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第十二話 食堂の長椅子は、人の距離を知っている




 翌朝、食堂にはいつもより多くの兵が来た。


 パン窯の精霊が焼いた丸パンと、砦の竈が煮た豆のスープ。昨日より少し柔らかくなった豆を見て、厨房係のエルンは涙ぐんでいた。


「たかが豆で泣くな」


 ロイド副長が言う。


「副長だって昨日、井戸の前で目が赤かったじゃないですか」


「煙が目に入っただけだ」


「中庭で?」


 周囲の兵が笑った。


 砦に来て初めて聞く、軽い笑い声だった。


 わたしは食堂の端で、長椅子の精霊たちを見ていた。


 長椅子は、人の距離を知っている。


 隣に座るべき人、少し離した方がいい人、同じ卓に着くと喧嘩になる人。人間は気づかないふりをしても、椅子は毎日体重とため息を受け止めている。


 この食堂の長椅子たちは、かなり疲れていた。


 兵士たちが荒れていた頃、食事中の喧嘩は頻繁に起きていたらしい。椅子は蹴られ、卓は叩かれ、食器は投げられた。人が集まる場所であるはずの食堂が、緊張の場になってしまったのだ。


「席替えをします」


 わたしが言うと、ロイド副長がパンをかじる手を止めた。


「席替え?」


「はい。今の配置は、仲の悪い班が向かい合っています。あと、新兵が入口近くに集まりすぎています。寒い席は体調を崩しやすいので、順番制にします」


「そんなことまで見るのか」


「食堂は心臓ですから」


 わたしは長椅子の精霊に声をかけ、どの席で喧嘩が多いかを聞いた。


 長椅子たちは最初、驚いていた。


 人が自分たちの痛みを聞くとは思っていなかったのだろう。


 やがて、きし、きし、と小さな音で教えてくれた。


 この席は酒癖の悪い兵が足をぶつける。


 この卓はいつも汁をこぼされる。


 窓際は寒いのに、若い兵ばかり座らされる。


 奥の席は隊長格が占領し、新兵が近づけない。


「なるほど」


 わたしは配置図に印をつける。


 グレン様が横から覗き込んだ。


「軍の班編成にも似ているな」


「家も部隊も、人を置く場所で変わります」


「では、私はどこに座るべきだ」


「今日は入口近くです」


 ロイド副長がむせた。


「閣下を入口近くに?」


「はい。寒い席です。上の方が一度座ると、文句を言いやすくなります」


 グレン様は一切迷わず頷いた。


「分かった」


「旦那様」


 随行していた家令バルトが少し困った顔をする。


「入口近くは本当に冷えます」


「だから座るのだろう」


 その日の昼食、グレン様は入口近くの長椅子に座った。


 兵士たちは落ち着かない様子だったが、彼が普通にスープを飲み、パンを食べ、隣の新兵へ「寒くないか」と聞いたことで、空気が変わった。


 新兵は緊張しながら答えた。


「寒いです」


「そうか。改善しよう」


 たったそれだけで、新兵の目が丸くなった。


 これまで寒いと言うことすらできなかったのだ。


 わたしは火守りと一緒に入口の隙間風を確認した。扉の下の石が欠け、冷たい風が床を這っている。扉の精霊は、自分のせいだと思い込んで震えていた。


「あなたのせいではありません。石が欠けています」


 扉の子は、泣きそうな顔でわたしを見た。


「でも、閉めるときに少し力を貸してください。直すまで、風を減らしましょう」


 扉が静かに頷く。


 グレン様はそれを見て、ロイド副長に命じた。


「石工を呼べ。応急で詰め物をする。恒久修理は春を待つ」


「はっ」


「あと、食堂の入口席は日替わりにする。私も週に一度座る」


 兵士たちがざわついた。


 ロイド副長は少しだけ笑った。


「では俺も座ります」


「副長の足音が怖いそうなので、座る前に歩き方も直してください」


 エルンがぼそりと言い、今度こそ食堂が笑いに包まれた。


 笑い声に、長椅子の精霊たちが驚く。


 長く忘れていた音だったのだろう。


 その夜、食堂の暖炉は昨日よりよく燃えた。


 兵士たちは席替えに文句を言いながらも、以前より長く食堂に残った。誰かが故郷の話をし、誰かがスープの具を分け、誰かがパンをもう一つ欲しがった。


 パン窯の精霊は嬉しそうにパンを出そうとして、わたしに止められた。


「今日はここまで。無理をすると、明日焼けません」


 パン窯は不満そうだったが、砦の竈が小さく煙を出した。


 任せろ、と言っているようだった。


 パン窯は驚いて、竈を見た。


 そして、ほんの少しだけ頭を下げた。


 よい兆候だ。


 王宮から来た精霊が、砦の精霊に敬意を払う。人間の職場でも、家の中でも、それは大事なことだった。


 夕食後、わたしは食堂の帳簿を確認した。


 食材費、薪代、修繕費、寝具費。数字は正直だ。感情を書けば文書の信頼性が落ちるが、数字を見れば暮らしの苦しさが分かる。


「食材費の増加は、単に量が増えたからではありません」


 わたしはグレン様へ帳簿を見せた。


「乾燥豆と塩漬け肉の品質が落ちています。安いものを高く買わされている可能性があります」


「横流しか」


「まだ断定はできません。でも、食堂が荒れると、誰も味や質を丁寧に見なくなります。そこを利用されたかもしれません」


 グレン様の目が冷えた。


「兵の食事を食い物にしたなら、許さん」


「調査しましょう。まずは現物と納品書の照合です」


「あなたは、王宮でも砦でも帳簿を見るのだな」


「家は、お金と情報でも壊れますから」


 前世の管理会社でもそうだった。


 修理費を削れば、建物はすぐには壊れない。けれど、削られた分だけ少しずつ傷む。誰かが帳簿の数字だけを見て、現場を見なければ、最後に困るのは住む人だ。


 グレン様は静かに頷いた。


「明日、物資倉庫を見よう」


「はい」


 そのとき、食堂の長椅子が小さくきしんだ。


 わたしはそちらを見る。


 長椅子の精霊が、入口の方を指している。


 廊下の向こうに、一人の少年が立っていた。


 兵士ではない。


 十歳くらいの、痩せた子ども。


 ぼろぼろの外套を着て、こちらを見ている。


「誰ですか」


 わたしが声をかけると、少年はびくりと肩を震わせた。


 ロイド副長が顔をしかめる。


「また倉庫の子か」


「倉庫の子?」


「三日前から、物資倉庫に隠れている孤児です。村を魔獣に襲われたらしい。保護はしたが、食堂へ来ない」


 少年の目は、パンを見ていた。


 食堂に来ないのではない。


 来られないのだ。


 わたしはパンを一つ取り、少年の前にしゃがんだ。


「食べられる分だけ食べてください」


 少年は疑うようにわたしを見た。


「……食べていいんだよね?」


「はい」


 彼はおそるおそるパンを受け取り、一口かじった。


 その瞬間、目を見開く。


 黒パンの歯が折れそうなくらい硬くて、焦げて苦くて、たまにカビ臭いのとは大違いだったのだろう。


 少年はパンを両手で抱え、静かに震えた。


 食堂の暖炉が、ふわりと火を強める。


 家は、帰る場所を持たない子どもに弱い。


 わたしも、たぶん同じだった。



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