奔る人々(前)
○
後輩くんが「櫻木山会館」に囚われの身となっているころ……。
これは、後輩くんと同じく例の先輩の「後輩くん」であり、また同時に後輩くんの「先輩」という立場でありながら、一貫してそれぞれから「了」「中寉さん」と呼ばれていて、そのことにほんのり納得いっていない中寉了さんの話。
○
中寉了はそのとき、そのときというのはこの日の朝六時、自身の勤めるゲイバー「緑の兎」の客席ソファにひっくり返っているところだった。夜通しの仕事が終わり、真っ直ぐ帰ればいいのだけれど、この日の昼にスタジオでバンドの練習がある。スタジオは店から歩いて十分もかからない。家に帰ってからまた出てくるのが億劫になってしまったので、近所のスパでさっと身体を洗い清めて帰ってきて、もうこのままここで時間まで寝てしまおうという魂胆でいるところである。
四年ほど前、了は楽器は何も出来ないし楽譜も読めないのだけど、片思いした人に声を褒められて、バンドを始めた。
結論から言えば、片思い人と組んだバンドはそれほど長く活動することなく(社会人のバンドはみんなそれぞれに事情を抱えているのだ)休止となったが、片思いの対象であった人、「緑の兎」の店長である上之原承とはしっかりちゃっかり結ばれて同棲四年目、そして彼がプロデュースしてくれた新しいバンド「ヴェル・デ・ラ・ビット」の活動も軌道に乗っている。
ヴェル・デ・ラ・ビットは了がボーカル、店の同僚であり親友の蒔田皐醒がキーボード、皐醒のパートナーであり、元々は別の人気バンドで活動していた大月結人がギター、そして、この街の顔役であり「緑の兎」のオーナーである人のパートナーである蕭凱龍が笛を務める四人組女装お兄さんたちのバンドである。四人組女装お兄さんたちのバンドである。大事なことなので了は必要とあらば三度目を言うことも辞さない。凱龍は身長が百七十五あるので本当は女装することをとても嫌がっているのだけれど、そしてそれはたぶん結構(凱龍にとっては)大事なことなのだけど、とりあえず言わなくてもいいか……、という気持ちで了はいる。そこそこに評価されていて、意外なほどファンがいて、でもテレビに出るというレベルにはなくて、だからまあ、元気に長くやれたらいいなと思ってやっているインディーズの、なかよし四人組女装お兄さんたちのバンド(三回目)である。
了は大きなあくびをした。身体がコンパクトであるもので、店のソファは彼にとって立派なベッドになる。大好きな恋人であるところのマスターは「俺は家で寝るからな」と言って帰ってしまった。薄情である。僕が風邪をひいたらどうしてくれるんですか隣で温めてくれたってバチは当たらないのにと思うけれど、暖房を消さず加湿器の給水をした上で帰って行ったので文句は言えない。あと、言っちゃうと、キスをしてくれてから帰ったのでキスをしてくれてから帰ったのでキスをしてくれてから帰ったのでキスをしてくれてから帰ったので満足していると言ってもいい。了と恋人は、周りに人がいると指さえ絡めないほど淡白に振る舞うが、実のところめちゃめちゃラブラブであって、更に「実のところ」を重ねるならば、皐醒を筆頭にみんながそれを知っている。スマートフォンカバーにぶら下がるのはお揃いのリングである。
ともあれ、そんな了が寝る前最後のトイレに行って、マスターが時折こうして家に帰ることを億劫がる了のために買ってくれた枕に頭を委ね、毛布に包まって「おやすみなさぁい……」と独語して目を閉じた、そんな午前六時三分。
勝手口をどんどこどんどこ叩く音がした。
「はい。どちらさまでしょうか」
了は、あまり感情が顔に出ないと言われる。
あんまり笑わないし、怒ったり悲しんだりしてもほとんどそれを表情に出さない。しかし、あくまで表情に出ないだけであって、感情がないわけではなく、もっと言ってしまうなら、表情以外には色々と顕れる。了は生まれつき涙袋の目尻側が赤いのだが(最近になって自分みたいな目をした女の子が増えたな、と思っている)怒るとそこの色が鮮やかになるらしい。元気がないときは瀕死の金魚のように色が薄くなるそうだ。
とにかくこのとき、了は寝しなをどんどこどんどんと叩き起こされたのであるから、当然機嫌はよろしくない。しかし了は特殊な家で特殊な育ちかた躾けられかたをして、常々お行儀は良くしなければいけないと思っている。だから暴言を吐くということをしないので、ドアを開けたところにいた人物に対しても、
