第八話 寝台面談は、公開処刑ではありません
ノルデン辺境伯家の王都屋敷へ戻ると、玄関の空気が朝より柔らかくなっていた。
昨夜まで背筋を伸ばしすぎていたランプの精霊は、廊下の端でゆらゆらと光を揺らしている。手すりの子は、使用人が通るたびに少しだけ艶を増していた。家令のバルトが本当に「いつもありがとう」と言って回ったらしい。
言葉だけで家が直るわけではない。
けれど、言葉がなければ始まらない修理もある。
「お帰りなさいませ」
バルトが深く頭を下げた。
「お疲れでしょう。客間に湯を用意しております。それと、例の寝台の精霊様ですが」
「様?」
思わず聞き返した。
バルトは真面目な顔で頷く。
「旦那様より、見えぬ相手であっても労働者には敬称を用いるようにと」
グレン様は少し気まずそうに視線をそらした。
「間違っているか」
「いいえ」
胸の奥が温かくなる。
王宮で五年かけても得られなかったものが、この屋敷では一晩で当たり前のように広がっている。
ただし、王太子殿下の寝台の精霊は、その温かさに甘えるどころではなかった。
客間の奥、日当たりのいい場所に置かれた毛布の山の中で、寝台の子は完全に丸くなっていた。ふわふわの羽毛のような髪を顔にかぶせ、こちらを見ようとしない。
「ただいま」
わたしが声をかけると、毛布がわずかに揺れた。
「王宮から、あなたと話したいという依頼が来ました」
毛布が、ぴたりと止まる。
「戻る必要はありません。会いたくないなら、断っていいです」
寝台の子は、毛布の隙間から片目だけ出した。
怖い。
嫌だ。
でも、言いたいことはある。
そんな感情が、細い糸のように伝わってくる。
「会う場所はここにしましょう。王宮へは行きません。殿下には、あなたが安心できる場所まで来てもらいます」
毛布の山が、少しだけ膨らんだ。
それは承諾だった。
「公開の場にはしません。立ち会いは、わたし、グレン様、バルト。それから必要なら書記一名だけ。発言は記録しますが、あなたの許可なく外へ出しません」
寝台の子が、さらに片目を出す。
王宮で彼は、いつも一方的に使われていた。
王太子殿下が眠るときも、怒鳴るときも、深夜に酒をこぼすときも、セリナ様へ贈る宝石の箱を広げるときも、ただ黙って受け止めるしかなかった。
その子にとって、自分の発言が記録され、守られるというのは初めてのことだったのだろう。
「それと、面談の前に手入れをします。王宮に戻るかどうかとは別です。あなたは疲れすぎています」
毛布の山から、小さな手が出てきた。
わたしはその手を握った。
ふかふかの寝台は、人を甘やかすだけのものではない。
人が明日も立ち上がれるように、夜の重さを預かる場所だ。その役目を五年も過剰に押しつけられた子が、簡単に元気になるはずがなかった。
夜、王太子殿下が屋敷を訪れた。
護衛二名と侍従一名を連れているが、昨日のような華やかさはない。寝不足のせいか顔色が悪く、目つきも少し荒れている。
「まさか、私が寝台のために辺境伯家の屋敷まで出向くとはな」
開口一番がそれだった。
寝台の子は毛布の奥へ引っ込んだ。
わたしは記録用の紙を机に置き、羽ペンを取る。
「面談を中止しますか」
「何?」
「対象者への威圧的発言がありました。寝台の精霊が不安を示しています。改善がなければ、本日の面談は中止です」
殿下の顔が赤くなる。
「私は王太子だぞ」
「本日の面談では、謝罪を求める側です」
グレン様が低く言った。
「殿下。ここは私の屋敷です。ミリア嬢の手順に従っていただく」
沈黙が落ちた。
殿下は屈辱に耐えるように拳を握り、それから深く息を吐いた。
「……分かった」
わたしは寝台の子を見た。
毛布の山から、恐る恐る顔が出てくる。
「では始めます。まず、殿下。謝罪の前に、事実確認をします。寝台の軋みを初めて報告したのは、二年前の冬です」
「そんな昔のことを」
「二年前の冬です」
「……覚えていない」
「その後、わたしは計七回、寝台の手入れと休養日を提案しました。殿下は全て却下しました。理由は、王太子の寝室に予備の寝台を入れるのは見栄えが悪いから」
