奔る人々(後)
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かくして、天沢有華とミツルママ・白湯川柊さんが喫茶店を後にして、トミチュー方面に向けて歩き始めたころ。
毎朝テレビのお天気アナウンサーである原口ヒナコさんは、独自の判断で自身の大学の先輩である男性が運転する車で宿木橋の隣町の富緑、からそう離れていないところにある、大日氣弥益の信者たちの施設「櫻木山会館」を目指しているところであった。
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「ヒナちゃん」
ハンドルを握るのはとても多忙な人物であるが、ヒナコさんの言うことならだいたい聴いてくれるので、ヒナコさんはこの男性の期待に応えて、「すーくん」と呼ぶようにしているし、すーくんが「ヒナちゃん」と呼ぶことを許している。
「本当なんだろうね? その……、この国は一応法治国家だ。少なくともそういう体裁を取っていて、そうだよねってことには我々含めて国民ぜんたいのコンセンサスを得られている」
ヒナちゃん、がスマートフォンの画面を怖い顔で睨んでいるもので、すーくんの声は恐るおそるのものである。テレビの画面を通して見ると、チャーミングそのものの笑顔、きっとこの子はほんわかして優しくて、小さないきものをいとおしむ女の子なのだろうなぁと誰もが思うし、すーくんもそう信じて疑わない浅薄な男性であった。
しかしながら蓋を開けて見ると、大学時代には「王子様」をやっていた(いや、仕事の合間を縫って部室に顔を出しに行くぐらいには、今でも王子様である)彼女は極めて凛々しい人なのだ。
そういうところも含めて、すーくんはヒナちゃんに夢中。
「『政教分離』もそうじゃないかな」
ヒナちゃんの短い言葉にすーくんは黙り込む。
「大日氣弥益の団体から民友党に流れるお金があったとしても。与党である民友党が掲げる政策のうち重要な幾つかに『大日氣弥益のご意向』がねっちょり絡み付いてたとしても、この国は『政教分離』っていうことになってる。『よくわかんないからそういうことにしときましょ』ってことだよね」
すーくんは溜め息と言葉を呑み込み、運転に集中することにした。
すーくん、こと、野党・憲政党の議員・砂子大樹としては、彼女の言うところ、憲政の在るべき姿との乖離を指摘するのが仕事であって、その成果を十分に出せてはいない自分の不甲斐なさを責められているような気持ちになってしまうのだ。
とはいえ、である。
とはいえ、OB会で会って以来なんの連絡もなかった相手から、去年の十二月の頭に唐突に「お会いしたい」と連絡があって、……正直なところを言えばその相手が原口ヒナコでなかったら自分だって応じることもなかったろうけれども、まあ、平たく言ってしまうなら砂子はヒナちゃんの愛嬌と凛々しさと熱意と、あと魅力に負けてしまったのである。
この女神の言う通りにするのが自分の人生であると思い決めてしまうには十分な夜を経て、砂子は更に、ヒナちゃんの行動力に驚かされることとなったのだ。
大学の後輩が、宗教団体の勧誘に困っているんですけど、先生にお力添え願えませんか。
前夜の懐っこさから打って変わっての他人行儀がだいぶ効いたのである。砂子は独り身であったし、女子アナウンサーとの一夜には、それほど報道の価値があるものだとも思えない。ただ、彼女の目は真剣な光を帯びていて、彼女にだいぶ参ってしまっていた砂子としても無碍にはしがたい。
話を聞けば、筋は通っている。
砂子自身の学生時代にも薄っすら聴いたことのある勧誘行為は違法とも言い切れないが、健全とはとても言い難いこともまた事実である。そして自身のフィールドに目を向ければ、大日氣弥益に限らず、与党の(そして程度の差はあれ野党も)宗教団体との癒着は目に余る。本来ならば原則論と言われようがしかと守られていなければならないルールが、「まあまあ、いわば、そこんところはね、判るでしょう」みたいな言い回しの一部利害関係者の都合で捻じ曲げられてしまう。
砂子大樹は恋をした。すーくんの頬は赤らみ、心は青くなっている。
この男は若手若手と言われてはいるが三十代半ばであって、そろそろもう、「大人」という言葉の意味が、人でありながら何かとても拘束力の強い杭によって自分の身を刺し貫かれ、自由を失った者を指すのであるということぐらい解ってはいるのだけれど、恋をしたなら、青い色した心を取り戻して、愚かでも真っ直ぐにいて何が悪かろう?
