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番外編三 王太子だった人の寝台卒業試験




 セドリックは、寝台に嫌われている。


 最初にそう気づいたのは、廃太子となり、王宮西棟の小さな客室へ移された三日目の夜だった。


 いや、正確には嫌われているのではない。


 信用されていない。


 寝台は毎晩、彼を寝かせてはくれる。板のように硬くなることも、布団を落とすこともない。だが、眠りが浅い。少し寝返りを打つと軋む。深く沈み込もうとすると、やんわり押し返される。


 まるで、一定以上は近づかせないと言われているようだった。


「また眠れませんでしたか」


 朝、侍従のマルクが尋ねた。


 セドリックは寝不足の目で彼を睨んだ。


「顔に出ているか」


「はい」


「遠慮がないな」


「殿下は、遠慮した報告をお嫌いになりましたので」


 殿下。


 その呼び方は、今では正確ではない。


 王位継承権を辞退し、公務から外れたセドリックは、表向きには王弟公子という半端な身分になった。だが、長年の習慣で周囲はまだ殿下と呼ぶ。セドリック自身も訂正する気力がない。


 訂正できるほど、身軽になっていないのだ。


「今日は家守講習の日です」


 マルクが言った。


「分かっている」


「欠席なさいますか」


「しない」


 セドリックは即答した。


 欠席すれば、ミリアに報告が行く。


 いや、ミリア本人は責めないだろう。彼女はもうセドリックに怒鳴る必要も、勝つ必要もない。今の彼女は北境公爵夫人であり、王国の家守制度を築いた人物であり、国中の暖炉と寝台と井戸から信頼されている。


 だからこそ、欠席したくなかった。


 負けたくない、という言葉は違う。


 逃げたと思われたくない。


 その程度の矜持は、まだ残っていた。


 講習室は王宮管理局の隣にある。


 かつて、セドリックが足を踏み入れたこともない棟だった。王族が住む中央棟とは違い、ここは実務の匂いがする。紙、インク、油、乾いた木材、古い布。廊下には修理待ちの椅子が置かれ、壁には点検表が貼られている。


