表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
37/68

第三十七話 黒森の魔獣と、集会所の最後の鐘




 エルダ村からの撤退は、簡単ではなかった。


 魔獣は十数体。


 小型だけでなく、中型も混じっている。黒い毛皮に骨のような角を持つ獣が、雪解けの泥を蹴って迫ってくる。


 グレン様が前に出た。


「弓兵、左の群れを止めろ。ロイド、右を押さえる。ミリアは中央、私の後ろ」


「はい」


 指示は短い。


 兵士たちは迷わない。


 わたしは集会所の子から受け取った小さな木片を握っていた。村の紋章が刻まれた、古い長椅子の欠片だ。


 これを砦へ持ち帰る。


 そう約束した。


 魔獣が飛びかかる。


 グレン様の剣が閃く。


 戦うために生まれたような人だった。


 けれど、今のわたしは知っている。


 彼は戦うためだけの人ではない。


 守れなかったものを忘れられず、守るための手順を作り直す人だ。


 ロイド副長が槍で右の魔獣を押し返す。


「監督官殿、後ろ!」


 背後から一体が回り込んでいた。


 わたしは戦えない。


 だが、家守にはできることがある。


「集会所!」


 わたしは叫んだ。


「床板を!」


 廃村の道に残っていた古い板塀が、ぎしりと動いた。


 集会所の子が、村の壊れた家々へ呼びかけている。


 完全に動く力はない。


 それでも、倒れかけた柵が魔獣の足元へ崩れた。


 魔獣がつまずく。


 グレン様が振り返り、一撃で仕留めた。


「助かった」


「集会所の子に言ってください」


「必ず」


 撤退路へ向かう途中、村の古い井戸の前を通った。


 井戸は枯れかけているが、底に少しだけ水がある。


 井戸の子は、長い間誰の声も聞いていなかったらしい。わたしが通ると、かすかに手を伸ばした。


 置いていかないで。


 その気配に、足が止まりそうになる。


 だが、今は全てを救えない。


「年に一度、必ず来ます」


 わたしは井戸へ向かって言った。


「今は、約束だけで許してください」


 井戸の子は悲しそうに頷いた。


 約束は、万能ではない。


 けれど、何もないよりはずっといい。


 森の入口まで来たとき、中型魔獣が二体、退路を塞いだ。


 弓兵の矢が一体に刺さるが、止まらない。


 グレン様が一体を受け、ロイド副長がもう一体へ向かう。


 その隙に、小型魔獣がわたしへ飛びかかった。


 火守りが飛び出す。


 小さな炎が魔獣の鼻先を焦がす。


 しかし、火守りには負担が大きい。


「無理しないで!」


 わたしは叫ぶ。


 その瞬間、遠くで鐘が鳴った。


 カラン。


 軽い音。


 いや、違う。


 それは、エルダ村の集会所に残っていた古い鐘の音だった。


 三年前、避難の合図に使われた鐘。


 壊れているはずの鐘が、鳴った。


 集会所の子が、最後の力で鳴らしたのだ。


 音は魔獣の動きを一瞬止めた。


 人間の耳には小さな音。


 でも、魔獣にとっては、悲しみの質が変わった合図だったのかもしれない。


 腐った悲しみが、約束された悲しみに変わる。


 獲物の匂いが薄れる。


 魔獣たちの動きが鈍った。


 その隙を、兵士たちは逃さなかった。


 グレン様の剣が中型魔獣を倒し、ロイド副長の槍がもう一体を押し返す。弓兵が小型を仕留める。


「撤退!」


 全員が森を抜ける。


 砦へ戻る道で、誰も話さなかった。


 エルダ村の鐘の音が、耳に残っていた。


 砦の門が見えたとき、門の子が大きく開いた。


 今度は怖がっていない。


 帰る人を迎えるために開く門だった。


 食堂では、ルカが湯を持って待っていた。


「おかえり」


「ただいま」


 わたしは彼に木片を見せた。


「エルダ村の集会所から預かりました」


 ルカは真剣な顔で受け取った。


「これ、どうする?」


「砦に記録します。春になったら、追悼と避難訓練を兼ねて、エルダ村へ行きます」


「俺も?」


「訓練を受けてからです」


 ルカは頷いた。


「助け方を覚える」


「はい」


 その夜、おうち精霊組合でエルダ村の報告が行われた。


 集会所の子、井戸の子、壊れた家々。


 放置された場所が魔獣を呼ぶこと。


 年一回の訪問、火入れ、清掃、名前の読み上げ、避難訓練地としての活用。


 グレン様は正式に「エルダ記憶日」を制定すると宣言した。


「忘れないためだけではない」


 彼は言った。


「忘れた場所が、次の危険になる。だから、記憶も管理する」


 わたしはその言葉を議事録に書いた。


 記憶も管理する。


 家守の仕事は、家だけではなく、そこに残る時間も扱うのかもしれない。


 夜、自室でエルダ村の木片を磨いた。


 火守りが小さな灯りを添える。


 木片の奥に、集会所の子の気配がかすかに残っていた。


 待っている。


 でも、もうただ待っているだけではない。


 約束を持って待っている。


 それは、悲しみを腐らせないための小さな灯りだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