第六話 聖女様は、煤の匂いを知らない
セリナ様は、煤だらけの礼拝室を見て、今にも倒れそうな顔をした。
王太子殿下の隣に立つときの彼女は、白い光に包まれている。神殿で育った清らかな少女。人々の痛みを癒やし、祈りで国を照らす存在。少なくとも、王宮はそう彼女を飾っていた。
けれど今のセリナ様は、ただの若い娘に見えた。
煤の匂いを知らず、燃えた絹の嫌な甘さに戸惑い、自分の名前がついたものが誰かを苦しめていたと知って震えている娘だ。
「わたくし、礼服の予備布があることは聞いておりました。でも、こんな場所にあるなんて」
「セリナ様が指示されたのですか」
「違います」
即答だった。
隣で神殿侍女が小さく息を呑んだ。
グレン様の視線が、その侍女へ向く。
「名は」
「……リナと申します」
「誰の指示で、この布を処分した」
侍女リナは唇を震わせた。
セリナ様が彼女を庇うように一歩前へ出る。
「待ってください。リナはわたくしの身の回りを」
「身の回りを整える者が、あなたの名で発注された布を煙突へ押し込んだ可能性がある」
グレン様の声は冷静だった。
「庇うなら、事実を聞いてからにした方がいい」
セリナ様は青ざめたまま黙った。
わたしはリナへ近づき、できるだけ穏やかな声で言った。
「誰かに命じられましたか」
リナの目に涙が浮かぶ。
「衣装係の方に、失敗した布は処分しろと。神殿の紋が入っているから、外に出すなと。暖炉で燃やせばいいと」
「誰が北棟の礼拝室を指定しましたか」
「王宮管理局の局長様です。ここなら普段使われないから、と」
ブルーメ副局長の顔が白くなった。
「局長が」
「私は、ただ、言われた通りに」
リナは震えながら膝をついた。
その姿を見て、わたしは前世の新人社員を思い出した。上司に言われるまま、危険な現場へ一人で行かされ、失敗すれば責任だけ押しつけられる。立場の弱い人ほど、命令と責任の間で潰される。
「燃やしてはいけないものだと、知っていましたか」
「知りませんでした。紙や布は、暖炉で燃えるものだと」
「普通はそう思います」
わたしは頷いた。
「ただ、魔力保存加工された布は違います。煙突に貼りつき、煤を固めます。今後は、分からないものを暖炉に入れないでください」
「はい……」
セリナ様が、ゆっくりと礼拝室の暖炉に近づいた。
火守りたちは警戒して、わたしの背後に隠れる。
それを見たセリナ様の瞳が揺れた。
「わたくし、嫌われているのですね」
「強い光を怖がっています」
「怖がっている」
「はい。セリナ様が悪いというより、力の質が合いません。火守りたちは灰と火加減の子です。強い聖光は、彼らにはまぶしすぎます」
セリナ様は自分の両手を見た。
「わたくしは、光で何でも癒やせるのだと教わりました」
「癒やせるものもあります。でも、煙突の煤は掃除しないと取れません」
きつい言い方だったかもしれない。
けれどセリナ様は怒らなかった。
むしろ、泣きそうな顔で頷いた。
「知らなかったことは、罪でしょうか」
「知らないまま偉そうにするなら、罪になると思います」
廊下にいた人々が息を呑んだ。
王太子殿下の寵愛を受ける聖女に対して、伯爵令嬢が言うには強すぎる言葉だった。
けれどセリナ様は、反論しなかった。
「では、知ります」
彼女は白い手袋を外した。
「わたくしにも、煤の掃除を教えてください」
リナが慌てて顔を上げた。
「聖女様、そのようなことは」
「わたくしの名が入った布で、この子たちを苦しめたのです。せめて、何が起きたのか知りたい」
火守りたちは、まだ隠れている。
わたしは彼らの様子を見てから、セリナ様へ古い革手袋を渡した。
「では、まず手袋を。白いドレスは汚れます」
「構いません」
「構ってください。汚れた裾で廊下を歩くと、掃除係の仕事が増えます」
セリナ様は目を丸くした。
それから、小さく笑った。
「はい。気をつけます」
彼女が初めて見せた、飾らない笑顔だった。
作業はほんの少しだけだった。煤を集め、濡れ砂をかけ、焦げた布片を分ける。セリナ様の手つきはぎこちなかったが、途中で投げ出すことはなかった。
火守りたちは、彼女を許したわけではない。
でも、最後に一匹だけ、彼女の手元へ小さな灰を落とした。
それは火守りにとって、見習いへの最初の仕事を渡す合図だった。
セリナ様は、その灰を宝石のように見つめていた。
北棟の応急処置が終わる頃、王太子殿下がようやく現れた。
豪奢な上着を羽織り、髪を整え、いつもの自信に満ちた顔をしている。
ただし、目の下には薄い隈があった。
昨夜、板のように硬くなった寝台で眠ったらしい。
「ミリア」
殿下は廊下の中央で立ち止まり、わたしを見た。
「よく戻った」
その言葉で、火守りたちが一斉にわたしの背後へ隠れた。
わたしは煤だらけの手袋を外し、静かに礼をした。
「王宮管理局からの正式依頼に基づき、緊急対応を行いました。報告書は後ほど提出します」
「相変わらず可愛げのない言い方だ」
グレン様の気配が、横で冷えた。
けれど、わたしは自分で答える。
「可愛げは契約項目に入っておりません」
殿下の眉が跳ねた。
廊下の奥で、誰かが小さく吹き出した。
王宮の空気が、昨日までとは違っていた。




