囚われの後輩くん
後輩くんの大好きな先輩は、将棋がべらぼうに強い。
どうしてプロを目指さないんだろうかと訊こうと思ったことは何度もあるけれど、まだそれは叶っていない。というのも、それは先輩の「正体」を突き止めるにあたって、大変重要なヒントとなり得るからだ。
例えば先輩が、
「もう、ちょっと手遅れだからね」
と言ったとしよう。
プロの棋士になるには、年齢制限がある。登竜門である奨励会を経るにしても、二十一歳の誕生日を迎えるまでに初段になっていなければいけないし、二十六歳の誕生日までに四段にならなければいけない。
つまり、テレビや新聞雑誌に登場する「プロ棋士」はみな四段以上の実力を持っていることになるが、先輩は極めてざっくり言って、オンラインの将棋アプリで二段の後輩くんよりも遥かに強い。
そうでありながらプロになることが出来ない理由を「手遅れ」という言葉で説明するのならば、それは年齢制限に引っ掛かってしまうから……、と見ることが出来るのだ。
つまり、先輩は後輩くんより歳上である、という事実がここから導かれる。
あるいは。
先輩が女性である場合、「プロ棋士」ではなく「女流棋士」の世界で戦うのが一般的となる。
世の中には男性のプロ棋士と対等に渡り合える女流棋士もいて、そうした棋士は女流棋界からプロ棋界への編入試験に挑み、それをクリアすることで晴れて「プロ棋士」となるのであるが、大変に狭き門であることは、二十一世紀も四分の一を過ぎ、八冠棋士の登場など将棋ブームが何度目かの最高潮に至ろうとしている今までもただ一人として「女性のプロ棋士」が存在しなかったことからも明らかだ。
よって、先輩が女性である場合、「プロ棋士を目指すとしても、まずは」という前提が付くことが濃厚になる。
昨年末、先輩とボートレースを観に行った。
後輩くんの「後輩くん」であるところの、小熊寿羅選手は女子ボートレーサーである。あの日見たように、男子選手に伍して戦うこともあるが、より均等に勝利の機会に恵まれやすい女子限定戦というものがボートレースには組まれている。また、他のジャンルでも、競馬においては男馬が目指す「ダービー」に対して女馬が目指す「オークス」が設定されている。ボートにおいては女子選手が男女混合の大レースで優勝したり、あるいは競馬でも、もうずいぶん前のことだが、女馬がダービーに出走して見事一着を獲ったということがあった。
とはいえ、差別ではない、はずであるが、知的分野であっても競技の場で男女を分けるケースがあることは事実である。
先輩はプロの棋士は目指さないのですか。
……と訊くことはすなわち、「先輩はお幾つで、あとそもそも、男性なんですか女性なんですか」と訊くことと同義なのだ。
いまだ一度たりとも先輩の服の中に踏み込んだことがない、……いや、勇気もない。
いいや……、いいや。僕は先輩がどっちでもいいと思っている。
先輩はどっちか判らない、でも好き。
大事なのは先輩が自分より歳が上なのか下なのか、自分と同じ性の人なのかそうでないのかということではない。先輩が後輩くんを窮地から救ってくれた、その一点だけで、後輩くんは先輩に恋をするには十分な理由を得たと思っている。
先輩と繰り返してきた、対局。
ほとんどがデジタルな将棋盤の上でのやりとりではあったけれど、それでもどこかしら、血の通ったもの。
後輩くんなりにじっくりと全く隙のない陣形に構えて睨み合っているときには互角だったはずなのに、一瞬でも集中力が途切れたらたちまち形勢を傾けてしまう凄み、どんなときでも盤面全体を見て最適な手を過たず指す冷静さ。小さな身体の中にどれほどのものが詰まっているのか、後輩くんはまだ、ほんの少ししか見せてもらえていないけれど、一生をかけてでも見続けて行きたいと願うほどに、先輩に夢中だった。
