第二十話 魔獣襲来と、温かい食堂
小型魔獣と呼ばれていても、実物は十分に恐ろしい。
黒い毛皮、鋭い牙、四本の脚で雪を蹴り、群れで押し寄せる。狼に似ているが、目の奥に濁った魔力がある。人を餌と認識して襲う習性があり、自然界に普通に生息している厄介な存在だ。
砦の外壁から、弓兵が矢を放つ。
グレン様は正門前の部隊を指揮していた。声は短く、迷いがない。
「第一列、構え。引きつけろ。門は半開。負傷者が出たら内側へ運べ」
門の子は震えていた。
三年前の記憶が蘇っているのだ。
開ければ危険。
閉じれば外の兵を見捨てるかもしれない。
わたしは食堂から門の気配へ意識を向けた。
「一人ではありません」
声は届かないかもしれない。
けれど、門の子に伝える。
「手順があります。合図があります。グレン様が見ています。あなたは、自分の役目だけをしてください」
門の震えが少しだけ収まる。
食堂では、子どもたちが長椅子の内側に集められていた。ルカが年下の子に焼き菓子を配る。エルンは湯を用意し、厨房の竈はスープを温める。井戸は水を送り、寝台の精霊たちは奥の休養室で毛布を膨らませている。
訓練した通りだ。
いや、訓練以上に、みんな動いている。
最初の負傷者が運び込まれた。
肩を噛まれた兵士だ。血が外套に滲んでいる。
「ここへ」
わたしは長椅子を二つ並べ、寝台の子たちに支えてもらう。
セリナ様のような癒やしの光はない。
けれど、出血を押さえ、体を冷やさないことはできる。
「湯。清潔な布。火守り、ここを温めて」
火守りが小さな手を広げる。
負傷者の震えが少しずつ落ち着く。
「すまない、監督官殿」
「謝るのは後です。今は息をしてください」
外から、魔獣の吠え声が響く。
子どもが泣き出した。
ルカがその子の隣に座り、自分の焼き菓子を半分渡す。
「食べると、ちょっと大丈夫」
「こわい」
「うん。でも食堂、あったかい」
その言葉に、食堂の暖炉が一段と強く燃えた。
家は、守られるだけではない。
守ろうとする。
外では戦闘が続いていた。
正門が、予定通りに開き、閉じる。負傷者を受け入れ、魔獣を遮断する。三年前と違い、判断は門だけに押しつけられていない。合図の鐘、兵の配置、内門、食堂への動線。全てが連動している。
それでも、予想外は起きる。
外壁の一部で、魔獣が雪の吹き溜まりを足場にし、低い窓へ飛びついた。
「西倉庫側、侵入一!」
兵士の叫びが響く。
西倉庫。
ルカが以前隠れていた場所だ。
倉庫の精霊が、悲鳴を上げた。
わたしは走り出しかけた。
「ミリア!」
ロイド副長が止める。
「危険だ!」
「倉庫が」
「兵を送る!」
分かっている。
わたしは戦えない。
魔獣の前へ飛び出しても足手まといになる。
でも、倉庫の子は怖がっている。
そのとき、ルカが食堂の奥から飛び出した。
「ルカ!」
彼は西倉庫の方へ走る。
体が先に動いてしまったのだろう。自分を守ってくれた倉庫の子を助けたい。その気持ちは分かる。けれど、危険すぎる。
わたしも走った。
ロイド副長が追い、兵士たちが続く。
西倉庫の扉は閉まっていた。
中から、魔獣が暴れる音がする。木箱が倒れ、爪が石床を引っ掻く嫌な音。
ルカが扉に手を伸ばす。
「開けちゃ駄目!」
わたしが叫んだ瞬間、扉の精霊が自分から閂を下ろした。
ルカの手は空を切る。
扉は開かない。
倉庫の子が、中で魔獣を閉じ込めている。
けれど、長くはもたない。
「ロイド副長、窓から槍を」
「窓は狭い」
「魔獣も狭い場所で動けません。倉庫の子に箱を寄せてもらいます」
わたしは扉に手を当てる。
「怖いですよね。でも、箱を倒して通路を狭くしてください。兵士が外から槍を入れます」
倉庫の精霊が震えながら頷く気配。
中で木箱が動いた。
魔獣が吠える。
ロイド副長と兵士たちが窓へ槍を入れる。
一突き、二突き。
魔獣の吠え声が弱まり、やがて止まった。
扉の前で、ルカが座り込む。
「ごめん」
彼は扉に額をつけた。
「開けようとした。ごめん」
扉の精霊は、そっとルカの手に触れた。
開けなかったから守れた。
開けるだけが助けることではない。
そのことを、門も扉も、ルカも、今学んだのだ。
戦闘は日暮れ前に終わった。
魔獣三十七体。負傷者八名。死者なし。
死者なし。
その報告を聞いたとき、食堂の空気が一気に緩んだ。
グレン様が食堂へ戻ってきた。
外套には雪と血がつき、頬にも薄い傷がある。けれど目ははっきりしていた。
「ミリア」
「はい」
「食堂は」
「全員無事です。負傷者は奥で休んでいます。倉庫に侵入した魔獣も処理済みです」
「ルカは」
「反省中です」
ルカは倉庫の扉の前で、まだ謝っていた。
グレン様は彼を見て、静かに言った。
「助けたいと思ったのだな」
ルカはびくりとした。
「でも、勝手に走った」
「それは叱る。だが、助けたいと思ったことは否定しない」
ルカの目に涙が浮かぶ。
グレン様は膝をつき、彼と目線を合わせた。
「次は、助け方を覚えろ」
「……はい」
そのやり取りを見て、門の子が小さく泣いた。
三年前、開けるか閉めるかの間で苦しんだ門にとって、その言葉は救いだったのかもしれない。
夜、食堂では温かいスープが配られた。
兵士たちは疲れ切っていたが、誰もすぐには席を立たなかった。負傷者も、子どもたちも、厨房係も、同じ空間で湯気を吸っている。
グレン様は入口近くの席に座り、スープを飲んだ。
「死者なし」
彼は小さく呟いた。
「はい」
「三年前は、できなかった」
「今回は、できました」
グレン様は目を閉じた。
その手には、門の子からもらった錆びた鉄片が握られていた。
食堂の暖炉が、静かに燃えている。
温かい食堂は、勝利の宴だけの場所ではない。
怖かった日を、明日へつなぐ場所でもある。