すーくんは周囲の人間の反対を押し切り、学舎が市民の暮らしが政治が、宗教によって侵犯されていることを詳らかにすべく戦いを始めた。
ひょっとしたら次の選挙までに所属する憲政党の執行部からは三行半を突き付けられるかと知れないが、そのときは無所属であれなんであれ、だ。すーくんは世襲議員ではなく、しかし口の巧さと清廉さでむっちりと票を集め、民友党が三期続けて占めていた議席を奪い取ったのだ。小選挙区で勝った議員であるから、仮に党を追い出されて刺客を立てられたとしても十分に戦えるという計算もあった。逆に、看板にされる可能性もある。いずれにせよ岐路だが、彼は恐れていなかった。
だって、ヒナちゃんに僕のおよめさんになって欲しいんだ!
君が隣にいない未来以外、僕は何を恐れようか……。
車は都心に向かっている。避け難い渋滞の尻にぶつかった。ヒナちゃんが深呼吸を何度も繰り返している。彼女にとっても、可愛くって愛されるお天気キャスターのまま安定したキャリアを積んでいくか、それとも……、という強烈なまでの分岐なのだ。
いや、それよりもなによりも、大切な友人の後輩の窮地に一刻も早く駆け付けたいという思いがある。
その思いに、なんとしても応えたい。
前方に、無限に続くかに思われるテールライトの列が見えてきた。
「……裏通りを抜けていく。ヒナちゃん、揺れるけど、ごめんね」
大人になっても人は恋をする。恋をした相手には、ちょっとぐらいはカッコをつけたいと願ってしまうものなのだ。脇の小道に向けてハンドルを切るすーくんの瞳には、初恋に煌めく少年の生気が煌めいていた。蜥蜴とか蛇とか評される陰険な顔立ちの男だが、ヒナちゃんはのちに、その顔がとってもいいと思ったとすーくんに教えてくれることになる。
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いろんな人が、いろんな理由で、いろんなルートで、「櫻木山会館」を目指しているころ。
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『インコースから……、一番二番三番、ダッシュ、四番五番六番ッ……、いまぁ、スッ……タートしましたぁっとっとっとぉっ、六コースこぉれはどうか際どい際どい際どいスタート五四三二と搾って行った搾って行って、しかしどうにか一号艇先に回るが六号艇差しに切り替えてこれが、ズボ……ッとぉ差さったかぁ、バックに入って一番六番並走ぉ、後方は小回りで二号艇その外は四号艇、三五と遅れました。なおスタートは正常、スタート、は、正常ぉ、第二ターンマーク一番星野が外から握ってぇ、つけてぇ、強烈ゥなツケマイぃしかし六号艇こらえてこらえてこらえて、こらえ切って、ホームストレッチ入ったところでは、……さあ、六号艇小熊寿羅が二艇身のリードを取った!』
「あっあっあっやっばっ、やばいやばいやばいユノやばいねーちゃんオシッコちびりそう!」
「やめてよ女子大生がしっこチビるとか言うのはぁ!」
「んっそっそこはこらえる、こらえるけども!」
『レースは二周一マーク、前を行くのは六号艇小熊寿羅、その後ろ一号艇星野、水が開いて三番手争いは二番四番。後方置かれたのが三番五番の順なんですけれども、ども、ども、このままで行きますと、行きますとぉ、かぁなぁりの高配当になりそう!』
「五百倍は行きそう」
「んひっ」
「ちゃんと6から買ってんだよね? 1との折り返しで買ってんだよね? 見せて」
「おんっ」
「……ん、よし、間違いなく買ってる! もうっ、なんも起こんないで、そのまま! そのまま決まって!」
