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『恋愛観察が趣味の生徒会長は、自分の恋には興味がない』  人間は平等じゃない。だから恋愛は面白い!  作者: 伊佐波瑞樹


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第4話 学校一の美少女にも、言えない気持ちがある


人間は、外見だけで判断してはいけない。


実に素晴らしい言葉だと思う。俺もその考えには全面的に賛成しているし、容姿だけで人間の価値が決まるなどとは考えていない。もっとも、現実問題として、人は相手の外見からさまざまな情報を受け取ってしまう。清潔感がある、優しそうに見える、怖そうに見える、賢そうに見える。そうした第一印象が、人間関係の始まりに影響を与えることは珍しくない。


そして、第一印象というものは、ときに本人の望まない形で独り歩きする。


例えば、私立立川学園に通う朝倉琴葉という女子生徒がいる。


整った顔立ちに、艶のある長い黒髪。白い肌と上品な立ち居振る舞いが印象的で、制服を着て廊下を歩いているだけでも、何となく周囲の視線を集めてしまう少女だ。学業成績も優秀で、教師からの信頼も厚い。性格は穏やかで、誰に対しても丁寧に接するため、男女を問わず好感を持たれている。


そんな彼女には、いつの間にか一つの呼び名がついていた。


学校一の美少女。


もちろん、正式な投票が行われたわけではない。美しさに明確な順位などつけられるものではないし、好みだって人それぞれだ。それでも、学園内で朝倉さんの名前を出せば、かなりの確率でその呼び名を耳にする。


本人がどう思っているのか、俺は知らない。


そもそも俺にとって重要なのは、彼女がどれほど美しいかということではなかった。


そんな誰もが認める美少女が、なぜ俺の親友である宮川孝太に恋をしたのか。


そして、その恋を伝えたあと、彼女は何を考えているのか。


実に興味深い。


……いや、待て。


俺は昨日、親友たちの大切な会話を無理に追いかけないと決めたばかりではなかったか?


(危ない危ない。好奇心というものは、油断するとすぐに顔を出してくるな。今日は孝太と朝倉さんが話す日だ。昨日と同じく、静かに見守ることにしよう)


そう心の中で決意した俺は、朝食の席で紅茶のカップを持ち上げた。


すると、向かい側から何とも言えない視線が飛んでくる。


「……遥輝様。本日は何をお考えなのでしょうか」


声の主は相沢紗月。俺と同じ高校に通う女子生徒であり、東條家で俺の生活を支えてくれている専属メイドでもある。


ただし、その関係は学園では秘密だ。


学校では普通の女子高生として友人たちと過ごし、屋敷へ戻ればメイドとして仕事をこなす。そんな二つの生活を両立している彼女は、俺が知る限り、相当に器用な人物だと思う。


「おや、どうして何か考えていると思ったんだい?」


「先ほどから、紅茶のカップを持ち上げては戻すことを繰り返していらっしゃいますので。お飲みになるのか、それとも冷めるまで眺めていらっしゃるのか、少々気になりまして」


