、と鼻を啜った有華が素直に頷き、とつとつと階段を上がっていった。彼女の足音が聴こえなくなり、さらに、一旦ヴェル・デ・ラ・ビットの音さえ止まり、……しかし静寂は訪れなかった。遠い拍手と歓声が、はっきりとここまで聴こえて来る。彼ら四人が産み出す音楽の喜悦に感応する、たくさんの人々が集まっているのだ。

「さて、……どう落とし前を付けてくれるつもりかな」

 先輩の問いに対して、廣川は俄かに冷静さを取り戻しているようだった。よくよく考えてみれば、先輩は小さな人だ。あるいは廣川は、先輩を「女性である」と判断したかもしれない。砂子先生と原口ヒナコさんが有華を連れてここを去ったなら、こんなちっちゃい人が一人残ったところで何を恐れようものか……。

「質問に答えたまえよ。私の可愛い後輩くんを害した償いを、貴君はどのようにするつもりなのかと訊いている」

 先輩の言葉にも、廣川は動じなかった。

「先に手を出してきたのは君たちのほうだという自覚はあるか」

「ゆえにこそ、私は自身の落とし前を真剣で付けると言い、貴君らはそれに応じた。決した勝負を持ち帰る前になかったことにしたのは貴君らのほうだろう」

「さあ? それについて君たちが語る言葉以上のものを君たちが用意出来るのなら、何とでも言うがいい」

 証拠がないのだ。

 先輩は、後輩くんも、それを用意出来ない。まさか彼らが街中で目を光らせる防犯カメラに無頓着な犯行をしたとも考え難い。

 先輩はしかし、表情を変えなかった。圧倒的なまでの、二月の氷のように、冷たい顔。

「確かにね。君たちがやったという証拠はない。私に判るのは、今朝からこの時間まで、後輩くんが私の側にいなかったという、ただそれだけの事実だよ。そしてね」

 先輩の、ポケットに入った右手、……先輩は顔の左側を後輩くんに見せているので、後輩くんからは死角である。しかし、なにかしら動いたような気がした。

「それだけで、私にとっては十分なんだ」

 先輩は肌が白い。これは、先輩の全身を見て知っているのではなく、顔や手や指を見て知っていることだ。闇の象徴であるかのような、烏色の髪をしてまつ毛をして、瞳は紅くて、……だから、その肌の白さがとても目立つ。まして、今日は、黒いコート。

 その手が、指が、宙に閃いたなら、誰だって目を惹かれることになるだろう。先輩は、中寉さんがいつか言っていた通り、男女問わずわりといろんな人から思いを寄せられて来た人だ。それはいろんな理由があるだろうけど、先輩のその、雪のような白い肌もきっと大きなものに違いない。

 先輩が振り上げた右手、……廣川の目には、膨らんだ光の中を、何かが飛来するのを見たはずだ。見たとして、それが何であるかは判らない。何であったとしても、彼がしなければならなかったのは「避ける」ということ一つだけであったはずだ。あるいは、払い飛ばすという選択肢もあった。そのどちらをも、彼が選ぶことが出来なかったのは、その物体が彼の反応速度を上回るスピードで飛んで来たからではないか。

 それ(・・)は廣川の形のいい鼻を叩いた末に床に転がった。

 後輩くんは思わず「ああっ」なんて声を上げてしまった。

 転がっていたのは、歩。

 将棋の駒である。

 ただの将棋の駒であるはずがない、あの、例の、超高級駒である。

 なんてことを! 傷でも付いたらどうするんですか!

 鼻を抑えて蹈鞴(たたら)を踏んだ廣川に、先輩が素早く距離を詰め、廣川のセーターを掴み右へ引きながら鋭く彼の左足を払う。すってんころりん、という擬音を付けたくなるぐらいに見事に、廣川の長身が床に転がった。

 彼の胸に、先輩がスニーカーの靴底を、そっと乗せた。

「貴君らは、色々とあくどいことをしているのだろう。それについては砂子先輩がきっと白日のもとに晒してくださる。ヒナコくんの力によって、多くの人々の知るところになるだろう。相応の罰を受けることになるとして、……しかし、私にとって重要なのは、私の愛する後輩くんに、君が仮令『何もしていない』と主張したとして、僅かなものであれ疑念を私に抱かせたということだ。私は後輩くんのパートナーである以上、君に能う限りの罰を下してやりたいという憎悪で一杯だ。しかしね、私はそんな自分で在りたくない。後輩くんとこれからもずっと一緒にいたいからね」