いつだったか、こんなことを言われたことがある。
……いつだったっけ。
「後輩くんは、とても独創的な指し手だと思う。真面目なのだけど、そして基本に忠実なのだけど、時折ハッとさせられるぐらいに非凡な手を繰り出して見せてくれるんだ。それっていうのは、才能と言ってしまっていいものだと思うよ」
いつもの通り負けてしまった対局の後で、先輩はそんな言葉で褒めてくれたのだ。
「そこいくと、私の手というのは、……常識の中のものでしかないんだよね。九かける九マスの平面の枠から羽搏くには至らない……」
それはだいぶ謙遜だ、と思ったけれど。
先輩は後輩くん以上に基本に忠実で、手筋、と呼ばれるものを的確に、最上のタイミングで繰り出してくる。特に、将棋の強い人の最大の特徴であろうけれど、たたきの歩、継ぎ歩、垂れ歩に底歩、そして手裏剣の歩と、将棋で一番弱くて安い駒である「歩」を巧みに使って対局相手に着実にダメージを与えて来る。
しかし、奇才、天才、と呼ばれるものとは少し違うかもしれない。
積み上げるべきものを積み上げる順に積み上げて行って至る高さが先輩の将棋であり、天才とか奇才とか呼ばれる人は、先輩よりも少ない積み木しか持っていなくても、先輩がしないような積みかたをして、アンバランスでも信じられない高さの塔を組んでしまいうる。
後輩くんはその言葉を聴いたときには、そんなに気になることはなかったのだけど、いまにして思えば、プロ棋士と自身の間にあるものを意識しての発言だったのかもしれない、なんて思う。そして後輩くんにこそ、その独創的な積み木の重ねかたが出来るのでは、と。
でも後輩くんは棋士は目指さないだろう。何かを目指すということを、後輩くんはあんまり、したことがない。
一方で先輩は、「私は探偵だから」と言うだろう。生きる道は、眩い光の当たるところでなくとも、無理に歩幅を広げなければならないものでなくとも……。
後輩くんはどんな道であれ、先輩と二人で歩けるならそれ以上に幸せなものはないと確信していた。
○
後輩くんは目を覚ましたとき、自分のうなじに釘が刺さっているのではないかという錯覚に陥った。
俗に「ぽんのくぼ」なんて呼ばれるその場所は、生命の維持・身体の管理において極めて重要な役割を担っている。暗殺者がターゲットのその場所にプスッとやって任務を遂行する、……というシーンを、後輩くんはテレビの時代劇で見たことがあった。単に殺害するだけならば頸動脈を切り裂けばよかろう、あるいは首の骨をポキッとやるという方法もある。けれど、こと暗殺という行為を行うにあたっては、返り血を浴びる確率の高い「頸動脈スパッと」は難があるし、「首の骨ポキッと」は誰にでも出来るものではない。すなわち、「うなじにプスッと」がいちばん効率的と言うことが出来よう。
何の話をしているのか。
後輩くんはわりと、「ああ、僕死ぬんだな」って思っていたのである。自身の生命のすっごく大事なところに釘を刺されたと思ったのだから、全身がびびびっと麻痺して、気を失うのはごく自然な結果であったと思うし、そこから先、もう、自分の身体が自分の意思で動くことがあるなどとはとても思うまい。
事が起きたのは、後輩くんが何よりも愛に生きることを決意した直後であった。
ゆえにこそ、仮に自分がもう死ぬことが避けられなかったとしても、最愛の人に生きていて欲しいと願うことは自然な思いであった。このことに、何の疑問があろうか?
