第三十三話 吹雪の中の小さな手
吹雪の夜は、時間の感覚を奪う。
食堂の時計は動いている。
けれど、針が進んでも、外の白さは変わらない。窓の向こうは雪と闇だけで、見張り台の鐘がなければ、世界から音が消えたようだった。
ミナの母親は、泣き疲れて毛布に包まれていた。
ルカは食堂の入口に座り、外を見ている。
「ルカ、休んでください」
「まだ」
「あなたが倒れたら困ります」
「でも、ミナ、焼き菓子好きだった」
その言葉に、胸が痛む。
ルカは、自分が助けられたから、今度は助けたいのだ。
わたしは彼の隣に座った。
「助けたい気持ちは、大事です。でも、助け方を覚えると約束しましたね」
「うん」
「今のあなたの仕事は、戻ってきた人に湯を渡すことです」
ルカは唇を噛んだ。
「走るより?」
「はい。走る人はもういます。待つ人も必要です」
彼は長い時間黙り、それから頷いた。
「湯、用意する」
ルカは厨房へ向かった。
わたしは扉に手を置く。
門の子の気配は、遠くで張り詰めていた。
そのとき、井戸の子が小さく声を上げた。
音。
井戸は、雪の下を流れる水の響きで外の気配を拾っていた。
人の足音ではない。
小さな、途切れ途切れの振動。
子どもが、壁沿いに近づいている。
「門!」
わたしは叫んだ。
見張り台の鐘が短く鳴る。
門の子が閂を握る。
外から、かすかな声がした。
「……あまいの」
ミナだ。
食堂の全員が息を呑む。
門を開けるには危険な距離かもしれない。吹雪の中、魔獣が紛れている可能性もある。
だが、手順がある。
外門ではなく、小門を開ける。
槍を構える。
内側に毛布と湯を準備する。
門の子は震えながら、小門を開けた。
白い風が食堂側の通路まで吹き込む。
兵士が叫ぶ。
「見えた! 子ども一名!」
次の瞬間、黒い影が雪の中から飛び出した。
小型魔獣。
ミナを追っていたのだ。
門の子が悲鳴を上げる。
三年前の記憶が重なる。
開けたら、魔獣が入る。
でも、今は一人ではない。
「槍!」
ロイド副長の声が外から響いた。
戻ってきていた。
兵士たちが小門の内側から槍を突き出す。門の子は、小門の幅をぎりぎりまで狭める。魔獣の頭だけが入り、体は通れない。
一撃。
魔獣が雪の中へ倒れる。
グレン様がミナを抱えて駆け込んだ。
「閉めろ!」
門が閉まる。
閂が落ちる。
門の子は泣いていた。
でも、泣きながらも閉めた。
ミナは意識が朦朧としていた。
手足が冷たい。
「食堂へ!」
わたしは毛布を広げる。
火守りが集まり、暖炉が強く燃える。井戸の湯が運ばれ、寝台の子たちが休養室の毛布を膨らませる。セリナ様はいない。癒やしの光はここにはない。
けれど、温めることはできる。
「急に熱くしないで。手袋を外します。濡れた服を切って。湯は少しずつ」
前世で見た低体温対応を思い出す。
焦らない。
一つずつ、確実に。
ルカが湯を持ってきた。
手が震えているが、こぼさなかった。
「ミナ、甘いのある」
彼は小さな焼き菓子を見せた。
ミナの目が、ほんの少し動く。
「……あまい」
「うん。食堂まで来たから、もらえる」
ミナの母親が泣きながら娘の手を握る。
わたしは火守りに頼み、ゆっくり温度を上げた。
時間がかかった。
けれど、ミナの呼吸は少しずつ安定した。
グレン様は外套を脱ぎ、雪を払う間もなく食堂の入口に立っていた。髪にも眉にも雪が凍りついている。頬には新しい傷がある。
「怪我は」
わたしが尋ねると、彼は首を横に振った。
「かすり傷だ」
「嘘です」
「後で見る」
「今見ます」
ロイド副長が横から言った。
「閣下、監督官殿に逆らうと寝台にも怒られます」
グレン様は少しだけ苦い顔をした。
「分かった」
食堂の端で、彼の傷を手当てする。
大きな傷ではないが、冷えた皮膚に血が滲んでいた。
「無理をしましたね」
「子どもがいた」
「知っています」
「なら、行く」
その答えに、胸が締めつけられる。
この人は、守ると決めたものへ迷わず走る。
だからこそ、休ませる人が必要だ。
「戻ってきた人も、手当てを受けるのが仕事です」
「……分かった」
彼は素直に座った。
手当てが終わる頃、ミナの意識がはっきりしてきた。
彼女は焼き菓子を小さくかじり、泣きながら笑った。
「食堂、あったかい」
その言葉で、食堂の暖炉が大きく燃えた。
門の子は、まだ泣いている。
わたしは門のところへ行き、手を置いた。
「開けて、閉めて、守りました」
門の子が震える。
「今度は、できました」
門の子は、閂を抱えたままわたしにしがみついた。
吹雪はまだ続いている。
寒波は始まったばかりだ。
けれど、この夜、砦は一つ大きな傷を越えた。
門は、開けた日の記憶を恐れるだけではなく、開けて守った日の記憶を持った。




