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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
先輩はどっちか判らない。
32/45

後輩くんの誕生/一陣の風

 これは洗脳であり、拷問である。

 ……と神楽坂くんは理解した上でなお、「現在の赤州の様子だ」という言葉と共に廣川が、自慢のおもちゃを見せびらかすように掲げたタブレットに映し出されたライブ映像を食い入るように覗き込まずにはいられなかった。

 たまに、ばーん、という大きな音が響き渡る。そう広くもないと思われる、……恐らくは、後輩くんがいま閉じ込められている独房と同じぐらいかもっと狭いか、そんな部屋の中心にスチールの事務机が一個あって、逆に言うとそれしかない。そんな部屋に、角度のせいか肩幅の広さが強調された男と、貧相に痩せ細って小柄な女性が向き合っている。

 神楽坂くんはその部屋の様子を見て、「取り調べ」という言葉が浮かんだ。

 刑事ドラマでよく出てくる。犯人に対して刑事が厳しい声で、ときに極めて圧迫的に、暴力の行使も厭わないことを示唆して行う聴取。近年は被疑者の人権にも配慮しなければならないという意識の高まりから、その可視化が声高く求められるようになっている。とはいえ刑事たちだって正義の行使者という自覚でいるものだから、必死になるのも当然。被疑者は悪辣であればあるほど、のらりくらりとかわすのだろうし……。

 しかし、その部屋が警察の取調室であるはずがないのだった。

 肩幅の広い男のほうが、なにごとか、低い声の早口に捲し立てる。

 女のほうは縮こまって、なにか言い返す。

 その内容が気に食わないのか、肩幅男が大きく手を振り上げて、事務机に叩き下ろした。

 ばーん! ……と音が立つ。

 赤の他人の姿であったとしても、気分が悪くなりそうな映像であった。圧迫面接、なんて言葉に触れるたび、神楽坂くんにとって就職はまだ少し先のことだけど社会ではそういうのが横行していて、僕もこれから幾度となくそういう目に遭わされることになるんだろうなぁ、人生ってつらいものだなぁ、なんてことに思いを馳せて嘆息したくなる。しかしどんなに尊大な面接官だってこうはするまい。面接する側、会社にとって、学生は敵意を、害意を差し向ける対象ではないから。

 画面の中の男は女を明らかに虐待していた。

 女は、神楽坂くんに「縁樹」という名前を授けた人。

 お母さんだった。

 神楽坂くんは膝が震えるのを覚えた。耳と指先が冷たくなって、でも、頭に血が昇って、ほとんど無意識的に鉄格子を掴んで叫んでいたのだ。

「やめろ。……やめろ、やめろ、やめろやめろやめろ(・・・)!」

 神楽坂くんにその映像が刺さった(・・・・)ことを確信したのだろう。廣川は後輩くんよりも歳下になったみたいに、キャハハ、というような笑い声を上げて、楽しそうに足踏みをした。

「やめて欲しいかい、そうかい。簡単なことだよ。君がやめればいいだけのことだ」

 廣川がジーンズのポケットから取り出したのは、スマートフォン、……神楽坂くんのものだ。

「神楽坂くん。君の気持ちの支度さえ整ったなら、この電話を使って、君の友人たちを止めることだ」

 これは親切な交換条件、とでも言いたいのだろう。廣川はどこかしら猫撫で声に変わっていた。

「簡単なことだよ」

 きっとそういう顔で、声で、この男は有華をはじめとする若者たちを懐柔し、自在に操作してきたのだろう。

「君なら出来るさ。何も難しくない……、君は賢い子だろう?」

 確かに、人に認められたことのない者はその声に絆(ほだ)されてしまう可能性もあるだろう。

 しかし、神楽坂縁樹くんは、……後輩くん(・・・・)として生きているので、もっとずっと甘やかな声を知っている。

 簡単に屈するわけには行かない、簡単に屈するはずがない。何が大事か、そうでないか、判らないであの人に「後輩くん」と呼ばれる立場でいるはずがない。

 先輩とこれから先をずっと一緒に生きていく者として、間違えるわけには断じて行かない。

「そう。……ああ、充電が切れそうだな」

 廣川は肩を竦めて、タブレットの画面を暗転させた。

「また来るよ。よーく考えてみるんだね。自分にとって何が大事か、本当に大事なのは何なのかということをね。無論、君が賢明な結論を出すことに私は希望の光を見出すし、……君の人生は君が決めるんだ。ゆえにこそ、どんな結論に至ったとしても私はそれを尊重し、君か、君以外かを徹底的に潰すつもりでいるがね……」

