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第二話 パン窯だけでも返せと言われましても

王宮を出たあと、わたしが最初にしたことは、泣くことではなかった。


 荷馬車の中で、パンを配った。


「一列に並んでください。湯気の子は火守りの近くに寄りすぎないで。鍵守りさん、馬車の扉を閉めるのは最後です。寝台の子は、そこで寝ない。あなたは寝かせる側でしょう」


 言いながら、自分で少し笑ってしまった。


 婚約破棄された令嬢のすることとしては、たぶん変だ。


 けれど荷馬車の床では、灰色の火守りがパンを抱えているし、洗濯場からついてきた石鹸の子は泡まみれの手で遠慮がちに座っている。王太子殿下の寝室にいた寝台の精霊は、毛布の端から顔だけ出して、もう眠そうだった。


 彼らは誰にも見えない。


 だから、誰からも疲れていることに気づかれなかった。


「まずは休みましょう」


 わたしはパン窯の精霊が出してくれた丸パンを、小さくちぎって火守りへ渡した。


「働く場所は、明日探します」


 そう言ったところで、馬車の外から咳払いが聞こえた。


「失礼。ハーシェル伯爵令嬢でよろしいか」


 低い声だった。


 御者がぎょっとした顔で振り向く。わたしも扉を開けた。


 雪まじりの風の中に、黒い外套の男性が立っていた。二十代半ばくらいだろうか。背が高く、髪は夜のように黒い。飾り気のない服装なのに、身につけた剣と姿勢で高位貴族だと分かる。


 ただ、目つきは少し眠そうだった。


「夜分に申し訳ない。私はグレン・ノルデン。北境を預かる辺境伯だ」


「ノルデン辺境伯様」


 慌てて礼をしようとすると、彼は片手を上げて止めた。


「今は形式を省こう。あなたは婚約を破棄されたばかりで、こちらは王宮前で女性の荷馬車を呼び止めている。どちらも礼儀を語れる状況ではない」


 思わず瞬きをした。


 普通、こういう場では慰めか、同情か、好奇心が先に来る。けれど彼の声には、そのどれも薄かった。ただ、急いで用件を伝えようとしている。


「先ほどの広間にいた」


「ご覧になっていたのですか」


「ああ。火が消えたところも、扉が閉まったところも見た」


 グレン様は、荷馬車の中をちらりと見た。


 もちろん、普通の人には精霊の姿は見えない。けれど、彼は見えない何かに向かって、少しだけ頭を下げた。


「連れていかれたのではなく、自分たちでついてきたのだな」


 火守りが、わたしの膝の上でぱちりと音を立てた。


 わたしは少しだけ警戒を解いた。


「はい。そうです」


「なら、あなたに仕事を頼みたい」


「仕事、ですか」


「北境の古い砦を、もう一度人が住める場所に戻したい。兵はいる。食料も、寝具も、燃料も運び込んだ。だが、どうにも砦が冷たい」


 彼は言葉を探すように、少し間を置いた。


「火を入れても暖まらない。食堂に人を集めても、兵たちが長居しない。夜になると全員が浅くしか眠れず、朝には苛立って喧嘩が増える。医師は疲労だと言うが、私は建物そのものが疲れているように感じている」