「なんですかこんな朝っぱらから。僕いま寝るところだったんですよ。しっしっ」
と、そこまで失礼ではない程度のものの言いかたを選ぶのだ。
ドアを開けたところにいたのは、了の所属するコミュニティにおいて、了の次に背の低い人、つまり、先輩である。
先輩の次に背が低いのが後輩さんで、その上には原口ヒナコさんと皐醒が競っている。ただ、このとき先輩は膝に手をついて、頭を下げて、激しい呼吸にその細い背中を波打たせ、それから苦しそうな咳をした。
……ゲロ吐かれたらやだな、僕しかいないから僕が掃除しなきゃいけない。
なんてことを考えているときも、了の表情は変わらない。幸いにして先輩は吐かなかったし、この人がこんなに息を切らせているところを見るのは初めてであるから、まああんまり酷いことを言うべきでもないことは判っている。
「……すまない、こんな時間に」
「ご自覚があるのでしたら結構。どんなご用ですか、ちなみに皐醒は今日はお休みで彼ぴっぴの結ぴっぴのところにお泊まりですしプラスティックは僕を置いて一人で帰りました」
「君がいるだろうと思って来たんだけど、上之原さんは君のぴっぴなのだからあんまり悪いことを言うものではない。……凱龍くんは」
「さあ。彼のぴっぴであるオーナーのとこではないですか」
「オーナーなら私と一緒だ、うちの事務所の所長と一緒に、いま向こうの通りのタクシーの中で寝ている」
このゲイタウン宿木橋界隈は、細道が多く、タクシー運転手は口を揃えて「橋の手前までなら行きますよ」と言う。つまり先輩は橋の袂から四百メートルほどをフルダッシュしてきたということなのだろう。
了は四メートルだって走りたくない。運動は大嫌いである。とはいえ二十メートル歩かされたぐらいで文句を垂れるなんてこともしないが。
了は「何があったのですか」と訊くことはしなかった。
しなくても、だいたい判る。
この先輩が──というのはつまり、基本的に誰に何と言われても淡白な反応しか示さず、了ほどではないにせよ表情の種類に乏しく、感情表現を惜しみ、了から見ても「うちのマスターほどではないけれど美しい顔の男の人だなぁ」あるいは「(女性についての審美眼は持ち合わせていないけど、たぶん一般的には)可愛い(とされる女性なのだろう)なぁ」と思うような相手から思いを寄せられ告白されるに至っても、うっすらと困惑した様子だけを垣間見せて「困るよ、こういうのは」と断っているような人、という意味だ。男性女性の差なく断っているので、同性が嫌という訳ではないらしいのだが──息を切らせることがあるとしたら、それはもう間違いなく。
「……後輩くんが」
ほら見ろ。
どうせ喧嘩でもしたのだろう、想定通りだ。
「拐われた」
それは想定していなかった。
この国において人ってそう簡単に拐われてしまうものなのか。ただ、了であるので飛び上がったり腰を抜かしたりおしっこチビったりといったリアクションはしないし、たぶん、先輩にはそんなに驚いたようには見えていないだろう。
「誰にです?」
「大日氣弥益の連中だ。……昨日私は、ここのオーナーから借りた資金を用いて、相手方に私たちの身の安全を保証させるための真剣勝負を行って、勝った。しかしあちらは勝負の結果など端から尊重するつもりはなかったらしい……」
この先輩が言う「真剣勝負」が賭け将棋を意味する言葉であることは、了も知っている。なお了は将棋を指さないが、先輩がなんだかべらぼうに強いらしいことは耳に入っていた。
「賭けごとなんてするもんではありませんよ」
「ボートレースにドハマりしている君に言われたくないが」
「警察には行かれたんですか。ああ、直前までなさっていたのが真剣を用いた勝負であったことが知られたらまずいわけですね」
「後輩くんがどこに拐われたかは判っている。櫻木山会館という、連中の、都心における活動拠点だ」
「隣町と言っても差し支えないぐらいの近所ですね」
「凱龍くんが潜入した際に、地下に、なんかそういう場所があることを見付けてくれている」
「ふぉれで」
悪気はないのだが、こちらとしても眠いので、あくびが出てしまう。
「すみません。それで、先輩はどうなさるおつもりでここにいらしたのですか。猫の手も借りたいというお気持ちはお察ししますし、僕も後輩さんは大切に思っていますが、後輩さんのために触法行為に手を貸せるかと言われると否です」