 廣川はそう言い残して、タブレットを持って廊下を去っていった。

 少しの柑橘のにおいが後に残って、彼の代わりに自分を監視しているみたいな気持ちがした。

 神楽坂くんはしばし呆然と立ち尽くして、やがてよろよろとベッドに腰を落とし、海より深い絶望の淵から生まれ出ずるような嘆息を漏らす、長々と、長々と……。

 軽率だった、迂闊だった、と自分を呪いたくなる。母親がこの教団の側の人間である、という事実を神楽坂くんはいまいち重たく受け止めてはいなかった。が、よく考えてみればそれは、人質を取られているに等しいのだ。

 母親。

 母親である。神楽坂縁樹くんの二十年の人生のうち、かなりの割合に及ぶ時間、「母さん」と呼んできた人である。間違いなく神楽坂縁樹くんという人間をこの世に産み落とし、十代後半のある一瞬までは、神楽坂縁樹くんが心からの愛を感じて共に暮らしていた人である。

 神楽坂くんは閉じていた目を開けた。目を閉じていると、瞼の裏へ意識の外側から勝手な像が流れてきて焦点を結んでしまう。

 神楽坂くんは、どうにかこうにか社会に生きる人としての道を再び歩み始めたお父さんのことを思い出した。そして、自分が生きる道のことに思いを向けた。二十歳、勝手に「まだまだ始まったばっかり」だと思い込んでいるけれど、はたして本当にそうだろうか? 人生なんて何があるか判らない。三年前に、大きな声を上げて通りを行く人を呼び寄せて魚を売っていたお父さん、……朝まだ明けやらぬ時間から魚のにおいが染み付いたワゴンで市場に出向いて、長年の経験によって養った眼力を発揮して仕入れた自慢のお魚で街の人々の舌を喜ばせていたころのお父さん、「三年後、あんたは遠くの街のスーパーで品出しをしているよ」と言われて、信じることは出来ないだろう。同じことは神楽坂くんにだって言える。今信じられるものだって、ある日突然喪われてしまうかもしれない。

 であるならば、……だ。

 楽観的にはいないことだ。どの瞬間で自分の命が終わってしまったとしても、後悔のないように、本当に本当に大事なものだけを選んで生きなければならない。

 考えてみれば神楽坂くんだって、消防車に撥ねられて空中をすごい勢いでくるくるくるくる回っているときには、死ぬんだと思った。いまもおでこに残る大きな傷跡はこの瞬間にも神楽坂くんに陰鬱な不快感を催させ続けている。この命はあの瞬間に尽きていたとして、何ら不思議なことはなかった。

 杜子春の話を後輩くんは思い出した。

 最後に読んでからだいぶ経ってしまっているもので、ほんのり曖昧になっているけれど、確かこんな話のはずだ。……目の前で何があっても絶対に声を出してはいけないと、恩人である仙人に命じられた杜子春。多くの恐ろしい光景を目の当たりにしてもなお口をつぐんでいたが、亡母が地獄の鬼に激しく打擲されているシーンを目の当たりにしたときには、「お母さん」と、たまらず声を上げてしまうのだ。

 しかし仙人は「お前があのとき口をつぐんでいたままだったら、わしはお前を殺していた」と告げる……。

 いいや。僕に似合っているのは杜子春より犍陀多(かんだた)ではないだろうか。先輩の垂らしてくれた蜘蛛の糸に縋って生き延びようとして、……振り返ったところに母親の姿が見える。

 えーいやめろやめろ、この糸は僕のものだ、あんたは僕の人生をめちゃくちゃにしたんじゃないか!