「……なるほど。言われてみれば、確かに飲んでいなかったね」


俺は苦笑し、ようやく紅茶を一口飲んだ。


紗月は空いた皿を片付けながら、少しだけ目を細める。


「例のご友人のお話でしょうか?」


「さすがだね、紗月。実は今日、孝太がもう一人の女の子とも話す予定なんだ。昨日は幼馴染と話したらしいし、あいつなりに頑張っているみたいでね」


「そうでしたか。それはよろしいことですね」


「うん。親友として嬉しい限りだよ。ただ、どうしても結果が気になってしまってね。昨日は何とか我慢できたけど、今日も同じようにできるかどうか……」


「遥輝様」


紗月が静かな声で俺の名前を呼んだ。


その声には特に怒気が含まれているわけではない。それなのに、なぜか背筋を伸ばさなければならないような気分になる。


「昨日、きちんとお待ちになれたのでしょう? でしたら、今日も大丈夫だと思いますよ」


「そうかな?」


「はい。少なくとも、遥輝様はご友人が嫌がることを、面白いという理由だけで続ける方ではありませんから」


予想外にまっすぐな言葉を向けられ、俺は少し驚いた。


紗月は俺の趣味をよく知っている。恋愛観察に夢中になって予定を忘れることも、興奮すると周囲が見えなくなることも、嫌というほど知っているはずだ。


それでも彼女は、俺が一番大切にしたいと思っている部分を、こうして信じてくれる。


「……ありがとう、紗月。君にそう言ってもらえると、何となく自信が出てくるよ」


「それは何よりです。では、その自信を生徒会のお仕事にも向けていただければと思います」


「ははは! 君も昴も、本当に仕事の話へ戻すのが上手いね!」


「本日は書類の提出期限がございますから。忘れていただくわけにはまいりません」


紗月は口元を押さえて小さく笑った。


その笑顔を見て、俺も自然と笑ってしまう。


彼女と話していると、考えすぎていたことが不思議と整理される。俺にとって紗月は、幼い頃から自分を支えてくれている大切な存在だ。


だからこそ、彼女が学校で楽しそうに過ごしている姿を見ると、安心する。


「そういえば、週末の外出はどうなったんだい?」


「はい。仕事の調整について相談したところ、問題ないとのことでした。千景さんにも、昨日の夜にお返事をいたしました」


「それはよかった。せっかくの休日なんだから、楽しんでおいで」


「ありがとうございます。商店街の催しを撮影する予定ですので、少し早めに出発することになると思います」


「なるほど。どんな写真になるのか楽しみだね。帰ってきたら、よかったら見せてくれないかな?」


「もちろんです。ただし、良い写真が撮れなかった場合は、あまり期待なさらないでくださいね」


「大丈夫。写真の上手い下手だけじゃなくて、君が何を面白いと思って撮ったのかを知りたいんだ」


そう答えると、紗月は一瞬だけ動きを止めた。


それから、少し照れたように微笑む。


「……承知いたしました。では、楽しみにしていてくださいませ」


俺は頷き、残っていた朝食を口へ運んだ。


さて。


今日はどんな一日になるのだろう。


親友の恋愛は気になるし、生徒会の仕事もある。写真部の展示準備だって、まだ終わったわけではない。


高校生活というものは、なかなか忙しい。


もっとも、退屈するよりはずっといい。


◇


朝倉琴葉は、教室へ向かう廊下で一度足を止めた。


窓の向こうには、秋の柔らかな日差しが広がっている。中庭を横切る生徒たちは、友人と笑い合ったり、教科書を抱えて急いだりしながら、それぞれの朝を過ごしていた。


いつもなら、琴葉もその中の一人として何気なく教室へ入っていただろう。


けれど今日は、扉を開けるだけのことが、少し難しく感じられた。


(……大丈夫。昨日、宮川君からちゃんと連絡をもらったんだから)


昨夜、宮川孝太からメッセージが届いた。


幼馴染の七瀬明里と、きちんと話すことができたという報告だった。


詳しい内容までは書かれていなかったし、琴葉も尋ねなかった。それは二人の間で交わされた大切な会話であり、自分が無理に聞き出してよいものではないと思ったからだ。


ただ、一つだけ気になっていた。


孝太の気持ちは、少しでも変わったのだろうか。


明里と話したことで、幼馴染としての関係が特別なものだと気づいたのかもしれない。あるいは、逆に友達として大切だという気持ちを再確認したのかもしれない。


どちらの可能性もある。


そして、そのどちらも、琴葉には確かめようがなかった。


(私、思っていたより欲張りなのかもしれないな……)


告白する前は、気持ちを伝えられればそれだけで十分だと思っていた。


けれど実際に伝えてみると、返事が気になって仕方がない。


宮川君が自分をどう思っているのか知りたい。


できれば、好きになってほしい。


そして、いつか恋人として隣を歩けたら嬉しい。


そんな願いが次々と浮かんでくる自分に、琴葉は少し驚いていた。


今までも恋愛に興味がなかったわけではない。


友人たちが好きな人の話をしていれば一緒に笑ったし、恋愛小説を読むこともあった。けれど、自分が誰かを好きになり、その相手の言葉一つでこんなにも気持ちが揺れるとは思っていなかった。


「琴葉、おはよう!」


後ろから声をかけられ、琴葉は振り返った。


同じクラスの友人が、鞄を肩に掛けたまま駆け寄ってくる。


「おはよう。今日は少し早いんだね」


「うん! 昨日の課題で分からないところがあってさ。琴葉、あとでちょっと教えてもらってもいい?」


「もちろん。私で分かるところなら、一緒に考えよう」


「助かる! やっぱり琴葉って頼りになるよね」


友人は嬉しそうに笑った。


琴葉も笑顔を返しながら、教室へ足を踏み入れる。


その瞬間、窓際の席に座る孝太の姿が目に入った。


孝太は教科書を開いていたが、琴葉に気づくと顔を上げ、少し緊張したように笑った。


「おはよう、朝倉さん」


「……おはよう、宮川君」


ただの挨拶。


それだけなのに、胸の奥が小さく跳ねた。


琴葉は自分の席へ向かいながら、そっと息を吐く。


(……本当に、どうしてこんなに緊張するんだろう)


好きになる前だって、宮川君とは普通に話していた。


図書室で本の話をしたこともあるし、試験前に勉強を教え合ったこともある。廊下ですれ違えば挨拶を交わし、ちょっとした冗談に笑ったことだってある。


それなのに、今は名前を呼ばれるだけで嬉しくなってしまう。


恋愛というものは、思っていた以上に厄介らしい。


けれど、その厄介さを嫌だとは思わなかった。


◇


一方、その頃の俺はというと。


「遥輝。先ほどから、何度も時計を見ていますね」


「おや、昴。よく気づいたね」


「気づきますよ。授業が始まってから三回目です」


「正確だなあ。さすが俺の副会長だ」


「褒めても何も出ません。それより、先生のお話をきちんと聞いてください」


小声で注意され、俺は苦笑した。


教室では数学の授業が進んでいる。黒板には複数の式が並び、教師が解き方を説明していた。


内容はすでに理解している。


だからといって授業中に他のことを考えてよいわけではないのだが、どうしても今日の放課後が気になってしまう。


(昨日は明里、今日は朝倉さん。孝太は本当に頑張っているな。どんな話をするつもりなんだろう。いや、今は考えない方がいい。分かってる、分かってるんだけど……!)


