第十七話 湿度の高い樹海で、怪しい案内人と出会いました
白銀の雪山を後にしてから数日。
東へ東へと街道を進むにつれて、肌を刺すような寒さはどこへやら、まとわりつくような不快な湿気と生温かい風が一行を包み込むようになっていた。
辿り着いたのは、鬱蒼とした巨木が空を覆い尽くす【常闇の樹海】の入口である。
「うわ・・・何これ。急にジメジメしてきたんだけど。湿気で髪の毛が広がるから嫌なんだよね」
汐恩は短く息を吐くと、首元をパタパタとあおぎながら不機嫌そうに眉をひそめた。
目の前に広がる樹海は、日中であるにもかかわらず太陽の光がほとんど届かず、薄暗い緑のモヤが立ち込めている。足元はぬかるみ、生温かい湿気が皮膚にベタリとまとわりついて離れない。
『ひぇ〜、雪山の次はこのじめついた空気・・・。妾の美しい毛並みが湿気でペチャンコになってしまうぞ・・・』
汐恩の肩の上で、コノハがテンションを低くして耳を垂らしている。
「油断するなよ、二人とも。ここは『常闇の樹海』・・・足を踏み入れた者の感覚を狂わせるという魔の森だ。気をつけて進もう」
燈真が慎重に刀の柄に手をかけ、一歩足を踏み入れた。
♢
樹海の内部へ侵入してわずか数十分。
燈真の言った通り、森の妖気は予想以上に厄介だった。
ぬかるんだ足元からは怪しい胞子が舞い上がり、周囲の樹木はまるで生き物のように蠢いて、進んできたはずの後ろの道を塞いでしまう。
「おかしいな・・・さっきから同じ大木の前をぐるぐる回っている気がする」
燈真が汗をぬぐいながら足を止めた。方位磁石の針はグルグルと無規則に回転し、完全に機能を失っている。
『むむむ・・・神気で方向を探ろうにも、この生温かい湿気と妙な胞子が鼻を突いて、うまく集中できぬ・・・!』
コノハが鼻をムズムズさせながら悔しそうに呟く。
しかし、そんな空間の歪みや迷惑の罠に対しても、汐恩の反応はどこまでも冷めていた。
「ふ~ん。道が消えるなら、作ればいいだけでしょ」
「え?」
汐恩はサッと刀を抜くと、進行方向を塞ぐ分厚い巨木と密生した蔦に向かって、一切の躊躇なく一閃を放った。
ズバァァンッ!!
凄まじい風圧と妖気を伴った斬撃が、立ち塞がる樹木をごっそりと叩き斬り、前方数十メートルにわたって直線上の「新しい道」を作り出した。
「よし、これで迷わないね。まっすぐ行くだけだし」
「汐恩・・・豪快すぎるというか、力ずくにも程があるぞ・・・」
燈真が引きつった笑いを浮かべる。
だが、汐恩が作ったその道を進もうとした瞬間――鬱蒼とした緑の奥から、くすくすと鈴を転がすような軽やかな笑い声が響いた。
『あらあら、豪快な剣士様だこと。そんな風に森を傷つけたら、樹海の精霊たちに怒られてしまいますわよ?』
「誰だ・・・!?」
燈真が瞬時に構えを取る。
ぬかるんだ草むらを押し分けて姿を現したのは、薄緑色の着物を身に纏い、頭に大きな木の葉の飾りをつけた神秘的な少女だった。その瞳は翡翠のように輝き、浮世離れした雰囲気を漂わせている。
「私? 私は【翠】。この常闇の樹海で旅人を導く・・・まぁ、案内人のようなものですわ」
翠と名乗った少女は、ふわふわと空中を浮遊するように汐恩たちの前へと歩み寄ってきた。
「案内に頼らなくても、力ずくで切り拓いて進むつもりだったんだけど?」
汐恩が刀を鞘に納めながら不敵に言い放つと、翠は目を丸くした後に、楽しそうにクスリと笑った。
「ふふ、頼もしいお姉様。でも、この常闇の樹海はただ木を斬るだけでは抜けられないの。空間そのものが生き物みたいに折りたたまれているから、正しい『道しるべ』を知らないと、永久に同じ場所を巡ることになるわ」
『ぬ・・・確かに、妾の導きも少し乱されておる。この娘の言うことも一理あるかもしれんぞ』
コノハが汐恩の耳元で囁く。
燈真が前に出て、一歩置いて翠に尋ねた。
「案内人の翠殿。僕たちはこの樹海の深部にある『特別な破片』を探しているんだ。そこへ案内してもらうことはできるだろうか?」
「『界渡りの鏡の破片』のことね? ええ、もちろんですわ。・・・ただし」
翠は翡翠の瞳を怪しく光らせ、意味深な微笑みを浮かべた。
「樹海の奥へと向かうには、湿気と幻惑を好む大妖たちの棲み処を通らなければなりません。・・・命の保証はできませんけれど、それでも参りますか?」
「愚問だね」
汐恩は肩をすくめ、髪を軽くかき上げた。
「どんな化け物が出てこようが、私の邪魔をするなら一刀両断するだけだし。案内、よろしく頼むよ」
飄々と言い切る汐恩の度胸に、翠は満足そうに深く頷いた。
「ふふ、素敵。それでは参りましょうか・・・深遠なる常闇の樹海へ」
怪しげな案内人・翠を仲間に加え、一行は生温かい湿気が満ちる迷いの森の深部へと、静かに足を進めていくのだった。