 仮に僕がそう言ったなら、先輩は僕の握る手のすぐ先で、救いの糸を切ってしまうかも知れない。

 神楽坂くんはしばらく頭を抱えたすえに、両手をおでこに当てた。そこがじんと熱を帯び、内側から腫れているみたいに、痛みを訴え始めている。

 今よりもう少し冷静だったら、……ここ数日緊張に張り詰めていたし、前夜の先輩と先輩のおじいちゃん「赤目の土竜」氏との真剣対局は徹夜であったから、ちょっと風邪をひきかけているのだと冷静に解釈できるはず(事実、神楽坂くんは本来頭がいいほうだ)だ。しかし追い詰められて冷静さを失している今は、過去の死と未来の死とが自分のおでこでぶつかり合っているみたいに錯覚してしまいそうになる。

 神楽坂くんはだから、強いて目を開き、ベッドから降りて冷たい床にあぐらをかいて、キッと鉄格子を睨んだ。能う限り冷静に。

 そして、そうだ。廣川たちのやっていることは、きっとだいぶ卑怯。

 先輩だったらどうするか。

 神楽坂縁樹くんは、そう考えることで「後輩くん」の目を取り戻す。

 後輩くんはいまそこにはいないあの人の姿を、振る舞いを、ありありと思い浮かべることができた。

 先輩は……。

 先輩は、とっても可愛くって、同時に格好いい。そのどちらの言葉で評価してもいい、どっちであっても正解だ。後輩くんはいまだに先輩が「どっち」か判らないけれど、ああもう、どっちでもいい! あの人はちょっと、そう、すごいんだ。男とか女とかの区別で話をする次元でないぐらいに優れていて、賢くて、強い。

 強い人は、強い人にしか出来ない判断を下すのである。

 猪熊沼のほとりで藤村と菊池の襲撃を受けたときには、あのちっこい身体で、そんなに長くもない足で、ぴょんぴょこ跳ね回りばしばし蹴りまくって、まあ最終的には危ない目に遭うことになりはしたけども、見事に戦う姿を見せてくれた。

 トミチューで有華から後輩くんを救うときには、……ああ、いまでもあの凛々しい姿を忘れることは出来ない、先輩はあたかも宿木橋に店を構えて二十余年! みたいなオネエさんになって有華を一喝したのだ。あのときの先輩は実は、後日の学祭で「ファルヴィニッヒ王子様」になっているときの姿よりもっと、男っぽくて格好よかった。

 ボートレース場では、とんでもない舟券を買ってしまった。暴挙、愚行、……しかしいま思うと、あれは要するに、後輩くんが遠慮や躊躇いを全部脱ぎ捨てて、心から寿羅くんを応援できるようにという考えに基づいてのものだったに違いない。先輩って、目的のためには手段を選ばないのだ。常人である後輩くんには決して真似できない決断力、実行力……。

 百万もの借金を背負って自分の師匠に真剣の勝負を挑むなんて。しかもその中でどさくさに紛れて後輩くんへの告白、……いや、あれはただの告白ではなかった。はっきりと、プロポーズである。後輩くんの名前だってまだ確かめていないのに、あの先輩ときたら、後輩くんと添い遂げるのだという決意表明を自身のおじいちゃんにしちゃったのである。

 ただものではない。

 というか、うん……。後輩くんは知らず、くすくす笑いがこみ上げて来るのを抑えられなくなっていた。

「……ほんとに、もう、どうかしてますよ、先輩は……」

 床に座って、後輩くんはぎゅーっと自分の身体を抱き締めた。

 先輩が好き。先輩が好き。好き。好き。好き。大好き。

 後輩くんが心から尊敬する人だ。後輩くんは先輩がどっちか判らないけど好きなのだ。それは、ただ欲があるがゆえにということではない、……いや、ないわけではない、結構ある、……けれど、それ以上に、ピュアな憧れである。あんなふうになれたら、どんなにかいいだろう?

 この三ヶ月ほど、後輩くんは「後輩くん」という名を授かって、ずっと先輩を見てきた。だから一時的なものかも知れないけれど、いま、先輩についてはとても詳しくなっているはずだ。

 先輩は、先輩という人は。

 端的に言って……。





 廣川が再びやって来たのはどれぐらい時間が経った後のことだっただろうか? なにせ外の光は届かず、スマートフォンも奪われてしまったので時間を確かめる術はない。

 ただ神楽坂くんは目を覚ましてから廣川が再び現れるまで、浅いながらも少しの睡眠と、二度ほどの排泄をしている。タブレットの充電にそれだけの時間を要したとも思えず、だからきっと廣川は、この「櫻木山会館」を離れてごはんを食べに行ったり、あるいはどこにあるのか、どうやって移動したのか知らないが自分の家に帰ってお風呂に入ってから再びこうしてやって来たか。