だから、目を覚ます、という身体的行為が自分に可能であったことに後輩くんは大いに驚いた。
「……やあ、目を覚ましたようだね、神楽坂……、下の名前は何と呼ぶのかな、ミドリ、いや、エンジュ……? まあいいか、神楽坂くん」
初めて聴く声は、耳にざらりと感じた。
後輩くんが「後輩くん」と呼ばれるようになったのは先輩と出会って以降のことで、先輩を介して知り合った人たち、つまり王子様部のみなさんや宿木橋のみなさん、有華、東英大学の外目黒さん汐崎くん、ユノちゃん、そして探偵事務所の人たち、……ついでにいうとついさっき(後輩くんの時間感覚が間違っていなければ)別れたばかりの「赤目の土竜」まで、みんな後輩くんのことを「後輩くんという人」であると認識しているはずである。
当然のことではあるが……。
後輩くん、という呼びかたは、後輩くんが単独でいるだけでは成立しないものである。「後輩くん」がなぜ後輩くんとして成立するかと言えば、「先輩」といっしょにいるからである。
影が単独では成立せず、光も影がないところでは存在出来ないように、「後輩くんは先輩がいるから後輩くんであって、後輩くんは先輩なしには後輩ではいられないし、先輩は後輩くんがいるからこそ先輩なのであって、先輩は後輩くんの存在なくして先輩ではいられない」ものなのである。
もちろん大学の出席票に「後輩くん」なんて書くはずもなく、教授からはきちんと名前で呼ばれる。
すなわち、「神楽坂くん」と。
神楽坂、という大袈裟な名字。だから後輩くんの家のお魚屋さんの屋号は「魚神」であり、後輩くんはそのせいで中学時代のあだなが「ポセイドン」だったし「はんぎょどん」であったこともあるのだ。
なお下の名前は「縁樹」である。
さきほど男は「エンジュ」と誤読したが、これで何とと読むか、……「みどりぎ」とか「りょくじゅ」読んでしまうおっちょこちょいな人間も過去に何人かいた。よく見て欲しいのだが「緑」ではなく「縁」である。
後輩くんのお父さんお母さんは要するに、後輩くんが独りぼっちで寂しい人生を送ることがないよう、小鳥が樹の梢に集まり囀り唄って世界を明るくするように、後輩くんが人々の集う樹のようになりますように、またそういう明るく暖かな人柄の人間になりますようにという願いを込めてこんな名前を付けたのである。
なお、縁樹、と書いて、「つなぐ」と読む。
あんまりだ。
名前の読みはある程度自由であるとはいえ、いくらなんでもあんまりである。人の名前で遊ぶもんじゃないよ、ということを、名付けられた本人としては強く主張したい。
とはいえ……。
かぐらざかつなぐ。
これが、後輩くんのフルネームであって、先輩にはまだ知られていないことである。周囲で唯一知っているのは、授業が一緒なのでいっときは護衛として同席していた王子様部の部長王子様であるところの中寉さんだけだ。
さて、後輩くん、……いまは先輩がどこにいるのか判然としない、というか後輩くん自身、自分がどこにいるのだか全くわかっていない状況であるもので、ひとまず「先輩あるがゆえの後輩くん」ではなくなってしまって、のみならずそう呼ばれてしまったので一時的に「神楽坂くん」と化した人物に、声を掛けた男がいる、という事実に立ち返る。
「……誰ですか、あなたは。ここは……」
神楽坂くんは、自分が固くてひんやりしているものであるとはいえベッドの上に寝かされていることに気付いたし、相手が男であることも悟った。
身体には力が入らないが、明確な欲求として尿意があった。自分が意識を失ってからそう長い時間は経過していないことを理解するには十分だ。頭がぐらぐらと重くて、後頭部方面に引っ張られるような感覚を抱くのは、先輩と「赤目の土竜」の対局に同席したことによって徹夜しているからであろう。
男の声がしたほうを見た。長身の男がタテジマの向こうに立っていた。……タテジマ? 違う、なにか金属の棒が規則正しい間隔で縦に並んでいるのだ。
つまり、鉄格子。
「……あの。おトイレ借りたいんですけど」
神楽坂くんは大いに不快な気持ちになりながら言った。短い時間で確かめられたことがいくつもある。自分がどうやら鉄格子の向こうの男(自身かどうかは判然としないが)に襲われて気を失い、ここへ連れて来られたらしいこと、そしてこの場所は少なくとも猪熊駅からそんなにめちゃくちゃ遠い場所ではないのではないかということ。百キロ二百キロ隔たった場所では、少なくともなかろう。
