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番外編二 聖女と灰色の診療所




 王都南区の診療所は、いつも少し騒がしい。


 王宮医療院のような大理石の床はない。神殿のような高い天井もない。壁は漆喰で、ところどころ補修跡がある。待合室の椅子は寄付で集めたものだから高さも色も揃っていないし、受付机の角は何度もぶつけられて丸くなっている。


 それでも、セリナはこの診療所が好きだった。


 午前の診察が終わり、昼休みの札を扉に掛けたところで、小さな声がした。


『……つかれた』


 セリナは振り返った。


 声の主は、待合室の長椅子だった。正確には、長椅子に宿る精霊である。背もたれの割れ目から、薄茶色の小さな顔がのぞいている。


 セリナは少し慌てて膝をついた。


「ごめんなさい。午前中、患者さんが多かったものね」


『おもいひと、いっぱい』


「そうね。今日は荷運びの方が三人もいらしたから」


『こし、いたい』


 椅子が腰を痛めるという表現は、以前のセリナなら笑っていたかもしれない。


 けれど今は、笑わない。


 王宮で、強い光を当てれば何でも救えると思っていた頃の自分を、セリナはもう信じていない。癒やしの魔法は骨を繋ぎ、傷を塞ぎ、熱を下げる。けれど、長椅子の軋みを直すことはできない。待合室の寒さを消すことも、患者の不安で重くなった空気を整えることも、魔法だけでは足りない。


 足りないと認めた日から、セリナの仕事は少し楽になった。


「午後は、一番奥の椅子と交代しましょう。あなたは二時間休み。いい?」


『にじかん』


「ええ。あとで蜜蝋を塗ります」


『みつろう、すき』


 長椅子の精霊は、満足そうに引っ込んだ。


 セリナは立ち上がり、記録帳を開いた。


 待合長椅子一号、午前負荷大。午後二時間休止。背もたれ中央に軋み。蜜蝋と脚部確認。


 まだ字は硬い。


 クレメントに「感情を書きすぎです」と赤字を入れられた記録帳は、今も引き出しにある。


 最初の頃、セリナはこう書いていた。


 椅子さんがかわいそう。みんな疲れていて、わたしも悲しくなった。


 するとクレメントは眼鏡を押し上げ、静かに言った。


「感情は悪くありません。しかし、記録の目的は次の担当者が同じ状況を再現できるようにすることです。悲しい、かわいそう、苦しいだけでは、蜜蝋を塗るべきか、休ませるべきか、修理職人を呼ぶべきか分かりません」