 胸の奥が、静かに動いた。


 建物そのものが疲れている。


 この人は、見えなくても気づいている。


「いつからですか」


「三年前、前任の管理官が病で倒れてからだ。以後、何人かを入れたが続かなかった。砦は国境の要だ。魔獣の群れが南へ流れれば、村が危ない」


 王宮では、誰もそんなふうに言わなかった。


 暖炉が疲れている。扉が嫌がっている。井戸が拗ねている。そう伝えると、たいてい笑われるか、面倒な顔をされた。


 けれどグレン様は、わたしの仕事を笑わない。


「報酬は出す。住居も用意する。あなたの精霊たちにも、必要な手入れと休みを保証する」


「精霊たちは、見えないのでは」


「見えない。だが、働いている相手に報酬が必要なのは分かる」


 その言葉で、荷馬車の中が少しざわついた。


 火守りは顔を上げ、鍵守りは細い指を組み直す。寝台の精霊は、毛布から片目だけ出した。


 この人のところなら、働いてみてもいい。


 そう言っているようだった。


「ただ、すぐに北境へ行くのは難しいです。わたしは今夜、婚約を破棄されたばかりで、実家にも説明を」


「説明なら、私からも送る。王宮側の都合で婚約を解消された令嬢を、夜中に一人で戻す方が問題だ。ひとまず、私が王都で借りている屋敷に来るといい。客間は空いている」


「ご迷惑ではありませんか」


「迷惑なら頼まない」


 端的な返事だった。


 その言い方が少しおかしくて、わたしはまた小さく笑ってしまった。


「では、一晩だけお世話になります」


「ああ」


 グレン様は御者に行き先を告げた。


 そのとき、荷馬車の後ろから小さな音がした。ころん、と何かが転がるような音だ。


 見ると、王宮の厨房にいたパン窯の精霊が、いつの間にか馬車の端から外をのぞいていた。丸い腹を揺らしながら、王宮の方へ向かって不満そうに鼻を鳴らしている。


「どうしました?」


 わたしが尋ねると、パン窯はぽん、と小さな煙を吐いた。


 遠くの王宮で、鐘が鳴る。


 一度、二度、三度。


 夜会が終わるには早すぎる時刻だ。


 グレン様が王宮を振り返った。


「何かあったらしいな」


「たぶん、厨房です」


 わたしには、何となく分かった。


 王宮の厨房は、毎朝三百人分のパンを焼く。建国祭の翌朝は、王族、貴族、滞在中の使節団、楽師、衛兵、使用人まで含めて、いつもの倍の食事が必要になる。


 その中心にいたパン窯の精霊が、今ここにいる。


「まさか、朝食が出ないのか」


「パンだけなら別の窯でも焼けます」


「なら問題ないのでは」


「火加減を知っている子がいません。あと、あの子は酵母棚の鍵も兼任していました」


 グレン様は沈黙した。


 それから、ひどく真面目な顔で言った。


「王宮は、明日の朝、荒れるな」


「荒れますね」


 婚約破棄された直後に言うことではないかもしれないけれど、わたしは少しだけ気が楽になった。


 わたしの仕事は、本当にあった。


 誰にも見えなくても、失われれば困るものだった。


 ノルデン辺境伯の屋敷は、王都の北門近くにあった。大貴族の別邸というより、丈夫な軍の宿舎に近い。石壁は厚く、装飾は少ないが、掃除は行き届いている。


 ただ、玄関をくぐった瞬間、わたしは足を止めた。


 屋敷の空気が、妙に固い。


 悪い家ではない。けれど、住む人に甘えることを知らない家だ。廊下の角にいるランプの精霊は、背筋を伸ばして立っているし、階段の手すりの子は、触られてもいいのか分からない顔をしている。


「この屋敷、休んだことがありませんね」


 グレン様がわずかに眉を上げた。


「休む?」


「はい。掃除も修理もされていますが、誰も褒めていない。仕事だけ与えられて、ありがとうを言われていない家です」


 隣にいた家令らしき老人が、少し困った顔をした。


「屋敷に礼を言う習慣はございませんので」


「今日から言ってください。まず玄関に。雨の日も雪の日も、人を迎えているので」


 家令はグレン様を見た。


 グレン様は真顔で頷いた。


「言おう」


「旦那様まで」


「必要ならやる」


 彼は玄関の敷石に向き直った。


「いつも世話になっている」


 短い言葉だった。


 けれどその瞬間、玄関の空気がほんの少し柔らかくなった。ランプの精霊が目を丸くし、手すりの子が照れたように身をよじる。


 わたしは胸の中で、そっと息をついた。


 ここなら、大丈夫かもしれない。


 そう思ったとき、外から慌ただしい足音が聞こえた。


 門番が駆け込んでくる。


「閣下、王宮から使者です!」


 グレン様は外套を脱ぎかけた手を止めた。


「早いな」


「ミリア・ハーシェル嬢をただちに戻すようにとのことです。それと」


 門番は、妙な顔をしてわたしを見た。


「パン窯だけでも返してほしい、と」


 荷馬車の中で、パン窯の精霊が勢いよく首を横に振った。

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