『レースは最終周回に入ります。……このレース際どい、際ど過ぎるほぼタッチスタート、二号艇までを一気にまくって一号艇星野の懐を差して、二マークではSGレーサーの強烈なツケマイを耐え切りました、これがデビュー百十一走目! 地元宝崎湖で! 初めての一着! 水神祭が見えてまいりました小熊寿羅! 養成所では天性のスタート勘を高く評価されていたものの、デビュー戦はまさかのフライング、長らくの遠回りもありましたが、これが待望の初勝利となります! 最終ターンマークを先頭で周って、小熊寿羅、いま水神祭のゴール、おめでとう! 二着一番星野、その後ろ三着で四番木村、二番前川、後ろは大きく離れて三番、五番の順にゴールイン。なお二連単61は百十倍ちょうど、三連単614は、614はぁ……、五百五十二・六倍! 以上宝崎湖第三レースでした』
「ぴょ」
「……ねーちゃんトイレ行って来たら?」
今日は一ヶ月ちょっとぶりに水鳥川に持筑選手がやって来ているので、その応援に、エリねーちゃんと、あと喋ってないのでいるのかいないのか判らないかもしれないけど、エリねーちゃんのぴっぴであるところの清久くんと、家庭教師の寺前結詩先生と一緒にボートレース場に来ているユノである。
初日の今日、大好きなお父さんの持筑選手は先ほど最終十二レースの「ドリーム戦」に出走した。ドリーム戦というのは多くは初日の最終レースに組まれ、その節に出場する選手のうち格上とされる六人が一堂に会するレースである。持筑選手は三号艇で出走し、見事一着に輝いている。ただでさえ、持ち前の眼力によって、そこまでプラスが膨らんでいた上に、トドメの一撃高配当を得たところで「このあと何食べて帰ろうか、この間のファミレスのマジカルフォークもいいよね、あとお肉もいいよね」なんて言い合っていたところ、ナイター開催の別の場の次のレースで、あの不思議な先輩と後輩の、後輩のほうのこれまた後輩であるところの小熊寿羅が出走することに、清久くんが気付いた。ボートレース場では、いまいるその場以外の場の放映もされているし、もちろん舟券を購入することもできるのだ。
「あの後輩さん見てたら買ってるだろうね」
エリねーちゃんが言い、
「すごかったもんねえ、めちゃめちゃでかい声でさぁ」
ユノも振り返る。
あの後輩くんはなかなか見どころがあったな、なんてことも思うのだ。
自分の同じぐらいボートが「解ってる」というのは嬉しかった。もともと結詩先生やエリねーちゃんといったボート素人に魅力を教えて来て、それでとっても楽しい気持ちになっていたユノだったけど、同じぐらいの眼力を備えた人物との邂逅というのは、これまたえもいわれぬ悦びの伴うものだと知った。
そんなことを考えながら、小熊寿羅選手の出走するレースの出走メンバーをぼんやり眺めていて、……これはもう、ほとんどこの少女の本能と言ってしまってもいいけれど、瞬間的にそのレースの展開を読んでしまったのだ。
一号艇星野はSGという大レースを優勝したことがある実力の持ちぬし、二号艇から外は小熊寿羅含めて格下がずらり。つまりこれは、「一号艇から買うと当たりやすいですよ」というレースであって、ボートではこんな感じに、ハンデではないけれど初心者向けに的中しやすいレースが組まれることが珍しくない。
だからユノも一号艇から買うことを考える。けれど、それだと儲からないな……、なんてことを考えて、二号艇から外の艇にチャンスがあるだろうかという方向へ思考をシフトしていく。
二秒後に、ユノはぶるっと震えた。
「……ユノ? トイレ行く?」
結詩先生が小声で囁いた。結詩先生、こういう気遣いが出来る人で、みんなの前では「先生」と呼んでいるけれど、二人っきりのときには「ユータ」って呼ばせてくれるのだ。
「16全と61全」
気付けばそう口走っていた。
一号艇と六号艇に挟まれた四選手はスタートがそんなに速くない、一方で小熊寿羅はスタートが速い。内の選手が自分よりも控えたスタートで行くならば、小熊寿羅は一気に攻め込んでいくだろう。問題は実力上位の星野をどう捌くか。
捌けないという予想が大半だろう。仮に捌けたとしても、僅差の戦いとなれば道中で潰されて、四着以下に落ちてしまうのがオチだろう、と。
けれど、ユノはここ水鳥川で見た、小熊寿羅の見事な走りを覚えている。