だって、了は本当のところマスターが大好きなのである。もし万が一捕まって、マスターと一緒にいられなくなったなら、たぶん三日と持たずに酸欠で死んでしまう自分であることに、了は自覚的でいた。
「ああ、ああ、もちろん判っているそんなことは。だからオーナーにも協力を求めた、うちの所長にも。オーナーはある程度お金の融通が効くし、所長は警察に顔が効くからね。ただ二人はいままだ酔っぱらっていて……、私の将棋を見ているうちに意気投合して、終わるなり二十四時間やってる居酒屋で祝勝会みたいなことを始めていたらしいのだ」
「オーナーはすぐに誰とでも仲良くなってお酒を呑んで人を持ち帰ってくると奥さまがこぼしていました」
奥さま、とは笛の人・凱龍のことである。なぜって、男性だけどオーナーの奥さまなので。
「それはそれとして、解せません。先輩のところの所長さんとオーナーがいて、要するにお二人のお酒が抜けたらもう万事解決なのではないですか。準備に一定の時間はかかるにせよ。なのに、どうしてウチにいらっしゃったのでしょう」
先輩は両手で髪をかきあげる。もう呼吸は落ち着いていたが、汗をかいている。了は、この先輩が汗をかいているところを初めて見た。
「……君に会うためだ。ああ、正確に言えば、君たちのうち、誰かに会うためだ。そして君の、皐醒と結人の、そして凱龍くんの住まいと、この店……、の中で、猪熊から一番近いのがこの店で、誰かがいる可能性がある以上は、ここに立ち寄って、アテが外れたら他の場所、そうだな、ここからなら凱龍くんのところだ、そこに駆け込むつもりでいた」
「僕に会いたかったのですか。眠りに就こうかという時間帯でなければ涙ぐみたくなるぐらい嬉しいことですけど。せめてメールぐらい送っていただけたらよかったのに」
「タクシーの中でスマホなんていじったら酔う」
先輩が車酔いする体質であったことを、了はこのとき初めて知った。後輩さんはたしか免許を持っていたはずだ、「先輩とお出掛けのときには電車を使ったほうがいいですよ」と教えてあげようと思うし、教えてあげるためには後輩さんに無事でいてもらわなければいけない。まだ頭はぼやぼやしているし、油断するとまたあくびが出てきてしまいそうだけれど、了にとっても先輩である人が、了にとっても後輩である人のことを思って、不安に心とほっぺたと冷たく固くしているのであれば、それはやっぱり、助けてあげなければいけない。
しかし、僕がいて何の役に立つと思っているのだろう? 先輩は頭のいい人だと知っているけれど、よく判らない。
「……他のメンバーに連絡を取ってもらえるだろうか。そして、……君と皐醒には今夜この店を休んでもらうことになってしまうとは思うが、……後輩くんのためだ、ああ、あの、二人が休むぶんのお給料は、ええとそうだな今月は無理だけど来月ぐらいには私が捻出するから……。君が案じたように触法行為に訴えて連中の施設から後輩くんを奪還する訳にはいかないんだ。私だって多少は我が身を可愛く思うところがあるので。だから……」
了のぴっぴであるところのマスターは社員の皐醒と学生パートの了に等しく有給休暇を付与していて、別に一日二日休んだって生活の質が落ちるということはない。結人は昼間は普通の仕事に就いているので夜に予定が入るぶんには対応してもらえるはず、あと、凱龍奥さまはオーナーの右腕として働いているけれど、たぶんお給料というものはもらっていない。
先輩と、後輩さんのためならば。
「わかりました。皐醒と結人くんはまだお布団の中かも知れませんが、……夜に身体が開けばいいんですね?」
「ああ。恩に着るよ」
先輩はようやく少し安堵した表情を見せてはくれたが、やっぱり後輩さんのことが心配で心配で仕方がないのだろう。まあ、了にだって共感は出来る。マスターが誰かに拐われた、なんてことがあったなら……、了の身長は百五十代の半ばしかなくて、やせっぽっちで、「中学生みたい」「小学生ではないのか」なんて言葉で評されるような見てくれをしているのだが、心にあるのは成人男性として結構熱いものであると自負している(それは憲法に保障された内心の自由である)ので。
