第六話 相変わらず進路希望調査票は白紙ですが、月夜の縁側で今後の話をしようと思います
旅の疲れを洗い流す湯殿は、檜の香りがほのかに漂う贅沢な空間だった。
お風呂上がり、皇家に用意してもらったゆったりとした浴衣に袖を通した汐恩は、濡れた髪を手ぬぐいで拭きながら縁側へと腰を下ろした。
「ふぅ・・・極楽極楽」
夜風が、火照った肌を心地よく撫でていく。
ふと、部屋の隅にポツンと置かれたままの黒い革鞄が汐恩の視界に入った。異世界へ飛ばされたあの時から、ずっと持ち歩いている通学用のスクールバッグだ。
少しだけ開いたファスナーの隙間から、折れ曲がった一枚の白いプリントが顔を覗かせている。汐恩はふと思いついて立ち上がり、その紙を引き抜いた。
『それはなんじゃ?』
湯上がりで毛並みがフワフワになったコノハが、トコトコと短い脚で歩み寄ってくる。
「あ〜・・・これ? 自分が将来どんな道に進むか書く紙だよ」
汐恩は苦笑いを浮かべながら、手元に紙を広げた。
紙の頂部には『進路希望調査票』と印刷されており、三者面談の欄や第〇希望といった枠が並んでいる。
上から覗き込んだコノハは、首を可愛らしく傾げた。
『ん? 自分の名前しか書いておらんではないか』
「あはは・・・バレた?」
困ったように眉を下げて笑うと、汐恩は再び縁側へ戻り、コノハの隣に腰を落とした。
雲の隙間から覗く満月を仰ぎ見ながら、ぽつり、ぽつりと胸の内を吐き出していく。
「・・・私さ、自分が将来何になりたいのか、何がしたいのか・・・本当によく分からないんだよね」
いつも強気で飄々としている少女の、小さく揺れる声。
「親には『おまえの人生なんだから、好きなように生きろ』って言われてたんだけどさ。考えても考えても、全然思い浮かばなくて・・・。そんな状態で途方に暮れてた時に、この世界に飛ばされちゃったんだ」
汐恩は自嘲気味に鼻を鳴らした。
元の世界では「最強の鬼の血筋」なんて何の意味もなさず、ただただ将来に悩む普通の女子高生だったのだ。
コノハは丸い目をパチクリとさせた後、静かな声で問いかけた。
『・・・汐恩は、自分がいた世界に帰りたいか?』
「ん〜・・・そりゃあ、帰れるなら帰りたいけどね」
汐恩は膝を抱え、夜空に浮かぶ月を見つめたまま微笑んだ。
「でもさ、何かの縁でこの世界に来たのかもしれないし。焦っても仕方ないから、美味しいものでも食べながら、ゆっくり帰る方法を探すよ」
そう言って悪戯っぽく笑ってみせる汐恩。
だが、その横顔を見つめるコノハの瞳には、どこか言葉にできない複雑な色が混ざり込んでいた。
(・・・この娘は、自分がどれほどの存在か、まだ何も分かっておらんのだな・・・)
コノハはそれ以上何も言わず、静かに汐恩の膝の上に乗ると、丸くなって目を閉じた。
♢
翌朝。眩しい日差しと鳥のさえずりで目を覚ました汐恩は、朝食を済ませた後、中庭に面した大広間に呼び出されていた。
目の前には、相変わらず折り目正しい着流し姿の燈真が、何冊かの古い巻物や図鑑のような書物を広げて座っている。
「良いか、汐恩。君がこの『八百万の陽炎界』で生きていく上で、この世界の理の最低限を知っておく必要がある」
「はーい、お勉強タイムね」
汐恩は胡坐をかいて、お茶をズズッと啜る。
「真面目に聞け。この世界には、僕たち人間以外にも多種多様な種族が共生、あるいは対立しながら暮らしている」
燈真は指を一本ずつ立てながら、丁寧に解説を始めた。
「まず、君のような『鬼』。圧倒的な身体能力と独自の妖術を持つ稀少な種族だ。そして、山を司る『天狗』や『鴉天狗』。さらには狐、狸、猫といった、化け能力を持つ『獣人』たち」
「へぇ、猫耳とかいるんだ」
「・・・コホン。それから、街で見かけたような『妖怪・物怪』の類だ。雪女や河童、座敷童子のように人間と平和に暮らしている者もいれば、人を害して害悪を振りまく邪悪な存在もいる」
「昨日の巨大な蜘蛛みたいな奴ね」
「そうだ。他には、水神の信仰と結びつき、高貴な異能と変化の力を持つ『龍神の一族』。そして、特殊な霊力を持つ人間――陰陽師や巫女、修験者たちだな」
「ふむふむ、盛りだくさんだね」
「そして最後が・・・人を超越した存在である『神様』や『八百万の神』、その使いである『眷属』だ」
燈真はそこで言葉を区切り、汐恩の隣で前脚を舐めていた小さな白狐を指さした。
「まあ、土地神に関して言えば、今君の目の前にいるコノハ様もその一人なんだがな」
『ふふん! 敬うがよいぞ!』
コノハはピンと耳を立てて胸を張ったが、すぐにしょんぼりと肩を落とした。
『まあ・・・今は力が著しく衰退していて、このような情けない姿になっておるのだがな・・・』
その言葉を聞いて、汐恩はふと疑問に思っていたことを口にした。
「ねぇコノハ様。自分の神社がどうしてあんなボロボロの廃神社になっちゃったのか、分かんないの?」
問いかけられたコノハは、耳を伏せて苦しげに眉をひそめた。
『それが・・・妾にも、よく分からんのじゃ。ある日突然、神社の地下深くからゾッとするほど禍々しい、恐ろしい気配を感じ取ってな・・・。そこから急速に妾の力が吸い取られ、気づいた時には結界が破れ、あのように荒れ果てておった』
「へぇ・・・何かが力を吸い取ってたんだ」
「その件に関しては、すでに我が皇家の調査隊が現地へ向かっている。遠からず何らかの報告が入るはずだ」
燈真は巻物を閉じると、真剣な眼差しで汐恩を見つめた。
「土地神の力を奪い、怪異を引き寄せた『何か』・・・。嫌な予感がする。汐恩、君がこの世界に来たのも、もしかしたらその異変と無関係ではないのかもしれない」
「え〜、私ただの巻き込まれた女子高生なんだけどな」
汐恩はあくびを噛み殺しながら、のんびりと手を頭の後ろで組んだ。
しかし、その瞳の奥には、かすかな好奇心の火が灯り始めていた。




