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番外編四 クレメント局長代理の、完璧ではない一日




 クレメントは、完璧な書類を好む。


 理由は単純だ。完璧な書類は、人を守るからである。


 曖昧な口約束は、弱い者から順に踏み倒される。感謝の言葉は美しいが、支払い欄が空白なら、職人の家の夕食は減る。善意で始めた仕事は、契約書がないまま続けると、いつの間にか義務にされる。


 クレメントは、それを王宮管理局で嫌というほど見てきた。


 だから彼は書く。


 日時、場所、担当者、対象物、状態、対応、費用、責任範囲、再点検日。


 一つずつ、確実に。


 感情を書けば、文書の信頼性が落ちる。


 それは彼の口癖として、灯りの家の見習いたちにまで広まっていた。


 しかし、完璧な書類を好むクレメントにも、完璧にできないものがある。


 それは、休暇届だった。


「局長代理」


 王宮管理局の若い職員が、執務室の扉から顔を出した。


「何ですか」


「本日は、半休の予定では」


「ええ。承知しています」


 クレメントは書類に目を落としたまま答えた。


「では、なぜ新規案件の決裁をされているのですか」


「緊急性があるためです」


「井戸用滑車の交換は、昨日の時点で手配済みです」


「現場確認の報告書が不十分です」


「それを確認するのは、明日のクレメント様でよろしいのでは」


 若い職員は、以前ならこんなことを言わなかった。


 王宮管理局が変わった証拠だ。


 昔の局では、上席者が机にかじりつくのは美徳だった。誰かが倒れるまで働いても、「責任感がある」と言われた。倒れた後の仕事は別の誰かに押しつけられ、その人もまた倒れる。