「東條」


「はい」


教師に呼ばれ、俺は顔を上げた。


「では、この問題の解き方を説明してみろ」


「承知しました」


黒板に書かれた式へ目を向ける。


必要な条件を確認し、順番に説明すると、教師は満足そうに頷いた。


「よし、正解だ。では次へ進むぞ」


教室の空気が元に戻る。


俺は椅子に座り直した。


すると昴が、実に冷ややかな視線を送ってきた。


「……あなた、本当に器用ですね」


「褒め言葉として受け取っておこうかな」


「授業に集中していただければ、もっと素直に褒められるのですが」


「ははは。努力するよ」


もちろん、努力するつもりはある。


ただし、今日の俺にとって最大の敵は数学ではなく、好奇心という名の厄介な感情だった。


それから二時間ほどが過ぎ、昼休みになった。


俺は孝太と一緒に昼食を取ることになった。いつものように教室の一角で机を寄せ、持参した弁当を広げる。


「孝太。今日の放課後は、朝倉さんと話すんだったね」


「うん。昨日、明里と話せたから……今日は朝倉さんとも、ちゃんと話したいと思ってる」


「そうか。それはいいことだね」


俺は頷き、弁当のおかずを口へ運んだ。


孝太は少し考えてから、ぽつりと言った。


「遥輝ってさ、誰かを好きになったこと、ある?」


危うく箸を止めそうになった。


実に唐突な質問である。


「恋愛という意味なら、今のところないかな。友達として大切に思う相手はたくさんいるけどね」


「そっか。……でも、恋愛の相談をすると、すごく落ち着いて答えてくれるよね」


「ははは。外から見ている分には、いろいろ考えられるからね。ただ、実際に恋をしている本人とは立場が違う。俺の言うことが正しいとは限らないよ」


孝太は少し驚いたように俺を見る。


「遥輝でも、分からないことってあるんだね」


「もちろん。むしろ、分からないことだらけさ。だから人間観察は面白いんだよ」


「……そっか」


孝太は笑った。


そして、しばらく弁当を食べ進めてから、少し真面目な表情になる。


「僕、昨日明里と話して、今まで知らなかったことをたくさん聞いたんだ。ずっと一緒にいたから、何でも分かってるつもりだったけど……全然そんなことなかった」


「うん」


「だから今日は、朝倉さんのことも、もっと知りたいと思ってる。今まで話してきたことだけじゃなくて、朝倉さんが何を考えて、どういう気持ちで僕に告白してくれたのか……ちゃんと聞きたいんだ」


俺は思わず笑みを浮かべた。


何とも頼もしいではないか。


少し前の孝太なら、二人から告白されたという事実だけで頭がいっぱいになっていたはずだ。それが今では、自分から相手を理解しようとしている。


「いいじゃないか。だったら今日は、聞きたいことを聞いておいで。もちろん、君自身の気持ちも忘れずにね」


「うん。ありがとう、遥輝」


「どういたしまして。……それと、一つだけ」


「なに?」


「恋愛は試験じゃないんだから、正解を出そうとしすぎない方がいいと思うよ。君がどう感じたのか、その答えを大切にしてほしい」


孝太は少し考え込み、それから頷いた。


「……分かった。そうしてみる」


その表情を見て、俺も安心した。


もっとも、内心では別の感情も激しく暴れている。


(ああああ! こんな話を聞かされたら、余計に今日の会話が気になるじゃないか! 朝倉さんが何を話すのか! 孝太が何を感じるのか! ぜひとも知りたい!)