 後輩くんは、ふはっ……、と笑いのような溜め息のようなものが鼻と口から漏れてしまった。

 先輩、ほんとにめちゃくちゃです。

 僕は無事なのに、僕がちょっとだけ嫌な目に遭ったからって、ここまでおおごとにしちゃうんだ。どんだけ心配したんだろう、どんだけ怖がっていたんだろう。

 一ミリの傷だって、僕が負うのを恐れるから。先輩はもう、とんでもない怖がりになっちゃったんだ。僕はもうずっと前から先輩のものなのに、それでも先輩は僕が誰かに取られちゃったらどうしようって、心配で心配で仕方がないんだろう。

「鍵を寄越しなさい」

 とうとう、廣川は観念した。先輩の、静かではあるけれど本当に本当に恐ろしい声に屈したのだ。ポケットから鍵を取り出す。

「後輩くん」

 慌てて鉄格子から伸ばした後輩くんの手に向けて、的確に放る。ちょびっと苦労したけれど、鍵を回すことが出来た。かちり、心地よい音と共に、後輩くんは一日の拘束からめでたくも解放されることとなった。先輩と、先輩の周囲の、素晴らしい友人たちのおかげで。

 いや、後輩くんは無自覚だけれど、後輩くんがただの人であったなら、みんながみんな協力してはいないはずなのだ。みんなが大切に思う先輩が、本当に大事に思っている人の窮地、……であればこそ、みんながこうして惜しまず力を貸したのだ。

「こんなことを、して……、タダで済むと思っているのか」

 後輩くんが牢から出ることに成功しても、先輩は廣川の胸の上の足の位置を変えていなかった。後輩くんは先輩が手裏剣代わりに使った歩を慌てて拾う。

 手裏剣の歩、……いや、ぶっつけて叩いたのだから、「たたきの歩」か。歩を一枚、相手の強い駒の眼前に叩き付けて、ただ取りさせる代わりに陣形を乱す手筋である。

 本当に歩を手裏剣に使ったり歩で叩いたりする人がいるなんて、夢にも思わなかった。

「貴君がしたことによってこうなっているのだということを銘記しておきたまえ。平和的な解決方法を目指していたのに、打ち壊しにしたのは貴君なのだからね。そしてね、貴君はどうやら楽観的な人物で、ゆえにこそ気付いていないようだから教えてあげるけども」

 わりともう、この小さな先輩は、後輩くんのために何でもするんだろう。後輩くんはつくづく我が身の無事を寿ぎたい気持ちだった。もし本当に狼藉(・・)的なことをされていたとしたら、先輩はこんな程度のものではなくて、官製の牢屋に閉じ込められてしまうことになっていたのではあるまいか……。

「これから貴君らは、貴君らがこれまでしてきたことの責任と向き合い、贖っていくための時間が、……後輩くんが拘束されていた時間の何倍も何倍も続くと認識しておくがいいよ。こと、真剣の勝負を軽んじられて腹に据えかねている真剣師は少なくない。平和な話し合い、盤上での対話で解決出来たはずのところ、暴力に訴えたのだからその報いは甘んじて受けたまえ」

 す、と先輩が廣川の胸から足を退ける。

 そして後輩くんの手を取った。

 笑顔もなく、「行くよ」と言って歩き始めた。階段を登って行く途中で、……明らかに光の当たる場所では生きていない人々の一群と鉢合わせた。

 その人々を率いているのが、知った人でなかったら後輩くんは大慌てでその人々に道を譲るべく端に寄っていたはずだ。よく知られている通り、後輩くんっていう人は、気が小さい。