率直に言ってあの日、後輩くんにレーサーを目指さないのと言われたときにはそこまで本気ではなかったけれど、寿羅のレースを見てから、……うん、なんて思うようになってしまったのだ。
あんなふうにカッコよく走ってみたい。
出来れば、いつか、お父さんと一緒に……。
「16全と61全ってことは……、彼女のアタマも買うってこと?」
結詩先生は慎重に訊いた。彼も最近はボートが「解って」来ているから、それがだいぶ無茶な舟券であることはもちろん知っている。ユノは頬を赤らめて「なんでもない」と慌てて首を振った。
ユータはユノの髪を撫ぜた。ユノは微ッ妙な天パで髪がフワフワしている。水面際にいる時間が長いので、夏でもないのにいつでも日焼けしていて、口は悪いし、すぐ手が出る。あと、趣味がボートレースであるものだから「おとこんな」なんて言われて、言ってきたやつには飛び蹴りを喰らわせる。でもユータはユノの髪を本当に優しく撫ぜてくれるのだ。ユータの髪はサラサラである。背も高くて、綺麗な顔。
「じゃあ、俺は買うよ」
「えーやめなよユんっせい」
「ユノとユノのお父さんのおかげで儲かったんだから、ユノの応援する人を俺も応援したい」
少し離れたところで振り返っていたエリねーちゃんと清久くんも、顔を見合わせて同じ舟券を買うことを決めてしまった。えらいことになってしまった、と青ざめながらも、しかしユノはオッズのとんでもなさよりはずいぶん冷静に、小熊寿羅がデビュー初勝利を挙げるシーンをイメージすることが出来ているのだった。
だから、エリねーちゃんが「アワワワワワワ」ってなっているほどにはパニックにはなっていない。
ユノは夢が見えた気がした。
あたし、なりたい。
あたし、ボートレーサーになりたい!
でも、ユノはこどもっぽくやんちゃな見た目よりもう少しは慎重であるし、その道が険しいものであることに関しては、だいぶ詳しい。だからこそ、いきなりそれを宣言するようなことはしない。まずはしっかり勉強すること、あと、いっぱい運動しなきゃ、ごはんも好き嫌いなく食べる、……にんじんは、本当はウェッてなるけど、今日からは。
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「了りょう了りょう了やばい、やばい、ねぇ了オシッコ行った?」
あんまりそういうことはするべきではないのだが、トミチューとは違う公園のトイレの陰で普段着からライブ用衣装のメイド服に着替えていた了のもとへ、一足先に着替えを済ませた皐醒が飛び込んで来た。場所が狭いので、着替えは一人ずつ順番に、そして、了が最後なのだった。
「さっき行きました。というか、いいですか皐醒、仮にも二十歳を超えている大の男に向かって『オシッコ行った?』とはどういうことですか、僕は自分の膀胱括約筋の管理ぐらいきちんと」
「さっきの宝崎湖の三レースっ、当たった!」
「えっ」
「614で五万舟」
「ごっ、なっえっ、……マ?」
「マ」
「オシッコちびるかと思いました」
「二十歳超えてる大の男なんじゃないの」
後輩さんの縁でチェックするようになった選手であるから、出走する日にはしっかり見る。けれども、「まあどうせ当たらないでしょうね」ぐらいの気持ち、付き合いと応援のつもりでちびちび買って、年末からこれまで当たったことはない。しかし今日に限っては、普段の了も皐醒も買わない大穴舟券を買ったのである。
だって、これから後輩さんを助けに行くのだ。景気付けにどーんと。
ライブ前って、いつも少なからず緊張する。今日のような、これまでにないライブであれば余計に。プリーツスカートを穿いてカチューシャを着けて。お化粧は、自分でやるよりも皐醒に任せたほうがずっと出来がいい。宿木橋から少し離れた公園であるが、宿木橋のにおいが少し届くぐらいの距離感であるもので、四人の女装バンドメンは、おりしも夜の通勤時間帯に差し掛かって数の増えている通行人たちから好奇の視線を向けられることは避けられない。
