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第一話 王宮の朝食係、退職します

「ミリア・ハーシェル。君との婚約を、今夜限りで破棄する」


 建国祭の大広間で、王太子セドリック殿下はよく通る声でそう言った。


 楽師の弓が止まり、銀の杯を持つ貴族たちの手も止まる。磨き上げられた床に魔導灯の光が落ちて、夜会用のドレスの裾がきらきらと揺れていた。


 王宮でいちばん華やかな夜。


 その中心で、わたしは婚約者だった人に捨てられた。


「理由は、お分かりだろう」


 殿下の隣には、白いドレスの少女が立っている。


 聖女セリナ様。


 癒やしの光を持つとして神殿から王宮へ迎えられ、この半年ほどで殿下の隣にいることが増えた方だ。彼女は困ったように眉を下げていたけれど、その指は殿下の袖をしっかり掴んでいた。


「王妃となる者には、人々を導く輝きが必要だ。君のように暖炉や鍵と話すだけの地味な加護では、国母にはなれない」


 広間の端で、小さな笑いが漏れた。


 暖炉や鍵と話すだけ。


 それは、王宮の人々がわたしの加護を笑うときの決まり文句だった。


 わたしは伯爵令嬢ミリア・ハーシェル。十五歳の加護鑑定で授かった力は《家守》という。


 人が暮らす場所には、小さな精霊が宿る。暖炉には火を守る子が、寝台には眠りを守る子が、鍵には境目を守る子がいる。わたしは彼らの声を聞き、手入れをし、必要なものを渡すことができた。


 派手な光は出ない。


 魔獣を倒すこともできない。


 ただ、部屋を暖かくし、扉をきちんと閉め、パン窯の火加減を整え、眠れない人に眠れる夜を返す。


 王宮では、それを家事魔法と呼んだ。


「ミリア様は立派な方です」


 セリナ様が、澄んだ声で言った。


「けれど、愛は家事ではありません。国を導くのは、朝食の支度ではなく、人の心を照らす光だと思うのです」


 周囲から、うっとりしたため息がこぼれる。


 愛。


 光。


 国の未来。


 大きな言葉は便利だ。そこに今日の朝食を焼いたパン窯の機嫌も、王太子殿下の寝室で三日続けて軋んでいた寝台の修理も、廊下の冷え込みで風邪を引きかけた侍女のことも入っていない。


 わたしは、ゆっくり息を吸った。


「承知しました」


 声は震えなかった。


 震えなかったことに、自分で少し驚いた。


「ずいぶん素直だな」


「婚約破棄については、王家側のご意向として受け止めます。ただ、確認がございます」


「また細かいことか。こういう場で契約だの管理だのと言い出すから、君は人の心が分からないと言われるのだ」


「人の心は分かりませんが、暖炉の我慢は分かります」


 殿下が顔をしかめた。


 言い返すつもりはなかった。けれど、足元で小さな灰の手がわたしのドレスの裾を握っている。大広間の暖炉に宿る火守りの精霊が、泣きそうな顔でこちらを見上げていた。


 建国祭のために、今日は朝から火を強くしすぎている。


 誰も気づいていないけれど、このままでは煙突の奥が割れる。


「ミリア」


 殿下の声が低くなった。


「最後まで不愉快な女だな。王宮の暖炉は王宮のものだ。君のものではない」


「はい。暖炉そのものは王宮の備品です」


「ならば黙って去れ」


「ですが、その暖炉に宿る火守りの子とは、わたし個人が雇用契約を結んでおります」


 広間が静かになった。


 それから、誰かが吹き出した。


「雇用契約?」


「暖炉と?」


「伯爵令嬢ともあろう方が、とうとうおかしくなられたのかしら」


 扇の陰から笑い声が広がる。


 五年前なら、恥ずかしくてうつむいていたと思う。


 けれど、わたしはもう知っている。誰にも見えない仕事ほど、失われたときに初めて重さが分かるのだと。


 前世のわたしは、古い集合住宅の管理会社で働いていた。


 壊れた給湯器。詰まった排水口。夜中に鳴り止まない火災警報。誰かの生活が止まるたび、電話は管理会社に来た。お礼を言われることは少なく、怒鳴られることは多かった。


 それでも、直れば人は眠れる。


 お湯が出れば、子どもは風呂に入れる。


 暖房が動けば、老人は朝まで生きていられる。


 だから、わたしはその仕事が嫌いではなかった。


 最後は三徹明けの雪の日、凍った外階段で足を滑らせた。目を覚ましたら、この世界の伯爵令嬢になっていて、やっぱり人の住まいの面倒を見ていた。


 変わらないものだと思う。


「雇用条件は、名前を呼ぶこと。手入れを怠らないこと。過剰な魔力を押しつけないこと。壊れかけたら休ませること」


 わたしは指を折りながら言った。


「これらを守れない相手のもとで働く義務はありません。婚約破棄により、わたしの王宮常駐は本日で終了します。したがって、おうち精霊たちには退職の意思確認をいたします」


