第1話 橋の向こうへ
橋が落ちる。
そう気づいたときには、榊ひよりの足元が沈んでいた。
「走れ!」
誰かに背中を押される。
ひよりは倒れかけた男の腕を肩へ回し、石橋の先を目指した。
あと十メートル。
その距離が、急に遠くなる。
橋の下から、石が砕ける音が響いた。
ひびが左右へ走る。
「置いていけ!」
肩を借りていた男が叫んだ。
「うるさい!」
「おまえまで――」
「走って!」
二人で足を動かした。
男の右脚は、膝から下がまともに動いていない。
引きずる靴の先が、石畳をこする。
橋の向こうでは、すでに渡り終えた探索者たちが手を伸ばしていた。
その間に、黒い影が割り込んだ。
三十九階の階層ボス、黒鉄牛。
十メートルを超える巨体が、橋の根元へ角から突っ込んだ。
石橋が跳ねた。
ひよりの体が宙へ浮く。
次の瞬間、肩から地面へ落ちた。
息が詰まる。
手を伸ばしていた探索者たちの姿が、石煙の向こうへ消えた。
「橋から離れろ!」
怒鳴り声が聞こえた。
ひよりは顔を上げる。
渡り切れなかった探索者たちが、来た道を戻っていた。
ここは、三十九階の最奥。
底の見えない峡谷へ突き出した、直径百二十メートルほどの円形岩盤だ。
東側に、三十八階へ戻る石橋。
西側の岩壁に、四十階へ続く巨大な門がある。
今、その石橋が根元から崩れていた。
岩盤に取り残されたのは三十七人。
そのうち十二人が、自分の足では歩けない。
「榊、動けるか!」
「動けます!」
「そいつを門のほうへ!」
ひよりは隣に倒れていた男を起こした。
ほかの探索者たちも、負傷者を抱えて門へ戻っている。
黒鉄牛は崩れた橋の縁に立ち、谷底をのぞいていた。
全身を黒い甲殻に覆われている。
二本あった角のうち、左側は途中から折れていた。
背中や脇腹には槍や矢が刺さっている。
それでも足取りは鈍っていない。
三百人で二時間戦った。
国内の有力攻略団から選ばれた三百人だ。
誰も倒せなかった。
撤退を始めたところで、黒鉄牛は逃げる人間ではなく橋を狙った。
偶然ではない。
あれは自分たちが、橋を渡らなければ帰れないと分かっている。
「急いで!」
ひよりは男の腰を支えた。
二人で岩盤を横切る。
四十階への門は、岩壁に埋め込まれるように立っていた。
門の右側には、岩壁が内側へえぐれた場所がある。
狭いが、黒鉄牛が突進したまま入り込める幅ではない。
動ける者たちが、そこへ負傷者を運び始めた。
全員を移し終えるより先に、黒鉄牛が動いた。
橋の縁から離れる。
ゆっくりとこちらへ向きを変えた。
「前へ出ろ!」
六人の探索者が、負傷者たちの前へ並んだ。
盾を持っている者は二人しかいない。
一人は左腕が上がらず、右手だけで剣を握っている。
それでも逃げなかった。
黒鉄牛は岩盤の中央まで歩くと、前脚で地面をかいた。
石片が後ろへ飛ぶ。
助走を取るつもりだ。
ひよりは腰の矢筒へ手を伸ばした。
空だった。
弓も中央から折れている。
頭上では、撮影用のドローンが飛び続けていた。
公式攻略では、大規模な事故が発生した場合も映像だけは残す決まりになっている。
攻略企業が都合の悪い事故を隠さないためだ。
救助隊の通信や負傷者の音声は配信されない。
広い画面に、現場の様子だけが映され続ける。
視聴者数は三百万人を超えていた。
三百万人が見ていても、橋は戻らない。
「救難局だ!」
崩れた橋の向こうから声が上がった。
オレンジ色の救助服を着た隊員たちが、対岸へ駆け込んでくる。
戦闘用の装備を持つ者。
医療箱を背負った者。
長いワイヤーと金属板を運ぶ者。
全員が同じ場所へ集まるのではなく、到着した者から作業を始めた。
