第三十話 古い料金所に、もう一度灯りを
北境へ戻る前に、わたしは王都外れの古い料金所へ向かった。
誘拐された場所だ。
普通なら、二度と近づきたくないと思うだろう。
わたしも怖くないわけではない。石壁の湿った匂いを思い出すだけで、手首に巻かれた黒い紐の感触が蘇る。
けれど、あの家はわたしを助けてくれた。
鍵の子と床板の子に、約束をした。
直せるなら直したい。
グレン様は当然のようについてきた。
「一人では行かせない」
「分かっています」
「本当に分かっているか」
「最近は、分かってきました」
そう答えると、彼は少しだけ満足そうに頷いた。
料金所は、昼間に見るといっそう荒れていた。
屋根の一部が抜け、窓枠は歪み、扉の下には隙間がある。外壁の蔦は伸び放題で、井戸は枯れかけている。けれど、玄関の鍵穴は前より少し光っていた。
「来ました」
わたしは扉に手を置いた。
鍵の子が、おそるおそる顔を出す。
「約束通り、直す相談をします」
鍵の子は目を丸くした。
人間は、家に約束しても忘れることが多い。
けれど、わたしは忘れたくなかった。
調査には半日かかった。
屋根、床、壁、暖炉、井戸、厩舎跡、馬車置き場。料金所は小さいが、街道沿いの休憩所として使うには悪くない立地だった。王都と北境をつなぐ道の中間にあり、避難民や旅人が一晩休む場所になる。
「避難所兼家守講習所にできます」
わたしは図面に印をつけた。
「一階は休憩所と食堂、二階は簡易寝台。厩舎跡は物資倉庫。井戸は浄化が必要ですが、完全には枯れていません。暖炉は煙突修理必須です」
グレン様は図面を見た。
「費用は私が出す」
「全額は駄目です」
「なぜ」
「公共施設にするなら、王家、王都、北境、寄付を分けるべきです。一人の善意に頼ると、継続できません」
「手厳しいな」
「継続管理が重要です」
「では、北境として初期費用の三分の一を出す」
「妥当です」
鍵の子が、二人の会話を不思議そうに聞いていた。
自分のために予算の話がされている。
それが信じられないのだろう。
前世でも、古い建物の修繕費を通すのは難しかった。
見栄えのする新築にはお金が出る。でも、雨漏りを止める、配管を直す、床を補強する、そういう地味な工事は後回しにされる。
だからこそ、数字と役割が必要だ。
「ここには、名前が必要です」
グレン様が言った。
「料金所ではなく?」
「古い役目の名だ。新しい役目に合わせよう」
わたしは建物を見上げた。
何がいいだろう。
旅人を迎え、避難民を休ませ、家守の見習いたちが学ぶ場所。
「灯りの家」
自然に口から出た。
「街道の灯りになるように」
鍵の子が、ぱっと顔を上げた。
気に入ったらしい。
グレン様も頷いた。
「よい名だ」
その日のうちに、応急修繕が始まった。
王都の職人、北境の兵、王宮管理局の若手、医療院の手伝いに来たセリナ様まで参加した。
セリナ様は煤取りを担当し、最初は真っ黒になっていた。
「白い聖女の面影がありませんね」
わたしが言うと、彼女は煤だらけの顔で笑った。
「灰色の見習いですもの」
火守りたちは、彼女の周りを怖がらずに飛び回っていた。
王宮管理局の若手職員の中には、家守に興味を持つ者もいた。
「ミリア様、精霊は見えなくても家守になれますか」
「完全な通訳は難しいかもしれませんが、管理は学べます。見える人だけに頼る制度は危険です」
「では、私も学びたいです」
そう言った青年の名はクレメント。
几帳面で、帳簿を見るのが得意そうだった。
「まず、掃除記録からです」
「はい」
「掃除は好きですか」
「記録が整うなら好きです」
「有望です」
グレン様が横で小さく笑った。
灯りの家の最初の夜、応急修理した暖炉に火が入った。
火守りはまだ小さい。
けれど、火は確かに燃えた。
鍵の子、床板の子、窓の子、暖炉の子、井戸の子。長く声を出せなかった精霊たちが、少しずつ集まる。
わたしは玄関に立ち、言った。
「これから、よろしくお願いします」
古い料金所改め、灯りの家は、小さく返事をした。
それは、カランコロンという軽い音だった。
昔、旅人を迎えていたカウベルの音。
もう一度、家に灯りが戻った。




