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番外編一 見習いたちの小さな試験




 灯りの家の朝は、王宮よりも早い。


 東の空が白む前、食堂の窓に宿る薄い硝子の精霊が、ぽつりと息を吐いた。夜の間に積もった霜が、花びらのような模様になって窓一面へ広がっている。


 ミナは寝台の上で目を開けた。


 寒い。


 けれど、嫌な寒さではなかった。頬は少し冷たいが、毛布の中は温かい。足先も凍えていない。部屋の隅にある小さな暖炉では、灰色の火守りが丸まって眠っている。火は小さい。けれど、夜を越すには十分な大きさだ。


 昔、孤児院の寝室では、寒さは敵だった。


 毛布を奪い合う子どもたち。濡れた靴下。乾かない髪。腹の底から震えが上がってきて、朝になると誰かが咳をしていた。


 今は違う。


 寒さは、季節だ。


 窓に霜が咲けば、硝子の子が頑張っている証拠。火が小さく残っていれば、火守りが夜の間も起きてくれていた証拠。毛布の端が肩まで戻っているのは、寝台の精霊が寝返りに合わせて直してくれた証拠だ。


「……おはようございます」


 ミナは小さく言った。


 火守りが片目を開ける。ぱち、と小さな火花が返事のように跳ねた。


 隣の寝台では、ルカがまだ眠っている。年は近いが、ルカの方が少しだけ背が高く、手も大きい。けれど眠っている顔は、見習いの中でいちばん子どもに見えた。


 ミナはそっと起き上がった。


 今日は、灯りの家の見習い試験の日だ。


 試験と言っても、学院のように机に座って答えを書くものではない。ミリア様が決めた家守見習いの試験は、いつも少し変わっている。


 去年の初回試験は「扉に嫌われずに一日を過ごす」だった。


 戸口を乱暴に蹴らない。荷物で押し開けない。寒い日に開けっぱなしにしない。出入りのたびに一言だけ礼を言う。


 それだけの試験だったのに、落ちた大人が三人いた。


 兵士のおじさんたちは、最初は笑っていた。


 だが、扉の精霊に嫌われた者は、なぜか袖を挟まれたり、荷物の角をぶつけたり、急ぎのときだけ取っ手が手から滑ったりする。大きな怪我はない。扉の子たちは意地悪ではないからだ。ただ、「あなたの扱いは雑です」と全身で伝えてくる。


 それ以来、灯りの家では扉を蹴る人がほとんどいなくなった。


 今日の試験内容は、まだ知らされていない。


 ミナは寝台の端に座り、昨日磨いた靴を履いた。靴紐を結び、髪をまとめ、支給された生成りのエプロンをつける。胸元には小さな刺繍がある。


 家守見習い、ミナ。


 針目は少し歪んでいる。自分で縫ったからだ。けれどミリア様は、それを見て褒めてくれた。


「上手いか下手かより、自分の仕事を自分の名前で受けることが大事です」


 その言葉が、ミナは好きだった。


 孤児院では、名前を書いたものほど取り上げられた。誰のものか分かると、奪う側にとっては都合がいい。だからミナは、何にでも名前を書かない子どもだった。


 灯りの家に来て、初めて自分の名前を縫った。


 それは、居場所を縫いつけるような作業だった。


「ミナ、起きてる?」


 布団の中から、ルカのくぐもった声がした。


「起きています」


「試験、何だと思う」


「分かりません。昨日、クレメント先生が大量の紙を抱えていましたから、記録かもしれません」


「うわ」


 ルカが顔をしかめて起き上がる。


 彼は計算は早い。厨房の在庫もすぐ覚える。だが、字を書くときだけ妙に肩に力が入る。以前の暮らしで、書類に名前を書くことが危険だったせいだとミリア様は言っていた。


「感情を書けば、文書の信頼性が落ちる」


 ルカはクレメント先生の声まねをした。


 ミナは思わず笑った。


「似ています」


「だろ。昨日も言われた。『怒っている』ではなく『契約条項第三項に反する扱いを確認』って書けって」


「でも、大事です。怒っているだけだと、相手に『気のせい』と言われます」


「分かってる」


 ルカは頭をかいた。


「分かってるけどさ。昔は、怒っても腹が減るだけだったから。今は、怒った理由を書けって言われる。変な感じだ」


 火守りが、ぱちぱちと二度鳴った。


 同意しているのかもしれない。


 二人が食堂へ行くと、すでに数人の見習いが集まっていた。食堂の中央には、長机が三つ並んでいる。普段ならパンとスープが置かれている場所に、今日は木箱、布袋、古い椅子、割れた皿、錆びた鍵、煤けた燭台、小さな寝具、そして白紙の記録用紙が置かれていた。


