第十七話 門は、開けた日のことを忘れない
ノルデン砦の正門は、昼間でも薄暗かった。
分厚い木材に鉄板を重ね、鋲を打ち、内側から太い閂で固定する。魔獣の突進にも耐えるよう作られた門だ。人間なら何十人もいなければ動かせない。
その門の精霊は、どこにも見えなかった。
ただ、門に手を触れると、指先から冷たい記憶が流れ込んできた。
吹雪。
血の匂い。
外から叩く手。
開けてくれ、という声。
中から叫ぶ声。
開けるな、という命令。
そして、マルタさんの声。
「開けなさい。あの子たちは、まだ生きている」
胸が痛くなる。
これは三年前の記憶だ。
魔獣の襲撃。門の外に取り残された兵。中には負傷者と避難民。開ければ魔獣が入る危険がある。閉じれば外の兵は死ぬ。
門は、命令を待っていた。
開くべきか、閉じるべきか。
そのときマルタさんが、門に触れて言ったのだ。
開けなさい。
門は開いた。
何人かは助かった。
けれど、魔獣も一体入り込んだ。
食堂まで混乱が広がり、負傷者が出た。マルタさんはその後、無理をして働き続け、倒れた。
門は、自分が開いたからマルタさんが死んだと思っている。
「違います」
わたしは門に額を当てた。
「あなたが開いたから、助かった人がいます」
返事はない。
グレン様が隣に立った。
「何が見えた」
わたしは門の記憶を伝えた。
グレン様の表情が凍る。
「その日の指揮は、私だった」
声が低い。
「開けるなと命じたのは、私だ」
空気が止まった。
ロイド副長も、その場にいた兵たちも黙り込む。
「魔獣が門前にいた。開ければ中の避難民が危険だと判断した。マルタは私の命令に逆らって門を開けた。助かった兵もいたが、被害も出た」
グレン様は門を見上げた。
「私は、マルタを責めなかった。だが、礼も言わなかった」
門の奥で、何かが震えた。
「私は、自分の判断が間違っていたかもしれないことを、見ないようにした」
「グレン様」
「ミリア。門に伝えてくれ」
彼は門の前で膝をついた。
辺境伯が、兵士たちの前で。
「三年前、私はお前に重すぎる判断を背負わせた。開けるなという命令と、開けたいという願いの間で、お前を苦しませた」
門が、低く鳴った。
「開けてくれて、ありがとう。助かった者がいる。マルタが倒れたのは、お前だけのせいではない。私が、休ませる仕組みを作らなかったせいだ」
グレン様の声は震えていなかった。
けれど、背中に深い痛みがあった。
「すまなかった」
長い沈黙。
それから、門の内側から、小さな子どものような精霊が現れた。
鉄色の髪、木目のような肌、胸には大きな閂を抱えている。目は赤く腫れていた。
門の精霊は、グレン様を見た。
見えていないはずなのに、グレン様はその視線を受け止めたように動かなかった。
「門の子は、泣いています」
わたしが言うと、グレン様は静かに頷いた。
「泣いていい」
門の子は、閂を抱えたまま泣き出した。
声は聞こえない。
けれど、門全体が小さく震える。
ロイド副長が帽子を取った。
兵士たちも続く。
門は、三年間泣けなかったのだ。
泣けば、開けた日のことを認めることになる。自分のせいで誰かが傷ついたかもしれないと、向き合うことになる。
でも、家は記憶を消せない。
だから、泣くしかない。
わたしは門の子へ近づき、手を伸ばした。
「これからは、開けるか閉めるかを一人で背負わせません。判断手順を作ります。避難路、合図、内門、魔獣侵入時の遮断。人間が決めるべきことを、門だけに押しつけません」
門の子が、涙の中でわたしを見る。
「あなたは、最後の扉です。だからこそ、一人で最後にならないようにします」
門の子は、閂を少しだけ緩めた。
その日から、門の訓練が始まった。
避難民が来た場合の開閉手順。
魔獣が追っている場合の二重門運用。
内側の扉と食堂への通路の遮断。
負傷者を運ぶための長椅子転用。
厨房から温かい湯を出す手順。
井戸の水をどの順番で運ぶか。
それは軍事訓練であり、家の訓練でもあった。
グレン様は誰より真剣に参加した。
門の前で膝をついた姿を見た兵士たちは、彼への見方を少し変えたようだった。
死神将軍。
北境では、グレン様をそう呼ぶ噂があるらしい。冷静で、情を挟まず、必要なら味方を切り捨てる男。
けれど、わたしが見たグレン様は違う。
彼は切り捨てたことを忘れられない人だった。
だからこそ、二度と同じ判断を門だけに背負わせないと決めた。
夕方、訓練を終えた門の子は、わたしの手元に小さな鉄片を置いた。
錆びた閂の欠片だった。
「これは?」
「お守りだそうです」
グレン様に伝えると、彼はそれを受け取り、しばらく見つめた。
「私にか」
「はい。もう一人で背負わないように、と」
グレン様は、錆びた鉄片を握りしめた。
「そうか」
その声は、とても静かだった。
夜、砦の門は初めて自分から音を立てた。
ぎぎ、ではない。
ごく小さく、からん、と。
玄関のカウベルのような、軽い音だった。
砦が、少しだけ返事をした。




