第十五話 商会長は、帳簿の匂いを嫌う
ガルム商会の荷馬車は、雪の中庭に六台並んだ。
先頭の馬車から降りてきたのは、毛皮の外套を着た丸顔の男だった。年は四十前後。よく肥えていて、指には大きな指輪が光っている。寒さに震えるどころか、砦の兵たちを見下ろす余裕すらあった。
「ノルデン辺境伯閣下。いつもご贔屓に」
男は大げさに礼をした。
「ガルム商会長、バナージ・ガルムでございます。予定より早く着いてしまいましてな。いやはや、北の道は読みづらい」
グレン様は無表情だった。
「早い到着は珍しいな」
「兵の皆様がお困りでしょうから、急ぎました」
商会長はにこにこと笑った。
その笑顔を見た瞬間、倉庫の精霊がわたしの背後に隠れた。
嫌いなのだ。
この男の匂いを。
「納品前に検品を行う」
グレン様が言うと、商会長の笑みが一瞬だけ固まった。
「検品なら、いつも通り倉庫係の方が」
「今回は家守監督官が立ち会う」
「家守監督官?」
商会長の目がわたしへ向く。
値踏みする視線だった。
「これはこれは。王都からいらしたご令嬢ですかな。北境の物資は少々荒っぽいものでして、細かな作法とは違いますぞ」
「作法ではなく品質を見ます」
「品質?」
「はい」
わたしは帳簿と検品表を手に取った。
「乾燥豆、塩漬け肉、粉、油、薬草。現物の等級、重量、保存状態を確認します」
商会長の笑顔が薄くなる。
帳簿の匂いを嫌う人間は、たいてい帳簿に弱い。
検品は中庭で行われた。
兵士たちが箱を下ろし、わたしとエルン、倉庫係が一つずつ確認する。商会の従業員は落ち着かない様子で見ていた。
最初の豆袋を開けた瞬間、ロイド副長が低く唸った。
「また割れ豆だ」
「輸送中に多少は」
商会長が言い訳を始める。
「多少ではありません。規定を超えています」
わたしは袋の中身を布に広げ、割れ、虫食い、石混入を分ける。前世のクレーム対応で、こういう地味な分類作業は慣れていた。
「次、塩漬け肉」
樽を開ける。
塩辛い匂いが強すぎる。
肉を切ると、中身は薄く、脂の質も悪い。
「等級違いです」
「北境ではこれが普通で」
「納品書には標準品とあります」
「冬場は仕入れが難しく」
「難しいなら事前に報告し、価格を調整してください」
商会長の額に汗が浮いた。
周囲の兵士たちの目も変わっていく。
彼らは、自分たちの食事が粗末だった理由を今、目の前で見ている。
粉の袋には湿気があり、油の樽には水が混じっていた。薬草は古く、効果が落ちている。予備の毛布は納品書より枚数が少ない。
「これは、契約違反です」
わたしは検品表をグレン様へ渡した。
「過去三年分も同様であれば、損害は相当額になります」
商会長は慌てて声を上げた。
「お待ちください、閣下! これは何かの手違いで」
「手違いが三年続くのか」
グレン様の声は冷たかった。
「支払いは停止する。過去の納品についても調査する。法務官を呼ぶ」
「閣下、それはあまりにも」
「兵の食事を削った者に、寛容である理由はない」
商会長の顔から血の気が引いた。
だが、彼はすぐに別の表情を作った。
「失礼ながら、閣下。王都のご令嬢の言葉だけで長年の取引を切るのは、いかがなものかと。北境の事情を知らぬ方に、現場の商いは分かりますまい」
兵士たちの視線がわたしへ集まる。
王都の令嬢。
その言葉は、ここに来た初日にも向けられた。
けれど今は、少し違う。
ロイド副長が前に出た。
「その王都の令嬢が来てから、兵が眠れるようになった。飯も温かくなった。倉庫の湿気も減った」
エルンも声を上げた。
「豆が硬かったのは、俺の煮方だけのせいじゃなかった」
入口近くにいた新兵が続く。
「毛布が足りないのも、俺たちの管理が悪いって言われてました」
ルカは、パンを抱えながら商会長を見た。
「この肉、村でも買わない」
子どもの一言は、時に大人の言い訳を刺す。
商会長の顔が歪んだ。
「黙れ、小僧」
その瞬間、倉庫の扉が大きく鳴った。
どん、と。
商会長が飛び上がる。
倉庫の精霊が怒っていた。
粗悪品を押し込まれ、通気を塞がれ、それでも守れと言われ続けた子が、ようやく怒りを外へ出したのだ。
「今のは」
商会長が青ざめる。
わたしは静かに言った。
「倉庫の抗議です」
「倉庫が抗議など」
「します。少なくとも、この砦では」
グレン様が兵士へ命じた。
「ガルム商会の荷を隔離しろ。商会長と従業員は事情聴取まで砦内に留める」
「はっ」
商会長は叫び始めたが、兵士たちはもう動揺しなかった。
自分たちの暮らしが損なわれていた理由を知ったからだ。
その夜、食堂には妙な高揚があった。
粗悪品を使わず、残っていた良質な粉と豆でスープを作った。量は少なめだったが、味ははっきり良くなった。
兵士たちは口々に言った。
「薄くない」
「肉の味がする」
「塩で舌が死なない」
厨房係たちは誇らしげだった。
パン窯の精霊と砦の竈も、並んで火を揺らしている。
グレン様は食堂の入口席に座り、静かにスープを飲んだ。
「ミリア」
「はい」
「食事は、士気だな」
「はい」
「今まで、それを分かっているつもりで、分かっていなかった」
「分かったなら、変えられます」
彼は頷いた。
その横顔を見て、わたしは思った。
この人は、自分の誤りを認めることを恐れない。
それは、王宮であまり見なかった強さだった。
食後、ルカがわたしのところへ来た。
「ミリア」
「はい」
「明日も仕事、ある?」
「あります。豆の選別と、倉庫の掃除です」
ルカは少しだけ笑った。
「じゃあ、寝る」
「おやすみなさい」
彼は食堂を出る前に、長椅子に小さく触れた。
「ありがとう」
長椅子の精霊が、嬉しそうにきしんだ。
家に礼を言う人が、また一人増えた。