 嫌な予感がした。


 クレメント先生が、眼鏡の位置を直しながら立っている。


 隣にはミリア様。肩にはいつもの火守り。さらに今日は、グレン様も壁際にいた。腕を組んでいるが、威圧感はない。試験を見守る父兄のような雰囲気だ。


「おはようございます」


 ミリア様が微笑んだ。


「本日の試験は、壊れているものを直す試験ではありません」


 見習いたちの肩から、少し力が抜ける。


「壊れているものを、壊れていると認める試験です」


 今度は全員が固まった。


 ミリア様は、机の上の品々を指した。


「ここにあるものは、すべて何かしら不調を抱えています。ですが、今すぐ直せるものもあれば、触ってはいけないものもあります。手入れで済むもの、休ませるべきもの、持ち主に謝ってもらうべきもの、専門職へ回すべきものがあります」


 クレメント先生が紙を掲げた。


「各自、対象物を一つ選び、観察し、記録し、対応方針を出すこと。判断理由も書くように」


 ルカが小さく呻いた。


 ミナは机を見た。


 椅子は足が一本ぐらついている。皿は縁が欠けている。鍵は錆びているが、形はまだ綺麗だ。燭台は煤で黒い。寝具は小さな子ども用で、端がすり切れている。


 どれを選ぶべきか。


 迷っていると、机の端にある布袋が、かすかに動いた気がした。


 ミナは近づいた。


 布袋の中には、木のスプーンが入っていた。一本ではない。何十本もある。柄の先が削れたもの、皿の部分が浅くなったもの、焦げ跡のあるもの、噛み跡のあるもの。


 孤児院で見たことがある。


 子どもが使う古いスプーンだ。


 ミナは布袋ごと持ち上げた。


 木の匂いと、古いスープの匂いがする。


「それを選びますか」


 ミリア様が尋ねた。


「はい」


「理由は?」


「見えた気がしたので」


「何が?」


 ミナは少し考えた。


 精霊がはっきり見えるわけではない。ミリア様ほど声も聞こえない。けれど、暮らしの道具に手を近づけると、たまに温度のようなものが分かる。


「……お腹をすかせた子の手です」


 ミリア様の目が、静かに細くなった。


「では、観察してください」


 ミナは席に着いた。


 布袋から一本ずつスプーンを出す。見た目、手触り、匂い、傷の位置を記録していく。


 ルカは隣で錆びた鍵を選んでいた。彼は鍵を見るのが得意だ。路地で生きていた頃、開いている場所と閉じている場所を見分けなければならなかったからだという。


「いんく、つける?」


 ミナが小声で尋ねると、ルカは顔をしかめた。


「今つけるところだった」


「紙に穴が開きそうです」


「力が入るんだよ」


「深呼吸をしてください」


「お前、先生みたいになってきたな」


 ミナは笑った。


 記録を続けるうちに、スプーンの状態が見えてきた。


 古いが、悪いものではない。むしろ丁寧に作られている。子どもの手に合うよう柄が短く、口に運びやすいよう皿が浅い。ただ、数本だけ異様に噛み跡が深い。柄の先を握りしめたような凹みもある。