「じゃあ、僕は他のメンバーに連絡しておきますね。そのあとは、お昼まで一眠りしてもよろしいですか。先輩ももしよろしかったら一緒に寝ていきませんか、二徹じゃ身体がもたないですよ。僕後輩さんと一緒に寝たことがあるので先輩とも一緒に寝ておかないと釣り合いがとれません」
「そういうことを君は他の人間に言ってはいないだろうな。後輩くんと寝たのは部室で、単純にあの子と君の正当な理由に基づく寝不足を解消するためにソファをシェアしたというだけのことだろう。言っておくけど私はそんなことで嫉妬なんてしないしいやそもそも嫉妬するだけの理由もないからな私はだって後輩くんと何度も同じベッドで寝ているし一緒にお風呂に入ったことだってあるんだもんねぇ!」
「お二人は付き合ってるんですもんね」
「んそっ……、そ、それは、それは私が、私は、私の、私がその、独断で結論を出してしまっていいことではなくってだな」
「少なくとも後輩さんのことが好きで好きで仕方なくて、後輩さんがどうお考えであれ先輩的にはそう扱われることが『やぶさかでない』ぐらいにお考えなのだということはよく判りました。みんなに共有しておきます」
「待ちたまえ! 私のプライバシー!」
「何をするにせよ寝なきゃ潰れますよ。ソファいっぱいあるし毛布もまだあるので、昼に皐醒たち来るまでおとなしく寝といてください」
こののち。
先輩は、後輩くんが見たこともないぐらいの姿、……たぶん、「醜態」と呼んでいいのであろう姿を、了に晒した。後輩くんが心配で心配で仕方がなくて、何度もトイレに行って、戻ってきたと思ったらカウンターの中にしゃがみこんで頭を抱えて、床に大の字になったり、溜め息を延々五分間吐き続けて空気中の酸素濃度を著しく低下させたり。例のウイルス禍以降、店内の空気の状況をしっかり把握できる装置を設置しているので、実際それがぴいぴい鳴いたのだ。そういう次第で、まあ先輩はもう好きにすればいいけれど、了もろくに眠れやしないうちに昼になった。
○
中寉了さんが「緑の兎」で寝たり起きたりの困惑時間を強いられているころ、……これは、幸せな同性のカップルとして同棲し、自治体の認めるところの「パートナー」として暮らしている蒔田皐醒さんと大月結人さんの話。
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「なにしてんの……?」
大月結人が起きたとき、彼のパートナーは、二人暮らしにはやや手狭、だけど駅近で家賃もほどほどという1Kのマンションのキッチンで、洗濯機を働かせながらトーストを焼きながら棚に置いたスマートフォンを覗き込みながらずれたブリーフを直しながら捲れたキッチンマットを足で直そうとしているところだった。
「あーおはよ結人……、あっ……、あっ、……あー……」
スマートフォンではボートレースがやっているのだった。結人のパートナーの美青年・蒔田皐醒の趣味は中国語の勉強とボートレースである。ボートレースは元はと言えば彼の職場の同僚である中寉了くんから教わったもの、その了くんは店のマスターから教わった。友達と共通の話題があって、一緒に盛り上がられるというのは幸せなことだし、皐醒は財布の管理に関してはしっかりしているので心配はしていないが、もうちょっと落ち着いて出来るときにやればいいのにと結人は思う。いまの声から明らかな通り、舟券は外れてしまったらしい。
「朝ごはん作ってくれてんの?」
「俺もお腹空いたしね。でも、サラダとオムレツも作るからシャワー浴びてきていいよ」
俺って幸せだなあと、結人は日々繰り返し思っている。そういう思考というのはそれじたいがだいぶ幸せなものであるもので、考えれば考えるほど幸せになっていく気もする。
この大月結人という男は、元々同性愛者であったわけではなく、皐醒と出会った当初は女性のパートナーがいたのであるが、不器用者であるなりに紆余曲折というものをコツコツと経た末にこうなっている。同性同士に限らず、あらゆる恋人たちがこつこつ、こつこつ、踵の音を硬く立てながら幸せに繋がる階段を上がっていくのだと思いながら、顔を洗い、髭を剃り、肩まで伸びてだいぶプリンになっている髪を洗う。