「馬鹿馬鹿しい」


 殿下は吐き捨てた。


「勝手にしろ。だが、王宮のものを一つでも持ち出せば窃盗だ」


「備品は持ち出しません」


 わたしは足元に目を向けた。


「帰りたい子だけ、ついていらっしゃい」


 その瞬間、大広間のいちばん奥にある暖炉の火が、ふっと小さくなった。


 笑っていた貴族たちが口を閉じる。


 火は消えたわけではない。ただ、無理に燃えるのをやめたのだ。赤々と燃えていた炎は柔らかな熾火になり、ぱちりと小さな音を立てた。


 次に、天井の魔導灯が一列だけ暗くなる。


 壁際の長椅子が、ぎし、と鳴った。


 銀盆の上の茶器が、かちゃかちゃと震え始める。王太子殿下の背後では、玉座の脇に置かれた足台が、ゆっくりと向きを変えていた。


「な、何だ?」


「魔法か?」


「聖女様、何か光を!」


 セリナ様が慌てて両手を組む。


 白い光が彼女の指先に灯った。眩しいほど美しい光だ。けれど、光を浴びた暖炉の精霊は、ますますわたしのスカートの裾にしがみついた。


 怖いのだ。


 強すぎる光は、古い精霊には火傷になる。


「やめてください」


 わたしは思わず声を上げた。


 広間がこちらを見る。


「その子たちには、強い光より灰の掃除が必要です」


 セリナ様は傷ついた顔をした。


「わたくしは、ただ助けようと」


「はい。お気持ちは分かります」


 けれど、善意だけでは直らないものがある。


 割れた煙突に祈っても、煙は逆流する。緩んだ蝶番に光を当てても、扉は閉まらない。疲れた寝台に感謝の言葉をかけても、シーツを替えなければ人は眠れない。


「ミリア!」


 殿下が怒鳴った。


「この騒ぎを止めろ!」


「わたしは止めません。彼らは自分で決めています」


「精霊ごときに意思などあるものか!」


 その一言で、広間の空気が変わった。


 足元の火守りが、きゅっとわたしの裾を握る。


 廊下の扉が、一斉に音を立てて閉まった。乱暴ではない。ただ、きちんと閉じた。役目を果たしてから、もう開かないと決めたように。


 大広間の床が冷え始める。


 貴族たちの顔から血の気が引いていった。


「殿下」


 わたしは礼をした。


「五年間、お世話になりました。今後は、どうぞ光だけで王宮をお導きください」


「待て、ミリア。どこへ行くつもりだ」


「家守として働ける場所へ」


 そう答えて、わたしは背を向けた。


 大広間の扉は、わたしの前でだけ静かに開いた。外の廊下には、すでに小さな影がいくつも集まっている。廊下の鍵守り、厨房のパン窯、王太子殿下の寝室にいた寝台の精霊、浴室の湯気の子、洗濯場の石鹸の子。


 みんな、少し疲れた顔をしていた。


「荷物は少ないですよ」


 わたしが言うと、厨房の奥から、丸いパン窯の精霊がころころと転がってきた。実物の窯は動かない。けれど、精霊の方は胸を張っている。


 その腹の中から、焼きたての小さなパンが一つ出てきた。


 わたしは受け取った。


「ありがとう」


 パンは温かかった。


 広間の方から、殿下の声が聞こえる。


「誰か、扉を開けろ!」


「開きません!」


「暖炉の火が落ちています!」


「殿下のお部屋のベッドが、板のように硬くなったそうです!」


 わたしは振り返らなかった。


 婚約者を失った夜にしては、不思議なくらい涙は出なかった。けれど、廊下に出た瞬間、ずっと胸の奥にあった冷たいものが少しだけ溶けた気がした。


 王宮を出ていくのは、わたしだけではない。


 その夜、王宮は初めて知った。


 扉は勝手に開くものではなく、火は勝手に燃えるものではなく、朝食は勝手に出てくるものではないのだと。

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