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第十話 ノルデン砦は、返事をしない




 ノルデン辺境砦が見えたのは、王都を出て七日目の夕方だった。


 黒森の手前、雪をかぶった岩山のふもとに、灰色の石壁が横たわっている。砦というより、巨大な眠った獣のようだった。高い外壁、太い見張り塔、鉄鋲の打たれた門。どれも頑丈だが、どこか息を潜めている。


 馬車が近づくにつれ、空気が重くなった。


 火守りがわたしの肩で丸くなる。


 パン窯の精霊も、いつものようにパンを出そうとして、途中で止めた。


「どうした」


 グレン様が気づく。


「砦が、こちらを見ています」


「見ている?」


「はい。でも返事をしません」


 家には気配がある。


 人が暮らす場所は、人を迎えようとする。玄関は足音を聞き、窓は光を入れ、暖炉は火を待つ。けれどノルデン砦は、誰かが帰ってきたことを知りながら、扉を開けるか迷っているようだった。


 門前で馬車が止まる。


 見張り台から兵士が声を上げた。


「閣下のお帰りだ!」


 重い門が開く。


 ぎぎぎ、と軋む音が響いた。


 門の精霊は、姿を見せなかった。


 中庭には兵士たちが並んでいた。みな厚い外套を着込み、顔には疲れが見える。若い兵もいるが、目の下に隈があり、肩がこわばっている。わたしを見た彼らの視線には、期待より疑いが強かった。


 無理もない。


 王都から来た伯爵令嬢が、砦を直すと言っても、信じられるはずがない。


 しかもわたしは、ドレスではなく動きやすい服に着替えていたが、それでも北境の空気にはまだ浮いていた。


 グレン様が前に出る。


「紹介する。ミリア・ハーシェル嬢だ。本日より三か月、ノルデン砦の家守監督官として勤務する」


 兵士たちがざわつく。


「家守?」


「王宮から来た令嬢だろ」


「監督官って、何を監督するんだ」


 その中で、ひときわ大柄な男が腕を組んでいた。赤茶色の髭、傷だらけの頬、いかにも現場叩き上げの兵士だ。


「閣下」


 彼が一歩前へ出る。


「副長のロイドです。失礼を承知で申し上げますが、ここは王都の屋敷ではありません。寒さも魔獣も、令嬢のお遊びには付き合いません」


 周囲の兵士たちが息を呑む。


 グレン様は眉一つ動かさなかった。


「ミリア嬢」


「はい」


「答えるか」


 任せてくれるらしい。


 わたしはロイド副長の前に立った。


「おっしゃる通り、ここは王都の屋敷ではありません。ですので、王都の作法ではなく砦の実情を見ます」


「実情?」


「副長は昨夜、二時間以上眠れていませんね」


 ロイド副長の目が細くなる。


「なぜ分かる」


「目の下の隈と、右肩の力の入り方です。それから、剣帯の革が湿っています。寝台に横になっても体が緩まず、汗だけかいている。部屋は寒いのに、寝汗をかくのは眠りが浅い証拠です」


 周囲が静かになった。


「食堂では、温かい食事を食べても十五分以内に席を立つ兵が多い。井戸の水は重く、浴室の湯はすぐ冷める。厩舎の馬は夜中に落ち着かない。門は開閉に時間がかかり、兵舎の扉は内側から閉めるときだけ軋む」


 ロイド副長の顔から反発が少し消えた。


「そこまで、馬車から見ただけで?」


「半分は見ました。半分は、砦の空気です」


 兵士たちは顔を見合わせる。


 怪しいと思っているのは分かる。


 けれど、当たっているから黙っている。


「わたしは魔獣を倒せません。剣も使えません。ですが、眠れない兵を眠らせ、冷える食堂を暖め、怒っている井戸をなだめることはできます」


 わたしはロイド副長を見上げた。


「騎士がいなければ村人が困る。けれど、騎士が眠れなくても村人は困ります。わたしは、あなた方が倒れないために来ました」


 ロイド副長は、しばらく黙った。


 やがて、腕を解く。


「……言葉は立派だ。結果を見せてもらう」


「はい。まず、今夜の食堂を見せてください」


「食堂?」


「食堂は砦の心臓です。そこが冷えていると、家全体が動きません」


 そのとき、砦の奥から小さな音がした。


 カラン。


 古い食器が棚の中で鳴るような音だ。


 わたしはそちらを見る。


 ノルデン砦は、まだ返事をしない。


 けれど、完全に拒んでいるわけではないらしい。


 食堂は広く、天井が高く、石壁には古い煤が染みついていた。


 長い木の卓が何列も並び、奥には大きな暖炉がある。本来なら三百人近い兵が食事を取れる場所だ。しかし今は、火が入っているのに寒い。


 暖炉の前に立った瞬間、肩の火守りが震えた。


「ここは、怒っています」


 グレン様が隣に来る。


「怒っている?」


「はい。悲しいより、怒りが強いです」


 暖炉の精霊は、姿を見せなかった。


 けれど灰の奥から、こちらを睨む気配がする。


 わたしは膝をつき、灰受けを見た。


 掃除はされている。


 だが、雑だ。


 燃え残りを無理やり掻き出し、新しい薪を押し込み、火が弱いとさらに薪を足す。火守りが呼吸する隙間がない。これでは、いくら燃料を使っても暖まらない。


「食材費と薪代は、最近増えていますか」


 ロイド副長が眉を寄せる。


「食材費の計上が先月比で一五〇パーセント。薪は二倍だ。だが、兵は痩せている」


「暖炉が働きにくいので、火力を上げるために薪を増やす。けれど燃え方が悪いので食事は冷める。冷めた食事では満足できず、量だけ増える。典型的な悪循環です」


 厨房係の兵が、悔しそうに顔を伏せた。


「俺たちは、手を抜いているわけじゃ」


「分かっています。手順が間違っているだけです」


 わたしはパン窯の精霊を呼んだ。


 丸い精霊が荷台からころころと転がってきて、砦の厨房を見た瞬間、固まった。


 厨房の竈たちは、無表情だった。


 まるで、期待すると傷つくから何も感じないことにしたように。


「今日は、王宮から来たパン窯の子が手伝います。でも、ここを乗っ取るわけではありません。砦の竈たちに、もう一度仕事を思い出してもらいます」


 厨房係たちは半信半疑で頷いた。


 わたしは灰を整え、空気の通り道を作り、薪の組み方を変える。火守りにセリナ様の灰入れを置き、砦の暖炉へ向かって頭を下げた。


「初めまして。ミリア・ハーシェルです。今日からしばらく、こちらで働きます」


 返事はない。


「マルタさんの代わりにはなれません。でも、あなたが怒っている理由を聞くことはできます」


 暖炉の奥で、灰がぱちりと鳴った。


 その音に、グレン様の表情がわずかに変わる。


「聞こえたのか」


「はい。まだ怒っています。でも、聞いてはくれました」


 わたしは袖をまくった。


「では、今夜は温かいスープとパンにしましょう」


 兵士たちの顔に、期待と疑いが同時に浮かぶ。


 パン窯の精霊が、丸い腹を得意げに膨らませた。


 砦の最初の夜が始まった。



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