 今は違う。


 家守法の施行により、道具だけでなく担当者の休息も記録対象になった。


 人が疲れれば、記録は荒れる。記録が荒れれば、修理は遅れる。修理が遅れれば、建物が壊れる。


 つまり、休むことは業務である。


 それを最も強く主張したのは、他ならぬクレメントだった。


「……分かりました」


 彼はペンを置いた。


 若い職員がほっとした顔をする。


「では、お気をつけて」


「まだ退勤時刻まで七分あります」


「局長代理」


「はい」


 クレメントは立ち上がった。


 外套を羽織り、鞄を持つ。机の上には、未処理の書類が三束ある。気になる。非常に気になる。だが、今日の午後は休暇だ。


 休暇の理由は、私用。


 具体的には、眼鏡の新調である。


 王都の職人街にあるマダム・ローザの店は、杖と眼鏡と小物を扱う奇妙な店だった。家守制度が広まってから、道具精霊に優しい品を作る職人として評判になっている。


 クレメントの眼鏡は、五年前から同じものだ。


 レンズには細かな傷があり、右のつるが少し緩い。本人はまだ使えると思っているが、周囲からは再三、替えるよう言われていた。


 特にミリアからは、こう言われた。


「眼鏡の精霊が、そろそろ限界だそうです」


 そう言われてしまえば、替えないわけにはいかない。


 店に入ると、カウベルがカランコロンと軽い音を立てた。


「いらっしゃい。あら、王宮管理局の怖い眼鏡さんじゃないの」


 マダム・ローザは、紫色の髪を高く結い上げた老婦人だった。年齢は分からない。声は若く、目は鋭く、店の奥には壁一面に杖と眼鏡が並んでいる。


「怖いという分類は不正確です」


「そういうところよ」


 マダムは笑い、クレメントの眼鏡を指差した。


「まあ、ひどい。よくここまで働かせたわね」


「定期的に清掃はしています」


「休ませたことは?」


 クレメントは沈黙した。


 マダムは勝ち誇った顔をした。


「ほらね。人に休め休めと言う人ほど、自分の道具を休ませない」


「反論できません」


「素直でよろしい」


 検眼は思ったより長かった。


 クレメントは小さな文字を読み、遠くの線を見、色の違いを答えた。マダムはそのたびに何かを書き込む。彼女の記録は、クレメントから見ても正確だった。


「右目、かなり疲れているわね」


「書類を読むためです」


「それは理由ではなく原因の一部。暗い部屋で読んでいるでしょう」


「管理局の灯りは基準を満たしています」


「基準は最低限。あなたの目は最低限で働くためにあるんじゃないの」


 クレメントはまた黙った。


 論理的に正しい。


 それが腹立たしい。


「新しい眼鏡は、少し軽い素材にしましょう。つるには魔力緩衝の細工を入れる。あなた、無意識に眉間へ力を集めているから、眼鏡が疲れるのよ」


「眼鏡が疲れる」


「そう。持ち主に似てね」


 マダムは仮枠を差し出した。


「かけてみて」


 新しいレンズ越しの世界は、少し明るかった。


 棚の文字が読める。窓辺の埃まで見える。マダムの口元に、面白がるような笑みがあるのも見える。


「どう?」


「良好です」


「感想が硬いわね」


「非常に良好です」


「そうじゃない」


 マダムは呆れたように肩をすくめた。


 そのとき、店の奥から小さな音がした。


 こつ、こつ、こつ。


 何かが棚の上で跳ねている。


 クレメントが見ると、古いインク壺が一つ、棚の端で震えていた。黒い陶器製で、蓋に細かなひびがある。


「それは?」


「ああ、古い王宮払い下げ品。誰も買わないのよ。気難しくてね」


 マダムが近づくと、インク壺はますます震えた。


 クレメントは眉をひそめた。


「王宮払い下げ品?」


「ええ。昔、管理局で使われていたそうよ」


 その瞬間、クレメントは立ち上がっていた。


 インク壺の形に見覚えがある。


 王宮管理局の旧書記室で使われていた標準品だ。彼が新人だった頃、上司に何度もインクを補充させられた。古い壺は重く、蓋が固く、書類の締切前になると誰もが乱暴に扱った。


 ある日、旧書記室の備品整理で廃棄されたはずだった。


「触っても?」


「噛まれるかも」


「インク壺が噛むのですか」


「気持ちの問題よ」


 クレメントはインク壺の前に立った。


 小さな精霊の姿は見えない。彼はミリアではない。だが、壺が緊張していることは分かった。蓋の隙間から、乾いたインクの匂いがする。


「……久しぶりです」


 自分でも驚くほど、声が柔らかくなった。


 インク壺の震えが止まる。


「あなたを乱暴に扱っていました。補充が遅いと叩いた者もいた。蓋を開けたまま放置した者もいた。私も、急いでいる時に縁を汚したままにしました」


 マダムは黙って見ている。


「申し訳ありません」


 インク壺は動かなかった。


 クレメントは鞄から布を出した。いつも眼鏡を拭くための柔らかい布だ。少し迷い、それで壺の表面を拭いた。


 乾いたインクの跡は簡単には落ちない。


 だが、少しずつ黒い陶器の艶が戻っていく。


「持ち帰っても?」


 クレメントが尋ねると、マダムはにやりと笑った。


「売り物だからね」


「価格は」


「眼鏡代に上乗せ」


「領収書をお願いします」


「もちろん」


 その日の夕方、クレメントは新しい眼鏡と古いインク壺を持って管理局へ戻った。


 休暇中に管理局へ戻るのは規定違反ではないか、と一瞬考えたが、退勤後なので問題ない。少なくとも彼の解釈では。


 執務室の机にインク壺を置く。


 古い壺は、少し居心地悪そうにしていた。


「ここは、以前とは違います」


 クレメントは言った。


「蓋を開けっぱなしにはしません。乾いたら補充します。倒れない場所に置きます。無理に使わず、あなたの状態を確認します」


 そして、少し考えて付け加えた。


「それから、私も休みます」


 インク壺の蓋が、かすかに鳴った。


 翌日、若い職員が執務室に入ると、クレメントは新しい眼鏡をかけ、古いインク壺を使って書類を書いていた。


「局長代理、新しい眼鏡、お似合いです」


「業務に関係ありません」


「でも、お似合いです」


「……ありがとうございます」


 若い職員は驚いた顔をした。


 クレメントも少し驚いた。


 礼を受け取るのは、まだ慣れない。


 その日から、管理局ではインク壺にも休憩時間が設けられた。


 書類仕事の合間、職員たちは蓋を閉め、ペン先を洗い、机の上を拭く。最初は面倒がる者もいたが、インクの伸びが良くなり、書き損じが減ったため、すぐに習慣になった。


 クレメントはその効果を記録した。


 インク壺休止管理導入後、書き損じ率一二パーセント減。補充頻度安定。職員の机上清掃頻度増。


 最後に、書こうとして手を止める。


 職員の表情が少し柔らかい。


 これは感情か。観察事実か。


 悩んだ末、彼はこう書いた。


 副次効果として、部署内の会話量が増加。


 完璧な書類ではないかもしれない。


 だが、以前より良い書類だと、クレメントは思った。



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