 正しい言葉だった。


 少し痛かった。


 けれど、痛い言葉ほど身につくこともある。


 今のセリナは、悲しいと思う。かわいそうだとも思う。そのうえで、どこが傷んでいて、誰に頼み、何を用意するかを書く。


 そうしなければ、助けたつもりで同じ相手をまた苦しめるからだ。


「セリナ先生」


 受付のイルマが顔を出した。


「昼食、先に召し上がってください。午後は子どもの発熱が三件入っています」


「分かったわ。お湯は足りる?」


「湯沸かしの子が、今日は機嫌がいいです。昨日、先生が底を磨いたから」


 イルマはそう言って笑った。


 先生。


 その呼び方にも、少しずつ慣れてきた。


 昔、セリナは聖女と呼ばれていた。


 その言葉は、眩しかった。人々は聖女に奇跡を期待した。病も貧しさも争いも、白い光で照らせば消えると信じていた。セリナ自身も、そう信じようとしていた。


 信じていなければ、怖かった。


 だって、王宮へ連れてこられた十五歳の少女に、国の期待を背負う力などなかったからだ。


 聖女でいなければ、何者でもなくなる。


 その恐怖が、セリナを王太子の隣へ立たせた。ミリアを傷つける言葉を言わせた。善意の顔で、誰かの仕事を踏みつけさせた。


 今でも、ときどき思い出す。


 建国祭の大広間。暖炉の精霊が怯えた顔。ミリアの「やめてください」という声。


 強い光は、火傷になる。


 あの日の言葉は、セリナの中でずっと燃えている。


「先生?」


「あ、ごめんなさい。今行くわ」


 昼食は、黒パンと豆のスープだった。


 王宮の食事に比べれば質素だ。けれど、温かい。イルマが少しだけ乾燥肉を足してくれたらしく、塩気が体に染みる。


 食堂の隅では、湯沸かしの精霊が得意そうに湯気を出している。


「おいしいわ」


 セリナが言うと、湯沸かしの子が蓋をかたかた鳴らした。


 イルマが笑った。


「先生が褒めると、午後のお湯がよく沸くんですよ」


「そうなの?」


「ええ。だから、もっと褒めてください。診療所のために」


「まあ」


 セリナは湯沸かしへ向き直った。


「いつもありがとう。あなたのお湯で、手を温められる人がたくさんいるわ」


 湯沸かしは、ぽん、と白い湯気を上げた。


 午後、最初に来たのは若い母親と三歳くらいの男の子だった。


 男の子は熱で頬を赤くし、母親の胸に顔を押しつけている。母親の方も顔色が悪い。睡眠不足と不安が体中に出ていた。


「大丈夫ですよ。こちらへ」


 セリナは診察室へ案内した。


 子どもを寝台へ寝かせると、寝台の精霊が柔らかく布を沈める。男の子は少し驚いた顔をしたが、すぐに体の力を抜いた。


「ふかふか」


「ええ。ここの寝台は優秀なの」


 セリナは微笑み、手をかざした。


 光を出す前に、必ず確認する。


「まぶしいのは平気?」


 男の子は首を横に振った。


「じゃあ、弱くするわね」


 以前のセリナなら、最初から大きな光を出していた。強い方がよく効くと思っていた。けれど今は違う。小さな子ども、疲れた老人、古い精霊、痛みに過敏な患者には、弱い光を何度も当てる方がいい。


 癒やしとは、相手の都合に合わせることだ。


 光が男の子の額に触れる。


 熱は高いが、危険なものではない。喉の炎症。脱水少し。腹は空いているが、食べる元気がない。


「お薬を出します。今夜は水分を少しずつ。食べられそうなら、薄いスープを」


 母親の目に涙が浮かんだ。


「よかった……昨日からずっと泣いて、どうしたらいいか」


「お母様も休んでください。そちらの椅子へ」


「でも、子どもが」


「寝台の子が見ています」


 母親は困惑したが、セリナの表情を見て、椅子に座った。


 待合室から交代で来た椅子が、ゆっくり母親の背を受け止める。彼女は一瞬だけ抵抗し、それから崩れるように座った。


「……座ったら、立てなくなりそう」


「少しだけなら、立たなくていいです」


 セリナは毛布をかけた。


「ここは診療所です。病気の人だけではなく、看病する人も休む場所です」


 母親は顔を覆った。


 声を殺して泣く人の肩は、小刻みに震える。


 セリナは何も言わなかった。


 光を当てるべきときもある。薬を出すべきときもある。けれど、泣いている人の横で黙って立つことも、診療所の仕事だ。


 夕方、診察が終わった頃、玄関の扉が開いた。


 入ってきたのはミリアだった。外套には雪がついている。肩の火守りは、診療所の火守りと目が合って、すぐに小さく手を振った。


「セリナ様」


「ミリア様。様はいりませんと何度も」


「では、セリナさん」


 ミリアは笑った。


「椅子の修理職人を連れてきました。長椅子一号、腰が痛いそうですね」


 セリナは目を丸くした。


「どうして」


「記録が回ってきました。とても分かりやすかったです」


 その一言で、胸が詰まった。


「分かりやすかった、ですか」


「はい。負荷、症状、対応希望、すべて書かれていました。良い記録です」


 セリナは笑おうとして、うまくできなかった。


 王宮で聖女と呼ばれたときより、ずっと嬉しかった。


「ありがとうございます」


 小さな声で言うと、ミリアは少しだけ首を傾けた。


「泣きそうですか?」


「泣きません。診療時間中ですから」


「では、終わってから」


「はい」


 二人で笑った。


 その夜、修理職人が長椅子の背を直した。蜜蝋を塗り、脚の緩みを締め、座面の下に薄い補強を入れる。


 長椅子の精霊は、作業中ずっと緊張していたが、終わる頃にはとろけるような顔になっていた。


『かるい』


「よかった」


 セリナは椅子の背を撫でた。


『また、すわっていい』


「ええ。でも、疲れたら言って」


『いう』


 診療所の灯りが落ちる。


 最後の患者が帰り、イルマも奥へ下がったあと、セリナは待合室の長椅子に座った。


 古い椅子は、静かに彼女を受け止める。


 セリナは天井を見上げた。


「わたし、少しは変われたかしら」


 返事はない。


 けれど、湯沸かしが小さく湯気を立て、窓が夜風を防ぎ、扉が外の寒さを閉め出している。


 その沈黙が、今のセリナには何より優しかった。


 聖女でなくてもいい。


 眩しい光でなくてもいい。


 誰かの手を温めるお湯を用意し、疲れた椅子を休ませ、まぶしいと言う子には光を弱める。


 そういう小さな仕事を重ねることで、人はもう一度、自分の居場所を作れる。


 セリナは目を閉じた。


 長椅子の精霊が、ほんの少しだけ背を柔らかくしてくれた。



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