表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

第三話 家は、粗末にされたことを覚えています

王宮からの使者は、ひどく寒そうな顔をしていた。


 実際、寒かったのだと思う。外は雪で、王宮の暖炉は昨夜から最低限しか働いていない。使者の外套には霜がつき、手袋の指先は白くなっていた。


「ミリア・ハーシェル嬢」


 彼は玄関先で、できるだけ威厳を保とうとしていた。


「王太子殿下のご命令です。ただちに王宮へ戻り、厨房機能を復旧させなさい」


 わたしは返事の前に、家令へ目を向けた。


「温かいお茶を一杯お願いします。使者様の手が冷えています」


 使者は一瞬、言葉を失った。


「そのような気遣いでご命令が変わることは」


「命令とは別です。冷えたまま話すと、怒鳴り声になりやすいので」


 グレン様が横で小さく咳をした。


 笑ったのかもしれない。


 お茶が運ばれてくるまでの間、わたしは玄関の敷石に手を置いた。昨夜、グレン様に礼を言われた玄関は、少しだけ機嫌がいい。使者の靴についた雪を吸いすぎないよう、敷石の精霊に頼んでおく。


 こういうことは、誰にも見えない。


 けれど、見えないからといって不要ではない。


「ミリア嬢」


 使者はお茶を一口飲んでから、少し声を落とした。


「王宮は混乱しています。朝食のパンが半分しか焼けず、王太子殿下の寝室の扉が開かず、浴室の湯が水になりました。建国祭の翌日に、このような失態は許されません」


「そうでしょうね」


「分かっているなら」


「ですが、わたしは昨夜、王宮常駐を解かれました」


「婚約は破棄されましたが、加護の使用については」


「王宮における《家守》業務は、王太子妃教育の一環として無償で行っておりました。婚約破棄により、その根拠は消滅しています」


 使者の顔が引きつった。


 書類の話は、王宮の人々が嫌うものだ。けれど暮らしを支える仕事ほど、曖昧にすると踏み倒される。


「では、王宮は正式に雇用契約を結びます。報酬も出すとのことです」


 使者は急いで言った。


「パン窯の精霊だけでも戻していただきたい。殿下は昨夜のことを一時の行き違いだと」


 荷馬車の中で、パン窯の精霊が低く唸った。


 丸い体から、ぽふん、と煙が出る。怒っているというより、傷ついているのだ。五年間、毎朝まだ暗いうちから火を起こし、粉と酵母を抱え、王宮の食卓を支えてきた。


 その仕事を、いらないと言われた。


 精霊ごときに意思はないと、笑われた。


「ごめんなさい」


 わたしは使者へ頭を下げた。


「戻るかどうかは、この子が決めます」


「精霊の意思など、確認のしようがありません」


「あります」


 わたしはパン窯の精霊に向き直った。


「戻りたいですか?」


 パン窯は、首を横に振った。


「戻りたくないそうです」


「そのような子どもの遊びで」


「使者殿」


 それまで黙っていたグレン様が口を開いた。


 低い声だったが、玄関の空気が引き締まった。


「昨夜、王太子殿下は王宮の精霊に意思などないと公言された。その相手に戻れと命じるなら、まず謝罪が必要だ。命令ではなく、謝罪だ」


 使者は反論しようとして、できなかった。


 彼自身も、王宮の寒さを経験してきたからだろう。目に見えない相手を軽んじた結果が、今朝の混乱だった。


「……殿下に、お伝えします」


「それと、ミリア嬢は本日より私の客人だ。王宮へ連れ戻すことは認めない」


 はっきりした言葉だった。


 胸の奥が、少し温かくなる。


 守られて嬉しいというより、仕事の価値を雑に扱われなかったことが嬉しかった。


 使者が帰ったあと、グレン様はわたしに向き直った。


「すまない。勝手に客人と言った」


「助かりました」


「ならよかった。だが、客人のままでいられると困る」


 わたしは首をかしげた。


 グレン様は懐から一枚の書類を取り出した。昨夜のうちに用意したのか、署名欄以外は整っている。羊皮紙には、北境ノルデン辺境伯家の印が押されていた。


「正式に依頼したい。ノルデン辺境砦の家守監督官として、三か月の試用契約を結んでほしい。報酬は月金貨十枚。住居、食事、燃料、衣服はこちらで用意する。精霊の手入れに必要な費用は別枠で認める」


「金貨十枚」


 思わず聞き返した。


 王宮で五年間、無償でやっていた仕事だ。もちろん伯爵家の娘として衣食住はあったし、王太子妃教育の一環だと言われれば断れなかった。けれど、わたし個人の仕事として金額を示されたのは初めてだった。