だが、我慢だ。


俺は心の中で自分に言い聞かせ、何事もなかったように昼食を続けた。


◇


放課後。


朝倉琴葉は、校舎から少し離れた藤棚の下に立っていた。


花の季節はとうに過ぎ、今は葉の間から秋の日差しがこぼれている。木製のベンチには細かな傷があり、長い年月を感じさせた。


この場所は、昼休みには生徒たちが集まることもあるが、放課後は比較的静かになる。


琴葉がここを選んだのは、図書室のように声を抑える必要がなく、かといって完全に人目のない場所でもないからだった。


少し緊張しながら待っていると、校舎の方から孝太が歩いてきた。


「朝倉さん。ごめん、待たせた?」


「ううん。私も今来たところだから」


ありふれたやり取りだった。


それなのに、二人は顔を見合わせて少し笑った。


「なんだか、緊張するね」


「……うん。僕も、ちょっと緊張してる」


孝太は正直に答えた。


琴葉はその言葉に、少しだけ安心した。


自分だけが特別に緊張しているわけではない。それが分かっただけでも、肩の力が抜ける気がした。


二人はベンチへ腰を下ろした。


隣同士ではあるが、間には一人分ほどの距離がある。近すぎず、離れすぎず、今の二人にはちょうどよい距離だった。


「昨日、七瀬さんと話せたんだよね?」


「うん。明里とは、昔のことも今のことも、いろいろ話したよ。僕、知らなかったことがたくさんあって……正直、驚いた」


「そうなんだ」


「うん。でも、話せてよかったと思ってる」


孝太はそこで一度言葉を切った。


琴葉は急かさず、彼が続きを話すのを待つ。


「……朝倉さん。今日は、僕から聞きたいことがあるんだ」


「うん。何でも聞いて」


「どうして、僕のことを好きになってくれたのかなって」


琴葉は目を瞬かせた。


予想していなかった質問ではない。むしろ、いつか聞かれるかもしれないと思っていた。


けれど、いざ本人から尋ねられると、思っていた以上に恥ずかしかった。


「……それは、前に図書室で手伝ってくれたことがきっかけ、かな」


「うん。昨日も少し話してくれたよね」


「でも、それだけじゃないの」


琴葉は膝の上で指を組んだ。


どう話せば伝わるだろう。


自分の気持ちなのに、言葉にしようとすると難しい。


「私ね。昔から、周りの人にいろいろ言われることが多かったの」


「いろいろ?」


「うん。可愛いとか、綺麗とか、勉強ができるとか。もちろん、褒めてもらえるのは嬉しいよ。でも……」


琴葉は少しだけ視線を落とした。


「たまに、自分が何を考えているかより、周りの人が思っている私の方が大切なんじゃないかって感じることがあったの」


孝太は黙って耳を傾けている。


「例えば、試験でいい点数を取ると、朝倉さんなら当然だよねって言われる。失敗すると、珍しいねって驚かれる。何か苦手なことがあっても、朝倉さんにもできないことがあるんだって……悪気がないのは分かってるんだけど」


「……それ、結構大変じゃない?」


孝太の声には、純粋な驚きがあった。


琴葉は少し笑う。


「大変っていうほどじゃないと思う。私よりずっと苦労している人だっているし、周りの人が優しくしてくれることも多いから。ただ、失敗したときに、少しだけ怖くなることがあるの」


「怖い?」


「うん。期待されている自分と違うところを見せたら、がっかりされるんじゃないかって」


言い終えたあと、琴葉は小さく息を吐いた。


こんな話を他人にするのは、あまり慣れていない。


友達にも、ここまで詳しく話したことはなかったかもしれない。


けれど、不思議と後悔はなかった。


孝太が真剣に聞いてくれているからだろう。


「……あのとき、図書室で失敗したこと、覚えてる?」


「資料の整理を間違えちゃったとき?」


「うん。私、あのときすごく焦ってたの。担当の先生に頼まれたことだったから、ちゃんとしなくちゃって思ってた。でも、順番を間違えて、どこから直せばいいか分からなくなって……」


琴葉は当時の光景を思い出した。


分類を間違えた資料の山。


時計の針が進んでいく音。


誰かに助けを求めたいのに、自分でできるはずだという考えが邪魔をして、なかなか声を出せなかった。


そこへ、孝太が偶然やってきた。


「宮川君、あのとき言ったでしょう? 困ってるなら手伝うよ、どこを触っていいか教えてって」


「ああ、うん。言ったと思う」


「それが、すごく嬉しかったの」


琴葉は孝太へ顔を向けた。


「宮川君は、私が失敗したことを驚かなかったし、勝手に全部やろうともしなかった。私が何をしていて、何に困っているのか、ちゃんと聞いてくれたでしょう?」


「……うん。だって、僕には何をすればいいか分からなかったから」


「ふふ。そういうところ」


琴葉は思わず笑った。


孝太は不思議そうに首を傾げている。


「私ができないことを、特別なことだと思わなかった。困っているなら手伝う、それだけだったんだよね」


「……そうだね。僕も、誰かに助けてもらうことはよくあるから」


「だから、安心したの。それから宮川君と話すのが楽しくなって、もっと知りたいと思うようになったんだ」


少しずつ、言葉が自然に出てくるようになった。


琴葉は自分でも驚いていた。


これまで胸の奥にしまっていた気持ちが、孝太の前では不思議と形になっていく。


「本の話をしているときも、私が好きな理由を聞いてくれたでしょう? ただ『面白そうだね』って言うんじゃなくて、どこが好きなのか知ろうとしてくれた。……そういう時間が、私には嬉しかったの」


孝太は少し照れたように頬をかいた。


「僕、そんなに特別なことをしたつもりはなかったんだけど……」


「うん。分かってる。だから好きになったんだと思う」


言ってから、琴葉は自分の頬が熱くなるのを感じた。


なんて大胆なことを言ってしまったのだろう。


告白したときだって相当勇気が必要だったのに、今の言葉はそれとは違う恥ずかしさがある。


孝太も顔を赤くしていた。


二人の間に、しばらく静かな時間が流れる。


遠くから部活動の掛け声が聞こえてきた。


風が藤棚の葉を揺らし、足元へ小さな影を落とす。


「……ありがとう、朝倉さん」


やがて、孝太が口を開いた。


「そんなふうに思ってくれてたなんて、全然知らなかった。僕、正直、自分にあまり自信がないんだ」


「……うん」


「勉強も、運動も、すごく得意ってわけじゃないし。遥輝みたいに何でもできるわけでもない。だから、朝倉さんに好きだって言われたとき、どうして僕なんだろうって思っちゃった」


琴葉は驚いて顔を上げた。


「宮川君……」


「でも、今の話を聞いて、少し分かった気がする。朝倉さんは、僕が何かすごいことをできるから好きになってくれたわけじゃないんだね」


「うん。私は、宮川君と一緒にいる時間が好きなの」


琴葉は迷わず答えた。


それが一番伝えたかったことだった。


「宮川君と話していると、無理に立派な自分でいなくてもいいって思えるの。分からないことは分からないって言えるし、できないことがあっても、恥ずかしいだけじゃなくなる。だから……これからも、一緒にいられたら嬉しいなって」