これは全くの余談であるが、この男は所属しているバンドにおいてメイドさんの格好をしてエレキギターを親の仇みたいな勢いで掻き鳴らし、女性ファンからも男性ファンからも「可愛い」と言われていて、その言葉を(望んでいるわけではないが)招くために、身体の無駄毛は皐醒に連れていかれるお店で全面的に処理されているのである。わずかな抗いとして髭の脱毛はしていない。そこの管理は俺自身がやりたいのだ、という、自分でもよく判らない意地のようなものが根を張っている。
実際問題、こんなん──顔を洗って髪を掻き上げて、曇ったミラーにお湯を掛けて、睨む男の顔を見て思う、こんなんである──見て「可愛い」って言う神経があるとは思っていなかった。可愛いって言うのはさ、可愛い「男」っていうのはさ、皐醒とか、了くんとか、そういうのを言うんだよ。自分のパートナーであるから皐醒はほんっとにもうなんっつーかどうしようもねぇよなもうあんな可愛く生まれて来ちゃったから苦労も多かったよなでもそのぶん俺が幸せにしてみせるからさお前のそばにいるだけでめちゃめちゃ幸せになれちゃうからさぐらいの容姿である、と贔屓目に見てしまうのだが、公平に見ても了くんは「これで成人男性かよ」というレベルのあどけない可愛さを備えていて、……だからファンの子は俺たちなんか見ないであの二人だけ見てりゃいいんですよね、と、こちらも「可愛い!」とか「美人!」とか言われることに相当な苦手意識を持つ凱龍さんとよく話している結人である。
でも、いまやっている音楽が楽しくないかと言えばそんなことはない。
結人は元々「ドアストッパーズ」という、わりといいところまでいったバンドをやっていた。
ただメンバーの都合もあって解散して、独りぼっちになっていたところ、皐醒と了くんがバンドをやると言い出して、それに巻き込まれた。
「バンドをやります」
「うん、いいんじゃない。バンドは楽しいよ」
「結人と老師(皐醒は凱龍さんのことをそう呼ぶ。彼の中国語の先生だからだ)にも一緒にやって欲しいんだ」
「まあ……、えー、あーそう……」
「でもって、お揃いの衣装を着てパフォーマンスをすることを考えています。こういう感じの」
「えーV系ってこ……と……?」
「了っ、老師捕まえて!」
騙し討ちだったと言ってもいい。段取りを踏むことを皐醒と了くんは許してくれなくて、とにかくもう、話が出たその日のうちに、結人は「ヴェル・デ・ラ・ビット」という女装男子四人組バンドのギターをやらされることが決まってしまったし、そのときにはもう、了くんの彼氏であり了くんと皐醒の働くお店のマスターである上之原さんが四人のための曲を書き下ろしてしまっていた。上之原さんも元々は「つぐないメルセデス」というバンドでなかなかのところまで行ったギタリストである。
でもまあ、音楽をやるのは、大月結人の足の裏である。
足の裏というのはつまり、自分の人生の全体重がそこに掛かっているという意味だ。音楽活動がなくなってしまったら、結人は歩けなくなってしまうだろう。歩けなくなったら皐醒に迷惑が掛かる。そんな自分では、だいぶもう、絶望的である。だからやってる音楽のジャンルがどうだとか、着ている服がどうだとか、そういうのは枝葉末節であって、結人は何を着ていようがギターで立てる音を誰かに聴いてもらえて、それで楽しい気持ちになってもらえたなら十分なのである。
平均すると月に二度はライブがある。次のライブは二週間後だが、それとは関係なく、週に一度は集まって練習をしている。練習して、音をぶつけ合って、まとめて、聴かす。一度ライブをやったら、またバラバラにして、それぞれ磨いて持ち寄ったものをぶつけて粉々にして、ひとかたまりにして。バンドとはその繰り返しで、だからライブとは成長する生きものである。たくさんの人に見に来て欲しいなあ、なんてことを思うとき、自分がメイド服を来てスカートヒラヒラさせながらギターをガチャガチャやっている姿が世界で一番クールなんじゃないかって思うときさえある。
「ねー結人」
男同士であろうとなかろうと、すっぽんぽんでシャワーを浴びているところに断りなくドアを開けられる関係というのがきっと最上である。
「なに。そこいると泡が跳ねるよ」
「いま気が付いたんだけど、なんか了が変なメッセージ送って来てる」
「了くんの言うことはだいたいいつも変だよ」
「そうだけども」
了くんから、結人・皐醒・凱龍のグループ宛に送られたメッセージの文面を、皐醒が読み上げてくれた。
「『後輩さんが拐われたと先輩が飛び込んできました。みなさん夜のご予定はいかがでしょうか。おやすみなさいませ』だってさ」