「アンカーを打て!」
「手前の岩が割れています!」
「もっと奥を使え!」
技術班が射出機を組み立てる。
谷へワイヤーを渡し、その上へ金属板を固定するつもりらしい。
だが、黒鉄牛は待ってくれない。
非常事態が宣言された時点で、公式攻略参加者の通信端末は迷宮救難局の共通回線へ切り替わっていた。
耳元で、男の声が響く。
『岩盤側へ。聞こえるか』
「聞こえます!」
誰かが答えた。
『負傷者は門の右側へ集めろ。橋側を広く空けてくれ』
ひよりは周囲を見た。
「橋のところを空けて!」
「何か来るのか?」
「分からない。空けてって!」
動ける者たちが、橋側に落ちていた武器や荷物を拾い始める。
対岸では、救助隊の隊長が技術班と話していた。
「橋は?」
「アンカーが固定できません。まだかかります!」
隊長が岩盤を見る。
黒鉄牛は頭を下げていた。
門の右側では、最後の負傷者が岩壁のくぼみへ運ばれている。
間に合わない。
救助隊長の隣にいた青年が、背負っていた荷物を下ろした。
ほかの隊員より若い。
短い黒髪。
オレンジ色の救助服の上から、黒い胸当てを着けている。
背中には、幅の広い大剣が一本。
魔物を倒すための飾った武器ではない。
岩や扉を壊すための、救助用の大剣だった。
隊長が青年へ何かを言った。
青年が一度うなずく。
通信から声が流れた。
『岩盤側へ。今から一人渡す。橋側から離れろ』
「一人?」
ひよりは崩れた橋を見る。
谷幅は二十メートル以上ある。
ワイヤーはまだ張られていない。
飛行系の探索者も、今回の攻略隊には参加していなかった。
青年は通信端末と救急箱だけを腰に残した。
大剣は背負ったままだ。
助走を取るため、後ろへ下がっていく。
「まさか」
ひよりがつぶやいた直後、青年が走りだした。
速い。
救助服を着て、大剣を背負っているとは思えない速度だった。
崩れた橋の端を踏み切る。
青年の体が谷へ飛び出した。
対岸までは届かない。
勢いを失い、体が落ち始める。
その足が、何もない空中を踏んだ。
硬いものを蹴った音が、谷に響く。
青年の体がもう一度前へ飛んだ。
空中に一度だけ足場を作る移動技術。
使える探索者はいる。
だが、大剣と救助装備を持ったまま、この距離を渡れる者を、ひよりは見たことがなかった。
青年は岩盤の東端へ着地した。
両足の下で石が割れる。
前へ二歩よろめき、片手を地面についた。
すぐに立ち上がる。
黒鉄牛が顔を上げた。
青年は牛を見ず、門の右側へ走った。
「救難局です!」
よく通る声だった。
「動ける人は、けが人を岩壁の奥へ運んでください。救助隊が橋を架けています」
「お前だけか?」
盾を持った男が聞いた。
「先に来ました」
「牛が走るぞ!」
「見えてます」
青年は倒れている探索者の一人へしゃがんだ。
腹部を押さえている男の顔を見る。
「息はできますか」
「浅いけど……」
「無理に話さなくていいです」
青年は近くにいた女性へ声をかけた。
「この人を奥へ。上半身を起こしすぎないでください」
「あなたは?」
青年が立ち上がる。
黒鉄牛は、門の右側へ角を向けていた。
「こっちを向かせます」
青年は岩盤の中央へ歩きだした。
「名前は?」
ひよりは思わず尋ねた。
青年が振り返る。
「鳴海です」
「鳴海さん。あれ、三百人でも倒せなかったんです」
「聞いてます」
「だったら――」
鳴海迅は大剣を抜いた。
鉄の塊のような刃先が、岩盤をこする。
「倒すのは後です。まず離します」
迅は大剣の腹を、地面へ一度たたきつけた。
鈍い音が岩盤を走る。
黒鉄牛の頭が動いた。
門の右側から、迅へ向きを変える。