 もしくは、中間管理職であろうしいま彼は自分の統括エリアで問題が発生してしまっている状況だから、報告書だなんだと休む間もなく働いていた可能性もある。神楽坂くんからみれば廣川は厄介な悪人であるが、同時に廣川は人間である。いまや捕虜的扱いに甘んじていなければいけない神楽坂くんを脅迫することにのみ、その時間を割けるなどと思うことは出来ない。

 神楽坂くんは廣川が来てくれたとき、正直言って、ずいぶんホッとしたのだ。昨夜、この会館の職員(という括りで考えると、廣川に次ぐぐらいの立場の人ではないか……、と神楽坂くんは想像した。なぜって、有華がそうであったようにここで集団生活をしている信徒たちは純粋で、地下で人間を拘束・矯正するための、鉄格子のハマった部屋があることを知らないはずだから)らしき、初老の陰気な人がミネラルウォーターとプロテインバーを持って来てくれたが、それ以外飲み食いできるものは一切ない。次、いつこうしたものの補給があるか判らないから、慎重に、少しずつ、プロテインバーは口の中がパサパサになるが、丁寧に唾液で溶かすように。そして水は、口の中をそっと湿らせる程度に。

「やあ……。人間的な理性を取り戻すことは出来たかな」

 神楽坂くんは廣川を見て、自分のしたいくつかの想像のうち一つが当たったことを確信した。廣川はあまり眠れていないようで、男性的な顔を引き立たせる目の下に青いクマを浮かべていた。

「人間というのはね、人間というのは、……人と人との間に産まれてくる。ゆえにこそ、家族というものはとても掛け替えのない存在なんだよ。そのことは、わざわざ私が言葉を並べずとも君も判っているはずなんだよね、仮に私立大学の学部生であったとしてもさ」

 神楽坂くんは床にあぐらをかいたまま廣川を見上げて、黙っていた。

 先輩だったらどうするだろう。どう考えるだろう?

 何かの事象を目の前にしたとき、僕だったらこう考える……、という当たり前の反応を、人間はする。後輩くんは例えば藤村菊池にああして暗闇の道で待ち伏せされたなら、たちまち怖くなって相手の要求を「へへぇーすみませんでしたぁ!」って飲み込んでしまうだろう。しかるに先輩は、あの通り、俊敏な黒猫に変じて抗って見せた。そう決断することに、少しの躊躇いも、……もっと言えば、恐怖心もなかったと思うのだ。心の準備ができていたから。

 恐怖心とは厄介なものだ。その感情の存在を示唆するだけで、人の気力を削ぐことが出来る。神楽坂縁樹くんは就職先には本当に気を付けなきゃいけないな、とこの何時間か考えていたのである。僕みたいに気が弱いやつは、ハラスメントが横行しているような会社に入っちゃったら、たちまち自分を保てなくなってしまうだろうから。大企業に、なんて気持ちはない。でもって教職課程は最初から選択肢に入れていなかった。というわけで、将来のことはまだ全く考えていないのだけど、ぼんやりと、研究の道に進めたらいいなあ、それならあんまり心配は要らないかなぁ、なんてことを。

 でも、一番の理想は、……先輩の助手になれたら。

 先輩が今後も探偵をやっていくのか、将来的には普通の企業に就職するつもりなのか、神楽坂くんには判らない。判らないけれど、それは小学生みたいな、思い描くだけで幸せになれちゃうような夢だった。

 寝不足であることも手伝って、廣川の言葉は耳に入って来なかった。だから、廣川は神楽坂くんが、

「うちの母は、どういう理屈でああした目に遭ってるんですか」

 と唐突に、だいぶ自分勝手なタイミングで質問をぶつけたとき、自分の言葉に心地よく酔いしれていた廣川ははっきりと不快そうな表情を浮かべた。

「……そんなこと、私がわざわざ説明しなければ判らないのか。決まっているだろう、君がしでかしたことの責任について……」

「へえ。ここの人たちは、二十歳を過ぎたこどもの行為の責任を親に求めるんですか? つまり、神楽坂美恵子は神楽坂縁樹の行動の責任を負わされて、いまああして、赤州のあなたと同ランクぐらいのお仲間さんに詰められているってわけですね?」

