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第四話 謝罪文は煙突を直しません




 王宮へ戻る馬車の中で、わたしは王宮管理局から届いた依頼書を膝に置き、もう一度読み返した。


 文面は整っている。


 旧担当者ミリア・ハーシェル嬢の協力を求める。北棟の安全確認を依頼する。必要な物品については後日検討する。


 整っているけれど、何かが足りない。


「感情を書けば、文書の信頼性が落ちる」


 前世の上司がよく言っていた。苦情対応、事故報告、修繕見積もり。怒りをそのまま書けば、読み手は怒りだけを見る。だから事実を書く。日時、場所、現象、原因、対処、再発防止。


 わたしも、その考えには賛成だ。


 ただし、謝罪が必要な場面で謝罪を書かない文書は、信頼性以前に誠実さがない。


「難しい顔をしている」


 向かいに座るグレン様が言った。


「怒っていますので」


「そうか。あなたは怒ると静かになるのだな」


「王宮にいた頃、怒ると面倒な女だと言われました」


「怒るべきことに怒れないほうが問題だ」


 あまりにも自然に言われたので、返事が遅れた。


 グレン様は窓の外を見ている。王都の石畳は雪解けで濡れ、馬車の車輪が鈍い音を立てていた。北境の人にとっては王都の冬など春先のようなものかもしれないが、わたしにとっては十分に寒い。


 けれど、胸の中の冷えは、昨夜より少しだけましだった。


 王宮の正門に着くと、門番たちが一斉に背筋を伸ばした。


 昨日まで、彼らはわたしに会っても軽く会釈するだけだった。王太子の婚約者でありながら、王宮の裏方に出入りしていた地味な令嬢。そういう扱いだったのだと思う。


 今日は違う。


 扉が開かない、火が落ちる、湯が出ない、朝食が遅れる。生活の不調を味わった人間の目は、妙に正直だった。


「ハーシェル嬢、お戻りをお待ちしておりました」


 王宮管理局の副局長ブルーメ卿が、北棟の前で待っていた。神経質そうに眼鏡の位置を直しながら、わたしとグレン様を見比べる。


「ノルデン辺境伯閣下までお越しとは」


「依頼者は王宮、受託者はミリア嬢だ。私は彼女の現在の雇用主として、安全確認に同席する」


「雇用主」


 ブルーメ卿はその言葉で顔をしかめた。


 昨日まで、わたしには雇用主などいなかった。王太子妃教育の名の下で、曖昧に、無償で、いくらでも働かせられる存在だった。


 その曖昧さが消えたのだ。


「では、さっそく北棟へ」


「その前に、書面を訂正してください」


 わたしは依頼書を差し出した。


「謝罪文の提出、正式な作業依頼、緊急対応費、修理予算の即時承認。それらがありません」


「火急の事態です。手続きは後日」


「火急だからこそ、責任の所在を明確にしてください。今回の煙は、わたしが三か月前から警告していた煙突の損傷が原因である可能性が高いです。修理申請は三度出しました」


 ブルーメ卿の視線が泳いだ。


「申請は、確認中で」


「昨日の日付で、局長の決裁印が押されているはずです。発令日は来月一日。修理延期の決裁です」


 彼は黙った。


 わたしは懐から控えを出した。王宮で働いていた五年間、わたしは小さな修繕依頼の控えをすべて取っていた。侍女たちには細かすぎると笑われたが、前世の管理会社では控えのない仕事は存在しないのと同じだった。


「必要であれば五年分の控えを自宅から持参できます」


 ブルーメ卿は唇を結んだ。


 そのとき、北棟の窓から黒い煙がひとすじ漏れた。


 火守りが、わたしの肩で小さく悲鳴を上げた。


「ミリア」


 グレン様が声を低くした。


「先に処置を」


「はい」


 わたしも分かっている。責任を追及するのは大事だ。けれど、燃えているものがあるなら、まず消す。


「ただし、副局長。いまから行う作業は、正式な緊急対応として記録してください。口約束では入りません」


「……分かりました」


 ブルーメ卿が急いで書記を呼ぶ。


 北棟の扉に手を触れた瞬間、ひやりとした震えが指先に伝わった。


 この扉は、怯えている。


 王宮北棟は、使われなくなった礼拝室や古い客間が並ぶ場所だ。華やかな南棟に比べ、廊下の絨毯は薄く、壁紙も古い。けれど、ここには昔から王宮に仕えてきた使用人たちの休憩室や倉庫もある。表向きは静かな棟だが、生活の裏側を支えている場所でもあった。


「煙の匂いが強い」


 グレン様が剣の柄に手を置いた。


「火元は奥の礼拝室です。でも、燃えているのは室内ではありません。煙突の内側で、煤が燃えています」


「煤が燃えるのか」


「燃えます。掃除を怠れば」


 廊下を進むと、火守りたちが壁際に集まっていた。王宮からついてこなかった子たちだ。昨夜のわたしの呼びかけに迷い、ここに残った。けれど残ったからといって、粗末に扱われていいわけではない。


 彼らはみな、灰色に汚れていた。


「ごめんなさい。遅くなりました」


 わたしは膝をつき、持ってきた布で一番小さな火守りの顔を拭いた。


 火守りは泣きそうな顔で、わたしの指にしがみつく。


 グレン様は何も言わず、わたしの隣で外套を脱いだ。


「何をすればいい」


「煙突下部の空気を閉めます。火守りが怖がらないよう、声をかけてください」


「私に聞こえない相手へか」


「はい」


「分かった」


 グレン様は礼拝室の暖炉に向かって、真剣な顔で言った。


「今から助ける。怖いだろうが、ミリアの指示に従ってくれ」


 火守りたちが、目を丸くした。


 見えない相手に向かって、見えている人間と同じように話す。たったそれだけのことなのに、精霊たちはひどく驚く。


 わたしは煙突の石組みに手を当てた。


 熱い。


 けれど、まだ間に合う。


「火を小さく。空気を絞って。焦らないで。一つずつ、確実に」


 前世で火災警報が鳴った夜、わたしは何度もこの言葉を自分に言い聞かせた。慌てない。諦めない。順番を間違えない。


 小さな火守りたちが、煤の奥へ手を伸ばす。


 グレン様が重い鉄板を動かし、兵士たちが濡れ布を運んでくる。副局長は廊下で記録を取りながら青い顔をしていた。


 やがて、煙の勢いが弱まった。


 礼拝室の天井にこもっていた黒い気配が、ゆっくりと薄くなる。


 火守りが一匹、わたしの手のひらに落ちてきた。煤まみれで、疲れきっている。


「よく頑張りました」


 わたしがそう言うと、火守りは小さく頷いて、そのまま眠った。


 周囲から安堵の息が漏れる。


 けれど、わたしは暖炉の奥を見たまま動けなかった。


 煤の中に、妙なものが混じっている。


 焦げた布。


 金糸の刺繍。


 そして、聖女用礼服の白い絹の切れ端。


「これは」


 グレン様が低く言った。


 わたしは布片を煤から取り出した。


 火事の原因は、単なる修理遅れではない。


 誰かが、礼拝室の暖炉に燃やしてはいけないものを押し込んだ。


 しかもそれは、王宮の予算を食い潰していると噂されていた聖女用礼服の一部だった。



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