「文章三つあるけど何も繋がってない話だな。先輩っていうのは確か……」
了くんの大学の先輩のことである。詳しいわけではないが、了くんと皐醒の話だとアルバイトで探偵をやっている人だという。
「そう、ファルヴィニッヒ王子様、もしくはメイドさんのデルフィネス」
「まあ、それはどっちでもいいんだけど……、あの、どっちか判んない人でしょ?」
「判んない? ……あーそっか、結人とか、あと後輩くんとかはそうかもね」
その、横文字の名前の「先輩」とは何度か会ったことがある、直近では了くんの通う大学の学祭(ヴェル・デ・ラ・ビットはありがたいことに三年続けて呼んでもらっている。最初のときはリモートライブだったが)の打ち上げ。そのとき、「後輩くん」とも結人は会ったが、あんまり印象に残っていない。先輩の隣でちょこんと座っていたおとなしい子がそうだっただろうか? ……直接会話をする機会もなくて、だから、声も聴かなかったはずだ。はて、どんな子だったっけ? 結人は自分の記憶力の曖昧さにちょっと呆れた。
了くんの文面からは眠そうさが滲み出ている。ランチに弁当を売る日を除けば、基本的に皐醒が夕方から終電まで、了くんが夜から翌朝までというシフトになっている。バンドの練習がある日には帰るのを億劫がって店に泊まることがしばしばあるのだと言うから、六時半というのは、本来ならばもう眠っているぐらいの時間と見ていい。
「よくわかんないんだけど……、拐われたっていうのは?」
「さー……。どういう意味だって訊いたけど既読付かないね、寝てるんだろうね。老師は機械音痴だからそもそもスマホ持ち歩いてないし……」
拐われた、なんて音で聴くとなんだかおおごとである。いくら普段からおかしなことばかり言う了くん、しかも眠くて仕方がない状況であるということを考えても物騒だ。
「拐われた、じゃなくて『触られた』じゃないのかな」
結人独りなら髪なんてシャンプーで洗ってバスタオルでガシュガシュ拭いておしまいなのだが、「結人は可愛いんだからちゃんとしなきゃいかんのだよ」なんてことを本気の目をして言うパートナーと暮らしているので、コンディショナーなんてものを使うようになってしまった。もちろんドライヤーで乾かすし、最後は皐醒てずから櫛を通される。
「まあ、昼に合流したら判るでしょ、ファルヴィイもいるんだろうし、全員揃うわけだしね」
洗面台の時計は十時を指している。皐醒が作ってくれたごはんを食べて、いつものスタジオに揃うのは正午過ぎぐらいということになるだろう。
○
蒔田皐醒さん・大月結人くんカップルが身支度を整えて、宿木橋にほどちかいスタジオにて、中寉了さん、蕭凱龍さん、そして先輩と合流し、事情を聴かされているころ……。
これは、店の改装工事がいよいよ今月一杯で終わり、営業再開に向けての準備に余念がない、のだけれど現状オフィスと呼べる場所もないもので、とりあえず宿木橋と富緑の境目にあって、つまり宿木橋の住民であるゲイの人たちも、富緑のオフィスパーソンも、あるいはもうちょっと北の程ヶ窪駅前にあるコリアンタウンで美しいお兄さんお姉さんたちや化粧品、美食などのお買いものを楽しんで流れてきた人たちが入り交じる広々としたカフェの片隅に陣取って、ああでもないこうでもないとノートパソコンとにらめっこしている、ゲイバー「さよならメルセデス。」の主であるミツルママ、のテーブルの隣で「メルセデス。」のスタッフである白湯川さんに勉強を習っている元・トミチューキッズである女子高校生の天沢有華の話。
○
天沢有華は、
「ミツルママがそうやってパソコン覗いてるとさあ、パソコンがちっちゃく見えるよねえ」
と思って、そのまま口に出して言ってしまった。ついでに言っちゃうとママのドリンクはアメリカンコーヒーのグランデサイズなのだけど、つまりこの店で一番でかいカップで提供されるドリンクのはずなのだけど、なんだかとっても可愛らしく見えてしまう。要するにママの顔も手も身体もすっごくでかいからだ。百八十センチ、百十キロ級の角刈りおじさん、だけどなんというかもう、愛嬌の塊、みたいな存在がミツルママ。
「うっさいわねえ、……あーもうヤダぁあたし老眼かしら……」
