第四十五話 家を縛るものは、家に嫌われる
古砦の中は、時間が止まったようだった。
廊下の石は冷たく、壁には古い傷が残り、天井からは黒い蔦のような魔力が垂れている。契約具の影響で、家霊の記憶が歪んでいるのだろう。
足を踏み入れるたび、声が聞こえた。
守れ。
閉じろ。
逃がすな。
開けるな。
人を入れろ。
人を出すな。
矛盾した命令が、家霊を引き裂いている。
「ひどい」
思わず呟いた。
火守りが袖の中で震える。
グレン様は剣を構えたまま、周囲を警戒している。
「家霊は、どこにいる」
「中央広間です」
主棟の中央広間へ向かう途中、何度も扉が勝手に閉まった。
閉じ込めようとしているのではない。
閉じなければならない、という命令に従わされている。
「扉の子、聞いてください」
わたしは一つ一つの扉に声をかけた。
「あなたの役目は、命令に従うことだけではありません。通すべき人を通し、止めるべきものを止めることです」
扉は震えながら、少しずつ開いた。
グレン様が短く言う。
「ありがとう」
扉の子たちが驚く。
見えない相手に礼を言うことが、彼にはもう自然になっていた。
中央広間には、大きな黒い輪が置かれていた。
王宮で見た契約具よりも古く、大きい。
その輪から黒い紐が伸び、壁、床、天井、暖炉、扉、窓へ絡みついている。
広間の中央に、家霊がいた。
人の形に近いが、体は石と木と火と風が混ざっている。顔は老人にも子どもにも見え、目は深い井戸のようだった。
家霊は苦しそうにうずくまっている。
黒い紐が胸に食い込んでいた。
「家守」
声が響く。
「帰れ。助けて。閉じろ。開けろ。守れ。壊せ」
命令が混ざっている。
このままでは、家霊は自分の意思を保てない。
広間の奥から、人影が現れた。
古神殿派の残党だった。
痩せた司祭服の男が三人。
「家守が来たか」
一人が笑う。
「この古砦を縛れば、魔獣を集め、北境を脅かせる。王家は精霊契約具を禁じたが、力を捨てるとは愚かなことだ」
グレン様の剣がわずかに動く。
「投降しろ」
「辺境伯よ、家を守るなど女々しいことに現を抜かすから、国は弱くなる。家は縛って使うもの。人も精霊も、強い命令で動かすものだ」
その言葉に、古砦全体が震えた。
怒りだ。
縛られていても、家はその言葉を嫌っている。
「違います」
わたしは前へ出た。
「家は縛って使うものではありません。人が帰るため、休むため、立ち上がるために、一緒に働くものです」
「綺麗事を」
「綺麗事ではありません。あなた方は家を縛った。でも、見てください」
わたしは広間を見渡した。
扉が震えている。
床が抗っている。
暖炉が黒い紐を焦がそうとしている。
窓が外の風を入れようとしている。
「家を縛るものは、家に嫌われます」
その瞬間、グレン様が動いた。
司祭の一人が契約具へ手を伸ばすより早く、剣の柄で手首を打つ。ロイド副長たちも広間へ突入し、残党を押さえる。
しかし、契約具は暴走した。
黒い輪が震え、家霊の胸へさらに食い込む。
広間の天井が崩れ始めた。
「ミリア!」
グレン様が叫ぶ。
「家霊を解きます!」
「どうやって」
「契約解除です」
契約には解除がある。
前世の仕事でも、契約書には終了条件があった。
この世界の古い契約具にも、きっとある。
相手の意思を無視して結ばれた契約なら、無効を宣言する。
ただし、宣言するには、家霊自身の意思が必要だ。
「家霊さん!」
わたしは黒い紐に近づく。
火守りが悲鳴を上げる。
手が痛い。
契約具の冷たさが皮膚を刺す。
「あなたは、どうしたいですか!」
家霊は苦しそうに顔を上げた。
「守る」
「何を」
「人を。火を。眠りを。門を。帰る道を」
「閉じ込めたいのですか」
「違う」
家霊の声が少し強くなる。
「帰してやりたい」
その言葉で、黒い紐が一本切れた。
「では、契約解除を宣言してください」
「できない」
「できます。あなたは家です。人を閉じ込める檻ではありません」
グレン様が隣に来た。
危険なのに、離れない。
彼は家霊へ向かって言った。
「古砦よ。長く国境を守ったことに感謝する。だが、お前を縛る命令は、ノルデン辺境伯として認めない」
ロイド副長も叫ぶ。
「兵を閉じ込める砦なんざ、砦じゃない! 帰すために守るんだろうが!」
火守り、扉、床、窓、暖炉。
古砦の精霊たちが、少しずつ声を合わせる。
帰す。
守る。
休ませる。
開ける。
閉める。
自分で決める。
家霊が立ち上がった。
黒い紐が激しく震える。
「我は、檻ではない」
声が広間を満たした。
「我は、家である」
黒い輪に亀裂が入る。
「この契約を、拒む」
契約具が砕けた。
黒い波が弾け、広間の空気が一気に軽くなる。
天井の崩落が止まった。
家霊は膝をつき、深く息を吐いた。
古砦全体が、長い眠りから覚めたように震える。
外で、魔獣たちの吠え声が遠ざかっていく。
縛られた家の歪みが消え、魔獣を引き寄せる力も薄れたのだ。
わたしはその場に座り込んだ。
手が震えている。
グレン様が支えてくれた。
「無事か」
「はい。でも、少し疲れました」
「少しではない」
彼の声が厳しい。
けれど、手は優しかった。
家霊はわたしを見た。
「家守。礼を言う」
「こちらこそ、戻ってきてくださってありがとうございます」
「我は、もう国境砦としては古い」
「はい」
「だが、見張ることはできる。森の変化を、風の通りを、魔獣の気配を」
グレン様が頷いた。
「では、黒森監視所として再整備する。人を常駐させるのではなく、定期巡回と避難拠点にする。無理はさせない」
家霊は満足そうに目を閉じた。
古い家に、新しい役目が生まれた。
契約具で縛られた場所が、自分の意思で働く場所へ変わった。
それは、家守制度にとって大きな勝利だった。