孝太はしばらく黙っていた。


何かを考えるように、膝の上で手を組んでいる。


琴葉はその横顔を見つめながら、胸の奥が少し苦しくなるのを感じた。


(……私、やっぱり期待してる)


すぐに返事をもらえるとは思っていない。


それでも、少しでも自分を特別だと思ってほしい。


そんな願いが浮かんでくることを、今は否定したくなかった。


「朝倉さん」


「……うん」


「僕、今日話してよかった」


孝太はゆっくり顔を上げた。


「今まで、朝倉さんは何でもできる人だって思ってた。勉強もできるし、落ち着いてるし、誰にでも優しいから。でも、今の話を聞いて……朝倉さんにも、苦手なこととか、怖いと思うことがあるんだって知った」


「……うん」


「それで、なんだか少し安心したんだ。変な言い方かもしれないけど、僕と同じように悩むことがあるんだなって」


琴葉は目を見開いた。


そして、ふっと笑みを浮かべた。


「……変じゃないよ。私も、宮川君と同じだと思ってもらえるなら嬉しい」


「そっか。よかった」


二人は顔を見合わせて笑った。


それから孝太は、少し真面目な表情になる。


「でも……ごめん。やっぱり、今すぐ返事はできない」


琴葉は静かに頷いた。


分かっていた。


それでも、胸が少しだけ痛む。


「うん。大丈夫」


「朝倉さんのこと、もっと知りたいと思ってる。でも、それが恋愛として好きなのかどうか、まだちゃんと分からないんだ。明里とも話したばかりだし……中途半端な気持ちで返事をしたくない」


「……ありがとう」


琴葉は小さく答えた。


断られたわけではない。


けれど、選ばれたわけでもない。


その曖昧な状態が少し苦しくて、それでも孝太が真剣に考えてくれていることが嬉しかった。


「宮川君。一つだけ、お願いしてもいい?」


「うん。なに?」


「……これからも、普通に話してほしいの」


琴葉は少しだけ視線を落とした。


「私、告白したことで、今までみたいに話せなくなるのが怖かった。宮川君が気を遣って、私を避けるようになったらどうしようって……そればかり考えてたの」


「朝倉さん……」


「だから、もし嫌じゃなければ、これからも本の話をしたり、一緒に勉強したりしたい。無理に恋人みたいなことをしてほしいわけじゃないの。ただ、私のことを知ろうとしてくれるなら、私も宮川君のことをもっと知りたい」


孝太はゆっくり頷いた。


「うん。僕も、そうしたい」


「……本当?」


「うん。朝倉さんと話すの、僕も楽しいから」


その言葉に、琴葉の胸が温かくなった。


告白への返事ではない。


恋人になれるという約束でもない。


それでも、嬉しかった。


「じゃあ……今度、また図書室で一緒に本を探さない?」


「いいね。朝倉さんが前に話してくれた短編集、僕も読んでみたいと思ってたんだ」


「覚えててくれたの?」


「うん。海沿いの町が舞台の話だよね。朝倉さんが、登場人物の会話が好きだって言ってたから」


琴葉は思わず笑みを深めた。


自分が何気なく話したことを覚えていてくれた。


それが、こんなにも嬉しい。


「……ありがとう、宮川君」


「えっ? まだ何もしてないけど……」


「ううん。覚えててくれたことが嬉しかったの」


孝太は照れくさそうに笑った。


そして、二人はしばらく本の話を続けた。


恋愛の話だけではない。


最近読んだ本のこと。


授業で難しかった問題のこと。


休日にどんなことをして過ごしているのか。


以前から知っているはずなのに、改めて聞くと新しい発見がある。


琴葉はその時間が、心から楽しいと思えた。


やがて校舎の影が伸び始め、帰宅する生徒たちの姿も少なくなってきた。


「そろそろ帰ろうか」


孝太が言った。


「うん。今日はありがとう」


「こちらこそ。朝倉さんの話、聞けてよかった」


二人はベンチから立ち上がった。


そのまま校門へ向かって歩き始める。


最初は少し離れていた距離が、いつの間にか自然な間隔になっていた。


手をつなぐことはない。


特別な言葉を交わすこともない。


それでも琴葉は、今日の時間を大切に覚えておきたいと思った。


告白したことで、何かが終わってしまうのではないかと怖かった。


けれど、実際には新しく始まるものもあった。


(……焦らなくていい。今は、宮川君のことをもっと知っていこう)