「マリアネッラ、メルネス王子! 遅くなってごめんなさいな!」
振り返ったところには原口ヒナコさん、と一緒に走ってくるのは、……砂子大樹衆議院議員である。
思いもよらぬ人物が現れたので、了も驚きが表情に出そうになる。とはいえ、まず驚きを表明するのは彼のほうに優先権がありそうだ。
「あの、ああ、……砂子といいます。初めまして」
目が泳いでいる。無言で頭を下げる凱龍さん、女装しているときは誰に何を言われてもだいたいむっつりと無視する結人くん、「はじめましてぇ」と挨拶する皐醒と、「よろしくおねがいいたします」と行儀だけはいい了。見渡してから、砂子氏はヒナコさんに、大いに不安そうな顔で、
「……全員、間違いなく男性なんだよね?」
と訊いたのだった。
ヒナコさんは砂子さんに頷いて、
「メルネス王子、先輩は?」
と訊く。
先輩も、準備を万端整えている。
この夜の主人公は間違いなく先輩であると了は思っているのだけど、先輩ご自身はそうではないと言う。
先輩は、公園の隅で、口元に置いた手を落ち着きなく動かしている。煙草をやめたのだと先輩は言うが、ストレスが高じて吸いたくて吸いたくてイライラしているらしい。
しかし、溜息混じりに空を見上げて、
「……私は貪欲な人間だ」
と独語した。
今朝は、もう、人生でいろいろと要らぬ恥をかいて来たという自覚のある了でさえ居た堪れなくなるぐらいの醜態を晒していた先輩だったのに、落ち着きを取り戻すとやっぱり「先輩」と呼びたくなるタイプの人になるのだった。
ダンディであり、セクシーであり、キュートであり、クレバーであり、だけど、どんな表現方法もいまいちしっくり来ないのが先輩という人である。
要するに、なんだかよく判らないのが先輩なのだ。
「後輩くんを助けられればそれでいい。そのために、この通り手段を選ばない。……快く協力してくれた君たちには心より感謝する。君たちが求めてくれるなら、私はいつでも、王子にだってメイドにだってなってみせよう……、しかしそれで恩を返したことになるとは思わないんだ。私はこの場が既に君たちへの恩返しになってしまったらいいとさえ思っている」
実際、一眠り(了はそのために子守唄だって歌ったのだ)を挟んだ後の先輩の動きときたら! 原口ヒナコさんに電話をして、なにやら政治のニュースで見聞きするような単語をふんだんにまぶしたやりとりをしたのちに、店のオーナーやご自身のバイト先の探偵事務所の所長さんに話を通し、更には「ねぇおじいちゃん、お願いがあるんだけど聞いてもらえるかなぁ」なんて、妙に甘えた声を発した。そうしてほうぼうに連絡をばら撒いた末に、「ヴェル・デ・ラ・ビット」の練習開始時間になって、店に皐醒と結人くんが、そして凱龍さんもやって来た。
「今日、諸君にはゲリラライブをやってもらおうと思っている。『櫻木山会館』の地の底深くに幽閉された私の大事な後輩くんに、君たちのソウルフルサウンドを存分に届けてあげて欲しいんだ」
こうして先輩の口から解き放たれるまで、どんなことを先輩が考えているのか、了さえ知らなかった。
一番に「げ」みたいな声を出したのは、(言葉の判らない凱龍さんを除けば)いちばん常識的であると言っていいであろう結人くん。
「んなん、無理に決まってんでしょ……」
反論は当然のこと。
しかし、先輩は動じなかった。
「場所は、富緑中央公園、通称『トミチュー』」
「マ?」
これは皐醒の反応、それから彼は大急ぎで凱龍さんのために訳す。凱龍さんの反応はなかった、というか、声を失っているのだった。