ママは、普段有華の勉強を見てくれている了と皐醒が働いている「緑の兎」でマスターをやってる上之原さんと大学が同じで、同い歳なんだって言っていた。身長は上之原さんも同じぐらいで、でも上之原さんのほうがずっと痩せているし、あと、若々しい。
ミツルママは言動がおばさんっぽいのだ。
見た目はおっさんなのに、どうしても「おばさんっぽい」と思わせてくれてしまうのが、きっとミツルママのいいところなのだろう。
「有華ちゃん」
「はーい」
白湯川さんに諭されて、くるんとペンを回して手元に視線を戻す。
多くの高校生がそうであるように、有華も英語の長文読解が苦手で、苦手っつーか嫌いで、もう、なんでこんなもんやらされなきゃいかんのかとぶつくさ言いながらも、学年末試験がそう遠くないところで待ち構えているもので、あと、認めたくはないが春になったら受験生なもので。
何になりたいかと言われても、答えは一個も出ない。
出さなくていいんですよ、答えなんて別にまだ。了はそう言った。
君が君のままで生きていくことをやめなければ、やりたいことのほうから自然とやって来ますよ。表情をほっとんど変えずに淡々と彼は言ったのだ。
そうだねぇ、先が見えないときは、逆に自分の足元しっかり見て、転ばないように進むのが大事かもねえ。
皐醒はそう言った。
転んだときの気持ちを知ってるぶん、霧が晴れたとき有華は他の子に優しくしてあげられるはずだよ。
温かくて優しい声で。
なんというか、ハイレベルの顔面をした人があたしの周りには多いんだよな、と思っている。
あの二人が見てくれない日に、代わりに家庭教師をやってくれているこの白湯川さんも、スポーツマン体型で、相当なイケメン、とても謙虚で、なにより声がいい。さっきからあっちこっちの席から白湯川さんに向かう視線を、有華は感知していた。彼氏じゃないけど先生、だけど向かい合って勉強を教えてもらっているこの状況は、だいぶ誇らしい。有華は了と同じ九隅文科大学を、どんなに「身の丈に合わない」と言われようとも現状の第一志望として高らかに掲げているのだが、白湯川さんを見ていると「東英大学もいいなあ……」なんて浮気しそうになってしまうのだった。
途方もない一年後を本当にするべく、しっかりみっちり勉学に励むようになった。
去年の晩秋まで、ここからそう遠くないトミチューで薬に溺れ、宗教の勧誘に躍起になっていたのに、なんであんなことしてたんだろって、つくづく思う。
夜の底、べとつくアスファルトの上を、這いつくばってもがいていたときに自分を救ってくれたのは、形のない神様ではなく、その神様から遣わされたと自称する人でもなく、なんか身長とか自分とあんま変わらない、ひょっとしたらあたしより歳下なんじゃないのってぐらい貧相な探偵だった。
まあ、貧相っていう言葉なら了はもっと、なのだけど。
探偵の名前を、有華は知らない。なんか知らないけどみんなそう呼んでいるので、有華も倣って「先輩」と呼ぶようになった。先輩にはいつももう一人と一緒にいて、というか有華が最初に接触したのはそいつのほうなのだけど、そいつは「後輩」である。ぼーっとしてて、なんとも頼りなくて、でもまあ、九隅文科大学に──二浪しているとはいえ、一応──入ったのだから、本当は先輩と同じぐらいに尊敬しなければいけないのだろうと思う。
あの二人、「先輩と後輩」がいなかったら、あたしはまだ薬やってんだろうな、トミチューの底をネズミとか虫とかみたいに這いずって、ダイニッキイヤマスサマバンザーイっつって、訳なんか一個もわかってないままヒロが好きっていうただそんだけでああいうこと続けてんだろうな……。
いまでは、単語を、熟語を、文意を、丁寧に拾い上げるのと同時に別なことを考えられるぐらいには、英語と仲良くなっている。
白湯川さんの丁寧な採点の結果は、満点とまではいかなかったけれど、
「前回僕が見たときよりもずっと出来るようになってるね」
というお褒めの言葉を頂戴できた。
白湯川さんは東英大学に在学している期間に起業していて、ミツルママの店「さよならメルセデス。」の手伝いがないときには普通に社長さんをやっている。ああ、そういう人に褒められるっていうのは、顔面のいい王子様たちに褒められるのと同じぐらいハッピーなもんなんだなあ。
