番外編五 公爵夫妻の休暇と、意地を張る山小屋
「休暇を取ってください」
ミリアがそう言ったとき、グレンは戦場で不意打ちを受けたような顔をした。
執務室には、北境の地図と補修計画書が広がっている。外は初夏で、窓の外では若葉が揺れていた。砦の再建も、家守学校の第一期修了も、王都との制度調整も一段落したところである。
「私は休んでいる」
「いつですか」
「昨日、夕食後に」
「書類を読んでいました」
「座っていた」
「休暇ではありません」
ミリアは即答した。
グレンは黙った。
彼は自分の疲労に鈍い。兵士の疲労、馬の疲労、門の軋み、井戸の水量にはよく気づくのに、自分の肩が強張っていることには気づかない。
ある意味、王宮時代のミリアと似ている。
だからこそ、放っておけなかった。
「三日です」
「三日も?」
「三日だけです」
「北境で三日空けるのは」
「代理体制は整えています。クレメント様にも確認済みです。砦、灯りの家、王都連絡、魔獣警戒、すべて通常運用で回ります」
「準備が良すぎる」
「あなたが逃げると思いましたので」
グレンは少しだけ目を細めた。
「私は逃げない」
「休暇からは逃げます」
火守りが、ミリアの肩でぱちりと鳴った。
同意している。
結局、グレンは休暇を取った。
行き先は、北境の森の奥にある小さな山小屋だった。昔、国境警備の猟師が使っていた建物で、今は公爵家の所有になっている。数年前に補修したが、普段はほとんど使われない。
護衛は最小限。夫妻の他には、少し離れた場所に兵が二人待機するだけだ。
馬車を降りた瞬間、ミリアは山の空気を吸い込んだ。
湿った土、若葉、遠くの水音、古い木材の匂い。
山小屋は、木々の間にひっそり立っていた。丸太を組んだ壁に、石造りの小さな煙突。扉は厚く、窓は小さい。派手さはないが、冬の風に耐えるための作りだ。
ただし、機嫌は悪かった。
ミリアは扉の前で足を止めた。
「怒っていますね」
グレンが鍵を持ったまま振り返る。
「小屋が?」
「はい」
「なぜ」
「使われていないからです」
扉の精霊は、木目の奥で腕を組んでいた。小さな眉間に皺を寄せ、こちらを睨んでいる。
『いまさら』
そんな声が聞こえた気がした。
グレンは扉へ向き直った。
「久しぶりになった。すまない」
扉は動かない。
「今日は休むために来た。三日、世話になる」
まだ動かない。
ミリアは少し考え、荷物から布と油を取り出した。
「まず蝶番を見ましょう」
「開ける前に?」
「開けるためです」
グレンは素直に頷いた。
二人で扉の蝶番を拭き、油を差し、雪解け後に残った泥を落とす。グレンは手際がいい。剣を扱う手は大きく、しかし道具を持つと意外に丁寧だった。
作業が終わる頃、扉の精霊は少しだけ腕を下ろした。
「開けてもいいでしょうか」
ミリアが尋ねると、扉はしぶしぶといった様子で軋みを鳴らした。
鍵を回す。
扉は、ゆっくり開いた。
中は薄暗かった。
暖炉、木の寝台、丸い卓、二脚の椅子、棚、簡単な台所。埃は積もっているが、荒れてはいない。雨漏りもなさそうだ。
ただ、空気が硬い。
人を迎えることを忘れかけた家の空気だ。
「まず換気を」
「休暇ではなかったのか」
「休むための準備です」
二人は窓を開け、床を掃き、寝具を干し、暖炉の灰を掻き出した。小屋の精霊たちは最初こそ警戒していたが、ミリアが一つずつ名前を仮に呼び、グレンが短く礼を言ううち、少しずつ顔を出し始めた。
暖炉の子は、頑固な老人のようだった。
『どうせ、すぐ帰る』
「三日います」
『みっか』
「はい。三日だけですが、その間はきちんと使います」
『ふん』
火を入れると、暖炉は最初わざと煙を逆流させた。
グレンが咳き込み、ミリアが目を細める。
「煙突掃除が必要ですね」
『ちがう』
「違うのですか」
『さびしい』
ミリアは手を止めた。
暖炉の精霊は、煤の奥で小さく丸まっていた。
『ひを、わすれる』
使われない暖炉は、火を忘れる。
その言葉が胸に落ちた。
火は燃やせばいいだけではない。誰かが前に座り、手を温め、鍋をかけ、夜の話をすることで、暖炉は暖炉でいられる。
「忘れさせて、ごめんなさい」
ミリアが言うと、グレンも頭を下げた。
「今夜は、ここで食事をする。火を貸してほしい」