 廣川が、満足そうに頷いた。

「どうやら、少し頭が冴えて来たようだね。その通り。君のしたことのせいで、君のお母さんが酷い目に遭っている。君のした愚かな行為の責任を取らされているのだ」

「へー」

 気の抜けた返事に、廣川はむっとしたようだが、神楽坂くんは頓着しなかった。へー、って思ったからそう言ったのだ。

 神楽坂縁樹くんは、もう、自分の名前が何であろうと関係ないと思った。

 そりゃあね、もちろん、大学ではそう呼ばれる機会もあるともさ、バイト先でもね。

 だけど、それは僕の記号に過ぎない。

 僕にとって先輩の名前が、性別と年齢同様に、もうわりとどうでもよくなってしまっているように、それでいて、ますます先輩好き好き大好きって気持ちが止まらなくなってしまっているように、どうでもいいこと。

 そしてもし選べるならば、僕は先輩の「後輩くん」でいたい。

「いま、うちの母親はどうしてるんですか」

「それは、当然赤州の、我々の」

「こういった施設に閉じ込められて、詰められてる?」

「詰める、という言いかたはやめてくれないか。元はと言えば君がした行為のせいで……」

「そんならそれでいいですよ。『僕のした、愚かな行為のせいで、僕を産んだ女性が苦しんでいる』と言えとおっしゃるのなら何度でも言いましょう。僕のせいで僕の母は責任を取らされそうになっている、僕の愚かな行為のせいで、僕があなたがたにご迷惑をかけてしまったから」

 後輩くんはあぐらからよっこらせと立ち上がる。お腹が空いたなぁと思う。けれど、空腹も飢餓も、後輩くんを折ることは出来ない。寒さも、トイレの臭いもそもそもトイレの構造も、仮に今後身体的拘束を強いられることとなったとしても、後輩くんの心を壊すことは出来ない。

 だって、先輩が一緒にいるから。

 離れていても、後輩くんはいま先輩を感じていた。僕は神楽坂縁樹ではなくて後輩くん(・・・・)だと定義するだけで、あの人がとてもとても嬉しそうに「私の後輩くん」と呼ぶ人間が自分しかいないことを思って、強くなる。

 先輩の、冷たい手、冷たい耳、サラサラの髪に伝わる肌の温度も、抱き締めたときに感じるにおいも、声、笑いかた、僕がびっくりさせてしまったときに猫みたいに目を丸くするところも、全部、後輩くんが「後輩くん」であることを意識するこの瞬間、後輩くんと共にある。

 だから、後輩くんは強い。先輩ほどではないにしても、だいぶ強い。

「どうぞ、気の済むまでお詰めになってくださいな」

 後輩くんはにっこりと笑って言った。それから思い出して、唖然とする廣川に向けてこう訊いた。

「あの、廣川さん、うちの母親のことで先輩を脅しました? まだなら、早いうちがいいと思いますよ、手遅れになる前に」

 後輩くんが言葉を一つ継ぎ足すたびに、廣川の顔が一パーセントずつ強張っていく。なんでこいつはこんなに強気なんだ、……理解出来ないだろう。それだけに、不気味なのだろう。

 確かに後輩くんは檻の中に入れられて手も足も出ない。その上、弱みとなるべきお母さんの首根っこを掴まれている。普通なら(・・・・)大概の人間はみっともないヘルタースケルターぶりを露呈していたとして、何ら不思議はないところだが……。

 後輩くんは大日氣弥益の人らが、家、家族、というものをとても重んじていることを思い出したのだ。

 であるがゆえに、彼らは同性愛者が嫌いなのだ。「ヒセーサンシャ」などという途轍もなく汚い言葉を使って差別し、攻撃する。また、そういう言葉を用いる愚か者を賞賛する、救い難い人たちである。

 極論、後輩くんにはもう、廣川が好みそうな御涙頂戴式の言い回しを選ぶならば、「十月十日の身重に耐えて、途方もない苦痛を耐えた末に縁樹くんをこの世に産み落としたお母さん」よりも大切なものがたくさんある。

 そんな思いまでして産み落とした縁樹くんよりも大事なものが、お母さんにもたくさんあるように。

 配偶者、夫、「家族」よりも大事なものを選んだ人よりも、ずっとずっと大事な人がいて、その人と家族になる……。

 もし仮に、先輩が後輩くんと同一の性的特徴を有する身体であったとしても。

「先輩は、僕を助け出すためなら何でもしますよ。だって先輩は僕がここにいることご存知ですからね。だから、……僕なんかの相手をしていていいんですか? それよりも、鬼と化して、どんな悪辣なことだって躊躇わずにするはずの人を止めるために動いたほうがいいと思いますよ。もっとも……、あなたが何か言ったところで、先輩が止まるとは思えないですけどね、あははは!」

 言いながら、後輩くんは笑いが止まらなくなってきた。

 先輩は、何をするだろう?