「少ないか」


「多いです」


「では適正額を一緒に決めよう。私はこの仕事の相場を知らない」


 その言い方が、妙に真面目だった。


 分からないから安く買うのではなく、分からないから聞く。


 それだけのことが、こんなにありがたいとは思わなかった。


「お受けします。ただし、条件があります」


「言ってくれ」


「砦の暖炉、寝台、厨房、井戸、浴室、厩舎、門、兵舎をすべて見ます。そのうえで、休ませるべき場所は休ませます。効率が落ちても、壊れる前に止めます」


「ああ」


「それから、兵士の方々にも協力していただきます。寝台を蹴らない。扉を乱暴に閉めない。食堂で食べ残しを床に捨てない。井戸に愚痴を言うのは構いませんが、毒づいたあとは礼を言うこと」


 グレン様は少しだけ目を瞬かせた。


「井戸に愚痴を言ってもいいのか」


「井戸は聞き上手です。ため込みすぎると水が重くなるので、あとで掃除します」


「分かった。兵たちに伝える」


 本気で伝えるつもりらしい。


 わたしは笑いをこらえきれなかった。


「何かおかしいか」


「いいえ。たぶん、砦の井戸が喜びます」


 契約書に署名をしたあと、わたしは屋敷の厨房を借りた。


 北境へ向かう前に、連れてきた精霊たちを休ませる必要がある。火守りには灰を払い、パン窯には粉を少し渡し、寝台の精霊には日当たりのいい部屋で毛布を広げた。


 そのついでに、屋敷の朝食も作ることになった。


 厨房の料理人たちは最初こそ戸惑っていたが、パン窯の精霊が焼いた丸パンが膨らみ始めると、全員が黙った。表面は香ばしく、中は白く柔らかい。切り込みから湯気が立ち上がり、バターを落とすとじゅわりと溶ける。


「……これは」


 家令が、焼きたてのパンを見つめた。


「王宮の朝食より美味いのでは」


「王宮のパン窯は、昨日まで無理をしていましたから。本来はこれくらい焼けます」


 パン窯の精霊は、得意げに胸を張った。


 火守りも機嫌よく火を揺らしている。厨房の空気が温まると、料理人たちの肩から力が抜けた。


 グレン様は丸パンを一つ手に取り、慎重に口へ運んだ。


 そして、しばらく黙った。


「お口に合いませんか」


「いや」


 彼はもう一口食べた。


「北境の兵に、これを食わせたいと思った」


 その一言で、パン窯の精霊が固まった。


 次の瞬間、丸い体から、ぽぽぽん、と三つもパンが出てきた。照れているらしい。


 料理人たちが歓声を上げた。


 わたしはその様子を見ながら、ようやく実感した。


 王宮を出てよかった。


 ここでは、わたしの仕事が誰かの朝につながっている。


 温かいものを温かいうちに食べて、柔らかい寝台で眠り、きちんと閉まる扉の内側で安心する。そういう当たり前は、当たり前にあるから気づかれない。


 けれど、当たり前を守る人がいなければ、暮らしは一日で崩れる。


 昼前、王宮から二通目の使者が来た。


 今度は手紙だった。


 封蝋は王太子殿下のものではなく、王宮管理局のものだ。グレン様が受け取り、差出人を確認してからわたしへ渡す。


「読むか」


「はい」


 封を開けると、中には短い文面が入っていた。


 王宮内の扉、暖炉、寝台、厨房設備の不調につき、旧担当者ミリア・ハーシェル嬢の協力を求める。


 そこまでは、予想していた。


 けれど最後の一文で、わたしは目を止めた。


 王宮北棟、未明より原因不明の煙を確認。火災の恐れあり。


 火守りが、わたしの肩で震えた。


 王宮の北棟。


 そこには古い客間と、使われなくなった礼拝室がある。ずっと前から煙突の傷みを訴えていた場所だ。修理予算を申請したが、見栄えのする聖女用礼服の新調が優先され、後回しにされた。


「ミリア」


 グレン様が静かに言った。


「行く必要があるなら、私も行く」


 わたしは手紙を握りしめた。


 王宮には戻りたくない。


 けれど、火事になれば関係のない使用人や客人が傷つく。火守りの子たちも、壊れた煙突に閉じ込められたまま苦しむことになる。


 嫌な場所と、助けたいものは、同じ建物の中にある。


「行きます」


 わたしは顔を上げた。


「ただし、今度は無償ではありません。謝罪と、正式な依頼書と、修理予算をいただきます」


 グレン様の口元が、ほんの少しだけ上がった。


「ああ。それでいい」


 外では、王宮の鐘が鳴り始めていた。


 建国祭の余韻を祝う鐘ではない。


 暮らしを粗末にした城が、自分の傷みにようやく気づいた音だった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

「続きが気になる」「おうち精霊たちを見守りたい」と思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