第三十一話 ただいま、と言える砦
北境砦へ帰る日、空は晴れていた。
王都での仕事は多かった。
審問、法案、封印、誘拐事件、灯りの家の修繕計画。短い期間に詰め込みすぎて、馬車に乗った瞬間、体の力が抜けた。
グレン様が向かいで書類を閉じる。
「眠っていい」
「まだ道中の確認が」
「私が見る」
「でも」
「ミリア。寝台に叱られる」
その言葉に、馬車の寝台の精霊がこくこく頷いた。
最近、周囲がわたしの休養を管理するようになってきた。
少し困る。
けれど、正直ありがたい。
「では、少しだけ」
そう言って横になると、本当にすぐ眠ってしまった。
目を覚ましたとき、馬車は北境の雪道を進んでいた。
窓の外には白い森。
遠くに灰色の砦が見える。
胸が温かくなった。
帰ってきた。
そう思った。
砦の正門では、ロイド副長、エルン、ルカ、兵士たちが待っていた。
門の子は大きく門を開け、以前よりずっと軽い音を立てる。
「お帰りなさい、監督官殿!」
兵士たちの声がそろった。
わたしは馬車を降り、思わず笑った。
「ただいま戻りました」
その言葉に、砦全体が震えた。
食堂の暖炉が火を強め、井戸の水が揺れ、寝台の子たちが毛布を膨らませる。倉庫の子は布の下から顔を出し、長椅子たちは嬉しそうにきしむ。
ただいま。
その言葉を言える場所がある。
それが、こんなに胸を満たすものだとは知らなかった。
ルカが走ってきた。
「ミリア!」
「ルカ。ただいま」
「皿、持ってる?」
わたしは懐から、彼が預けてくれた豆選別用の木皿を出した。
「返します」
ルカはそれを受け取り、安心したように息を吐いた。
「帰ってきた」
「約束しましたから」
彼は少し照れた顔で頷いた。
「仕事、増えた。倉庫の子、うるさい」
倉庫の精霊が布の中で抗議する。
「うるさいのではなく、指導熱心なのですね」
「うん。箱の置き方、めちゃくちゃ言う」
「いい先生です」
ロイド副長が報告書を持ってきた。
「監督官殿の不在中、砦は大きな問題なし。食堂会議は二回、井戸の愚痴会は一回、寝台休養日は予定通り実施。副長の歩き方講習は継続中」
「最後の報告は必要ですか」
「井戸からの要望です」
わたしは笑った。
砦は動いている。
わたしがいなくても、手順があれば、人と精霊が協力できる。
それが何より嬉しかった。
食堂では、帰還祝いのスープが用意されていた。
粗悪品ではない豆、適切に塩抜きした肉、倉庫で乾かした根菜。パン窯と砦の竈が協力して焼いたパンは、王宮の高級パンとは違うが、力強い味がした。
グレン様は食堂の中央ではなく、いつもの入口席に座った。
もう入口は以前ほど寒くない。
扉の下の石も直され、隙間風は少ない。
「入口席、改善されましたね」
「ロイドが毎週座ったからな」
ロイド副長が胸を張る。
「俺の重みで問題点を発見しました」
「長椅子が、少し重いと言っています」
「またか」
食堂が笑いに包まれる。
食後、おうち精霊組合の臨時会議が開かれた。
議題は、公共家守管理令の試験導入。
砦は、王国初の正式な試験施設になる。
「つまり、皆さんの記録が国の制度の基礎になります」
わたしが説明すると、精霊たちは一斉にざわめいた。
食堂の暖炉は胸を張り、井戸は少し緊張し、寝台たちは毛布を整え、門の子は閂を抱え直した。
「今まで通り、困ったことは記録します。良くなったことも記録します。失敗も隠しません」
ロイド副長が頷く。
「失敗を隠すと、次で死人が出る」
「はい」
グレン様も言った。
「この砦が、他の砦や孤児院、学校の先例になる。皆、頼む」
精霊たちは、人間には見えない敬礼をした。
その姿を、わたしは一生忘れないと思った。
夜、自室に戻ると、机の上に小さな花が置かれていた。
冬の北境では珍しい、薄紫の乾燥花。
誰が置いたのかと思っていると、扉がノックされた。
「ミリア」
グレン様だった。
「花を、ありがとうございました」
「……花だけでは足りないと思ったが、何を贈ればいいか分からなかった」
「十分です」
「王都で怖い思いをさせた」
「グレン様のせいではありません」
「それでも、守りきれなかった」
彼の声には、三年前の門の記憶と同じ痛みがあった。
わたしは首を横に振った。
「助けに来てくださいました」
「遅かった」
「でも、来てくださいました」
グレン様は黙った。
この人は、自分が守れなかったものを忘れない。
だからこそ、守れたことも覚えてほしい。
「グレン様。わたしは、怖い思いをしました。でも、あの料金所の鍵の子も、床板の子も、王宮の扉も、グレン様も、みんなが助けてくれました」
わたしは乾燥花を手に取った。
「だから、怖かった記憶だけではありません」
グレン様の目が揺れた。
「そうか」
「はい」
暖炉の火が静かに燃える。
長い沈黙の後、彼は言った。
「あなたが帰ってきて、砦が明るい」
「砦が頑張ったからです」
「それもある。だが、あなたがいるからだ」
あまりにもまっすぐな言葉に、何も返せなくなった。
グレン様は、それ以上踏み込まなかった。
「休んでくれ。明日からまた忙しい」
「はい」
扉が閉まった後、わたしは花を見つめた。
火守りが、にやにやしているように火を揺らした。
「何ですか」
火守りは答えない。
ただ、暖炉の火がいつもより少し甘く燃えていた。




