第十三話 物資倉庫の子どもと、塩辛すぎる肉
少年の名はルカといった。
黒森近くの小さな村で暮らしていたが、半月前に魔獣の群れが来た。村人の多くは砦へ避難したものの、ルカの家族は戻らなかった。彼は避難民の列から離れ、気づけば砦の物資倉庫に潜り込んでいたという。
言葉は少なかった。
食堂の端に座っても、背中を壁につけ、いつでも逃げられるようにしている。パンを食べるときも、周囲を確認してから小さくかじる。
空腹への恐怖ではない。
奪われることへの恐怖だ。
「食堂へ来ても大丈夫です」
わたしが言うと、ルカはパンから顔を上げた。
「でも、兵士の人たちの分が減る」
「あなたの分を用意します」
「ただで?」
「避難民の保護費があります」
ルカは首をかしげた。
そういう制度を知らないのだろう。
わたしはグレン様を見る。
「ありますよね」
「ある」
グレン様はロイド副長へ目を向けた。
「避難民名簿に載せろ。子どもの保護費を出す」
「はっ」
ルカはまだ信用していない。
けれど、パン窯の精霊が彼の前に小さな丸パンをもう一つ出すと、目の警戒が少しだけ緩んだ。
「また、たべようね」
ルカは誰に言うでもなく呟いた。
パン窯の精霊は、その言葉に大きく揺れた。
王宮では、パンは当然のように食べられていた。
けれど、この子にとっては、また食べられる約束そのものが救いなのだ。
翌日、わたしたちは物資倉庫へ向かった。
砦の北側にある石造りの倉庫は、外から見ると堅牢だった。だが扉を開けると、湿った匂いがした。
「これは」
ロイド副長が顔をしかめる。
棚には乾燥豆、粉、塩漬け肉、干し魚、油、薬草、予備の毛布が積まれている。整理はされているように見えるが、奥の箱ほど湿気を含んでいた。
倉庫の精霊は、姿を見せなかった。
代わりに、棚の陰から冷たい視線だけが伝わってくる。
「怒っていますか」
グレン様が聞く。
「怒りというより、諦めています」
わたしは乾燥豆の袋を開けた。
粒が不揃いで、割れが多い。品質が悪い。次に塩漬け肉を確認する。表面の塩が不自然に多く、中の肉は薄い。
「水で戻すと量が減りますね」
ロイド副長が舌打ちした。
「納品書では標準品だ」
「標準品の価格で粗悪品を買わされています。しかも塩を多くして重量をごまかしている」
グレン様の目が冷えた。
「業者は」
「ガルム商会」
ロイド副長が答える。
「先代の頃から付き合いのある商会です。ただ、三年前に代替わりしました」
「マルタさんが亡くなった後ですね」
わたしは倉庫の床に手を置いた。
湿っている。
壁際の通気孔が、古い箱で塞がれていた。誰かが整理の手間を省くため、空気の通り道を潰したのだ。
「倉庫が悪いのではありません。通気を塞がれ、粗悪品を押し込まれ、それでも守れと言われてきた」
棚の奥で、何かが小さく鳴った。
わたしはそちらへ近づく。
古い木箱の陰に、小さな精霊がいた。茶色い布をかぶった、痩せた子だ。胸に錠前のような模様がある。倉庫の守り精霊だろう。
「初めまして。ミリアです」
倉庫の子は、返事をしない。
「勝手に触ってすみません。中身を確認します。あなたが守っていたものを、粗末に扱った人を探すためです」
その言葉で、倉庫の子の目が少し動いた。
わたしは帳簿と現物を照合した。
粉の量が足りない。
豆の品質が違う。
塩漬け肉の等級が低い。
油の樽は、底に水が混ぜられている。
ひとつひとつは小さいが、量が増えればかなりのものだ。
「兵士が食べても満足できない理由は、これです」
わたしは帳簿に印をつけた。
「粗悪品を高値で納め、足りない分を食材費増で補っている。さらに保存状態が悪いので廃棄が増える。食堂の評判が悪くなる。厨房係が責められる。兵の士気が下がる」
「契約違反への怒りだな」
グレン様が言った。
「はい。倉庫の子も、怒っていいと思います」
倉庫の精霊が、布の下からこちらを見た。
怒っていい。
その言葉を、初めて聞いたような顔だった。
グレン様はロイド副長へ命じた。
「ガルム商会への支払いを一時停止する。過去三年の納品記録を集めろ。王都にいる法務官へも連絡する」
「はっ」
「それから、倉庫の通気孔を今すぐ開ける。箱の配置を変えろ」
兵士たちが動き出した。
ルカは倉庫の入口で見ていた。
彼は小さな声で言った。
「ここ、夜、寒かった」
倉庫の精霊が、ぴくりと反応する。
「でも、風が来ない場所を教えてくれた」
ルカは棚の奥を指した。
「そこ。寝るとき、木の箱がちょっとだけ動いて、隙間を作ってくれた」
倉庫の子が、布の中に顔を隠した。
照れている。
「守ってくれていたのですね」
わたしが言うと、倉庫の子は小さく頷いた。
諦めていても、完全に仕事を捨てていたわけではない。
家は、人が思うよりずっと辛抱強い。
その日の午後、倉庫の整理が始まった。
通気孔を開け、湿った箱を外へ出し、品質の悪い食材を分ける。使えるもの、使えないもの、すぐ使うもの、乾かせば戻るもの。前世の在庫管理を思い出しながら、わたしは分類表を作った。
ロイド副長は最初、書類仕事にうんざりした顔をしていたが、数字が見えると表情が変わった。
「これだけ抜かれていたのか」
「まだ推定です」
「十分だ。兵の飯を粗末にした連中には、きっちり払わせる」
ルカはその横で、豆を選別していた。
小さな指で割れた豆を分け、使えるものを籠へ入れる。エルンがやり方を教えると、すぐに覚えた。
「上手ですね」
わたしが言うと、ルカは少しだけ胸を張った。
「村でやってた」
「では、食堂の手伝いをお願いしてもいいですか。もちろん、仕事として」
「仕事?」
「はい。働いた分の食事と、少しのお給金を出します」
ルカの目が揺れた。
「もらっていいの」
「働くなら、もらっていいです」
彼は長い時間考え、こくりと頷いた。
「やる」
パン窯の精霊が、嬉しそうにぽんとパンを出した。
倉庫の子も、布の下からほんの少し顔を出す。
砦に、新しい役目が一つ生まれた。
その夜、グレン様はわたしに言った。
「あなたは、子どもにも精霊にも、同じように契約を作るのだな」
「ただ与えるだけだと、相手の誇りを傷つけることがあります」
「保護と仕事の境目は難しい」
「はい。だから、無理のない範囲で、本人が選べるようにします」
グレン様は食堂の奥で豆を分けるルカを見た。
「私には、そういう目が足りなかった」
「これから増やせます」
「そうだな」
彼は静かに頷いた。
食堂の長椅子が、きしりと嬉しそうに鳴った。