「よう、無事だったかい」

 集団の中で一際小さなおじいちゃん、風呂敷を背負った人物が、にっこり、人懐っこい笑みを後輩くんに向けた。

 赤目の土竜こと赤目燈流が率いているのは、……きっと、真剣師のみなみなさま。

 暗黒面のやり取りが流血沙汰に繋がることのないよう、盤上の秩序立ったやり取りで問題を解決するべく戦う人々である。

 成立した真剣勝負をひっくり返すような真似をされて、一番立腹しているのがこの人たちであることは想像に難くない。

「あの、あ、ええと、はい、すいません、なんだかその、わざわざ、お手間を……」

 赤目の土竜はすきっ歯を覗かせてしゃっしゃっしゃっと笑い、後輩くんの肩をポンポンと叩いた。

「あんたも、儂の孫だよ。これからもよろしくなぁ」

 とても温かい声であり、そして、手のひらだった。それから赤目の土竜は、「えいしょ」と声を上げて、背中の風呂敷を下す。

「草臥れてるだろうとこ悪いけどよ、これぁあんたが持ってってくんねぇか。……こいつと指すときに、存分に使ってやってくれよな」

「おじいちゃん。そういうのは、宅急便で送ってくれたらいいのに」

 孫が、ちょっと呆れた。

「馬鹿言え、そんな風情のねぇことが出来るかよう」

 後輩くんは跪いて、いやしかし、こんな、こんなのもらっちゃっていいわけがないと大慌てする。

「こういうモノってなぁ、大事なのはたくさんたくさん使ってやることよ。なぁ、あんたはこれからこいつと、ずっとずっと一緒によう、何十、何百、何千、何万局と、末永く将棋を指してやってくれよなぁ」

 ここまで言われて、どうして断ることが出来るだろう?

 かくて後輩くんは、先輩のおじいちゃんに認められたという事実の重さを背負って歩き出す。大事にしよう、先輩のことはもちろん、僕自身も、おじいちゃんから譲られた思いも。

 真剣師さんたちご一行(数えたわけではないが三十人はいた感じで、その中にどさくさに紛れて所長とヴェルデグリーン氏が混じっていた)に道を譲られて、建物の一階。パッと見ただけでは図書館か公民館のようにも見えるが、そこは蜂の巣を突付いて大騒ぎをさせた挙句、もうほとんどの蜂は逃げ出してしまった後、といった趣である。建物の地下に牢屋があって、そこで後輩くんを拘束していたという事実が、無辜の信徒たちにも伝わったのだろう。ある者は怒り、ある者は悲しみ、ある者は失望し、……信じていた神的存在の、尊敬すべき兄弟子たる地区長の廣川がしていた行為を目の当たりにして出て行ってしまったのだとしても無理はないと思ったが、後輩くんの誤解を先回りして、

「ここのみなさんは、トミチューに行ったんだよ」

 と先輩が言った。

「『ヴェル・デ』のライブを観るために。有華が、……ここで一時的であれ共に暮らした人たちに声を掛けてね。大日氣弥益は彼女を救うことは出来なかったけれど、彼女が、ここの人たちが、軽んじていた了や皐醒たちによって救われたのならば、同じくかつての仲間たちを救いたいと願うのは当然のことさ。実際、彼らの音楽にはそれだけの力があると私も思う」

 先輩はまだ笑わない。意図的にかそうでないのか、ずっともの憂げな表情。しかし、後輩くんが立派な将棋盤を譲られて、風呂敷で背中に背負うまでの短い時間を除いては、ずっと手を握っている。冷え症の先輩らしい、冷たい手だ。

「私はね、音楽って偉大だと思っているんだ。音楽は形のないものだけれど、ゆえにこそ記憶や出来事と結び付く。……ああ、君は賢い子だから、においなんかもそういう側面があることを知っているだろうね。例えばそう、私は今日一日心細い思いをしたに違いない君が、この建物で用いられている芳香剤のにおいを嗅いだときに記憶がフラッシュバックしてしまうことがあるのではないかと心配している」

 僕はそんなに心細くはありませんでした、なんてことを、わざわざ言おうとは思わない。でも実際のところ、最初のうちは、ああ嫌だなぁ困ったなぁって思ったけれど、先輩が必ずどうにかしてくれるって信じてからは、うっかり普通にお昼寝なんてしてしまうぐらいの余裕さえあったのだ。

「トミチューで演(や)っている彼らの音楽がここまで届くと思う?」

「届いたとしたら、もう通報されてると思います」

「その通りだよ。これは彼らの、いま演っているライブの配信から音を取り出したものだ。このビルが、ミスター・ヴェルデグリーンのものなので、館内のスピーカーを使って流している」

 後輩くんはたまげた。

 ビジネスなら、レイシストとも手を繋ぐ。

 ヴェルデグリーン氏が言っていたのを思い出した。もちろん、その手は毎日しっかり洗うのだろうし、今回の一件でひょっとしたら消毒まできっちり済ませるつもりなのではあるまいか。

「もし君の心に辛い記憶が残ってしまったとしても、……これからもきっと君と共に在り続ける音楽を聴くたび、君が独りではないこと、必ず救いがやって来ることを信じられると思ったんだ」