そして、もっと言ってしまえば、……ここが、大日氣弥益の側の施設であって。
距離感から察するに、……恐らく、藤村菊地が、そして有華が言っていた「櫻木山会館」の、凱龍さんが見たという地下室であって。
つまり、鉄格子の向こうの男は、「地区長のヒロ」である、ということ。
「ああ、どうぞ。左手にドアが見えるだろう」
声の主は廊下に立っていた。言葉の通り、ベッドから、まだあちこち痺れるような痛みを訴える身体をどうにかコントロールして降り立ち、靴の脱がされた足でゆっくり、ゆっくり、歩いて、ドアに入る。ドア、といっても腰の高さのスイングドアであり、ロッカーほどの狭い空間に便器が一つあるばかり。声の主からも見えてしまうだろう。神楽坂くんは大いに腹立たしく、またおぞましいような恐怖を味わいながら、便器に腰を下ろした。心は肌に触れた便座の冷たさのように冷たく凍りつき、早々にヒビが入って折れてしまったとしても不思議ではない。原始の欲求である排泄や食事を制限することは、人間を容易く支配する手段なのだ。
しかし、神楽坂くんは屈しない。おトイレを終えてジーンズを上げて、スイングドアから抜け出すなり、まっすぐに鉄格子の扉のところまで進んでいって、自身より十センチ以上背の高い男を睨み上げた。
実物を見て、三十にはまだなっていないだろうという確信を得た。初めて「緑の兎」にお邪魔した際にカウンターの中にいらした白湯川さんと同じぐらいか。
「僕にどんなご用ですか、『地区長のヒロ』さん」
凱龍さんから写真を見せてもらっておいてよかった。知らない人物ではない、そして向こうだけがこちらを知っているという訳ではない、という事実は、心細い状況にあって神楽坂くんの腹筋──あまりない──に力を籠めさせる。
格子のこちら側にはうっすらとトイレの臭いが漂っていたが、男の着た白いセーター、どうやらカシミヤであるそれからは、うっすらと柑橘の香水が漂う。
「私の名前をご存知だったのか。へえ……?」
ヒロには余裕があった。彼は神楽坂くんの頭のてっぺんから靴下の爪先までを見て、悠然と微笑む。
「ご存知なのだとしたら、敢えて自己紹介が必要だとも思えないが、……ああ、でも、礼儀を失するべきではないだろうからね。はじめまして、廣川俊一郎だ。我ら大日氣弥益の児たちを束ねる東京地区の長を務めている」
ヒロ、は名前ではなくて名字由来のアダ名だったらしい。神楽坂くんの「ポセイドン」と同じであるが、もちろん親近感なんてものは湧いてこない。
「こんなことして……、ただで済むと思ってるんですか」
神楽坂くんの強い視線にも全く動じる気配はない。神楽坂くんの身長は低いし、鉄格子の中に収監されている。廣川が圧倒的な優越感に浸っていたとして無理もない。
「そうだね、多少は面倒なことになってしまうかもしれない」
多少は。
一人の人間に暴行を加えた。いや、同時に先輩だって襲われたに違いない。先輩は大丈夫だったのだろうかと恐ろしい気持ちがお腹の底のほうに冷たく広がってくることを覚えながらも、神楽坂 くんは必死に廣川を睨む目に、力を籠める。
「とはいえ、……君らがしていたことに比べればどうということではない」
廣川は穏やかな笑みの中に、強烈な嫌悪感を滲ませた。同時に、そこには鈍色の害意が浮かび上がる。
彼の、つやつやの革靴が、鉄格子を蹴った。
大きな音が響き渡り、神楽坂くんも思わず身を強張らせる。
「全く、厄介なことをしてくれたものだ。大学同士で連携して我々の活動を妨害するのみならず、社会問題化するとはね」
先輩のアイディアだ。
「昨晩『ニュースタイム』で、何と言ったか……、ああ、砂子か、あの議員が中心になって、チームを作って定期的にやっていくとほざいていたようだ。全くもって、……厄介な連中だ、なんて迷惑な連中だ……」
言葉のセンテンスを区切るたび、廣川は鉄格子を蹴る。
痛烈な憤怒と憎悪の表現は、一見穏やかそうな印象で、着ているものも顔立ちも整った男であるが、強いハラスメント気質を内包していることを神楽坂くんに想像させた。
「はっきりと計算したわけではないが、どれほどの損失に繋がると思うかな。ねえ、想像したことがあるかい? 君たちがしてくれたことのお陰で、どれほどの迷惑が、具体的にどれほどの額の迷惑が、私たちにかかっていると思う。どう落とし前をつけてくれるのかな。ねえ?」
