第二十五話 さらわれた家守と、鍵たちの反乱
老司祭が拘束されたことで、事件は終わると思われた。
けれど、悪事というものは一人で完結していないことが多い。
精霊契約具の封印から二日後、わたしは王宮の東棟で襲われた。
油断していたわけではない。
グレン様の指示通り、護衛は二人いた。廊下には王宮騎士も立っていた。東棟は王宮管理局の仮事務室に近く、明るい時間帯だった。
それでも、隙は生まれる。
書庫から出た瞬間、廊下の魔導灯が一斉に暗くなった。
護衛が反応するより早く、床に黒い線が走る。
契約具の残滓。
火守りが悲鳴を上げた。
「ミリア様!」
護衛の声が遠くなる。
足元の床が抜けるような感覚。
次に目を開けたとき、わたしは知らない部屋にいた。
石壁、湿った床、古い木箱。
手首には黒い紐が巻かれている。
魔力を封じるものではなく、精霊との感覚を鈍らせる紐だ。火守りの気配が遠い。
部屋の隅に、ガルム商会長バナージがいた。
以前よりやつれ、目だけがぎらぎらしている。
「ようやく捕まえたぞ、家守令嬢」
最悪の相手だった。
「ここはどこですか」
「王都外れの古い料金所だ。昔は街道税を取っていたが、今は使われていない。家も精霊も死んでいる場所だ」
彼は笑った。
「お前の精霊どもも、ここまでは来られまい」
わたしは部屋を見渡した。
確かに、気配は薄い。
長く使われず、手入れもされず、雨漏りと鼠に荒らされた建物。精霊が死んでいる、と彼は言った。
けれど、それは違う。
家は簡単には死なない。
ただ、声を出す力を失っているだけだ。
「目的は何ですか」
「契約具の封印を解く」
「無理です」
「お前ならできる。家守代表の確認印がある。お前の血か魔力か、何かを使えば」
彼は苛立ったように歩き回る。
「俺は終わるわけにはいかない。商会は三代続いた。北境の兵どもに多少粗悪品を売っただけで潰されてたまるか」
「多少ではありません」
「黙れ!」
彼が木箱を蹴った。
部屋の壁が小さく震える。
古い料金所の精霊が怯えている。
「あなたは、ここも粗末に扱うのですね」
「建物に同情か。気味の悪い女だ」
気味が悪い。
昔なら、その言葉に傷ついたかもしれない。
でも今は、腹が立つだけだった。
「ここは、昔、人を待っていた場所です」
わたしは床に手をついた。
黒い紐が感覚を鈍らせている。
それでも、完全には断てない。
「旅人が税を払い、馬を休め、雨を避けた場所。扉は何度も開き、窓は道を見て、暖炉は濡れた外套を乾かした。今は荒れていますが、死んではいません」
床の奥で、かすかな震え。
聞いている。
料金所は、聞いている。
バナージは気づかない。
「時間がない。お前には王宮へ戻ってもらう。封印を解け。そうすれば命は助けてやる」
「お断りします」
即答した。
彼の顔が歪む。
「状況が分かっていないのか」
「分かっています。あなたは追い詰められている。だから雑になっている。誘拐後の交渉材料もなく、逃走経路も不安定。しかも、使われていない建物にわたしを連れてきた」
「何が言いたい」
「家を粗末にする人は、必ず扉と鍵を甘く見ます」
その瞬間、部屋の古い鍵穴が鳴った。
かちり。
バナージが振り向く。
入口の扉は閉まっている。
けれど、鍵穴の奥に小さな精霊がいた。
痩せて、錆びて、でも目だけは鋭い鍵の子。
わたしは息を整える。
「初めまして。助けてくださいとは言いません。あなたの役目を思い出してください」
鍵の子が、震えながら顔を上げる。
「扉を閉めることだけが、鍵の役目ではありません。開けるべき相手に、開けることも役目です」
外から足音が聞こえた。
バナージの部下だろうか。
いや、違う。
この足音は、荒くない。
重く、速く、迷いがない。
「ミリア!」
グレン様の声。
胸が熱くなる。
バナージが青ざめた。
「なぜここが」
王宮の鍵たちだ。
わたしが消えた廊下の鍵、東棟の扉、玄関、馬車庫、街道沿いの古い道標。家と道具の記憶が、わたしの通った痕跡をつないだ。
王宮の扉は、もう黙っていなかった。
砦の門の子からもらった精霊の鍵が、わたしの胸元で熱を持つ。
古い料金所の鍵の子が、かちりと音を立てた。
扉が開く。
グレン様が飛び込んできた。
その姿を見た瞬間、バナージは短剣を抜いた。
「来るな!」
彼はわたしを人質にしようとした。
けれど、床板が彼の足を引っかけた。
長く踏まれていなかった床板の精霊が、最後の力を振り絞ったのだ。
バナージは転び、短剣が床を滑る。
グレン様が一瞬で押さえ込んだ。
「ミリア」
「大丈夫です」
そう言ったのに、声が震えた。
グレン様は黒い紐を切り、わたしの手首を確認する。
「怪我は」
「少し擦れただけです」
「本当に」
「本当に」
彼は深く息を吐いた。
その表情を見て、わたしは初めて、自分がどれほど心配をかけたのか分かった。
「怖かったか」
そう聞かれた瞬間、我慢していたものが崩れた。
「怖かったです」
涙が出た。
情けないと思うより先に、涙がこぼれた。
グレン様はわたしを抱きしめなかった。
ただ、すぐそばに立ち、外套をわたしの肩にかけた。
「もう大丈夫だ」
その言葉に、古い料金所の空気が少しだけ温かくなった。
わたしは床に膝をつき、鍵の子と床板の子へ礼を言った。
「助けてくれて、ありがとうございました」
鍵の子は、照れたように錆びた体を揺らした。
床板の子は、疲れ切っている。
「この建物は、直せますか」
グレン様が聞いた。
「直せます。時間はかかりますが」
「なら、王都の避難所にしよう」
「え?」
「街道沿いなら、旅人や避難民が使える。放置するよりいい。あなたを助けた家だ。報酬を払うべきだろう」
古い料金所が、信じられないように震えた。
使われなくなった家が、もう一度役目を得る。
それは、家にとって何よりの報酬だった。
外へ出ると、王都の夜風が冷たかった。
けれど、グレン様の外套は温かい。
わたしはその端を握りしめた。
守られることに、少しずつ慣れてもいいのかもしれない。




