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第十九話 甘い焼き菓子は、避難路を覚えさせる




 避難訓練用の焼き菓子作りは、思った以上に大事な仕事になった。


 最初、ロイド副長は渋い顔をしていた。


「魔獣が来たときに菓子か」


「魔獣が来たときだからこそです」


 わたしは厨房で蜂蜜の壺を開けた。


「恐怖で動けない子どもに『逃げなさい』と言っても、足がすくみます。でも『食堂に甘いものがある』なら、そこへ向かう理由になります」


「理屈は分かるが」


「大人にも効きます」


 ロイド副長は一瞬黙った。


「俺にもか」


「副長には蜂蜜を少し減らします」


「なぜだ」


「甘すぎると照れるので」


 厨房係たちが笑った。


 砦で笑い声が増えた。


 それは、わたしにとって何よりの成果だった。もちろん、帳簿の改善も、寝台の整備も、井戸の浄化も重要だ。けれど、家が本当に温まるのは、人が安心して笑えるようになったときだと思う。


 避難訓練には、兵士だけでなく、近隣村から来ている避難民の子どもたちも参加した。


 黒森の周辺では、小型魔獣の目撃が増えている。まだ大きな襲撃ではないが、冬の終わりには魔獣が餌を求めて南へ降りることがある。砦は、その最初の防壁だ。


 子どもたちは中庭に集められた。


 中には、ルカと同じように村を失った子もいる。親と離れて不安そうな子、泣きそうな子、無理に強がっている子。大人たちは「大丈夫」と言うが、子どもは大人の緊張を敏感に感じ取る。


 わたしは食堂の扉を開け、焼き菓子の匂いを中庭へ流した。


 蜂蜜と炒った麦粉、少しの干し果物。


 豪華ではない。


 けれど、温かい甘い匂いは、人を前へ歩かせる。


「避難の合図が鳴ったら、食堂へ来てください。走らなくていいです。転ぶと危ないので、前の人の背中を見て歩きます。食堂に着いたら、名前を言って、焼き菓子を一つ受け取ります」


 子どもたちの目が焼き菓子に向く。


 ルカが、小さい子の手を取った。


「こっち。食堂、あったかい」


 その言葉は、大人の説明よりずっと効いた。


 訓練の鐘が鳴る。


 門の子が、いつもより軽い音で内門を開ける。長椅子の精霊たちは、食堂で子どもが座りやすいように少しだけ間隔を空けていた。井戸は湯を沸かすための水を先に回し、厨房の竈は焼き菓子を焦がさないよう火を抑える。


 人間だけではない。


 砦全体が、避難訓練に参加している。


 最初の子どもが食堂へ着いた。


「名前は?」


 エルンが聞く。


「ミナ」


「はい、ミナ。よく来ました。焼き菓子一つ」


 小さな手が焼き菓子を受け取る。


 ミナは恐る恐るかじり、目を丸くした。


「甘い」


「避難訓練ですからね」


「避難って、甘いの?」


「怖いことだけでは覚えにくいので、甘いことも一緒に覚えます」


 ミナは難しい顔をした。


「じゃあ、また来られる?」


「訓練の日は来られます。本当の避難のときも、来てください」


 その言葉に、彼女は頷いた。


 訓練はおおむね成功した。


 一人、途中で泣き出した子がいたが、ルカが手を引いて食堂へ連れてきた。ロイド副長は足音を気にしすぎて、逆に妙な歩き方になり、子どもたちに笑われた。


「副長、へんな歩き方」


「怖くないだろう」


「うん、へん」


 ロイド副長は真面目に傷ついていた。


 訓練後、グレン様は食堂で子どもたちと同じ焼き菓子を食べた。


「甘いな」


「副長用より甘いです」


「なぜ私には甘いものを」


「照れないと思いました」


 彼は少しだけ眉を上げた。


「照れているかもしれない」


 さらりと言われ、今度はわたしが照れた。


 火守りが肩で小さく火花を散らす。


 からかわれている。


「ミリア」


 グレン様が声を落とした。


「この訓練は、王都にも必要だ」


「王都に?」


「王都は大きい。火事、暴動、魔獣侵入、何が起きても避難路が複雑だ。王宮は特にそうだ。華やかな客間は多いが、使用人や子どもの避難を考えた動線が弱い」


「王宮の避難路は、確かに古いです」


 前に何度か改善を提案したが、見栄えが悪い、予算がない、王宮で大きな火事など起きない、と流された。


 北棟の煙突が燃えかけた今なら、少しは通るかもしれない。


「あなたの家守は、砦だけではなく国に必要な仕事だ」


「大げさです」


「大げさではない」


 グレン様は食堂を見渡した。


 子どもたちが焼き菓子を食べ、兵士たちが湯を配り、精霊たちがあちこちで小さく動いている。


「国は、王座や剣だけで成り立っているわけではない。食堂、井戸、寝台、門。そういうものが壊れれば、人は戦う前に倒れる」


 その言葉は、わたしの胸に深く入った。


 王宮では、わたしの仕事は家事魔法と笑われた。


 けれどこの人は、それを国の仕事だと言う。


 何と返せばいいか分からず、わたしは焼き菓子を一つ口に入れた。


 蜂蜜の甘さが、ゆっくり広がる。


 そのとき、見張り台の鐘が鳴った。


 訓練用ではない。


 短く、鋭い警鐘。


 黒森側の門番が叫ぶ。


「小型魔獣、三十! 森を抜けます!」


 食堂の空気が一瞬で変わった。


 子どもたちが固まる。


 ロイド副長が立ち上がり、兵士たちが動く。


 グレン様は剣を取り、わたしを見た。


「ミリア。食堂を任せる」


「はい」


 さっきまで訓練だったことが、現実になる。


 わたしは息を吸った。


「全員、訓練通りに。子どもたちは食堂の奥へ。長椅子を二列にして通路を空けてください。湯を用意。毛布も」


 食堂の暖炉が、ぱっと火を強めた。


 門の子が、遠くで閂を握る気配がする。


 怖い。


 けれど、もう一人ではない。


 砦全体が、動き始めた。



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