琴葉は隣を歩く孝太を見上げ、小さく微笑んだ。


◇


その頃、俺は生徒会室で、ある重大な問題に直面していた。


「……昴」


「何でしょう?」


「俺は今、非常に難しい判断を迫られている」


「そうですか。では、内容を伺いましょう」


「この書類を先に確認するべきか、それともこちらの申請書を先に処理するべきか……どちらも大切な仕事だからね。実に悩ましい問題だよ」


俺が真剣な表情で二つの書類を持ち上げると、昴は一瞬だけ黙った。


それから、実に冷静な声で答える。


「どちらでも構いません。両方とも今日中に確認していただく必要がありますので」


「……君はもう少し、俺の苦悩に寄り添ってくれてもいいんじゃないかな?」


「でしたら、まずは手を動かしてください」


まったく、容赦がない。


俺は苦笑しながら書類へ視線を戻した。


窓の外には、夕方へ向かう校庭が広がっている。


今頃、孝太と朝倉さんは話しているのだろうか。


それとも、もう話し終えたのだろうか。


考え始めればきりがない。


だが、今日は約束どおり、二人を追いかけていない。


……偉いぞ、俺。


「会長、どうしたんですか? 急に満足そうな顔をして」


心美が不思議そうに尋ねてきた。


「いや、ちょっと自分の成長を実感していてね」


「成長?」


「うん。人間というのは、日々少しずつ進歩するものなんだよ」


「……会長の場合、もう少し生徒会室にいてくれるだけで、私たちは十分成長を実感できるんですけど」


未来がさらりと言った。


「ははは。未来も言うようになったねえ」


「会長に鍛えられましたから」


そう言って笑う未来に、俺は思わず拍手を送りたくなった。


以前は俺が冗談を言うたびに困っていた彼女も、最近ではこうして自然に言い返してくる。


人間関係というものは面白い。


時間をかけて一緒に過ごすことで、相手への接し方が少しずつ変わっていく。


それは恋愛に限らず、友情でも同じなのだろう。


「そういえば会長、今日は写真部から追加の確認が来ていましたよ」


心美が書類を差し出した。


「展示位置の仮配置を終えたみたいなんですけど、案内表示をどこに置くか相談したいそうです。通路の邪魔にならない場所なら問題ないと思うんですが、一応確認をお願いします」


「なるほど。見せてもらおうか」


俺は申請書を受け取り、配置図を確認した。


写真部は昨日の打ち合わせを踏まえ、作品の並びを少し変更したらしい。展示台は使わず、壁面を中心に配置する案になっている。


案内表示についても、通路を塞がない位置が考えられていた。


「うん。これなら大きな問題はなさそうだ。ただ、廊下の曲がり角に近い方は、もう少し余裕を持たせたいね。安全面の確認をしたうえで、最終的に決めよう」


「分かりました。担当の先生にも確認しておきますね」


心美が頷いた。


そのとき、昴が書類の端に目を向ける。


「写真部の代表者欄、相沢さんの名前がありますね」


「そうだね。水野さんと一緒に準備を進めているみたいだ」


「……そうですか」


昴はそれ以上何も言わなかった。


だが、その微妙な間が少し気になった。


「昴。何か言いたいことがあるのかい?」


「いいえ。ただ、写真部の皆さんが熱心に活動されているようで何よりだと思っただけです」


「うん。俺もそう思うよ。好きなことに真剣に取り組む姿は、見ていて気持ちがいいからね」


俺が答えると、昴はなぜか小さく笑った。


まったく。


最近の彼は、何を考えているのか分からないことがある。


幼い頃から一緒にいるというのに、実に不思議な話だ。


◇


翌日のことを考えながら帰宅していた七瀬明里は、校門の少し手前で朝倉琴葉の姿を見つけた。


琴葉は宮川孝太と並んで歩いていた。


二人とも特別に距離が近いわけではない。手をつないでいるわけでもなく、互いに笑いながら何かを話しているだけだった。


それでも、明里の胸は小さく痛んだ。


(……そっか。今日は朝倉さんと話す日だったんだよね)


分かっていた。


孝太は昨日、明里と話したあとで、今日は琴葉とも向き合うつもりだと伝えてくれていた。


だから、二人が一緒にいることは何もおかしくない。


むしろ、孝太がきちんと考えて行動している証拠だ。


それなのに、心のどこかが落ち着かなかった。


琴葉が笑う。


孝太も笑い返す。


その光景を見て、明里は思わず唇を結んだ。


(……私と話してたときも、あんなふうに笑ってくれてたのかな)


比べる必要なんてない。


昨日、孝太と過ごした時間は確かに楽しかった。


自分の気持ちを伝えられたし、孝太も真剣に話を聞いてくれた。


それだけで十分だと思ったはずなのに。


目の前で別の女の子と笑っている姿を見ると、どうしても胸がざわつく。


明里は一度深く息を吸った。


そして、足を止めずに歩き続ける。


そのときだった。


「あ、七瀬さん」


琴葉が明里に気づいた。


孝太もこちらを振り返る。


「明里。今帰り?」


「う、うん。今日はちょっと用事があって遅くなっちゃってさ」


明里はできるだけ普段どおりの声を出した。


孝太は何も疑っていない様子で頷く。


「そっか。僕たちも、今帰るところなんだ」


「……そうみたいだね」


明里は琴葉へ視線を向けた。


琴葉も少し緊張しているように見える。


おそらく、自分たちの姿を見られてどう思われるか気にしているのだろう。


それに気づいたとき、明里は少しだけ肩の力を抜いた。


(……朝倉さんだって、きっと不安なんだよね)