 華やかさはない。


 だが、妙に落ち着く。


 講習室には、すでに十人ほどが座っていた。侍女、厨房係、兵士、若い文官、そしてセドリック。身分はばらばらだ。


 教壇に立つのは、クレメントだった。


 彼は相変わらず神経質そうに眼鏡を直している。


「本日の講習は、寝具管理基礎です」


 机の上には、枕、毛布、シーツ、木製の小さな寝台模型が並んでいた。


 セドリックは思わず顔をしかめた。


 隣の厨房係が小声で言った。


「殿下、寝台は得意ではないんですか」


「得意な人間がいるのか」


「うちの女房は得意ですよ。俺が干し方を間違えると、すぐ怒られます」


 セドリックは黙った。


 普通の会話に、どう返せばいいか分からない。


 かつての自分なら、厨房係が気安く話しかけた時点で不敬と見なしたかもしれない。だが今の講習では、身分順の席も敬称の強制もない。全員が同じ見習いだ。


「寝台の役割は、寝かせることです」


 クレメントが言った。


「当たり前に聞こえますが、この当たり前が非常に重要です。寝台は物置ではありません。怒りをぶつける場所でもありません。酔って倒れ込むためだけの台でもありません」


 セドリックの耳が痛い。


 昔の自分は、寝台を当然のように使っていた。


 夜会で疲れれば倒れ込む。腹が立てば枕を投げる。侍女が整えるのが遅いと文句を言う。寝台が硬いなどと怒るくせに、なぜ硬くなったのか考えもしない。


 考える必要がなかった。


 王太子の寝台は、王太子を眠らせて当然だと思っていたからだ。


「まず、シーツの交換です」


 クレメントが実演した。


 布を広げ、角を合わせ、皺を伸ばす。動作に無駄がない。


「皺があると、眠る人の皮膚に負担がかかります。湿った布は体温を奪ります。香料の使いすぎは、寝台の精霊にも人にも負担です」


 侍女たちは頷いている。


 セドリックは、初めて自分でシーツを持った。


 思ったより大きい。


 広げるだけで腕が絡まる。角を合わせたつもりがずれる。皺を伸ばそうとすると、別の皺ができる。


 隣の厨房係は意外に上手かった。


「慣れです、慣れ」


 彼は笑った。


「家でやってますんで」


「なぜ厨房係が寝台を整える」


「女房が熱を出した時とか、子どもが寝汗をかいた時とか、普通にやりますよ」


 普通。


 その言葉が、セドリックには難しい。


 彼にとって普通とは、誰かが整えたものを使うことだった。誰が整えたのか、どれだけ手間がかかったのか、考えないことだった。


「殿下」


 クレメントが横に来た。


「角を引っ張りすぎです。布が緊張しています」


「布が緊張?」


「はい。寝る人も緊張します」


「馬鹿な」


 言いかけて、セドリックは口を閉じた。


 馬鹿な、と言ってきた結果が今だ。


 彼は手を緩めた。


 布の皺が、少し柔らかくなった気がした。


「……こうか」


「はい。力を抜くことも管理です」


 講習の最後に、クレメントは一枚の紙を配った。


「寝台点検記録です。各自、自室の寝台について一週間記録をつけてください。寝つき、軋み、湿気、使用者の扱い、感謝の有無」


「感謝の有無」


 セドリックは思わず読み上げた。


「はい。言葉に出してください」


 講習室の何人かが笑った。


 だが、セドリックは笑えなかった。


 その夜、彼は自室の寝台の前に立った。


 白いシーツ。簡素な木枠。過度な装飾はないが、手入れはされている。


 セドリックは記録用紙を机に置いた。


 寝つき、悪い。


 軋み、寝返り時にあり。


 湿気、なし。


 使用者の扱い。


 ここで手が止まる。


 扱い。


 自分は、この寝台をどう扱っているのか。


 夜、苛立ったまま倒れ込む。眠れないことを寝台のせいにする。朝、感謝もなく起きる。皺があっても直さない。枕の位置が気に入らなければ、床へ落とす。


 ひどい使用者だ。


 セドリックは額を押さえた。


 そして、ゆっくり寝台へ向き直った。


「……世話になっている」


 声は小さかった。


 返事はない。


「今まで、雑に扱った」


 返事はない。


「すまない」


 沈黙。


 だが、部屋の空気がほんの少し変わった。


 寝台に腰かけると、いつもより軋みが少なかった。


 セドリックは驚いて動きを止めた。


 そのまま、ゆっくり横になる。


 眠れない夜が来ると思っていた。


 だが、その日は違った。


 深くはない。夢も見た。建国祭の大広間で、暖炉が暗くなる夢だ。ミリアが背を向け、扉が閉まる夢だ。


 けれど、目を覚ましたとき、朝だった。


 一度も起きずに朝になったのは、久しぶりだった。


 記録用紙に、セドリックは書いた。


 謝罪後、軋み軽減。寝つき改善。因果関係は不明。継続確認。


 感情を書けば、文書の信頼性が落ちる。


 そう習った。


 だから、悔しいとも、少し救われたとも書かなかった。


 一週間後、講習室で記録の提出があった。


 クレメントはセドリックの紙を読み、眼鏡を直した。


「良い記録です」


 セドリックは眉をひそめた。


「良いのか、これが」


「はい。自分に不利な事実を書けています」


「褒め方が不快だな」


「事実です」


 クレメントは淡々と言った。


「家守制度では、使用者側の記録も重要です。道具や精霊に問題があるのか、使う人間に問題があるのか、切り分けなければなりません」


「私は、使う人間に問題があったということか」


「はい」


 即答だった。


 セドリックは思わず笑った。


 笑うつもりはなかった。


 けれど、あまりに容赦がない。


「そうか」


 彼は紙を受け取った。


「では、直すしかないな」


 講習の終わり、クレメントが言った。


「セドリック様。来月から、西棟客室群の寝具点検補助に入っていただきます」


「私が?」


「はい。王族用客室の使用者心理を理解し、なおかつ寝台に嫌われた経験がある人材は貴重です」


 セドリックは絶句した。


 隣の厨房係が吹き出した。


「殿下、適任ですな」


「うるさい」


 だが、不思議と嫌ではなかった。


 その日から、セドリックは月に二度、西棟の寝具点検を手伝うようになった。


 最初は侍女たちが緊張した。元王太子がシーツを抱えて廊下を歩くのだから当然だ。だが、一か月もすると、皆慣れた。


「そちらの毛布は湿っています」


「香料が強すぎる。客人の好みを確認した方がいい」


「この枕は退役だ。首を支えていない」


 言葉は相変わらず偉そうだったが、内容は実務になっていた。


 ある日、若い侍女がこっそり言った。


「セドリック様、最近、客室の寝台がよく眠れると評判です」


「そうか」


「ありがとうございます」


 セドリックは返事に困った。


 礼を言われることには慣れていた。だが、それは王太子としての立場に向けられた礼だった。寝台を整えたことへの礼は、妙に落ち着かない。


「私だけの仕事ではない」


「はい。でも、ありがとうございます」


 侍女は笑って去っていった。


 その夜、セドリックは自室の寝台へ言った。


「今日は、礼を言われた」


 寝台は静かだった。


「悪くない気分だった」


 シーツの端が、少しだけ柔らかくなった。


「お前も、そういう気分だったのか」


 返事はない。


 けれど、セドリックには何となく分かった。


 誰かを眠らせる仕事は、目立たない。


 褒められることも少ない。


 それでも、朝になって人が起き上がり、今日も動けるなら、その仕事は確かに意味がある。


 かつての自分は、それを知らなかった。


 知ろうともしなかった。


「遅かったな」


 彼は呟いた。


 寝台は、今夜も彼を受け止めた。


 深く、柔らかく、けれど甘やかしすぎずに。


 セドリックは目を閉じた。


 王になれなかった男は、眠れる夜を一つずつ取り戻している。


 それは国を導くほど大きな仕事ではない。


 だが、彼にとっては初めて、自分で選んだ償いの形だった。



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