暖炉の精霊は、しばらく黙っていた。
やがて、ぱち、と小さな火がついた。
夕食は簡単なものだった。
干し肉と豆のスープ、黒パン、山で採れた香草。ミリアが鍋を見て、グレンが薪を足す。火守りが暖炉の子と何か相談し、炎の高さを整える。
食事ができる頃には、小屋の中はすっかり温まっていた。
丸い卓に向かい合って座る。
王宮でも砦でもない。職員も兵も見習いもいない。二人だけの食卓は、少し不思議だった。
「静かですね」
「ああ」
「落ち着きませんか」
「少し」
グレンは正直に答えた。
「戦場の静けさとは違う」
「どんな違いですか」
「戦場の静けさは、次の音を待つ静けさだ。ここは、音がなくてもいい静けさだ」
ミリアはスープをすくった。
「わたしは、この静けさが好きです」
「なら、来てよかった」
その言葉は短かったが、ミリアの胸を温めた。
結婚してから、二人は夫婦として過ごしてきた。だが、同時に公爵と公爵夫人であり、北境の責任者であり、家守制度の担い手でもあった。話題はいつも、砦、学校、王都、予算、魔獣、精霊の手入れだった。
大切なことだ。
けれど、それだけでは夫婦の時間は薄くなる。
「グレン様」
「様はいらないと言った」
「では、グレン」
呼ぶと、彼は少しだけ表情を緩めた。
それが見たくて、ミリアはたまにわざと呼ぶ。
「休暇中のお願いがあります」
「何だ」
「仕事の話を、一日一回までにしましょう」
グレンは真剣に考え込んだ。
「一回とは、話題一つか、会話一続きか」
「そこから仕事の話にしないでください」
「すまない」
二人で笑った。
夜、寝台に入る前、ミリアは寝具を確認した。古いが清潔で、干したおかげで湿気は抜けている。寝台の精霊は、長く使われていなかったせいで少し緊張していた。
『ふたり』
「はい。二人で使います」
『おもい』
「重いかもしれません」
ミリアが真面目に答えると、グレンが咳き込んだ。
「ミリア」
「何ですか」
「そこで真面目に返すのか」
「寝台の負荷確認は大事です」
「そうだが」
寝台の精霊が、少し面白そうに揺れた。
結局、寝台は二人を受け入れた。
灯りを落とすと、山小屋の夜が近づいてくる。外では梟が鳴き、遠くで水が流れている。暖炉の火は小さく、けれど確かに残っている。
グレンの手が、ミリアの手を探して触れた。
「眠れそうか」
「はい」
「寒くないか」
「大丈夫です」
「何かあれば」
「グレン」
ミリアは手を握り返した。
「休暇です」
「……そうだった」
彼の声が少し低くなる。
「君と休むのは、難しいな」
「なぜですか」
「君が隣にいると、守りたいものが増えすぎて、休むのを忘れる」
ミリアは瞬きをした。
暗がりで顔が熱くなる。
「それは、口説いていますか」
「事実を言った」
「事実の方が困ることもあります」
「そうか」
グレンは少し考えた。
「では、口説いている」
ミリアは毛布を引き上げた。
寝台の精霊が、明らかに面白がっている。
「寝ます」
「ああ」
けれど、手は離さなかった。
三日の休暇の間、二人は小屋を直しすぎないように直した。
壊れた棚板を替え、窓枠の隙間を埋め、暖炉の煤を落とし、井戸までの小道を整えた。仕事のようでいて、仕事ではなかった。急がない。報告書もない。誰かに見せる成果もない。
小屋は三日目の朝、ようやく機嫌を直した。
扉は行きより軽く開き、暖炉は素直に火をつけ、卓は朝食のパンを受け止めた。
帰り際、ミリアは小屋に言った。
「また来ます」
扉の精霊が、疑わしそうに目を細める。
「本当です」
グレンが言った。
「次は、冬になる前に来る」
『ぜったい』
「約束する」
扉は、少しだけ嬉しそうに軋んだ。
馬車に乗ると、グレンは小さく息を吐いた。
「休むのは、訓練が必要だな」
「はい」
「また付き合ってくれるか」
「もちろん」
ミリアは笑った。
「わたしたちの家も、休ませないといけませんから」
グレンは彼女の手を取った。
「では、次の休暇も契約しよう」
「契約書を作りますか」
「いや」
彼は珍しく、少しだけ笑った。
「これは、口約束がいい」
ミリアはその言葉を、記録帳には書かなかった。
完璧な文書にしない方がいい約束も、たまにはあるのだと知ったからだ。




