第七話 板のような寝台は、正直です
王太子殿下は、わたしの煤だらけの姿を不愉快そうに見下ろした。
「仮にも元婚約者が、そのような格好で王宮を歩くとは」
「火災対応中ですので」
「聖女セリナまで汚して」
「わたくしがお願いしました」
セリナ様が一歩前に出た。
白いドレスの裾には煤がつき、革手袋は黒く汚れている。それでも彼女は、昨日よりずっと自分の足で立っているように見えた。
「殿下。北棟の煙突は、本当に危険な状態でした。ミリア様がいなければ、火事になっていたかもしれません」
「大げさな。煙程度で」
その瞬間、礼拝室の暖炉が、低く唸った。
火は入っていない。
それなのに、石組みが怒ったように震える。
殿下は一歩後ずさった。
わたしは暖炉に手を置く。
「落ち着いて。分かっています」
暖炉の震えが少しずつ収まった。
グレン様が殿下へ向き直る。
「殿下。人が傷つく前に止まった事態を、軽く見るべきではありません」
「辺境伯。これは王宮内の問題だ」
「火事になれば王都の問題になります」
殿下は唇を歪めた。
「そもそも、ミリアが昨夜勝手に精霊を連れ出したから」
「勝手に出ていったのはわたしです。精霊たちは自分で選びました」
「まだその茶番を」
殿下の言葉を遮るように、廊下の向こうから侍従が駆け込んできた。
「殿下!」
「何だ」
「殿下の寝室の寝台が、また使用不能に」
廊下が静まり返った。
セリナ様が目を瞬かせる。
ブルーメ副局長は、もう驚く気力もないように眼鏡を押さえた。
殿下の顔が赤くなる。
「使用不能とは何だ」
「その……寝台に横になられた近衛隊長が、腰を痛めました。殿下の代理で確認しようとしたところ、板のように硬く」
「なぜ近衛隊長が私の寝台に寝ている!」
「危険確認のためです!」
状況は深刻なのに、廊下の端で使用人が肩を震わせている。
わたしは咳払いをした。
「殿下の寝台の精霊は、昨夜わたしについてきました。現在、ノルデン辺境伯家の屋敷で休養中です」
「今すぐ戻せ」
「戻る意思があるか確認します」
「寝台に意思など」
言いかけた殿下は、礼拝室の暖炉が再び震えたのを見て口を閉じた。
学習したらしい。
「ミリア」
セリナ様が小さく言った。
「寝台の精霊は、なぜ殿下のお部屋を出たのですか」
「疲れていたからです」
「疲れるのですか」
「人を眠らせるには、力が要ります。寝台はただの家具ではありません。眠りを受け止める場所です。怒り、焦り、欲望、不安、そういうものを毎晩浴び続ければ、精霊も疲れます」
殿下は不快そうに顔をそらした。
けれどセリナ様は真剣に聞いていた。
「殿下は、よく眠れていなかったのですか」
「王太子には政務がある」
「政務をなさっていた時間より、夜会の準備と贈り物選びの時間の方が長かったように思います」
廊下の温度が一段下がった。
セリナ様の発言に、殿下が目を見開く。
「セリナ?」
「わたくし、殿下がミリア様のお仕事を軽んじていることを、少しおかしいと思っていました。でも、殿下がそうおっしゃるのだから、そうなのだろうと」
彼女は煤のついた手袋を握りしめた。
「でも今日、煙突を見て分かりました。わたくしは知らないことが多すぎます。だから、知らないまま誰かを見下すのは、もうやめたいのです」
セリナ様の声は震えていた。
けれど、最後まで途切れなかった。
殿下は呆然と彼女を見た。
たぶん、彼は初めて知ったのだ。自分の隣に置いた聖女が、自分とは別の心を持っていることを。
「ミリア嬢」
ブルーメ副局長が、慎重に口を開いた。
「寝台の精霊に戻っていただく方法は、ありますか」
「あります」
殿下の顔が明るくなる。
わたしは続けた。
「まず、殿下ご自身が謝罪してください。五年間、名前を呼ばず、手入れの記録も読まず、軋みを放置し、怒りをぶつけてきたことについて」
「私が、寝台に謝るのか」
「はい」
「馬鹿な」
板のような寝台は、正直だ。
ふかふかを失った寝台は、人を選ぶ。横になる者が自分を道具としか見ないなら、ただの板になる。眠りを預ける場所に敬意がなければ、眠りは返ってこない。
「それが嫌であれば、新しい寝台をご用意ください。ただし、精霊のいない寝台は眠りが浅くなります。王太子殿下の体調管理には不向きです」
殿下は悔しそうに唇を噛んだ。
そのとき、グレン様が淡々と言った。
「北境では、寝台に礼を言う程度のことは兵にもさせるつもりだ」
「兵にまで?」
「眠れない兵は判断を誤る。判断を誤った兵は死ぬ。死なせないためなら、礼くらい言わせる」
殿下は何も言えなかった。
わたしはグレン様の横顔を見た。
この人は、見えないものを信じるから精霊を尊重しているのではない。
人が生きるために必要なものを、軽んじないのだ。
「ミリア」
殿下が低い声で言った。
「一度だけ、寝台と話す場を設けろ」
「命令ではなく、依頼ですか」
「……依頼だ」
「承りました。ただし、寝台の子が断れば、それまでです」
殿下は不満そうだったが、反論はしなかった。
少しだけ、王宮の中で言葉の形が変わり始めている。
命令から依頼へ。
所有から契約へ。
その変化は小さい。
けれど、小さな蝶番が扉を支えるように、小さな言葉が暮らしの向きを変えることもある。
北棟を出る頃、火守りたちはわたしの袖を引いた。
王宮に残る子、休むためについてくる子、しばらく様子を見る子。
それぞれの意思を確認し、名簿に記録する。
ブルーメ副局長は、その名簿を真剣な顔で見ていた。
「本当に、全員に名前があるのですね」
「はい。名前を呼ばれない仕事は、いずれ雑に扱われますから」
副局長は深く頷いた。
その背後で、セリナ様が小さな火守りに向かって、ぎこちなく手を振っていた。
火守りは隠れながらも、ほんの少しだけ火花を返した。
それで十分だった。
帰り際、王宮の玄関で、殿下がもう一度わたしを呼び止めた。
「ミリア。北境へ行くというのは本気か」
「はい」
「苦労するぞ。あそこは寒く、魔獣も多い。王都のようには暮らせない」
「王都のように暮らせない場所だから、家守が必要なのだと思います」
殿下は顔をしかめた。
わたしは礼をして、馬車へ向かった。
背後で、王宮の大扉が静かに閉まる。
昨日はわたしを閉じ込めようとした扉が、今日はきちんと見送ってくれた。
家は、変化を覚えている。
人よりずっと正直に。




