第三十五話 辺境伯様、その言い方では求婚です
大寒波の後、砦にはしばらく穏やかな日々が続いた。
もちろん、仕事は多い。
避難民の帰村支援、損傷箇所の確認、燃料の再計算、家守管理令の試験報告、灯りの家からの修繕進捗、王宮への書簡。穏やかと言っても、暇ではない。
けれど、砦の空気は明らかに変わった。
兵士たちは寝台休養日を面倒がりながらも守る。井戸の愚痴会は月二回の定例になり、ロイド副長の足音はかなり改善された。ルカは倉庫見習い兼家守見習いとして、箱の置き方にうるさくなってきた。
「この箱、通気孔ふさぐ」
彼は大人の兵士に向かって堂々と言う。
「すまん、先生」
「先生じゃない」
「じゃあ、見習い先生」
ルカは真っ赤になって怒る。
倉庫の子は布の中で得意げだ。
そんな日々の中で、問題が一つあった。
グレン様が、わたしの周囲の環境を整えすぎる。
自室の窓の隙間が直った。
机の高さが調整された。
椅子に柔らかい座布団が置かれた。
湯が冷めにくい蓋付きのカップが用意された。
夜遅くまで仕事をしていると、食堂から温かいスープが届く。
どれも助かる。
助かるのだが、あまりにも行き届いている。
「グレン様」
ある日、わたしは彼を執務室で呼び止めた。
「はい」
「最近、わたしの部屋の改善が多すぎませんか」
彼は書類から顔を上げた。
「不便か」
「不便ではありません。むしろ快適です」
「ならよかった」
「よかった、ではなく。なぜこんなに」
グレン様は少し考えた。
「あなたが長くここで働くなら、環境を整える必要がある」
「三か月の試用契約でしたよね」
「更新したい」
「それは職務の話ですか」
「職務でもある」
でも、だけではない。
そう聞こえた。
火守りが袖の中でそわそわしている。
執務室の机の精霊も、なぜか聞き耳を立てている。
「ミリア」
グレン様は立ち上がった。
まっすぐこちらを見る。
「北境に残ってほしい」
「家守監督官として、ですか」
「それだけではない」
心臓が跳ねた。
彼の声は、戦場で命令を出すときより慎重だった。
「あなたがいると、砦が明るい。兵が眠る。子どもが食堂へ来る。精霊たちが声を出す。私も、自分が守れなかったものだけでなく、守れたものを見られるようになった」
言葉が、ゆっくり積み重なる。
「あなたの仕事を尊敬している。あなたの怒りも、記録も、手順も、パンを配る姿も、精霊に礼を言う姿も、全部」
「グレン様」
「だから」
彼は一度だけ息を吸った。
「私の家に、来てほしい」
沈黙。
執務室の暖炉が、ぼっと大きく燃えた。
机の精霊が引き出しを勝手に開けかけ、火守りが興奮して火花を散らす。
わたしは顔が熱くなるのを感じた。
「辺境伯様」
「何だ」
「その言い方では、求婚です」
グレン様は固まった。
どうやら、本人はそこまで踏み込んだつもりがなかったらしい。
いや、なかったわけではないかもしれない。けれど、言葉にした瞬間、自分で意味に気づいた顔だった。
「……そう聞こえたか」
「聞こえました」
「嫌か」
即座にそう聞かれ、胸がきゅっとなった。
この人は、嫌なら引くつもりでいる。
王宮で何度も無視されたわたしの意思を、この人はいつも確認する。
「嫌では、ありません」
声が小さくなった。
グレン様の目がわずかに揺れる。
「では」
「でも、条件があります」
「言ってくれ」
即答だった。
わたしは深呼吸する。
「まず、わたしは家守の仕事を続けます。結婚したからといって、家の奥に閉じこもるつもりはありません」
「ああ」
「家守代表の仕事もあります。王都へ行くことも、他の施設を見に行くこともあります」
「護衛をつける」
「過剰な護衛は困ります」
「相談する」
「それから、精霊たちの意思確認も必要です。わたしがノルデン家へ入るなら、屋敷や砦の精霊たちにも影響します」
「当然だ」
「最後に」
わたしは少し迷った。
けれど、言う。
「わたしはまだ、婚約破棄からあまり時間が経っていません。グレン様を信頼しています。でも、自分の気持ちを急いで決めたくありません」
グレン様は真剣に聞いていた。
「待つ」
「よろしいのですか」
「あなたが自分で決めるまで待つ。契約も、婚約も、急がせるものではない」
その答えに、胸の奥が柔らかくなる。
王宮では、婚約は決められるものだった。
王太子妃教育も、立場も、役割も、わたしの意思より先にあった。
でも、この人は待つと言う。
「ありがとうございます」
「ただ」
「ただ?」
「求婚として聞こえたなら、いずれ正式に言い直す」
火守りが歓声のような火花を上げた。
わたしは顔を覆いたくなった。
「今ではなくていいです」
「分かっている」
グレン様の耳が少し赤い。
わたしの顔も、たぶん赤い。
執務室の精霊たちは明らかに浮かれていた。
その日の夕食、食堂のパンがいつもより多かった。
パン窯の精霊が勝手に祝ったらしい。
ロイド副長は何も聞いていないはずなのに、にやりと笑って言った。
「監督官殿、今日はパンが多いですな」
「パン窯の機嫌がいいだけです」
「そうですか。砦全体の機嫌もいいようですが」
長椅子まで嬉しそうにきしむ。
家は、隠し事が苦手だ。
わたしは湯気の立つスープを見つめ、少しだけ笑った。
嫌ではない。
むしろ、温かい。
その気持ちを、今はゆっくり育てていきたいと思った。