学校一の美少女。


成績優秀で、誰にでも優しくて、落ち着いている女の子。


これまで明里は、琴葉のことをそんなふうに見ていた。


自分とは違う。


自分にはないものを、たくさん持っている。


だから、孝太が琴葉を選んだとしても不思議ではない。


そう思っていた。


けれど、今目の前にいる琴葉は、少し緊張した普通の女子高生だった。


好きな人の幼馴染に会って、何を話せばいいか迷っている。


そんな姿が、なぜか自分と重なった。


「……朝倉さん」


「は、はい」


「今日、孝太とちゃんと話せた?」


明里が尋ねると、琴葉は少し驚いたように目を見開いた。


それから、ゆっくり頷く。


「うん。いろいろ話せたよ。ありがとう、七瀬さん」


「えっ? なんで私にお礼?」


「昨日、七瀬さんと話したことで、宮川君が自分の気持ちをちゃんと考えようとしてくれたって聞いたから。だから……私も、今日ちゃんと話せたんだと思う」


明里は何も言えなくなった。


そんなふうに考えられるとは思っていなかったからだ。


「……別に、私のおかげってわけじゃないと思うよ。孝太が自分で考えたんでしょ」


「うん。でも、それでもありがとうって言いたかったの」


琴葉は静かに微笑んだ。


明里は少し困ったように頭をかいた。


「……朝倉さんって、やっぱり真面目だよね」


「そ、そうかな?」


「うん。そういうところ、ちょっと羨ましい」


思わず口にしてから、明里ははっとした。


今のは、余計なことを言ってしまっただろうか。


しかし琴葉は、驚いたように目を見開いたあと、少し恥ずかしそうに笑った。


「……私も、七瀬さんが羨ましいと思うこと、あるよ」


「えっ?」


「明るくて、思ったことをちゃんと言葉にできて……宮川君とも、昔からたくさん思い出があるでしょう?」


明里は一瞬、言葉を失った。


自分が琴葉を羨ましいと思っていたように、琴葉も自分を羨ましいと思っていた。


そんなこと、考えたこともなかった。


「……そっか」


明里は小さく笑った。


「なんか、変な感じだね。お互い、相手の方がすごいって思ってたなんて」


「ふふ。そうだね」


二人は顔を見合わせて笑った。


その様子を、孝太は少し不思議そうに眺めていた。


「……二人とも、何か楽しそうだね」


「孝太には分からない話よ」


「ええっ!? なんで!?」


「女の子には女の子の事情があるの!」


明里が胸を張ると、琴葉も小さく笑った。


孝太は困ったように首を傾げている。


そんな彼の姿を見て、二人はまた笑ってしまった。


やがて三人は校門を出て、それぞれの帰り道へ向かうことになった。


別れ際、明里は琴葉へ小さく声をかけた。


「……朝倉さん」


「なに?」


「私、まだ諦めるつもりないからね」


琴葉は一瞬だけ驚いた。


けれど、すぐにまっすぐ頷いた。


「……うん。私も」


その返事に、明里は笑った。


「そっか。じゃあ、お互い頑張ろうね」


「うん」


それだけ言って、二人は別れた。


恋敵。


そう呼べば、確かにそのとおりなのかもしれない。


けれど、明里は思った。


琴葉のことを、嫌いになりたいわけではない。


むしろ、今日少し話しただけで、もっと知りたいと思ってしまった。


だからといって、孝太への気持ちを諦めるつもりもない。


好きな人が同じだからこそ難しい関係。


けれど、好きな人が同じだからこそ、分かり合えることもあるのかもしれない。


(……なんか、恋愛って思ってたより大変だなあ)


明里は空を見上げ、小さく笑った。


◇


夜。


東條家の屋敷では、いつもどおり穏やかな時間が流れていた。


俺は自室の机で翌日の予定を確認していたが、スマートフォンが震えたことで顔を上げた。


画面には、孝太からのメッセージが表示されている。


『今日は朝倉さんと話せたよ。今まで知らなかったことをたくさん聞けた。今度、一緒に図書室で本を探す約束もしたんだ』


「……おおっ!」


思わず声が出た。


いけない。


夜の屋敷で突然大声を上げるのは、あまり褒められたことではない。


俺は咳払いをしてから、もう一度画面を見る。


孝太は続けてこう送ってきた。


『明里とも朝倉さんとも、まだ答えは出せてない。でも、二人のことをもっと知りたいと思った。だから、焦らずちゃんと考えてみる』


俺はしばらく、その文章を眺めていた。


昨日は明里と話し、今日は朝倉さんと話した。


どちらかを選んだわけではない。


それでも、孝太の中では確かに何かが変わっている。


(……いいじゃないか、孝太。実にいい。最初は二人から告白されたことに戸惑っていた君が、今では自分から二人を知ろうとしている。なんて素晴らしい成長なんだ!)


俺は満足げに頷き、返信を打った。


『よかったじゃないか。二人とも大切な友人なんだから、焦る必要はないよ。自分がどう感じるのか、ゆっくり考えてみるといい』


送信すると、すぐに返事が届いた。


『ありがとう。遥輝に相談してよかったよ』


その言葉に、胸が温かくなった。


親友から信頼されるというのは、やはり嬉しいものだ。


もっとも、ここまで来ると、観察者としての好奇心もますます膨らんでくる。


(さて、ここからどう動くんだろう。孝太は二人とももっと知りたいと言っている。明里と朝倉さんも、まだ気持ちを諦めていない。……いやあ、楽しみだなあ!)