 どんなとんでもないことをしちゃうんだろう?

 後輩くんのためならば、触法行為でさえあの人はもう、してしまうはずだ。その責任を取るはずだ。

 そのときは、教唆した人間として堂々と名乗り出よう。

 廣川の表情が硬い。

 後輩くんは笑いを鞘に収めて、

「ところで」

 と首を傾げた。

「タブレットの充電はまだ終わらないんですか?」

 廣川の表情は、ますますもって硬くなったのに、眼球だけは雨降り後の川の流れの中にあるみたいに揺れ動いていた。

 やっぱり、と後輩くんは確信に至る。

「昨日見せてくださったあれ、ライブ映像じゃなくて、録画でしょ。母親がゴン詰められてるとこ見せたら僕が言うこと聴くと思いました?」

 家族、親子を、殊更大事にする人たちなものだから、「効く」と思ってしまったのだろう。そんな人間がいるなんてことは認め難い、そんな連中はヒセーサンシャであって、はなから眼中にない、……確か、「構造的無知」って言うんだ。

 廣川の口はまるで岩のように閉ざされているが、唇だけがぷるぷるとやたら弾力感を醸し出している。

「僕はずいぶん掛かっちゃいましたけど、同じ映像を先輩に見せたらもう一瞬で見抜くでしょうね」

 後輩くんはときどき声が大きくなる。

 それこそ、びっくりするぐらいでかい声を出す。

 これは間違いなく、魚屋さんをしていたお父さんゆずりのものである。

 一方で、……先輩は後輩くんのお父さんを見た、クリスマスイヴの夜、トナカイのコスプレをしてケーキを売っている姿だ。あの情けなくもいとおしい姿を見て、きっと先輩は後輩くんのお父さんが声量とは比例しない、気の優しい人であることを見抜いただろうし、また、後輩くんの家が壊れるまでのエピソードからしても、どうやら後輩くんの両親は、お母さんのほうがだいぶ苛烈な人なのだなということを、察していたに違いない。

 であるならば。

 後輩くんのお母さんが、あんな、自分よりガタイがいいからと言って、また立場が上だからと言って、机をばーんと叩いてガミガミ言ってくるような人物に対して大人しく小さくしていられるはずがない、ということも当然察することが出来るはずだ。

 家族の枠を取り外して、「よく知っている年配の女性」に思いを馳せてみるに、彼女(・・)の演技は大根である。

 そして、あれが演技でなかったとしても、もはや後輩くんに何の関係があるだろう?

「……なんて、親不孝なことを……」

 戦慄きながら言う廣川に、後輩くんはふーっと溜め息を吐き出して、

「じゃかぁしゃ、こん、げらじだらくもんが!」

 赤州弁で「そういうことを言いました」なんてことを赤州出身者、身近なところではお父さんとか寿羅くんあたりに知らせたなら「ギャー!」「しからしゃあ先輩ワーがぜねぁでしょんがらごっちゃばがぁ!」ぐらいのリアクションをされてしまうであろうぐらいの、暴言も暴言である。

 しかし、後輩くんは礼儀正しく微笑んでお辞儀をした。

「彼女(・・)には、きっともう、たくさんの『家族』がいるんでしょう? 僕は彼女に捨てられたのです。僕がどんなふうに扱おうと自由ですよ」

 胸がすうっと軽くなる。

 ずいぶん長いこと、眠れなかったり悩んだりしていたのが、何によるものだったのかようやく判ってしまった。後輩くんはこのとき生まれて初めて、自分の意志で心臓を動かし、自分の意志で呼吸している気がしたのだった。出来ればもうちょっとマシな空気のところでそれを自覚したかったけれど、贅沢は言わない。

 呆然と立ち尽くす廣川を眺めながら、あとは待つばかりと床にあぐらをかくなり、天井のほうから甲高く風を切るような音が聴こえてきた。

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