第三十六話 黒森の奥で、古い家が泣いている
春が近づくにつれ、黒森の魔獣の動きが活発になった。
大寒波を越えた後、餌を求めて南へ出る魔獣が増える。例年のことではあるが、今年は少し様子が違った。
小型魔獣の群れが、砦そのものではなく、森の奥の廃村周辺に集まっているという。
廃村の名は、エルダ村。
三年前の襲撃で放棄された村だ。
マルタさんの故郷でもあった。
「廃村に魔獣が集まる理由は?」
グレン様が地図を広げる。
斥候の報告では、魔獣は村跡の中心にある古い集会所へ引き寄せられているらしい。
わたしは胸騒ぎを覚えた。
「家が、泣いているのかもしれません」
「家が泣くと、魔獣が寄るのか」
「強い悲しみや放置された魔力は、魔獣を引き寄せることがあります。特に、人が急にいなくなった場所は」
家は、人を待つ。
待ち続けて、誰も帰らず、手入れもされず、思い出だけが残ると、その思い出が腐ることがある。
前世でも、空き家は放置すれば傷むだけではなかった。雨漏り、害虫、悪臭、不法侵入。人がいない場所は、別のものを呼び込む。
この世界では、それが魔獣なのだ。
「調査が必要です」
わたしが言うと、グレン様は即座に首を横に振った。
「危険だ」
「分かっています」
「分かっていて行くと言う」
「家守の仕事です」
グレン様は眉を寄せた。
わたしも譲れない。
廃村の家が泣いているなら、魔獣討伐だけでは終わらない。泣いている理由を見なければ、また魔獣は寄る。
ロイド副長が間に入った。
「閣下、監督官殿の意見は正しいかもしれません。魔獣を倒しても、毎年同じ場所に湧くなら原因を潰す必要があります」
「だが」
「護衛を厚くしましょう。調査時間を短くし、退路を確保する。門の子からもらった内門鍵を持っていけば、砦との連絡も少しは安定するのでは」
わたしは頷いた。
「灯りの家の鍵の子にも協力を頼めます。道の記憶をつないでもらえば、迷いにくくなります」
グレン様は長く黙った。
そして、ため息をつく。
「条件を出す」
「はい」
「私が同行する。ロイドも同行。斥候二名、弓兵四名、火守りは無理をしない。調査時間は一刻。異常があれば即撤退」
「承知しました」
「そして、あなたは私の視界から出ない」
「……承知しました」
少し過保護だが、今回は反論しない。
廃村調査は危険だ。
準備には二日かけた。
食堂では保存食、温かいスープを入れる革袋、硬焼きパンが用意された。井戸は清めた水を渡し、寝台の子たちは携帯用の毛布を膨らませた。門の子は内門鍵に力を込め、倉庫の子は荷物の配置に細かく指示を出した。
ルカは同行を希望したが、却下された。
「俺、エルダ村の近く知ってる」
「危険です」
「でも」
「ルカの仕事は、戻ってきた人に湯を渡すことです」
以前と同じ言葉をかけると、彼は悔しそうにしながらも頷いた。
「助け方を覚える」
「はい」
出発の朝、砦の門が静かに開いた。
黒森へ向かう道は、雪解けでぬかるんでいる。木々はまだ葉をつけておらず、枝が空へ黒く伸びていた。
森に入ると、空気が変わった。
湿った土、古い雪、獣の匂い。
そして、遠くから聞こえるような、かすかな泣き声。
音ではない。
家の気配だ。
「聞こえます」
わたしが言うと、グレン様が剣の柄に手を置いた。
「方向は」
「村の中心です」
斥候が先行し、弓兵が左右を固める。
森を抜けると、エルダ村が見えた。
焼け落ちた家、傾いた柵、雪に埋もれた井戸、崩れかけた集会所。
人の気配はない。
けれど、家の気配は残っている。
泣き声は、集会所からだった。
入り口の扉は半分外れ、屋根には穴が開いている。中には古い長椅子と、壊れた暖炉がある。三年前、村人たちはここに集まり、避難の合図を待っていたのだろう。
わたしは集会所の床に手を置いた。
冷たい。
悲しい。
そして、怒っている。
「置いていかれたと思っています」
声が震えた。
「誰も戻ってこなかった。マルタさんも戻らなかった。村人も戻らなかった。ここは、まだ避難の続きを待っています」
グレン様の表情が痛みに歪む。
「エルダ村は、危険すぎて戻れなかった」
「理由を、家には伝えていません」
人間には事情がある。
でも、家には分からない。
ただ、人がいなくなった。
待って、待って、待って、誰も帰らない。
その悲しみが、魔獣を呼んでいた。
集会所の奥に、小さな精霊がいた。
煤けた髪、割れた木の体、胸に村の紋章。集会所の子だ。
「初めまして」
わたしは膝をついた。
「ミリアです。ノルデン砦から来ました」
集会所の子は、わたしを見た。
その目には、三年分の問いがあった。
どうして帰ってこないの。
どうして火を入れないの。
どうして椅子を直さないの。
どうして、ここで待っている子どもたちを迎えに来ないの。
胸が痛い。
わたしは正直に答えた。
「ごめんなさい。ここは危険で、人間は戻れませんでした。でも、忘れていたわけではありません」
集会所の子は信じない。
当然だ。
忘れていないなら、なぜ三年も来なかったのか。
グレン様が、わたしの隣で膝をついた。
「私の責任だ」
集会所の子が彼を見る。
「私は、村を放棄すると決めた。魔獣の通り道になり、戻れば人が死ぬと判断した。だが、家に別れを告げなかった。マルタの故郷であるこの場所に、礼も言わなかった」
グレン様は深く頭を下げた。
「すまなかった」
集会所が震えた。
外で、魔獣の唸り声が聞こえる。
悲しみに引き寄せられた魔獣たちが、村の外れに集まり始めている。
時間がない。
「集会所の子」
わたしは言った。
「ここを、もう一度村に戻すことはできません。でも、別の役目を作ることはできます」
精霊の目が揺れる。
「エルダ村跡を、黒森避難訓練地にします。魔獣が出る場所を学び、避難路を確認し、亡くなった人を悼む場所にします。年に一度、砦から人が来ます。火を入れ、椅子を直し、名前を読み上げます」
グレン様が頷いた。
「約束する」
集会所の子は、震えながら泣き出した。
泣き声は、先ほどまでの腐った悲しみではない。
ようやく届いた悲しみだった。
外で魔獣が吠える。
泣き声の質が変わったことで、引き寄せられた魔獣たちが興奮している。
「撤退だ」
グレン様が立ち上がる。
その瞬間、集会所の子が、壊れた扉を動かした。
ぎい、と。
扉が、外へ向かって開く。
逃げ道を示している。
古い家は、もう一度人を送り出そうとしていた。