そこで、控えめなノックが響いた。


「遥輝様。少々よろしいでしょうか」


「もちろん。入っておいで、紗月」


扉が開き、紗月が盆を持って入ってきた。


温かい紅茶と、小さな焼き菓子が二つ。


いつもの夜の休憩だ。


「お疲れさまでございます。今日は少しお元気そうですね」


「ははは。実は、親友から嬉しい報告が届いてね」


「そうでしたか。それは何よりです」


紗月は微笑み、カップを机へ置いた。


俺はスマートフォンを伏せ、彼女へ向き直る。


「今日はね、朝倉さんともちゃんと話せたらしいんだ。詳しい内容までは聞いていないけど、孝太自身が二人のことをもっと知りたいと思うようになったみたいでね」


「素敵なことですね」


「うん。恋愛の答えを急いで出すんじゃなくて、相手を知るところから始める。実にいい考え方だと思うよ」


紗月は静かに頷いた。


それから、少し考えるように口を開く。


「……遥輝様は、どなたかを好きになるとき、どんなことが大切だと思われますか?」


「うん?」


突然の質問に、俺は首を傾げた。


紗月がこういう話題を振ってくることは珍しくないが、今日は少し真剣な声だった。


「そうだねえ。まずは相手を知ることじゃないかな。何が好きで、何が苦手で、どんなことに喜ぶのか。そういうものを知っていくうちに、特別な感情が生まれるんじゃないかと思う」


「……なるほど」


「もちろん、最初から強く惹かれることだってあるだろうし、人によって違うとは思うけどね」


俺がそう付け加えると、紗月は少しだけ微笑んだ。


「では、長い時間を一緒に過ごしているからといって、必ず恋愛感情が生まれるわけではないのですね」


「そうだろうね。幼馴染だから恋人になるとは限らないし、出会ったばかりでも強く惹かれることはある。大切なのは時間の長さだけじゃなくて、その相手をどう思っているかなんじゃないかな」


紗月は静かに頷いた。


その表情は、いつもと変わらないように見えた。


けれど、少しだけ何かを考えているようにも見える。


「……紗月?」


「はい?」


「どうしたんだい? 何か気になることでもあるのかな?」


俺が尋ねると、彼女は一瞬だけ目を見開いた。


それから、いつもの穏やかな笑顔へ戻る。


「いいえ。ただ、遥輝様のお考えを伺ってみたかっただけです」


「そうかい? それならいいけど」


俺は頷き、紅茶を一口飲んだ。


紗月も少し離れた椅子へ腰を下ろす。


しばらく二人で静かな時間を過ごしていると、彼女がふと窓の外へ目を向けた。


「……遥輝様」


「なんだい?」


「もし、いつか遥輝様ご自身が恋をなさったら、そのときはどうされるのでしょうか?」


俺は思わず笑った。


「ははは! それは面白い質問だね!」


「……そうでしょうか?」


「もちろん。何しろ、俺自身が恋愛の当事者になるなんて、今のところ想像もできないからね」


紗月は何も言わずに俺を見つめている。


俺は少し考え、それから笑顔で続けた。


「でも、もしそうなったら……そうだな。きっと自分の気持ちをきちんと確かめると思う。相手がどう思っているかも大切だけど、それ以上に、自分がどうしたいのかを考えたいね」


「……ご自分のお気持ち、ですか」


「うん。孝太を見ていて思ったんだ。誰かに好かれることと、自分がその人を好きになることは、同じじゃない。だからこそ、焦って答えを出す必要はないと思うんだ」


紗月は静かに頷いた。


そのあと、ほんの少しだけ笑みを浮かべる。


「……そうですね。私も、そう思います」


俺は彼女の言葉に満足し、カップを置いた。


すると、紗月が小さく息を吐き、いたずらっぽい表情になる。


「ですが、遥輝様の場合、まずはご自分が恋をしていることにお気づきになる必要がありそうですね」


「おや? どういう意味だい?」


「ふふ。何でもございません」


「いやいや、気になるじゃないか。そこまで言っておいて、何でもないというのは少々ずるいと思うよ?」


「では、いつかご自身でお考えになってくださいませ」


紗月は笑った。


俺は思わず肩をすくめる。


まったく、昴といい紗月といい、最近は俺に分からないことを言う場面が増えた気がする。


長い付き合いなのだから、もう少し分かりやすく教えてくれてもいいと思うのだが。


しかし、それを口にしたところで、きっと二人とも同じように笑うのだろう。


「……まあ、いいか。分からないことがあるのも、人間関係の面白さだからね」


「はい。私もそう思います」


紗月は穏やかに微笑んだ。


その笑顔を見て、俺も笑い返す。


さて。


孝太と明里、そして朝倉さん。


三人の恋愛は、まだ答えを出す段階ではないらしい。


けれど、それでいい。


誰かを好きになることは、試験のように決められた期限までに正解を提出するものではない。


相手を知り、自分を知り、少しずつ関係を育てていく。


その過程にこそ、恋愛というものの面白さがあるのだろう。


そして俺は、そんな人間たちの姿を眺めることが、やっぱり大好きだ。


……もっとも。


目の前で穏やかに笑っている紗月が、今どんな気持ちで俺を見ているのか。


その答えについては、まだ考えてみたこともなかった。


人間観察が趣味だと胸を張っているくせに、自分のすぐそばにある感情には案外気づかないものらしい。


だが、そんなことを知るのは、もう少し先の話だ。


今の俺には、親友の恋愛という実に興味深い物語がある。


だから今日も、心の底からこう思う。


――ああ、恋愛とは本当に面白い!


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