第二十八話 聖女様は、白ではなく灰色を選ぶ
セリナ様が神殿を出ると聞いたのは、王太子殿下の旧寝室を閉じた翌朝だった。
王宮の小さな中庭で、彼女は荷造りをしていた。
荷物は驚くほど少ない。衣装箱が一つ、書類箱が一つ、掃除用具の入った木箱が一つ。以前の彼女なら、神殿侍女が何人もつき、白いドレスや香油の瓶を山のように運ばせていただろう。
今のセリナ様は、灰色の作業着に白い襟をつけ、革手袋を腰に下げていた。
「本当に神殿へ戻らないのですか」
わたしが尋ねると、彼女は頷いた。
「戻る場所ではなくなりました」
声は寂しそうだったが、迷いは少なかった。
「もちろん、信仰を捨てるわけではありません。でも、わたくしを育ててくださった方々の中に、精霊契約具の流出を見逃した人がいた。老司祭様だけの問題ではないと思います」
「これからは、どうされるのですか」
「マリア王女殿下の許可をいただき、王宮医療院で働きます。火傷や凍傷の治療を学び直します。それから、掃除係と厨房係の講習にも参加します」
彼女は少し恥ずかしそうに笑った。
「聖女という肩書きがあっても、わたくしは生活のことを何も知りませんでした。まずは、自分で湯を沸かせるようになりたいのです」
「良い目標だと思います」
「ミリア様にそう言っていただけると、安心します」
わたしは中庭の隅に置かれた木箱を見た。
中には、小さな陶器の灰入れ、煤取り用の布、簡単な修繕道具が入っている。
「火守りたちも、セリナ様のことを怖がらなくなりました」
「本当ですか」
セリナ様の顔がぱっと明るくなる。
「はい。ただ、まだ強い光は苦手です」
「気をつけます」
彼女は両手を胸の前で握った。
「ミリア様。わたくし、殿下との婚約をお断りしました」
突然の話に、わたしは目を瞬かせた。
王太子位を辞退したとはいえ、セドリック殿下は王族であることに変わりはない。セリナ様が彼の隣に残れば、身分も立場も安定するだろう。
「殿下は、わたくしに謝ってくださいました。わたくしを飾りとして扱ったことも、ミリア様への態度にわたくしを巻き込んだことも」
「そうですか」
「でも、わたくしは殿下の隣にいると、また誰かに飾られるのではないかと怖いのです。殿下が悪いだけではなく、わたくし自身も、飾られることに慣れすぎてしまっていたから」
セリナ様は中庭の噴水を見た。
冬の噴水は水を止められ、石だけが残っている。
「白いドレスを着て、光を出して、微笑んでいれば、皆が褒めてくれました。でも、わたくしはその間、誰が湯を沸かしてくれたのか、誰が床を拭いてくれたのか、誰が焦げた布を片づけたのか、知らなかった」
「これから知ればいいです」
「はい」
彼女は微笑んだ。
「だから、白ではなく灰色を選びます。煤がついても目立たないでしょう?」
その冗談に、わたしは笑った。
火守りが袖から顔を出し、セリナ様へ小さな火花を飛ばす。
セリナ様は慎重に手を差し出した。
火守りは、彼女の手袋の指先へ、ほんの小さく触れた。
それは和解というには小さすぎる。
けれど、始まりとしては十分だった。
中庭の入口に、セドリック殿下が立っていた。
セリナ様が気づき、静かに礼をする。
「殿下」
「行くのか」
「はい」
「私のせいか」
「殿下のせいでもあります。でも、それだけではありません」
殿下は苦い顔をした。
以前なら、そこで怒ったかもしれない。けれど今は、黙って受け止めた。
「私は、あなたを好きだったのだと思う」
彼は不器用に言った。
「だが、好きだと言いながら、あなたが何を望むか見ていなかった」
セリナ様の目が少し潤む。
「わたくしも、殿下に好かれる聖女であろうとしすぎました」
二人の間に、静かな時間が流れた。
恋の終わりというより、役割の終わりに近かった。
「元気で」
殿下が言った。
「殿下も、眠ってくださいませ」
セリナ様が答える。
殿下は少しだけ笑った。
「努力する」
その会話を見ながら、わたしは思った。
人は間違える。
誰かを傷つけることもある。
それでも、間違いを認め、役割を脱ぎ、自分の足で歩こうとするなら、その先には別の道がある。
セリナ様は木箱を持ち、医療院へ向かった。
灰色の服の背中は、白い聖女のドレスよりずっと軽そうだった。
火守りが小さく鳴いた。
いい子になったね、というように。
わたしも同じ気持ちだった。