神楽坂くんは廣川が鉄格子を蹴るたびに、心を削られるような思いだった。
この男が普段から気に食わぬ事態と直面するたびにここまでの動きをするのか、それとも今回本当に、極端なほどに立腹しているが故にこうなっているのか、神楽坂くんには判然としないけれど、この上なく明確な腹立ちを表現し、神楽坂くんに圧迫的に理解させようという意図は判る。
数えて十八回鉄格子を蹴ってから、不意に廣川は両手で鉄格子の高いところを掴んで、
「神楽坂くん」
頭の位置を下げ、神楽坂くんと視線の位置を合わせた。正直なところ、彼には神楽坂くんがすでに精神的に圧迫されきっていることが隠しようもなく伝わってしまっていただろう。ときどき思いもよらぬ大きい声を出すこともある、と先輩に表される後輩くんであるところの神楽坂くん、しかし決して強靭ではない心を、カンナで削られた状況で、その視線を浴びせられ、瞳の底を覗き込まれるのは尋常ではない不快と恐怖が伴った。
「君には、責任を取ってもらわなければならないね」
神楽坂くんは、廣川の口臭を嗅いだ。少し胃が悪いのかもしれないと思った。大日氣弥益の人々の活動を統括する「地区長」というのは、相当な収入を得ることが出来るらしいと着ているものから想像出来たが、地区の活動統括、ということを考えれば、要するに中間管理職である。恐らく勧誘の成果が一般企業における営業成績として評価に直結するのだろう。加えて自分の担当エリアにおいて今回のような、団体に不利益となる事件が起きた際には、相当なプレッシャーがかかるに違いない。
「……僕らに、どうしてそんな危害を加えるんですか。将棋では確かにこちらが勝った、あなたたちのしていることは、犯罪だ!」
勇を鼓して神楽坂くんの発した声は、残念ながら廣川を少しも動揺させることはできなかった。
「犯罪がその事実が立件されなければ成立しないことは、私立大学の学部生程度である君にも判るだろう」
こいつ……。
神楽坂くんの血の温度が、ちょっと熱くなった。
同じ反応を、先輩や中寉さんも示すはずだし、もっと言えば外目黒さんや汐崎くんだってこの男に一撃を食らわせなければという火の玉めいたもので自身の胸の中を焦がすのではあるまいか。
九隅文化大学を、そしてもちろん東英大学を、「程度」なんて扱いをする人間はそうそういない。
いるとすれば、……国立大学を出た人間ぐらいだ。
「そして、……ああそう、君らは、赤目と将棋を指したのか。とはいえそんなことは大した意味を持たない」
悠然と笑って鉄格子を離れた廣川に、神楽坂くんは呆然とする。
「……将棋に勝ったら、こっちの言うことを聴くんじゃないのか。こっちに危害を与えないっていう、そういう約束だったぞ!」
廣川は振り返って首を傾げる。
「はて。私のもとにはまだ、その将棋の結果なんてものは届いていないが。君たちが『赤目に勝った』などというのは、君が勝手に言っているだけのことでね。証書としてそれが私のもとに届かないうちに、それを信じて契約を履行せよというのは無理筋だとは思わないかな」
ああ、こういう男か。
神楽坂くんは想像した。恐らく赤目の土竜とあの行員風立会人を乗せたタクシーはもうここに着いている。先輩と共に後輩くんが襲撃を受け、後輩くんa.k.a.神楽坂縁樹くんがここに運ばれてくるまで、そして神楽坂くんが目を覚ますまでの時間を考えても、とっくのとうに。
しかしその証書をこの廣川は握りつぶしたか、見ることを拒んだか。
平和と安全のために設けられた秩序を、この男は、はじめから守るつもりなどなかったのだ。
大日氣弥益の連中が全員そういう主義なのか、それともこの廣川が特にそうであるのかということについては、現在ここで論じたところで意味はない、答えが出たところで……。
「君をここに招いたのは、他でもない……。君に我々の仲間になってもらおうと思ってね」
廣川は一転にこやかに微笑んで、両手を開いた。
「洗礼を受けて、私たちの仲間になりなさい。心も身体も大日氣弥益に捧ぐのだ。君のお母さまのようにね……。さもなければ、君、想像できないことはないんじゃないかな、いくら私大の学部生だったとしてもさ。判るだろう? 女性がね、自分のお腹を痛めて産んだ大切なこどもの裏切りを、どれほどの苦しみとして捉えているか。そして、……彼女が君のしたことで、いま、どんな立場に陥っているか……」




