第十八話 密林の静寂の中で、案内人は小さな嘘をつきます
頭上を隙間なく覆い尽くす巨木の葉が、太陽の光を完全に遮断している。
足元は生温かくぬかるみ、踏みしめるたびにグチャリと嫌な音を立てた。まとわりつく湿気は重く、吸い込む空気すら喉にへばりつくような錯覚を覚える。
「ねぇ翠、まだ着かないの? 湿気で刀が錆びちゃいそうなんだけど」
汐恩は肩に掛けた刀の柄をトントンと指で叩きながら、前を行く案内人の少女・翠に声をかけた。
いつもの涼しげな表情こそ崩していないものの、この不快な空気感ばかりはチートな彼女にとっても退屈で鬱陶しいらしい。
「ふふ、焦らないでくださいな、汐恩様。この常闇の樹海は、焦れば焦るほど空間が歪んで目的地が遠ざかりますの。・・・あともう少しで、樹海の心臓部へ至る『大樹の洞』に着きますわ」
翡翠色の瞳を輝かせ、空を泳ぐように軽やかに歩く翠。
その背中を追いながら、燈真はどこか探るような鋭い視線を彼女に向けていた。
「・・・そういえば、翠殿」
「何でしょうか、燈真様?」
翠が足を止めずに振り返る。燈真は歩調を合わせながら、低く落ち着いた声で問いかけた。
「ここへ来る前、極月山の修験者から少し気になる噂を聞いたんだ。・・・ここ最近、この周辺で『漆黒の衣を纏った、性別の判別がつかない異様な人物』が目撃されているらしい。翠殿はこの周辺で、そのような者を見かけなかっただろうか?」
燈真の問いに、翠の足取りが一瞬だけ、ほんのコンマ数秒ほど止まったように見えた。
だが、彼女はすぐにふんわりとした笑みを浮かべ、首を緩やかに横に振った。
「いいえ・・・ここはあまりにも広大な樹海ですから。そのような風変わりな人物は、私は見ておりませんわ」
「そうか・・・。森の案内人である君でも知らないのか・・・」
燈真はそう言って穏やかに微笑んだが、その瞳の奥には不穏な色の光が宿っていた。
(おかしい・・・。僕は『この周辺』と言っただけで、『この樹海の中』とは一言も言っていない。それなのに彼女は『この広大な樹海では見ていない』と即答した・・・まるで、樹海の中にその人物がいないことを最初から確信しているかのように・・・)
確かな違和感。しかし、今はそれを口に出して警戒させる段階ではない。燈真は静かに思考を巡らせ、腰の刀の柄へそっと指を滑らせた。
♢
さらに深部へと足を進めたその時、突如として周囲の生温かい空気がピリリと引き締まった。
『ぬ・・・!? 汐恩、上じゃ!』
汐恩の肩の上で、コノハが耳を逆立てて叫ぶ。
頭上の鬱蒼とした枝葉を押し分け、ヌッと姿を現したのは、巨大な太い蔦を何本も蠢かせた気味の悪い植物の物怪――【大樹魔】だった。その中央には不気味な巨大な一つ目が爛々と輝いている。
『グシャアアアアッ!!』
猛烈な妖気と共に、無数の鋭い蔦が槍のような速度で一斉に襲いかかってきた。
「危ないっ!」
燈真が即座に素早く呪符を飛ばす。
「『急々如律令! 炎破の符!』」
放たれた青白い炎が蔦の数本を焼き切るが、生温かい湿気を吸った大樹魔の蔦はすぐさま再生し、弾丸のような勢いで汐恩の胸元へと肉薄した。
「ふ~ん・・・木端微塵になりたいわけね」
汐恩の瞳に、冷徹で圧倒的な光が宿る。
彼女は迫り来る蔦の群れに対し、避ける素振りすら見せなかった。
ザッ!!
一瞬の居合。
「――【鬼哭・紫電一文字】っ!!」
刀身から解き放たれた紫の雷光と鋭烈な風圧が、迫る蔦のみならず、大樹魔の巨体そのものを縦一文字に綺麗に真っ二つへと切り裂いた。
『グガッ・・・!?』
断末魔すら上げる隙を与えず、巨大な物怪は激しい音を立てて左右に割れ、ぬかるんだ地面へと崩れ落ちて消滅した。
「相変わらず無茶苦茶な威力だな・・・」
燈真が安堵のため息をつく。汐恩はサッと刀を鞘に納め、何事もなかったかのように袖についた葉っぱを払った。
「邪魔な障害物は排除したし。さ、先を急ごうよ」
汐恩の圧倒的な強さを前にしても、案内人の翠は怯える風もなく、パチパチと可愛らしく手を叩いて微笑んでいた。
「素晴らしい太刀筋ですわ、汐恩様。・・・さぁ、目指す『大樹の洞』はすぐそこです。四つ目の破片も、きっとそこであなた方を待っていますわ」
翠はくるりと翻し、再び深部へと歩き出す。
その無邪気な後ろ姿を見つめながら、燈真は汐恩に視線で密かに合図を送った。汐恩もまた、どこか飄々とした笑みを浮かべつつも、周囲の気配をより一層鋭く探り始めていた。
謎めいた案内人の言葉と、見え隠れする不穏な影。
湿った樹海の最奥で、新たな波乱の幕が上がろうとしていた。




