表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
28/68

第二十八話 聖女様は、白ではなく灰色を選ぶ




 セリナ様が神殿を出ると聞いたのは、王太子殿下の旧寝室を閉じた翌朝だった。


 王宮の小さな中庭で、彼女は荷造りをしていた。


 荷物は驚くほど少ない。衣装箱が一つ、書類箱が一つ、掃除用具の入った木箱が一つ。以前の彼女なら、神殿侍女が何人もつき、白いドレスや香油の瓶を山のように運ばせていただろう。


 今のセリナ様は、灰色の作業着に白い襟をつけ、革手袋を腰に下げていた。


「本当に神殿へ戻らないのですか」


 わたしが尋ねると、彼女は頷いた。


「戻る場所ではなくなりました」


 声は寂しそうだったが、迷いは少なかった。


「もちろん、信仰を捨てるわけではありません。でも、わたくしを育ててくださった方々の中に、精霊契約具の流出を見逃した人がいた。老司祭様だけの問題ではないと思います」


「これからは、どうされるのですか」


「マリア王女殿下の許可をいただき、王宮医療院で働きます。火傷や凍傷の治療を学び直します。それから、掃除係と厨房係の講習にも参加します」


 彼女は少し恥ずかしそうに笑った。


「聖女という肩書きがあっても、わたくしは生活のことを何も知りませんでした。まずは、自分で湯を沸かせるようになりたいのです」


「良い目標だと思います」


「ミリア様にそう言っていただけると、安心します」


 わたしは中庭の隅に置かれた木箱を見た。


 中には、小さな陶器の灰入れ、煤取り用の布、簡単な修繕道具が入っている。


「火守りたちも、セリナ様のことを怖がらなくなりました」


「本当ですか」


 セリナ様の顔がぱっと明るくなる。


「はい。ただ、まだ強い光は苦手です」


「気をつけます」


 彼女は両手を胸の前で握った。


「ミリア様。わたくし、殿下との婚約をお断りしました」


 突然の話に、わたしは目を瞬かせた。


 王太子位を辞退したとはいえ、セドリック殿下は王族であることに変わりはない。セリナ様が彼の隣に残れば、身分も立場も安定するだろう。


「殿下は、わたくしに謝ってくださいました。わたくしを飾りとして扱ったことも、ミリア様への態度にわたくしを巻き込んだことも」


「そうですか」


「でも、わたくしは殿下の隣にいると、また誰かに飾られるのではないかと怖いのです。殿下が悪いだけではなく、わたくし自身も、飾られることに慣れすぎてしまっていたから」


 セリナ様は中庭の噴水を見た。


 冬の噴水は水を止められ、石だけが残っている。


「白いドレスを着て、光を出して、微笑んでいれば、皆が褒めてくれました。でも、わたくしはその間、誰が湯を沸かしてくれたのか、誰が床を拭いてくれたのか、誰が焦げた布を片づけたのか、知らなかった」


「これから知ればいいです」


「はい」


 彼女は微笑んだ。


「だから、白ではなく灰色を選びます。煤がついても目立たないでしょう?」


 その冗談に、わたしは笑った。


 火守りが袖から顔を出し、セリナ様へ小さな火花を飛ばす。


 セリナ様は慎重に手を差し出した。


 火守りは、彼女の手袋の指先へ、ほんの小さく触れた。


 それは和解というには小さすぎる。


 けれど、始まりとしては十分だった。


 中庭の入口に、セドリック殿下が立っていた。


 セリナ様が気づき、静かに礼をする。


「殿下」


「行くのか」


「はい」


「私のせいか」


「殿下のせいでもあります。でも、それだけではありません」


 殿下は苦い顔をした。


 以前なら、そこで怒ったかもしれない。けれど今は、黙って受け止めた。


「私は、あなたを好きだったのだと思う」


 彼は不器用に言った。


「だが、好きだと言いながら、あなたが何を望むか見ていなかった」


 セリナ様の目が少し潤む。


「わたくしも、殿下に好かれる聖女であろうとしすぎました」


 二人の間に、静かな時間が流れた。


 恋の終わりというより、役割の終わりに近かった。


「元気で」


 殿下が言った。


「殿下も、眠ってくださいませ」


 セリナ様が答える。


 殿下は少しだけ笑った。


「努力する」


 その会話を見ながら、わたしは思った。


 人は間違える。


 誰かを傷つけることもある。


 それでも、間違いを認め、役割を脱ぎ、自分の足で歩こうとするなら、その先には別の道がある。


 セリナ様は木箱を持ち、医療院へ向かった。


 灰色の服の背中は、白い聖女のドレスよりずっと軽そうだった。


 火守りが小さく鳴いた。


 いい子になったね、というように。


 わたしも同じ気持ちだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