 食事が下手な子がいたのだろうか。


 それとも、食べ物を取られまいとして、強く握っていたのだろうか。


 ミナの胸が痛んだ。


 昔の自分なら、後者だとすぐ分かった。スプーンを離したら、隣の子に皿を取られる。だから握る。力いっぱい握る。木に指の跡が残るほど。


 けれど、試験の記録用紙に「かわいそう」とは書けない。


 感情を書けば、文書の信頼性が落ちる。


 ミナは息を吸い、文字を書いた。


 対象、木製子ども用スプーン三十七本。


 状態、経年劣化あり。破損は軽微。ただし複数本に強い噛み跡、握り跡あり。使用者が食事中に不安または緊張を覚えていた可能性が高い。


 必要対応、研磨と油入れ。破損の大きい四本は退役。残りは使用可。ただし、同じ環境に戻す場合、道具ではなく食事環境の改善が必要。


 書いてから、ミナは手を止めた。


 食事環境の改善。


 それは、何だろう。


 スプーンを磨くだけでは足りない。食堂の席順、配膳量、見守りの大人、食べる速度、残しても叱られない仕組み。たくさんある。


 道具は、使う人の怖さを覚える。


 ミナは最後に一行足した。


 提案、対象スプーンは灯りの家の小児食堂で再利用する。使用時は一人一本を確保し、食事中に取り上げないことを明示する。


 書き終えると、手が震えていた。


 ミリア様が横に来た。


「読んでもいいですか」


「はい」


 ミリア様は記録を読み、しばらく黙った。


「とても良い記録です」


 ミナは顔を上げた。


「良い、ですか」


「はい。物を見て、人の暮らしまで見ています。家守に必要なのは、そこです」


 胸の奥が熱くなった。


 ルカが隣で、少し悔しそうにこちらを見ていた。


「俺の鍵も見てくれ」


 そう言って差し出した記録用紙には、意外なほど丁寧な文字が並んでいた。


 対象、鉄製鍵一個。


 状態、錆あり。歯の欠けなし。長期間使われていない。鍵穴側の情報なし。鍵だけの修理判断は不可。


 必要対応、油差しと錆落とし。その後、鍵穴との照合。持ち主に確認。勝手に開けない。


 最後の一文で、ミリア様が微笑んだ。


「勝手に開けない。大事です」


「昔の俺なら開けてた」


 ルカは気まずそうに頭をかいた。


「でも、今は違う。閉まってる場所には、閉まってる理由があるかもしれないって思う」


 グレン様が壁際で頷いた。


 試験は昼まで続いた。


 椅子を選んだ見習いは、ぐらつく足だけでなく、座面の高さが使う人に合っていないことを見つけた。燭台を選んだ子は、煤を落とす前に火を怖がっている精霊を休ませた。寝具を選んだ年少の子は、縫い直すより先に「これはもう働きたくなさそう」と言い、見事に正解した。


 昼食の前、ミリア様は全員の記録を束ねた。


「今日の試験で満点はありません」


 見習いたちは顔を見合わせた。


「家守の仕事に、満点はありません。暮らしは毎日変わります。昨日正しかった手入れが、今日も正しいとは限らない。だから大切なのは、観察し、記録し、相談し、間違えたら直すことです」


 クレメント先生が続けた。


「ただし、合格者はいます」


 全員が息を詰める。


「全員です」


 食堂が一瞬静かになり、それから歓声が上がった。


 ミナは思わずルカと顔を見合わせた。


 ルカが笑った。


「やったな」


「はい」


 その日の昼食は、特別にスープと白パン、それから小さな卵焼きだった。


 ミナが席に着くと、目の前に木のスプーンが置かれていた。試験で見た、あの古いスプーンの一本だ。綺麗に磨かれ、薄く油が入っている。


 ミリア様が言った。


「使ってみますか」


「はい」


 ミナはスプーンを握った。


 手に馴染む。


 昔なら、この感触で胸が詰まったかもしれない。けれど今は違う。目の前の皿は自分のものだ。食べる分だけ食べていい。残したら、理由を聞いてもらえる。誰かに奪われることはない。


 スープをすくい、息を吹きかけて、口へ運ぶ。


 温かい。


 それだけで、泣きそうになった。


「これ、すきかも」


 気づけば、そんな言葉が口から出ていた。


 ルカが隣で笑った。


「俺も」


 ミナはスプーンを見下ろした。


 古い道具は、もう一度働ける。


 怖かった食事の記憶を、温かい食事で上書きできる。


 それを知った日、ミナは初めて、自分が本当に家守見習いになりたいのだと思った。



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