侍従が小さく震えた。
覚えているのだろう。
「さらに、寝台の上で酒をこぼした回数が十六回。短剣を突き立てた回数が二回。怒りに任せて枕を投げつけた回数は、記録できる範囲で三十六回」
「そこまで書いていたのか」
「管理記録です」
寝台の子が、毛布の中でこくこく頷いた。
彼にとって、それらは全て傷だった。
「殿下。謝罪をお願いします」
セドリック殿下は、寝台の子がいるはずの毛布の山を見た。
もちろん見えていない。
だから、彼はどこへ向かって謝ればいいのか分からない顔をした。
「そこです。毛布の中央。少し上」
わたしが示すと、殿下はぎこちなく視線を合わせた。
「……今まで、雑に扱ったことは、悪かった」
毛布の山は動かない。
「以上ですか」
「何をさらに」
「何に対して悪かったのか、具体的に言ってください」
殿下はわたしを睨んだ。
わたしは羽ペンを持ったまま待つ。
グレン様も、バルトも、口を挟まない。
やがて殿下は、視線を落とした。
「軋みを無視した。休ませなかった。酒をこぼした。怒りをぶつけた。……眠れるのが当然だと思っていた」
毛布の山が、ほんの少し揺れた。
寝台の子は、泣いていた。
わたしは記録を取りながら、自分の喉が少し詰まるのを感じた。
謝罪は過去を消さない。
けれど、傷つけられた側が「傷ついた」と言える場を作ることはできる。
「寝台の子からの返答です。『すぐには戻れない。眠る人が変わらないなら、戻ってもまた同じ』」
「私は謝っただろう」
「謝罪は復職命令ではありません」
殿下は言葉を失った。
グレン様が静かに頷く。
この場にいる大人のうち、彼だけは最初から理解していた。
謝ることと、許されることは別なのだ。
「では、どうすれば戻る」
殿下の声には、苛立ちより疲労が強かった。
わたしは寝台の子の言葉を聞き、書き取る。
「一つ。寝室で怒鳴らない。二つ。酒を持ち込まない。三つ。週に一度、寝具をすべて外して風を通す。四つ。眠る前に、今日受け止めてもらう分の礼を言う。五つ。三か月は予備寝台で暮らし、態度を確認する」
「三か月?」
殿下は悲鳴に近い声を出した。
「私は王太子だぞ」
寝台の子が、毛布の中から顔を出した。
小さな顔は涙で濡れていたが、目ははっきりしている。
王太子でも、嫌なものは嫌。
わたしには、そう聞こえた。
「これが条件です」
殿下は長い沈黙の後、椅子に沈み込んだ。
「……三か月、か」
「嫌なら新しい寝台を使ってください」
「新しい寝台では眠れないのだ」
ぽつりと落ちた言葉に、部屋の空気が変わった。
殿下はすぐに口を閉じたが、遅かった。
王太子は眠れていない。
怒りっぽさも、判断の悪さも、元からの性格だけではなく、慢性的な寝不足が絡んでいたのかもしれない。
だからといって、わたしへの扱いが許されるわけではない。
けれど、問題の根が少し見えた。
「殿下。眠れないなら、医師と家守の両方に相談してください。寝台を責めても、眠りは戻りません」
殿下は顔を覆った。
その姿は、昨日の大広間で勝ち誇っていた王太子とは別人のようだった。
面談は、寝台の子が三か月の休養を選ぶ形で終わった。
殿下は不満そうだったが、最後にもう一度だけ、毛布の山へ向かって頭を下げた。
完璧な謝罪ではない。
けれど、最初の一歩ではあった。
殿下が帰った後、寝台の子はわたしの膝に頭を乗せて眠った。
グレン様が、少し離れた椅子からその様子を見ている。
「あなたは、壊れたものを元に戻すだけではないのだな」
「どういう意味ですか」
「壊した者にも、壊したことを見せる」
「それをしないと、また壊しますから」
グレン様は静かに笑った。
「北境の砦も、壊した者が多い。手間をかけさせる」
「手間がかかる家ほど、直ったときに可愛いです」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
グレン様は目を細めた。
「では、砦を可愛がってやってくれ」
その声があまりに優しかったので、わたしは寝台の子の髪を撫でながら、返事をするのに少し時間がかかった。