具体的に何をしていこうっていうのはまだぜんぜん見えてこないけれど有華は、「イケメンに褒められる人生を送りたいもんだなぁ」なんてことを思っている。惜しむらくは、了も皐醒も白湯川さんも上之原さんもミツルママも揃いも揃って同性愛者で、みんな例外なくパートナーがもうすでにいるのである。
あと、なんとまあ生意気なことにどうやら後輩も先輩と付き合ってるらしい、これは了から聴いた。
宿木橋という立地がよくないんだな、うん、と諦めるべきところはしっかり諦めて、大学に入ったら頭と顔がよくてミツルママぐらいのユーモアと愛嬌があって、あと、変な宗教には絶ッ対にハマんない男と付き合うんだぞあたしはぞ、と決意を固めていたところ。
「んぁ、了……、と皐醒、とぉ、あと結ぴっぴと龍さん、……っと先輩」
が窓の外をとっとこ歩いていくのが見えた。白湯川さんからは逆、そしてミツルママはノートパソコンから顔を上げて「あーしんど」と太い親指でまぶたをぐりぐりしているところであった。白湯川さんが振り返ったときにはもう、五人の姿は見えなくなっていた。
「……ゆいぴっぴ?」
「結人くんは皐醒のピッピだから結ぴっぴ」
「なるほど……」
「今日はあの子たちバンドのれんひゅぅああぅうふぁああ」
「ミツルママでっけーあくびでっけー口」
「うーるっふぁいわねぇ……。あくびはねぇ、脳に酸素行き渡らすために必要なことなんだから……、ん?」
ミツルママはすっかり冷めたアメリカンを一口で飲み干して、
「……誰かいなくない?」
と訝った。
「後輩がいない」
「よねぇ。……でもファルぴっぴはいたの?」
「先ぴっぴはいたねえ。五人だった」
「ファルぴがいて、後輩ぴっぴがいないの? 何かあったのかしらねぇ」
あんまりにもぴっぴぴっぴいうオネエさんとJKであるもので、白湯川さんが少々居心地悪そうにしている。
「……後輩くんは、アルバイトとかそういうのじゃないのかな」
「そうだとして、じゃあ、ファルぴがこっちにいるのはなんでかなあって。だって、あの二人付き合ってるって了が言ってたし。こっぴ」
「こっぴ?」
「後輩っぴが仕事してる間に先輩っぴがあいつらと一緒にいるの?」
勘繰り過ぎと言われればそうかもしれない。けれど、五人がなんだか妙にばたばたと走って行くのが気になった。特に了が走る姿というのは、皐醒曰く「滅多に見られない」そうなのだ。
バンドの練習のスタジオは、このカフェのすぐそばにあると言う。そして五人が向かっていったのは、そのスタジオのある方向から、宿木橋に背を向けた方向。
具体的には、……あんまり思い出したくはないけれど、トミチューとか、櫻木山会館のあるほうだ。
もちろん有華にはなぜこの期に及んで彼らがそっち方面に向けて駆けて行くのか全く想像もできなかったし、後輩が一緒にいなかった理由もまるで。
ただ、なんだか落ち着かないような気持ちになったのは事実。
「ねー、了たちトミチューとかのあるほう行ったよ」
白湯川さんとミツルママが顔を見合わせる。
「あたし追い駆けて行ってみようかなぁ。なにしてんのーって」
「それは」
「アータ」
二人揃ってほっぺたが固くなったのが判る。どうしてあたしは、同性愛者だからって理由であんな酷いことを言えてしまったんだろう。二人が、そして「ヴェル・デ」のみんなが、とても温かな心の持ちぬしであることを知ったいまとなっては、あのときの自分をひっぱたいてやりたいと思うし、それが出来ないのならばせめて、自分が受け取ってきた愛情を精一杯みんなに返していきたいものだなぁ、なんてことも思ってしまう。
有華の言葉を受けて、ミツルママと白湯川さんが暫し無言で視線を交わす。シンプルに、この二人は有華を単独でトミチューに近づけさせたくないのだ。有華自身、独りでトミチューに近付いたら、またどんなことが起きるか判らない。更正という言葉がぴったりないま、もうあのべとつく空間に戻りたくはない。
「ママ」
「……っはぁ」
二人が、視線だけでは足りなくなって、声を発した。白湯川さん一人、ミツルママ一人ではなく、二人が一緒に付いて行くしかないという結論に至ったようだ。
有華は、先輩と後輩と初めて会ったあの夜、先輩が言っていたことをいまも忘れていない。
「ったく、しょうがないわねぇ……。ほら、さっさと行くわよ、さっさと行って、さっさと帰るの。いーい?」
きっとこれからも、ずっとずっと大事に有華の中にその言葉は在り続けるだろう。
そしていつか、有華が誰かに教えるときが来る。




