第十一話 井戸は愚痴を聞きすぎていた
スープは、最初からうまくいったわけではなかった。
厨房の竈たちは頑固だった。火を入れても反応が鈍く、鍋底だけ焦げる。パン窯の精霊が横から得意げに手を出そうとすると、砦の竈が不機嫌そうに煙を吐く。
「けんかしない」
わたしが言うと、パン窯は不満げに丸い腹を揺らした。
王宮育ちのパン窯は、仕事が速い。火加減も繊細で、粉の状態を見るのも上手い。けれど、砦の竈には砦のやり方がある。北境の硬い豆、塩漬け肉、乾いた根菜、凍りかけた水。王宮の白いパンとは、扱うものが違う。
「あなたは今日は先生ではなく、お手伝いです」
パン窯は、しょんぼりした。
その様子を見て、厨房係の若い兵が笑いそうになり、慌てて口を押さえる。
「見えるのですか」
「いえ、何となく。丸い何かが拗ねた気がしました」
「よく分かりましたね」
「この砦にいると、そういう気配だけは分かるようになります」
若い兵の名はエルン。厨房係だが、本来は弓兵らしい。怪我で前線を離れ、一時的に厨房へ回されたと言っていた。
「マルタさんがいた頃は、厨房が好きでした」
彼は豆を洗いながら言った。
「食堂に入ると、何となく落ち着いて。飯は粗末でも、温かかった。今は、同じ豆を煮ても硬いんです。水が悪いのかと思っていました」
「井戸も見ます」
「井戸ですか」
「はい。水が重いと言いましたよね」
夕食前に、わたしは中庭の井戸へ向かった。
雪が降り始めている。砦の中庭は石畳で、中央に大きな井戸がある。屋根付きで、滑車も丈夫そうだ。兵士たちは毎日ここから水を汲み、厨房、浴室、厩舎へ運ぶ。
見た目に異常はない。
けれど、井戸の縁に手を置いた瞬間、胸の奥がずしりと重くなった。
悲鳴ではない。
愚痴だ。
眠れない。
寒い。
飯がまずい。
上官が怖い。
魔獣が来る。
帰りたい。
でも帰れない。
死にたくない。
誰にも言えない。
それらが何年分も井戸の底に沈み、水を重くしている。
「これは」
思わず息を吐く。
グレン様が隣で眉を寄せた。
「悪いのか」
「悪いというより、聞きすぎています」
「聞きすぎる?」
「井戸は聞き上手です。人は水を汲むとき、無意識に本音を落とします。普通は水が流してくれますが、この砦の井戸は出口が詰まっている。愚痴が底に溜まっています」
ロイド副長が腕を組んだ。
「兵の愚痴が水を悪くするのか」
「愚痴が悪いのではありません。吐き出しっぱなしで礼がないのが悪いです」
副長は困った顔をした。
「井戸に礼か」
「はい」
「兵に言ったら笑われるぞ」
「笑えるなら、まだ元気です」
ロイド副長は一瞬黙り、それから低く笑った。
「確かに」
井戸の浄化には、二つの作業が必要だった。
一つは物理的な掃除。滑車を外し、桶を確認し、縁の苔を取り、底に落ちた小石や金具をさらう。
もう一つは、言葉の整理。
わたしは兵士たちを十人ずつ呼び、井戸の前に立たせた。
「今から井戸へ愚痴を言ってください」
兵士たちはぽかんとした。
「ただし、一人一つ。最後に必ず礼を言うこと」
「本気ですか、監督官殿」
「本気です」
最初に立った若い兵は、顔を赤くして俯いた。
「……夜、寒くて眠れません」
井戸の底が、かすかに揺れた。
「言えたら、礼です」
「いつも水を、ありがとうございます」
ぎこちない言葉だった。
けれど井戸の水面に、ほんの小さな光が浮かんだ。
次の兵が続く。
「飯が硬いです。すみません。水をありがとうございます」
「副長の足音が怖いです。水をありがとうございます」
「母の煮込みが食べたいです。水をありがとうございます」
「魔獣より、眠れない夜の方がきついです。水をありがとうございます」
ロイド副長が微妙な顔をした。
「俺の足音は怖いのか」
「怖いですね」
兵士の一人がぼそりと言い、周囲が固まる。
だがロイド副長は怒らなかった。
「……気をつける」
その一言で、兵士たちの肩から少し力が抜けた。
グレン様も井戸の前に立った。
兵士たちが一斉に姿勢を正す。
彼は井戸を見下ろし、静かに言った。
「守れなかった者の顔を、眠る前によく思い出す」
中庭が静まり返った。
「それでも、明日も守るために水を飲む。いつも水を、ありがとう」
井戸の底で、水が深く揺れた。
わたしは胸の奥が締めつけられるのを感じた。
グレン様の傷は、まだ触れてはいけない。
けれど、井戸は受け取った。
最後にわたしも井戸の前に立つ。
「王宮で、ずっと怒れませんでした」
言葉にすると、少しだけ喉が震えた。
「でも今は、嫌なことは嫌と、好きなことは好きと言おうと思います。水をありがとうございます」
井戸の水面から、冷たい風が上がった。
それは冬の風ではなく、長く閉じ込められていた水が息を吐くような風だった。
井戸の精霊が、初めて姿を見せた。
青黒い髪の小さな子で、目の下に隈がある。いかにも寝不足で、疲れていて、それでもどこか誇らしげだった。
わたしは膝をつき、井戸の縁に手を置く。
「たくさん聞いてくれて、ありがとう。これからは、聞いたあとに流す道を作ります」
井戸の子は、こくりと頷いた。
その夜、食堂のスープは少しだけ美味しくなった。
豆はまだ硬いし、肉も塩辛い。
けれど兵士たちは、いつもより長く席にいた。
一口、また一口。
温かい湯気の向こうで、誰かが言った。
「これ、すきかも」
たったそれだけの言葉で、食堂の暖炉が小さく火を強めた。