 外に出ると、もうすっかり陽の落ちて、アスファルトの冷たさがスニーカーから忍び上がって来るような寒さ。

 そんな世界で、一番あったかいのが後輩くんの手だ。

 先輩は少し、絡めた指の力を強くした。

「……ごめんなさい」

 櫻木山会館の中から聴こえるヴェル・デの音、……風に乗って僅かに届く音と、ほんの僅かなラグがある。その僅かな余白を、先輩の小さな声が埋めた。

「私は、君を守ると言ったのに」

 とてもか細くて、弱々しい声だ。先輩がずっと笑わなかった理由に、後輩くんは辿り着いて、大いに慌てた。それはもう、いやいやいや待って待って待って、大慌てで、

「こんな私は本当は、君のそばに居てはいけないんだ。こんなふうに君の手を握る資格なんてない。だけど、……勝手だね。君の手を離したくない。君のそばに居たい。君と」

 いまこの瞬間、一秒だって指が解けたら、先輩は泣いてしまうかもしれないと思った。あるいは今日の昼間、……後輩くんを救い出すためにこれだけ大それたことをするに当たって、きっとものすごく忙しく働き回った先輩は、ふと独りになる瞬間が訪れたとき、誰にも知られないところで泣いたこともあったのではないか。

 先輩がどこかで泣いているかもしれない。

 そう思うだけで、後輩くんだって泣きそうになる。

「こっ……、後輩くん……っ」

「あの、先輩、先輩は、ずっと僕と一緒にいてくれなければ困ります」

 手を繋いだまま、もう片方の手で抱き締めた。将棋盤を背負っている後輩くんは、ただそこに佇んでいるだけでもちょっと目立つ人になっているというのに、そのうえ往来で人を抱き締めるなんて、「どうぞ僕たちを観てください」と言わんばかりの行為である。おりしも通勤時間帯、夕ラッシュ。

 構わない、と思ったのだ。

 大事なのは先輩の、冷えた心を身体を温めるために、自分がいまここにいるということ。

 この人の心が傷付くことに耐えられないと思うなら、まず後輩くん自身が健やかにいることだ。先輩の心が縮まることがないように、元気でいる姿を常にいちばん側で見せる、見せ続けることだ。

 そのためにはもう、別々になんていられない。

 先輩が男性であろうと女性であろうと、

「僕はあなたが好きです。大好きです。あなたが僕を守ってくれるように、僕もあなたのことを守りたい。だからどうか、一緒にいてください、一緒にいましょう、小さくてもいいから、同じ、一つの屋根の下で僕と一緒に生きてください」

 先輩の細い腕、細いけれど、後輩くんのためならば無限の力を発揮してみせるその腕の隅々まで力が行き渡るのが判った。

「……ああ、……うん。約束するよ、後輩くん、……私は、……うん、私は、ずっと君と一緒に生きるとも……」

 その声は微かに震えていた。泣いたら後輩くんが困るからって思って、どうにか堪えようとしているのだろう。あるいは後輩くんはまだちょっと、往来で好きな人に泣き付かれたとき、どうしたらいいか判らなくなってしまいそうな頼りなさを先輩に感じさせているのかもしれないけれど、それもきっと一時的なこと。

 そんなに長いこと待たせないうちに、「後輩くんは頼りになるなぁ」って褒めてもらえる後輩くんになりたいものだ。そのために、まだ何も出来ていないけど、先輩の「助手」としての仕事も出来るようになりたいものだ。仮に実務的なレベルで早々に失格の烙印を押されることになったとしても、先輩がお仕事から帰ってきたときに頑張ってごはんを作って、部屋をぴかぴかに掃除して待っているとかそういうのでもいい。二人で一緒の未来の形は一つではない。先輩が「おうちのことは私がやるね……(後輩くんの家事がだいぶダメだった場合)」なんてケースもあるかもしれないし、もちろん、二人が別々の仕事に就くケースだってある、「私、電車の運転手さんになりたい」って先輩が言い出したら「なってください」と言うし、「ボートレーサーになる」と言い出したら「まだ間に合います(先輩が二十九歳未満であった場合)」と言う。二人が二人で生きていることを変えなければ、この世で何を恐れよう。

 大きな深呼吸を一つ挟んで、先輩は自身の声をコントロール出来ると確信に至ったようだ。

「……うん。大好きだよ、後輩くん。ずっと私の側にいるんだよ、どこにも行ってはいけない」

 上げた顔の、長い睫毛は少し濡れていた。けれど、しっかりと微笑んで見せる先輩は、……もうわかりきっていたこと、どんな男性よりも可愛らしくて、どんな女性よりも凛々しい人の顔をしている。

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