迅は負傷者たちから離れるように、橋側へ移動した。
黒鉄牛もそれを追う。
岩盤の中央を越えたところで、獣が足を止めた。
前脚が地面をかく。
迅が大剣を両手で持ち直す。
黒鉄牛が走りだした。
一歩ごとに岩盤が揺れる。
迅は避けない。
大剣の刃を斜めに立て、正面から構えた。
「鳴海さん!」
ひよりの声と、角が大剣へぶつかる音が重なった。
迅の体が後ろへ押される。
靴底が岩を削り、白い跡を残す。
一メートル。
二メートル。
そこで止まった。
黒鉄牛は走り続けようとする。
迅は大剣を角へ当てたまま、左足を前へ出した。
押し返した。
黒鉄牛の前脚が滑る。
三百人の隊列を崩した巨体が、少しずつ後ろへ下がった。
ひよりの隣で、盾を持った男が息をのむ。
「力比べで勝ってる……」
迅が大剣の柄を下げた。
角の先が刃の上を滑り、黒鉄牛の頭が横へ流れる。
迅は獣の右側へ踏み込んだ。
大剣を振り上げる。
折れていなかった右角の根元へ、厚い刃が入った。
角が飛ぶ。
岩盤を二度跳ね、谷の近くまで転がった。
黒鉄牛が首を振り回す。
迅は後ろへ下がらなかった。
頭の横へ回り込み、残った折れ角の内側へ入る。
右足を獣の前脚のそばへ置く。
大剣を低く引いた。
刃先は黒鉄牛の首の下へ向いている。
迅が腰を回した。
大剣が、下から斜め上へ走る。
厚い刃は首の下側から黒い甲殻へ入り、そのまま反対側へ抜けた。
黒鉄牛の頭が肩からずれた。
巨体が一歩だけ進む。
前脚が折れ、岩盤へ崩れ落ちた。
頭が遅れて地面へ落ちる。
動かない。
誰も声を出さなかった。
迅は血のついた大剣を下ろした。
黒鉄牛を一度見てから、門の右側へ戻ってくる。
「治療できる人は?」
白い上着を血で汚した女性が手を上げた。
「私と、もう一人です」
「胸を打っている人を先に見てください。呼吸が浅いです」
「ボスは……」
「倒れました」
「それは、見れば分かるけど……」
迅はすでに次の負傷者の前へしゃがんでいた。
「名前を言えますか」
「野上……」
「野上さん。背中に手を入れます」
「痛いところは?」
「右の脇腹……」
「分かりました。動かしますよ」
対岸から怒鳴り声が響いた。
「手を止めるな! 橋を架けろ!」
黒鉄牛の戦いを見ていた技術班が、我に返って動き始める。
ワイヤーが谷の上を走った。
金属板が一枚ずつ固定されていく。
ひよりは頭上の撮影ドローンを見た。
視聴者数の表示が、急速に増えている。
三百五十万人。
四百万人。
四百八十万人。
数字の更新が止まらない。
そのとき、岩盤の奥で低い音がした。
四十階への門に、縦の光が走る。
左右へゆっくりと開き始めた。
門の向こうから、白い光が差し込む。
『三十九階の階層ボス消滅を確認しました』
女の声が、峡谷全体へ響いた。
『三十九階、初回制圧完了』
救助隊も、取り残されていた探索者たちも手を止めた。
『初回制圧者――鳴海迅』
『制圧報酬として、三十九階の管理権を付与します』
迅が負傷者のそばで顔を上げる。
開いた門を見る。
それから、自分を指さした。
「俺ですか?」
ひよりは何も言えなかった。
通信機から、救助隊長の声が聞こえる。
『鳴海。聞こえているな』
「はい」
『管理権の話は後だ。搬送を始める』
「了解です」
迅は門から目を離した。
負傷者の肩へ腕を回す。
「もう渡れます。ゆっくり立ちましょう」
仮設橋の最初の一枚が、岩盤へ届いた。
この日。
二年間、誰も越えられなかった三十九階が攻略された。
攻略したのは、名の知れた攻略者でも、大企業の専属戦士でもない。
負傷者を迎えに来た、一人の救助員だった。