「富緑中央公園の使用許可は、既に取ってある。……ミスター・ヴェルデグリーンとうちの所長の協力にも、心から感謝したい。また、富緑署と区の迅速な対応にもね。……というのは、あそこが、青少年の悪い意味での集いの場となっていることには区も警察も頭の痛いところ、かと言って強制排除もしがたい。市販薬によるオーバードーズは問題だが、薬自体は合法的なものだから、即それを取り締まることも出来ないわけだからね。でも、君たちがライブを行うとなれば? 当然、たむろしている子たちをひとたび追い出すことにはなるわけだ。一時しのぎのものではあれ、すっかり定着したトミチュー=悪のイメージを拭うことは出来るだろうし、性的マイノリティバンドである君たちのパフォーマンスに協力したということは、区にとってはなかなか好ましいアピールになる」
了は呆れて、……珍しく、少し笑った。本当にめちゃくちゃなことを考えるものだ。でも、悪くないなぁ、なんて思う。
つまり、こういうことだ。
了たちヴェル・デ・ラ・ビットはただライブをやればいい。メジャーなバンドではないけれど、パフォーマンスには一定の自信を持っていいはずで、ありがたいことに宿木橋だけでなくファンは多い。遠路はるばる来てくださる人もいるし、ファン層もなんだか当初の想定よりずいぶん幅広くなっている。つまり、トミチューで悪い子たちと、彼ら彼女らを狙う悪者を解散させた上に、ライブを始めたなら、一定の人は当然集まる。
同性愛者バンドがライブを始めたとなれば、かつてヒロが有華に対してしたような勧誘行為の妨害になる。第二第三の有華は今日もトミチューにいるはずで、活動が出来なくなれば櫻木山会館へ帰るだろう。
報告を受けた会館の人々の困惑は察するに余りある……。
ヴェル・デ・ラ・ビットはただ、正当なプロセスが異例の迅速さで行われた結果として得られた許可に基づき、トミチューでライブを行うというだけ。四人は(同性愛者であるというだけの理由でいい顔はされないだろうけど)大日氣弥益の人々から後輩さんのような狙われかたはせずに済むだろう。あくまで同日同刻の、別の場所で起きている全然関係のない出来事であるのだから。
「あとは、砂子先輩とヒナコくんに任せる」
砂子先生は、ちょっと緊張した顔になった。しかし、思いのほか凛々しい顔で、しっかりと頷いたのだ。
「俺たちはそれでいいとしてさ、ファルヴィイはどうするの?」
「私は、もちろん後輩くんを助けに行くよ」
そう言うとき。
了は、先輩のそんな顔を初めて見た。本当に朝、泣きそうな顔で、あるいはもう半泣きで、「どうしよう、ねえ了、後輩くんにもしものことがあったらどうしよう……」とめそめそしている人と同一人物であろうかと思うぐらいに、……どす黒い怒りと憎しみがその白い顔に滲み出ている。
人は大切なものを傷付けられたとき、そんな顔になるのだ。
ああ、でも、そうか。僕だってマスターを誰かに害されたら、そんな顔をするかもしれない。自分がどんなに弱いか知っていたとしても、命に換えても思いを果たさなければって思ってしまうんじゃないか……。
家族、あるいは家族のように思っている誰かを害されたときには。
了は深呼吸をして、
「じゃあ、みなさん、行きましょうか」
仲間に向けてそう言った。
「トミチューの可愛いキッズたちに、薬なんかよりも楽しくトベる音楽があることを教えてあげましょう。そして、先輩」
もの憂げな陰の差した、美しい横顔に向けて。
後輩さんはまだ先輩の名前も性別も年齢も知らない。教えないでください、と言われたので、……そのあたりは了も皐醒も人の心を持っているのできちんと約束を守っている。でも、後輩さんはまだ判らないのだろうか? 二人はとっくの昔に付き合っているものと思っているけれど、……そういうことにはまだ至っていないということなのか。
知ったときの後輩さんの、……そして先輩の反応を、見ることが出来ないのは、正直ちょっと残念な気もする。
「必ず後輩さんを助け出してあげてください。僕も、みんなも、あなたほどではないにせよ、あの人のことが可愛いです」
先輩は、ほんの少しだけ表情を和らげて、
「知ってる。あの子のことはみんなが好きだよ。だから私は、……判るだろう? 毎日不安で仕方がないんじゃないか」
と言った。




