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第九話 北へ向かう馬車には、パンの匂いがする




 北境へ出発したのは、三日後の朝だった。


 王宮からは追加の依頼が山のように来たが、わたしはすべて緊急度で仕分けた。火災、人命、衛生に関わるものだけを優先し、それ以外は王宮管理局で対応するよう返した。


 ブルーメ副局長は、以前よりやつれた顔でそれを受け取った。


「これまで、あなた一人にどれだけ押しつけていたのか、ようやく分かりました」


「分かったなら、人を増やしてください」


「はい」


「それから、書類に『至急』と書けば何でも優先されるわけではありません」


「……はい」


 副局長は深々と頭を下げた。


 王宮がすぐに良くなるとは思わない。けれど、少なくとも一人は、問題を問題として見始めた。


 それで十分だ。


 セリナ様は見送りに来た。


 白いドレスではなく、動きやすい淡い灰色の服を着ていた。手には、わたしが渡した古い革手袋を持っている。


「ミリア様」


「セリナ様」


「わたくし、王宮管理局の臨時講習に参加することにしました。暖炉と水回りと、あと、掃除係の方々のお話を聞きます」


「よいと思います」


「殿下には、怒られました」


 彼女は少しだけ笑った。


「聖女が煤の匂いをさせるな、と」


「どう答えたのですか」


「煤の匂いを知らない聖女では、火傷した人を癒やす資格がないかもしれません、と」


 わたしは瞬きをした。


 セリナ様は頬を赤らめる。


「言いすぎたでしょうか」


「いいえ。必要な言葉だったと思います」


 彼女の表情が明るくなった。


 昨日まで、セリナ様は物語の中の「聖女」という役を生きていた。けれど、煤を知った彼女は、自分の言葉を持ち始めている。


 王太子殿下との関係がどうなるかは分からない。


 ただ、彼女が誰かの装飾品で終わらないなら、それは良いことだと思った。


「北境は寒いと聞きます。どうか、お体に気をつけて」


「ありがとうございます」


「それから」


 セリナ様は小さな包みを差し出した。


「火守りさんたちへ。わたくしが作った灰入れです。下手ですが」


 包みの中には、小さな陶器の器が三つ入っていた。


 形は少し歪んでいる。けれど底には、火守りの足が熱くならないよう薄い断熱石が敷かれていた。


 わたしの肩にいた火守りが、そろそろと覗き込む。


 それから、セリナ様へ向かって小さな火花を一つ飛ばした。


 セリナ様は目を潤ませた。


「今のは」


「ありがとう、です」


「そうですか」


 彼女は器を胸に抱きしめそうになり、慌ててやめた。


「熱いかもしれませんものね」


 学んでいる。


 人は、変わろうと思えば変われる。


 そのことに少し救われる思いがした。


 北へ向かう馬車は、グレン様の手配で驚くほど整っていた。野営も可能な寝台馬車で、床には厚い敷物があり、窓の隙間風も少ない。荷台には粉、豆、干し肉、塩、薪、予備の毛布、修繕道具が積まれている。


 そして、パン窯の精霊は荷台の一番いい場所に陣取っていた。


「そんなに得意げにしなくても」


 わたしが言うと、パン窯は丸い腹を揺らして、ぽん、と小さなパンを出した。


 旅の初日から焼きたてパンが出る馬車など、普通はない。


 グレン様の護衛騎士たちは最初こそ驚いていたが、昼休憩でパンを受け取る頃には、すっかり表情が変わっていた。


「閣下、これは」


「食え」


「いえ、あの、王都の高級店より」


「食えば分かる」


 騎士はパンをかじり、黙った。


 それから、なぜか背筋を伸ばしてパン窯へ向かって頭を下げた。


「ありがとうございます」


 パン窯は照れて、追加で二つパンを出した。


「褒めすぎると増えます」


「増えるのですか」


「増えます。ただし、無理をさせないでください」


 騎士たちは一斉に頷いた。


 北境の兵たちは、王宮の貴族たちより話が早いかもしれない。


 道中、グレン様は砦の資料を見せてくれた。


 ノルデン辺境砦は、百年以上前に建てられた石造りの要塞だ。魔獣の通り道である黒森を監視するため、北の山脈の入り口に置かれている。三年前、先代の管理官が病で倒れてから、生活設備の不調が目立つようになった。


「管理官の名はマルタ。六十代の女性で、砦では皆に母のように慕われていた」


「その方が家守だったのですか」


「正式な加護は知らない。ただ、彼女がいた頃、砦はよく眠れた」


 よく眠れた。


 それは家にとって、最高の褒め言葉かもしれない。


「マルタさんは、今どちらに」


「亡くなった」


 短い答えだった。


 馬車の中が静かになる。


「魔獣の襲撃後、無理をして働き続けた。兵の寝台を直し、食堂を開け、負傷者を休ませた。最後は、食堂の暖炉の前で眠るように」


「そう、ですか」


 胸が痛んだ。


 家守の仕事は、終わりが見えない。誰かが生きている限り、暮らしは続く。だからこそ、休む仕組みが必要なのだ。


「その後、管理官を何人か入れたが、皆すぐ辞めた。寒い、暗い、眠れない。兵も荒れ、物資の消耗も増えた」


「砦の精霊たちは、マルタさんを失ってからずっと働き方を忘れているのかもしれません」


「働き方を忘れる?」


「大切にしてくれた人が急にいなくなると、家は混乱します。誰の声を聞けばいいのか、どこまで頑張ればいいのか分からなくなる。結果として、過剰に働くか、完全に閉じこもるか、どちらかになります」


 グレン様は黙って資料を見つめた。


「私は、気づくのが遅かった」


「今から直せます」


「そう言い切れるのか」


「言い切るのが、家守の仕事です。もちろん、手順は必要ですが」


 グレン様は少し笑った。


「頼もしいな」


 その言葉に、なぜか頬が熱くなる。


 馬車の窓の外では、王都近郊のなだらかな丘が、少しずつ白い森へ変わっていく。空気は冷え、道は硬くなり、遠くの山並みが青く見えた。


 北へ向かう。


 王宮を離れ、新しい仕事へ向かう。


 不安がないわけではない。


 けれど荷台にはパン窯がいて、肩には火守りがいて、隣にはわたしの仕事に報酬を払うと言った人がいる。


 それは、前へ進むには十分な理由だった。


 その夜、最初の宿場町で、わたしは久しぶりに泣いた。


 悲しくてではない。


 宿の小さな部屋で、寝台の子が用意してくれたふかふかの毛布に包まれ、火守りが陶器の灰入れで眠り、窓の外で雪が静かに降っているのを見たら、急に胸がいっぱいになったのだ。


 王宮を出た夜には出なかった涙が、今になってこぼれた。


 自分の手でドアを開け、自分の脚で階段を降りて、なんでも自分で決めていく。


 それは自由で、少し怖くて、でも温かかった。



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